姫路藩の郷学(きょうがく)について
- synchronicity64
- 6月7日
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私の住む姫路市には「仁寿山」と呼ばれる山があります。この名は「仁ある者は寿(いのち)永し」という論語の一節から取られたもので、江戸時代後期にはその麓に「仁寿山校」という人材育成のための学校が設立されました。創設者は、姫路藩の財政を73万両の借財から立て直した名家老・河合寸翁です。その功績によりこの山を与えられ、自らの理想を実現する場として学校を開きました。
姫路藩には好古堂がありましたが、実学に重きを置いた河合寸翁の私校として仁寿山校が設立されましたが、藩主からの強い要望もあり、半官半民の学校となりました。
仁寿山校には全国から優れた儒学者が招かれ、教育にあたりました。その中には『日本外史』で有名な頼山陽も名を連ねています。現在も校地跡には礎石と土塀の一部、及び井戸跡が残されており、私自身もこの跡地と礎石の出会いをきっかけに、江戸時代や中世、さらには中国の宋代から明代にかけての思想や教育への関心を深めていきました。
仁寿山校で学んだ人物の一人に、河合惣兵衛(文化3年~元治元年)がいます。彼は文武に秀で、後に姫路藩の好古堂肝煎役、勘定奉行、宋門奉行、物頭、持筒頭などの要職を歴任しました。とりわけ、勤王の志を持って愛国運動に尽力した中心人物として知られています。興味深いのは、徳川幕府の側近であった姫路藩・酒井家のもとから、勤王の志士が輩出されたという事実です。これは、仁寿山校や好古堂といった教育機関が果たした精神的基盤の大きさを物語っていると言えるでしょう。尚、河合惣兵衛は河合寸翁の親族です。
戦後の混乱期において思想家・安岡正篤先生は、日本人の精神的再生を目指し「郷学」を提唱しました。郷土の偉人を顕彰し、その学問や業績を地域の人々に再認識させることで、「自己を知り、自己をつくる」ことの大切さを説かれました。そして、郷学を単なる歴史的遺産とせず、新しい時代を生きるための活力の源泉とすべきだと訴えました。まさに今の時代にも通じる考えではないでしょうか。
河合寸翁は崎門学派の儒学者で武士(筆頭家老)でした。
写真はお旅山から撮影した仁寿山と仁寿山から観た姫路城です。絵図は江戸時代後期の仁寿山校の図で、奥山から入る登山口にある掲示板から掲載しました。姫路神社にある河合寸翁胸像です。
これらの郷学の歴史や地元の賢人の紹介としてホームページを作成しました。「歴史の街・播磨」です。




素晴らしいです。 現代にあっても派閥争いや、批判ばかりしたりしないで、先賢に倣い郷土を守る河合寸翁のようなお方が育てられることを望みます。