岡田武彦 その哲学と陽明学
© Okada Takehiko-Youmeigaku
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思想・哲学と人柄
八、相克と相生
思想・哲学
◆まとめ
・青年時代から人生及び時世に対する苦悩と疑念を抱いたのが哲学の出発点でした。
・宋明儒者の体験を追体験して東洋の哲学思想の特色を高唱することが真の東洋哲学の研究方法であることを自覚されました。
・近年になって青い鳥はわが日本にいることに気づかれました。それは「簡素の精神」でした。
・岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』です。
「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると説かれました。
・山崎闇斎学派の儒学者
山崎闇斎先生は仁愛(天地の物を生ずる心、万物を生成してやまない宇宙精神)を人生の目標にされました。朱子学を学んだが盲信的ではなく、研究的であり学問的に究明する人でした。闇斎先生が重んじた文は教学の法『白鹿洞書院掲示』と存養の要法(心の修養法)『敬斎箴』でした。
・楠本正継先生に師事
九州帝国大学在学中は尊敬する楠本正継教授に師事され、教授の著書『宋明時代儒学思想の研究』に感化を受け研究され、自らも『王陽明と明末の儒学』を書き上げられました。楠本正継先生の祖父は、幕末維新期に活躍された山崎闇斎学派の儒学者・楠本端山です。楠本端山は若い頃、佐藤一斎の門弟となり、後に三宅尚斎の流れを引き継ぐことになりました。
・周濂渓
岡田先生が中国哲学を専攻されるようになったのは、宋学の祖と云われる周濂渓の人格思想に魅了されたからです。
・宋明哲学を中心に幅広く儒学を修められた
岡田先生は孔子を祖とする儒学から、宋学、陽明学、更に日本の儒学まで広く深く修められました。そして、人と共に生きる共生の思想が孔子の精神の基本であるとし、それを心に置かれて修身に精進し、共に生きる理想を世の中に実現しなければならないと強調されました。その実践として市民講座や書院教育に積極的に熱心に取り組まれ、共に学び、共に生きる姿勢を貫かれました。
・原典資料を読み込み、思想家と同じ心になる学び
岡田武彦先生の、講義は原典資料を読み込んで思想家と同じ心になり、思想上の問題点を解決するという独自の講義をされていました。
・体認の学
「朱子学は主知的」であり「陽明学は情意的」であると説き、知識を重ねるだけの頭でっかちであるより、実践し体で覚える「体認」が重要と説かれました
・崇物論
岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』です。真の世界的思考は日本の崇物的思考と西洋の制物的思考と一体になるところに成立すると説かれました。「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると実践され、書院教育の場でも参加者と一緒に実践されました。
朱子学の理学、陽明学の心学、岡田武彦先生は身学を提起されました。静座は心の敬を求める法、兀坐(こつざ)は身の敬を求める法です。兀坐とは、背筋を伸ばし、腰骨を立てて、目をつぶり、身体を静かに、ただじっと坐ることです。椅子に座ってもよし、床に座ってもよいようです。身体が静を知っている、兀坐だそうです。YouTubeに岡田武彦先生の講義が掲載されていますが、勉強会の冒頭に10分程度兀坐をされています。現代人は忙しすぎる、動を働かすには静の兀坐を生活に入れることが大事といわれています。自然体の兀坐です。先生は『身学説』として「人間の心の精妙な働きが身体、特に脳の生理的作用による、故に、身は宇宙の根源であり、兀坐して以てその根を培養することが初学の道である。」と説かれています。皆様も兀坐を生活に取り入れてみてください。
※座禅:仏教的(超越主義)な世界観、人生観から生まれた心の学。
※静座:儒教的(理想主義)な人生観から生まれた心の学。座禅を超えて出てきた修行法。
※兀坐:静坐を超克して出てきたもの。身の学。
孔子像
王陽明 陽明園
岡田武彦 著『王陽明紀行』明徳出版社 1997
『崇物論-日本的思考-』2003.8.24
岡田武彦 口述 森山文彦 編
崇物論-日本的思考
岡田武彦先生は晩年『崇物論』を発表されました。先生は「人や物を崇敬せよ」と呼びかけられています。「敬虔の心こそが万物を一体とする」と。人と共に悲しみ、人と共に喜ぶ。そして自然と共に生きる。『共に生きる』ことです。
崇物とは物や人、自然を含む全ての物を大切に崇敬する意味です。崇物とはすなわち、日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教、哲学、思想、文化を貫く基本的な思考になります。
以下、岡田武彦先生の『崇物論―日本的思考』を要約致しました。
尚、一の特殊性と普遍性、ならびに二の国文法の特色は略しています。
三、制物と崇物
西洋人(日本人以外)は自己主張的で理知的で他と対立し他を制御する民族性を持っています。反対に日本人は自己抑制的であり、情緒的で、他と調和し他を尊崇する民族性を持っています。⑴
崇物
日本人
特徴
自己抑制的で他と調和し、
情緒的で他を尊崇する民族性⑵
要因
日本の家屋は開放的で、人と自然が常に一体となるように造られており、日本の自然環境は人間生活を潤してくれています。日本は島国で、山の幸、海の幸に恵まれています。自然は春夏秋冬の四季の変化があり極めて風雅に富んでいます。他国から侵略されることはありませんでした。同一民族、同一言語で論理的に自分の意向を伝える必要はありませんでした。⑶
制物
西洋人(日本人以外)
自己主張的で理知的で他と
対立し他を制御する民族性⑸
西洋の家屋は自然に対して防御的で窓は小さく壁は厚くなり自然と隔離する構造となっています。西洋の自然環境は人間生活に厳しい環境を与えています。日本以外の国は侵略された歴史があり、自然環境も厳しく人間生活に厳しいものになっています。
多民族で多言語が多く、理論的に自分の意向を伝える必要がありました。⑹
結果
日本人は自然の恩恵に対して深い感謝の念を抱き、これを崇敬する様になりました。その結果自然崇拝、万物を崇敬する民族性ができました。
因って、日本人の思考は崇物的となりました。⑷
西洋人は自然と人を一体と見ることがなく、反対に対立するものと見ていますので、自然を制御する為に法則原理を探究して人に利用しようとする風潮が生まれました。結果、西洋人は理性的、理智的となり科学文明が発達し思考は制物的になりました。⑺
民族
◆崇物の例として
①物に対する恩恵に対する深い感恩の念を表す行事として、筆供養、針供養、藤の花供養、日本人形供養、鯨塚供養があります。⑻
②「頂きます」「ご馳走さま」などは自然崇拝、物崇敬の念の一端を示すものと考えられます。⑼
③山岳信仰、奇岩老木には神霊が宿っているとして崇敬する習慣があります。⑽
ご神木崇拝
人形供養
針供養
湖魚供養
四、物は霊的存在
日本人は古来、物は霊的で尊厳な存在であると考えました。したがって、人間に人格があるように、物にも物格があると言わなければなりません。人格が尊厳なものであるとするならば、物格もまた尊厳なものであると考えました。日本人はその尊厳さを神と称し、その霊性の純粋なもの偉大なものを特に尊崇し、畏れ多いものとして崇拝祭祀したのでした。⑾
人は皆、老若男女の別なく絶大に霊的で尊厳な存在です。そのことを示す為に、人には人格があると言ってもよいのかもしれません。物と人とを区別して考えると人には人格があり、物には物格があります。そして、人格と物格の間には質的相違があります。⑿
崇物とは日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教・哲学・思想・文化を貫く基本的思考になっています。⒀
形而下の物は感覚で捉えられるもので、形而上の物は感覚で捉えられないものを言います。形而下は物質的なもの、形而上は精神的なもので、物の本質は中国思想でいうと両方とも気になります。それ故、物は全て気霊で霊的存在になります。万物は生物・無生物の別なく心を持っているというべきなのです。霊性は種によって質を異にするのです。そして万物はそれぞれ主体性を持つ独自の存在でそれを尊厳なものといわなければなりません。⒁
日本人の崇物的思考(感性的思考)の筆者の私見
「月見れば千々(ちぢ)にものこそ悲しけれ」というように月を見る。(小倉百人一首23番 大江千里)
日本人は千年杉をみると、生命力に溢れた霊気を感知する。
秋の虫の音を聴けば「あはれ」と感じる。
京都の竜安寺の石庭は何らかの心を示すものと思うであろう。
日本人は「一木一草にも心がある」という。
大空の行雲にも心があると感じる。
では、この心とは何を意味するのでしょうか。
東洋では、人間には心があり、それは気の霊妙な働きであるとしています。ですので、心とは気霊といってもよく、そうなれば、心は霊と言ってもよいのです。これによって私が物は皆霊的存在であるという意味が理解できると思います。⒂
秋の月
若狭姫神社 社殿と千年杉
竜安寺の石庭
大空の行雲
五、崇物と感性的思考
崇物的思考
制物的思考
民族
日本人
西洋人(日本人以外)
特徴
情緒的・感性的・全一的。物の本質は直感的=神秘的
自己抑制自己謙譲的であるから自他一体的思考となり、心の全体、すなわち全一的思考によってその本質を感知するからである。(16)
神秘主義的に徹し、実修に徹している。
坐禅は厳しい系統的な実修がある。東洋は切至な実践的な修行を必要とする。(17)
日本の思想文化は感性的直観を根本としている。崇物は主として日常生活において求められ、厳しい実修はない。「崇」は自我を放棄して他に従う心の修行であり、無心無我の心で他と一体になる立場をとるもの(18)
インドや中国の思想も神秘主義的であるが、日本のそれと比較すれば、やはり両者の間に差異があるのを認めざるを得ない。それは神秘主義といいながら理論的な解明を要するところがある。日本の場合は殆どそれはない。ここでいう崇物は、日本の宗教・哲学・倫理・文化を貫く思想で実践を要とするだけで理論は皆無に近いといってよい。(23)
理知的・局部的
理性的=合理主義的
自己主張より生まれるから自他対立的となり、
他を説得し制御する傾向とならざるを得ない。
そのためには他の本質を究める必要がある。
その結果、自己の理性理智を絶対的なものと
し、他を対象として分析してその本質を究め、
これを我が方に利用する様にようにならざるを得ない。近世に至って自我の理性を絶対視するようになって合理主義が盛んになり、その結果科学文明の興起をもたらした。(19)
哲学も合理主義でカント、フィヒテ、ヘーゲルなど大家が輩出した。合理主義を批判したニーチェ、ベルグソンなど神秘主義者もいた。(20)
西洋の神秘主義はキリスト教的神秘主義とは些か異なるが、禅学における坐禅のような切至な実修がない。特色を記述するに止まっている。
(21)
技の基本は技巧錬磨の極地を述べたのは西洋的合理主義的見地に立った見方。(22)
インドや中国の思想も神秘主義的であるが、日本のそれと比較すれば、やはり両者の間に差異があるのを認めざるを得ない。それは神秘主義といいながら理論的な解明を要するところがある。日本の場合は殆どそれはない。
六、崇の意義
崇拝の意に解すれば宗教性を帯びますが、崇敬とすると中国宋代の儒者、程朱やその学派のいう「居敬」に類似します。朱子によれば、敬には三義があります。
敬の三義
(24)
①心中一物も容れず(伊和靖の説) 心の中に一点の物欲もないようにすること。
②整斎厳粛(程伊川の説)心身が現に従っている行を正し、心を正して厳しく反省すること。
朱子は程伊川の説を重視した。朱子は高遠な理想主義者で物の理を厳粛な存在としたので、伊川の敬を主とするに到った。それは動静を貫くものとし、静坐を入門の処とした。
③常惺惺(謝上蔡の説) 心の明知を覚醒して曇らさないようにすること。
居敬を最も詳細に論じたのは、明初の朱子学者の胡敬斎です。崇物と居敬は似て非なるところもあります。朱子学の居敬は、物の理を究める知的な学で窮理の学と並進することを求めましたが、知的な学を先とし、居敬のような実修を後にするところがありました。朱子学は物を物質的な要素の気と理に分け、理は気の法則原理として、この理を知的に究める事の必要性を切論しました。そして、居敬といっても、理に対する実修であるとしました。故に、知行につても、先知後行の学とみられたのです。ところが崇物の場合は、直接、物そのものを崇敬しますから、朱子学の居敬とは異なります。崇物は物そのもの、物の霊を崇拝・崇敬するものですから宗教的・情緒的です。 (25)
崇物の「崇」は前に述べたように心の全一的な修行ですが、その真を求めようと思えば、そこにまた西洋の伝統的な思想文化から学ばなければならないところがあります。
崇物の実修が主観に陥ったり偏ったりしない為に東洋的な伝統を学習する必要があります。日本の神道、仏教老荘、儒教の学習が必要でありますが、特に儒教の学習は大切です。禅語の「放下」(ほうげ・一切を捨て去ること。仏語。禅宗)などは学ぶべきものです。私見によれば、「崇」の修行には「我欲、我見、我執」があって、この三我を放下棄捨しなければなりません。すなわち、三無我を要としなければなりません。
仏教、儒教、崇物の物に対する態度に積極性と消極性の差異があります。
・仏教では死生の超脱を主としますから物に対する態度は消極的になります。
・儒教は経世を目的としますから積極的になります。
・崇物における自己抑制的修行は退歩思量(自分の内に目を向けて物事の根本に立ち戻り、思いはかること)といってもいいか分からないですが、崇物での物に対する態度は儒教よりも端的で一層積極的です。 (26)
崇物の場合は儒教の理智的傾向を帯びたものとは違って、活発な情意的な発露があります。
崇物の修行に大いに役立つ教えは、
・孟子の「修行に絶えず進め励んで間断があってはならない。修行の効果を期待してはならない。修行することを忘れるのもいけないが、無理強いをしてはならない」(『孟子』公孫丑章句上篇)
・孔子の「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」(『論語』衛霊公篇)
(自分がしてほしくない事は、人にしてはいけない。)
・孔子の「己れ達せんと欲して人を達せしむ」(『論語』雍也篇)
(自分が事をなし遂げようと思えば、まず人を助けて目的を遂げさせる。仁ある者は、事を行なうにあたり自他の区別をしないことをいう。) (27)
儒教は、日本人の民族性と適合するところが多いです。日本民族は同一民族なので人倫を重んじますが、儒教も人倫を重んじます。「斯の人の徒と与にせずして誰と与にかせん」(『論語』微子篇)というように人倫を重んじています。両者ともに現実の人間生活の道を説きます。貝原益軒も「日本は神人合一を説き、中国は天人合一を説くが、その道は同じである」(写本『神儒並行相不悖論』)と述べています。神の道、天の道は共に現実的なもので、仏教などの超越的な道とは異なります。
・儒教は人倫を重んじ、現実の人間生活の道を説きます。日本人の民族性と適合するところが多いです。
・神道はこの世の明るい現実的な道を説きます。(明るい生の世界を説きます)
・仏教は超越的な道を説きます。(暗い死の世界を説きます)
崇の修行が真実のものとなるためには前に述べたような心がけが必要ですが、崇の修行本性から自然に発露するものでなければならないでしょう。つまり、本性自身が向上するために自ら発するものとならなければなりません。(28)
崇物
崇物は物そのもの、物の霊を崇拝・崇敬するものですから宗教的・情緒的です。
ご神木崇拝
針供養
秋の月
湖魚供養
姫路甲山の大岩崇拝
(古神道の磐座)
人形供養
伊勢志摩の夫婦岩
神道
神道はこの世の明るい現実的な道を説く(明るい生の世界を説く)
神社拝殿前
石清水八幡宮・京都府八幡市
霧島神社
松下幸之助社
鈴鹿の椿大神社境内
家庭の神棚
神社での神前結婚
姫路松原八幡神社
姫路・松原八幡神社秋季例大祭
「灘のけんか祭り」
儒教
儒教は人倫を重んじ、現実の人間生活の道を説く。日本人の民族性と適合するところが多い
孔子像
崎門学の祖・山崎闇斎坐像
王陽明像
朱熹像
朱子の白鹿洞書院掲示
姫路藩仁寿山校
学問の心構え
仏教
仏教は超越的な道を説く(暗い死の世界を説く)
東大寺の大仏像
仏舎利塔
姫路名古山墓地
親鸞聖人像
大阪・四天王寺
東大寺
仏壇の灯明
(灯明は仏さまの智慧を象徴し、迷い、煩悩、苦しみの原因、愚かさなどを消滅してくれると云われています)
家庭の仏壇
七、人間の本性
崇物の物は万物を意味し、万物の中には人間も含まれます。人間と他の物とは、もちろん同気ですが、人間は他の物とは違って特別に霊妙な気の働きを持つ生物といってよいでしょう。人間は他の物とは異なる超絶的に優れた特性の持ち主です。
人類が類人猿と異なる点を挙げると従来は
①知恵のあるヒト(Homo sapiens)
②工作するヒトとなりますが(Homo faber)
最近では
③分かち合うヒトであることが分かりました。(Homo communicans)
今後は③に注意を払って哲学的研究をしなければなりません。(29)
儒教は、人倫道徳を根本とする修己治人を説いています。「分かち合うヒト」すなわち社会生活ができるのは、人間が本来、わがことばかりでなく常に他人のことを思いやる心があるからです。すなわち、人倫道徳性を持つからであり、これを人間の本性として述べたのが儒者です。
儒教は人倫道徳を根本とする修己治人を説いています。その修己治人を明らかにしたのが『大学』で、正心、誠意、致知、格物、修身、斉家、治国、平天下の八条目の教えになります。
しかし、人間の特異性は人倫道徳的本性ばかりではありません。このことは、中国の古代思想とその歴史を見るならば容易に知ることができます。
人間の特性を中国の古代思想とその歴史から見ると下記の様な分類となります。これらは、いずれも根深い人間性の表現であるといわなければなりません。
① 現実主義―功利的人間観に基づく。
人間は先ず己れの利を求める功利的な存在です。そこで現実主義の観方をする思想家は、人間の功利主義が如何に根強く切実なものであるかを洞察し、それに対処する道を説きました。孫子などの兵法家、韓非子などの法家、縦横家(外交家)がそれになります。
② 超越主義―宗教的人間観に基づく。
人間は本来宗教性を持っているという宗教的人間観に基づく超越主義思想も現れました。すなわち、人間は相対的な存在であって様々な矛盾・葛藤・苦悩から逃れ得ない運命を背負っており、人間以上の超越的なものへの随順によってのみ運命の束縛から離脱し安楽な絶対界に安住することができるとして、一切の人為を否定し天の無為自然に因循することを求めました。老子、荘子などの道家、中国化された仏教がそれになります。
③ 理想主義―道義的人間観に基づく。
一方、現実の人間は確かに功利的で人と人との共同生活には様々な矛盾・葛藤などを伴うけれども、人間は本来道徳的であり、お互いに情義(人情と義理)によって結ばれていると道義的人間観に基づく理想主義思想が生まれました。孔子、孟子、朱子、王陽明などの儒家がそれになります。
④ 芸術主義―審美的人間観に基づく。 (30)
八、相克と相性
人間の本性は何かということを考える場合、植物や動物など地球上の生物は如何にしてわが生命、種の生命を保持しているかを考察することも肝要です。というのは、人間も生物にほかならないからです。
相克についていえば、動物の世界は弱肉強食です。相生についていえば、蜂は花の蜜をあさりますが、そのお蔭で花粉が雌蕊に付着して木は実を結ぶことができます。また、虎やチーターのような強い動物は少ししか子を産みませんが、鰯や蛙のような小さく弱い動物は多くの子を産みます。このようなことは植物の間でも見得られます。要するに、生物は相克相生を通じて共存共生していることが分かります。 したがって、各生物は共存共生によってわが生命ないしは種を保持し、生存の目的を達しているということができます。 (31)
先程述べた動物の相克は循環型といってもよいですが、しかし別の観方をすれば対立型でもあります。それは剛と柔、陰と陽のようなものです。両者は矛盾存在ですから、それは闘争によって解消されると考えられます。しかし、矛盾存在であるが故に調和して新たなものを生むのです。このことは『易』の睽(けい)の卦の彖伝の語がよくこれを解明しています。睽は一口でいえば、矛盾を説いた卦です。その彖伝に、
天地睽(そむ)いてその事同じきなり。男女睽いてその志通ずるなり。万物睽いてその事類するな
り。睽の時用、大いなるかな。
とあります。
よく考えてみますと、相克と相性も矛盾存在です。したがって、両者の関係は対立的でもありますが、同時に調和的でもあります。それは相克といっても内に相生を蔵し、相生といっても内に相克を蔵するからです。地球上の生物の生態をよく観察している自然科学者は恐らくそれに対する詳細な知識を有するでしょう。筆者のような素人でも、例えば男性の身体にも女性ホルモンがあり、女性の身体にも男性ホルモンがあることから、このことを推察することができます。
要するに、地球上の生物はお互い相克と相生の関係にあっても、それによって共存共生しているのです。こういう点から考えるならば、相克と相生に於いても、相克より相生の面が重んじられるべきです。その相生は相克相生を超越した相生を忘れてはなりません。生命を保持している動物たちは各自本能のままに生きていますが、共存共生によってわが生命を保持しています。人間も動物であることを忘れてはいけません。このことは、人間の本性を考える場合、重要な契機となるものです。 (32)
※以下⑴火沢睽と⑵陰陽五行説による相克相生の補足説明
⑴『易経』の睽の卦の説明
上卦は離・火、下卦は兌・沢でそれぞれの性質は相反し、和合しません。人に例えると、上卦は離・中女、下卦は兌・少女で考え方が異なっており、背反するのです。これを解決するには時間をかけて内部を調うように努力し応和していくことが大切になります。
参考書籍:公田連太郎 述 『易経講和 三巻』(全五巻) 明徳出版社 1958年 火沢睽
⑵陰陽五行説による相性相克の説明
陰陽五行説は古代中国の自然哲学で、宇宙や自然界に存在する全ての現象やものは陰陽の調和から成り立ち、陰陽の消長、変化、循環によって生まれるとする陰陽説と、宇宙の全ての万物は木火土金水の五つの気(五行)によってできているという説で成り立っています。宇宙にはこの五つの気が絶えず循環しており、運行していることを行と言い、五行と言います。五行には相生・相克関係があり、森羅万象の生成・変化を説く考え方が陰陽五行説です。中国の春秋戦国時代の鄒衍(すうえん)によって唱えられました。我々が存在する宇宙・自然界は膨張(陽)し、収縮(陰)して循環します。
◆五行の法則
五行の法則には、相生と相克関係があり、相生は自分から他のものを生み出し、反対に他のものを剋していく相克があります。
相生
木生火:木は擦れて火を熾(おこ)す
火生土:火は燃えて灰(土気)となる
土生金:土から金属が生じる
金生水:金属の表面に水滴が生じる
水生木:水は木を育む
相克
木克土:木は根を締め付け、栄養を吸い取る
土克水:土は水を制御する
水克火:火は水に消火される
火克金:金属は火に溶かされる
金克木:木は金属の刃物に切り倒される
参考書籍:長田なお『陰陽五行でわかる日本のならわし』 淡交社 2018年
九、万物一体的思考
人間は本来、社会性を持つもので、それが人間の本性であることは、それに対する理解の浅深は別として、深い思考を凝らさなくとも誰しも容易に知ることができると思います。そして、そこにこそ人間として生きる真の道があるといわなければなりません。それは孔子の「斯の人の徒と与にせずして誰と与にかせん」(『論語』微子篇)や孟子の「楽しみは人と与にするに若かず」(『孟子』梁恵王句下篇)にその訓えが示されているように、己れ一人でなく「人と与に」というのが人間性の本来であることは容易に自覚することができます。ただ、私利私欲に駆られ「人に反して」とか「人に対して」という功利心が時として生ずるが故に、このような共存共生の心を失い、それを自覚するに至らないのです。また、このことは人間の家族生活を考えるならば、それが人倫の道であり、人間性の本性からの発露にほかならないことを知るでしょう。このような家族道徳を拡充したものが共存共生の社会道徳です。
このような家族道徳、社会道徳、人倫道徳は共存共生の道徳にほかなりません。それが共存共生の自然界の道であることを知るならば、家族道徳、社会道徳も宗教性を帯びるに到るし、また自然界の共存共生の道も人倫的情感を帯びるようになるでしょう。これをもって人倫道徳の理想的世界としたのが中国の宋明時代の儒者でした。
万物一体論は、孔子の仁の思想を発展させた究極の道です。万物一体論を集大成したのは明の王陽明で、良知を持ってこの思想の根本としました。その良知は道徳的感知であり、道徳的法則ともいうべきもので、陽明は、人々がこの心を一にし、この徳を一にして、わが能力に応じた職分を全うすることが、万物をもって一体となす仁を達成する所以であると考えました。
陽明の良知の体は「真誠惻怛(しんせいそくだつ)」です。
※「真誠惻怛」とは人の真心と人に対する思いやりのことです。 (33)
陽明の万物一体論は社会生活が家族生活の延長であるとしました。社会生活にあっては各人が家族的な肉親の情を一にし、その家族的な道徳を一にして、わが職分を果たし、職業の貴賤については、家族生活において親子兄弟が分業に従事するのと同じように、その間、一切の羨望卑下をしないようになって初めて万物一体の心を遂げることができるとしました。そして、それを鋭敏に知覚するのが良知であるとし、良知を本とする万物一体を説きました。もちろん陽明の万物一体論は、それ以前の仁、礼、誠を以て万物一体を説いたものの集大成ともいうべきものですが、それは要するに「斯の人の徒と与にせずして誰と与にかせん」(『論語』微子篇)に表されている孔子の仁における究極の境地を述べたものです。
宋明時代の儒者は万物一体の仁をもって聖人の道とし、各人がこの仁心をもってわが能力、わが職分を全うすることを求め、万物一体論を切論しました。彼らの万物一体論は、前述したように仁、礼、誠、良知という理念をもつものですが、要するに自他一体になることが根本です。(34)
万物一体的思想の妨げになるものは功利的思想になります。深く考察するならば、功利性は人倫道徳を高唱したり、超越的立場を強調したりするところにも潜在していることが理解されます。故に、万物一体的思考は切実な功利的思考の克服によらなければ、これを実現することはできないし、また秀れた理智や技巧を用いなければ、その実現性と理想性を全うすることはできないでしょう。そのためには、西洋と中国の人間観を精密に考察することが肝要です。
万物一体的思考と筆者の崇物的思考とを比較するならば、後者がより一層、簡易直截です。というのは、崇物的思考によれば宗教性を帯びて自他一体となり、また功利心を棄絶することが極めて容易となるからです。
物も固定的で不変の存在ではなく、変化に応じて物をして真の物として存在せしめることが重要で、「崇」もこれに応ずるものでなければなりません。そこで、物の観方、つまり観物についてよく考察することが肝要となります。
一、大観 長い時間と広い時間の中に物を位置づける観方をすること
二、小観 物の法則及び原理を精細に考察すること
三、深観 物性の本質を洞察すること
この三観がなければ、崇物も素朴なものとなる恐れがあります。(35)
崇物は学の終始になります。崇物は科学的思考を受容しなければ、その理想的世界は実現不可能となります。科学的思考は枝葉で、崇物は根本になります。
日本の崇物は自然崇拝から来ていますので山川草木まで及びます。環境問題やエコロジーを考えると容易にその必要性が理解できます。
日本の崇物的思考は、実に世界性を持ち得るものです。西洋の制物思考と一体になってこそ、真の世界的思考が生まれるのです。従来、日本的思考については、日本人は潜在的に持っていて、これを十分に自覚するまでには到りませんでしたが、今日においては、これを自覚的に発揚していかなければなりません。そして、これが人類の思想文化の発展に大いに寄与するものであることを忘れてはなりません。
筆者のいう崇物的思考は太古の神道と密接な関係があると思われます。ところがJ・W・T・メーソンの名著『神ながらの道』で日本人は余りにも自己抑制的であって、伝統的な素晴らしい神道についての自覚と多少の論理的表現が欠けていると論じています。中略(メーソンの神道論)~。故に筆者は、日本人が潜在的に持っている伝統的な思考の究極の理念と思われるものを敢えて掲げたのです。(36)
『神ながらの道』
J・W・T・メーソンの写真
『神ながらの道』J・W・T・メーソン 著
今岡信一良 訳 たま出版 1980.9.1
日本人の自己抑制は真の自己の主体性を樹立し、それを発揚するものであるといってよいでしょう。一見すれば、自己主張的思考は自己の主体性を堅持し、自己抑制的思考は反対に自己の主体性を軟弱にするように思われます。実はそうではないのです。というのは、日本的な自己抑制は崇物に因るからです。自己抑制は、いわゆる「退歩思量」に通ずるところがあります。その究極に到れば、無我の境地に達します。筆者によれば。無我とは三私三我「私欲、私情、私見」と「我欲、我見、我執」を棄絶することにほかならないです。ここで留意しなけばならないことは執着です。すなわち、無我を求めても、敢えて無我になろうとすれば、却って我執に陥ます。故に、道家も無無を説き、仏家も空空を説いたのです。崇物を要とすれば自ら無我に到るが、それも無我の棄絶にまで到らなければなりません。そうなれば「崇」も「無崇」とならねばならないでしょう。のみならず、「無崇」もまた棄絶しなければならないでしょう。故に。「無崇の崇」に到って、その究極に達するといわねばなりません。中略~。(37)
ここで特に考慮すべきことは、「崇」は盲目的に物を崇拝崇敬するのではなく、その真なるものは、その物が本来の生き方あり方を切願し、その物をして、その処を得させること、いわゆる「物をして物に付す」ようにすることがなければ、真の崇物ととはいえないでしょう。そのためには、前に述べたように、各物の本性を感知するようにしなければならない。これは無我による全一心によってのみ可能となります。(38)
そうなれば、「崇物」における自己抑制は真我の働き、すなわち活溌々地の主体性を発揚することになります。故に、日本人の「崇物」における自己抑制は、自己の主体性を抑圧するものではなく、反対にこれを積極的に堅持することになります。故に、「崇物」の自己抑制の真意をよく理解し自得しなければ、自己抑制は卑屈になり、人としての尊厳を毀損する恐れなしとしないです。(39)
日本人の自己抑制に対し、外国人の中には往々にして日本人は己が意向を論理的に表現せず、また表現を曖昧模糊として人を欺瞞する民族性をもっていると誤解するものがあります。しかし、彼らに日本人が潜在的に伝統として持っている「崇物」についての理解があれば、そのようなことはあり得ないでしょう。そのためにも、日本人自身が先ず「崇物」に対する自覚を持つよう努めなければなりません。要するに、崇物は人間の真我を発揮する道です。(40)
物とは宇宙の森羅万象であり、かつ一物についても、前述のように固定的なものではありませんが、すべてはいわゆる物質的・精神的素因ともいうべき一気の作用にほかならないです。しかも、気は同質のものではなく、気中に無限の異質のものを存しているといってよいでしょう。物はその気から生じた一主体的存在であり、その主体はそれぞれ質量ともに異なるものです。例えば無生物と生物、植物と動物、動物と人間、ともに一気の所産ではありますが、各自、質ないし量を異にします。また、同質の中にも優劣があり、量にも多寡(たか・多少)があります。
ただし、一気の生ずるものでありますから、宇宙の森羅万象はすべて同体であるということができます。したがって、人間もまた宇宙内の諸物と同体で、かつその優秀な質を受容した存在であることができましょう。それ故に、人間は宇宙的存在です。人間のみならず他の諸物もすべて宇宙的存在でありますから、それは皆、尊厳な存在です。ただ人間は、その中でも特に優秀な質を賦与された存在であり、抜群の特性を持つに到りました。中略~。
しかし、この心は身と一体のもの(心身一如)であることを忘れてはいけません。最初に筆者は、物の霊性は物と不可離であるとし、物がそのまま霊的存在であるといったが、人間についても身体そのものが霊的存在です。しかも、その身体は気の精妙の生ずるところですので、人間の身体は宇宙的存在であるのみならず、このことを自覚するところに人間の人間たる所以があります。中略~ 最近の物理学、医学、生理学の研究によれば、宇宙の根元は物質でなく精神と言うべきものであり、人間の心の精妙な働きが身体、特に脳の生理的作用に帰せられることが証明されつつあります。故に、身は宇宙の根元であり、兀坐して以てその根を培養することが初学の道になります。よって、心学説を次に掲げ、本論の結びとします。(41)
身學説
先儒多以聖學爲心學各揭其說以篤行
之矣其爲工夫也精微深奥真髓入微矣
其發明聖學之功可謂至大也自陽明子
出提唱良知之說心學乃大明于世矣曰
良知二字千古聖々相傳一點滴骨血體
大思精寰宇賡繼相承以是爲本體工夫
則聖人之學致知盡焉聖人易簡之學於
斯極矣余謂天地萬物會歸於心心歸於
身身是心之本源宇宙生氣之充實處也
故曰學也者身學也致身盡焉初學者宜
兀坐以培其身命之根應宇宙在手萬化
生身其功切至矣
「先儒多く聖学を以て心学となし、各々その説を掲げ以て篤くこれを行う。その工夫たるや精微深奥にして神髄微に入る。その聖学を発明するの功、至大と謂ふべきなり。陽明子出でて良知の説を提唱せしより、心学すなわち大いに世に明かなり。曰く良知の二字は千古聖々相伝の一点の滴骨血となりと。体大、思精、寰宇賡継して相承く。是を以て本体工夫となせば、すなわち聖人の学はこれを尽くす。聖人の易簡の学、ここにおいて極まる。余、謂へらく、天地万物は心に会帰し、心は身に帰す。身はこれ心の本源にして、宇宙の生気の充実するところなり。故に曰く。学とは身学なり。致身これを尽くすと。初学者は宜しく兀坐して以てその身命の根を培ふべし。まさに宇宙手に在り、万化、身より生ずべし。その功、切に至る。」(42)
『簡素の精神』
『易経』の「賁」卦によれば、「文極まれば素に反る(飾りをつきつめていくと、もとの飾りのないものになる)」とあり、『簡素の精神』の著者・岡田武彦は「表現を抑制すれば簡素になる。それを抑制して簡素になればなるほど内的精神はますます豊かになり、充実し、深化する。これを簡素の精神という」と述べられています。
『簡素の精神』致知出版社 1998
敷島の大和の国を
人とはば
よろづの物を
畏れ敬ふ
武彦
岡田武彦先生の和歌『簡素の精神』より出典
簡素の精神 目次
第一章 日本人と簡素の精神
1 埴輪の心
2 自然への回帰
3 松のことは松に習え
4 芸術の国日本
5 日本の神話と歴史
6 自他一体の心
7 言挙げせぬ日本人
8 清貧の生活
9 洒落の境地
10 日本語の特質
第二章 簡素の形態とその精神
1 表現と内容
2 ピカソとクレーの絵画
3 水墨画の心
4 絵画と余白空間
5 白磁と簡素の精神
6 簡素と平淡
7 拙と巧
8 内蔵と呈露
9 自然の性情
10 以心伝心
11 易簡の学
12 簡素への回帰
13 日本文化の特質
14 外国文化の日本的受容
第三章 日本文化と簡素の精神
1 随 筆
イ 清少納言と枕草子
ロ 鴨長明と方丈記
ハ 吉田兼好と徒然草
2 和歌
イ 和歌俳句第二芸術論
ロ 日本三大歌集
ハ 万葉集
ニ 古今集
ホ 新古今集
3 連 歌
イ 連歌の成立
口 心敬の連歌
ハ 宗祇の連歌
4 俳 諧
イ 俳諧の特質
ロ 俳句の文芸性
ハ 俳句と表現の抑制
ニ 俳文の特質
ホ 松尾芭蕉の俳諧
へ 芭蕉の俳文
ト 横井也有の俳文
チ 小林一茶の俳文と俳句
リ 正岡子規の和歌と俳句
ヌ 文人の草庵生活
5 日本絵画
イ 大陸芸術の日本的受容
ロ 文人画の発展
ハ 象徴性と精神性
二 印象性と装飾性
ホ 日本書道の特質
6 日本彫刻
イ 日本彫刻の絵画性
口 円空・木食の戯れ彫
ハ 神像の特質
7 日本建築
イ 日本住宅建築の特質
口 中国建築様式の日本化
ハ 伊勢神宮
ニ 桂離宮
8 日本庭園
イ 作庭の様式
ロ 日本庭園の歴史
ハ 日本庭園の特質
9 日本料理
イ 日本料理と中国欧米の料理
ロ 自然の風味
ハ 総合美
10 日本のやきもの
イ 縄文・弥生土器と埴輪
ロ 日本陶磁器の歴史
ハ 日本陶磁器の特質
ニ 茶器の特質
ホ 茶人の風流
へ 不完全の美
11 茶道
イ 総合芸術としての茶道
ロ 珠光の茶道
ハ 紹鷗・利休の茶道
二 利休没後の茶道
12 能楽
イ 二阿弥と禅竹
ロ 能面
13 日本音楽
イ 大陸音楽の受容と日本音楽の発展
ロ 新日本音楽の誕生
ハ 日本音楽の特質
14 日本武道
イ 技と心
ロ 剣の心術
第四章 日本の宗教と思想
1 日本儒教
イ 神儒一体論
ロ 日本儒学の特質
2 神道
イ 仏教・儒教との習合
ロ 神道の特色
ハ 日本文化と神道
ニ 神道の自覚
3 日本仏教
第五章 簡素の精神とその意義
人柄
・岡田武彦先生は忠恕の真心を尽くされる方で、暗黙のうちに「まごころが大切」であると示された先生でした。
・岡田武彦先生は自己の発見した道を信じ、好み、楽しみ、他人の非難や批判にとらわれない人柄でした。
・乞われれば全国に出向き世を去るまで熱く語り続け、学者はもとより、一般市民から園児まで多くの心ある人々に慕われました。
・使命感と情熱の人でした。海外の国際会議に頻繁に出席され、学問的恩恵と人的交流を持つことができたとされ、恩返しとして二つの国際会議の責任者になられました。
・会われた人々からは、岡田武彦先生から「元気を貰った」と多くの人が話されていました。
・岡田先生の周辺にはいつも心温かい信頼関係に満ちた人々がおられました。
岡崎豪 氏 撮影
岡田先生が、私達に教授して下さっている最後のお言葉
嘉遯
この二文字は、岡田武彦先生がご臨終の際に床の間に掲げておられた墨書です。
この二文字は、『易経』の三十三番目の卦で遯・天山遯の五爻の爻辞の二文字になります。
遯・天山遯は隠遁する、退き避けるという意味になります。五爻・五番目の爻(主爻)でその爻辞は
九五、嘉遯。貞吉。
九五、嘉(よ)く遯(のが)る。貞しくして吉なり。
遯の時に際し、その遯れる姿は麗(うるわ)しく立派である。正しい道を固く守っているので吉である。
志を貞しく固く守っているからこそ嘉遯なのです。
人生の最後にあたって、岡田先生のお気持ちをよく表しているお言葉だと感動致しました。私達も人生の最後に、岡田先生の「嘉遯」が言える様に志を貞しく固く守って人生の道を学び続けることが大切であると強く思いました。
陽明学について
王陽明(1472~1529・58歳没)は中国・明朝時代の儒学者、文武両道の文官で陽明学を起こした聖人です。明朝時代は今までになく皇帝の独裁政権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影響を及ぼした時代でもあります。歴史はこのような暗黒が蔓延した時代に英雄や聖人を出現させます。王陽明もその一人です。彼は文官ですが、武芸や詩学など様々な才能に秀で、儒学と兵法を究めた文武両道の儒学者でした。彼は日常生活の中で、実践を通して心に理を求める実践の儒学である陽明学を唱えました。王陽明の功績は三征という軍事的業績があります。それは、江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧や寧王の乱をわずか2か月で鎮圧した事、及び、江西で反乱が起き、病気をおして討伐、戦後処理を行ったことです。
彼が35歳の時、15歳の武宗が即位したが宦官の劉瑾(りゅうきん)に実権を任せていた愚かな皇帝でした。宦官の劉謹は実権をほしいまま行い、贈収賄が横行して、それを諫言する者は粛清されました。軍紀は退廃し政治は弱体化しました。王陽明は皇帝に諫言する職務の諫官を投獄することに対して批判し、弁護する上疏文(じょうそぶん)を提出したが、反対に劉瑾を弾劾したことで武宗皇帝を怒らせ、投獄されてしまいます。厳しい鞭打ちを受け、十二月の厳しい寒さの中で『易経』を読み研究したと伝えられています。
陽明は伝習録の中で『「易」とは、天に判断を問う事です。中略。天のみは作為の付け入る余地がないからです。』と言っています。その後、貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まりました。その時に占筮して得た卦は。地火明夷・䷣の「不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ意」でした。陽明はついに、龍場に行く決意をし、その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記しました。
王陽明 画像
王陽明 拡大画像
陽明学のまとめ
⑴儒教の創始者達
孔子(552~479 BC)春秋時代の人。人倫道徳を主眼とした理想的な社会を実現するこ とと、伝統文化を尊重し、これを学んでそこから時代に適応する新しい道を創造する事(温故知新)を説いています。
孟子(372~289 BC)戦国時代の人。老子、荘子などの超越主義の影響もあり、徳業の本である人間の本性や良心を説いています。万物我に備わる「善は人と与にし」「楽しみは人と与にする」万物一体思想です。
⑵朱子と陽明の比較
理知的で他律的な人倫道徳を説いた朱子に対して、情愛に溢れた自律的な人倫道徳を
説いたのは陽明です。
⑶王陽明について
姓:王 名:守仁 字(あざな):伯安 号:陽明 諡(おくりな):文成
一般的には王陽明と尊称される。中国明代の儒学者、文官(文武両道の儒学者)58歳没(1472~1529)
⑷明朝時代の背景
明朝時代は今までになく皇帝の独裁権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影
響を及ぼしました。南宋と明の末期の時代は歴史の中でも退廃した世の中でした。この
ような退廃した世の中から社会貢献をした偉大な賢人が輩出したのは、意義深いものがあります。
⑸思想体系
陸象山の心に万物の法則があるという「心即理」の立場をより明確にしました。
⑹格物致知
あらゆる事(物)を格(ただ)すことで、誰もが本来持っている良知を発揮すること
ができる様になります。(良知:人が生まれながらに持っている、是非・善悪を誤ら
ない正しい知恵)
⑺理・気
【一元論】大宇宙の法則である「理」とそれらを構成する要素である「気」は一体であ ると考えました。理、気、性、物は一体であり、自己の外にあるものではないと考えました。万物一体思想。聖学の究極である万物一体の仁としました。
⑻性、理
万物に具わっている本性を「性」と言います。性即理という立場は朱子と変わりませ
んが性は理の作用であると考えました。
⑼善悪
性善説。人間の本質は至善で、本来は善悪一元、又は、無善無悪です。しかし、相
対的な存在としての善悪があるので、良知を発揮して至善に至ることが大切としてい
ます。
⑽経書に対する姿勢
心の学びがあってこその経書と考えました。
⑾静坐
内省の手段として勧めたが、静に偏ることや厭世的(えんせいてき:人生を悲観し、
生きるのがいやになるさま)になることを戒めました。
「静坐悟入(理・本質を体認する静坐)」と言われ、門人中で間違って認識し仏教の
静寂の道に陥る者が出たので廃しました。
⑿聖人君子
聖人君子と同じ心を誰もが持っていると考え、それを発揮することを主張しました。
⒀大学
『大学古本』朱子が改訂する前の『大学』を王陽明は提唱しました。『大学』は大人
の学です。大人とは天地万物を一体とするものです。
『大学』:儒学の理想である修己治人を要領よく系統的に説き明かした書物で、修
身、斉家、治国、平天下の政治と学問を直結した儒学の精髄です。
⒁『大学』三綱領の「親民」
民に親しむと解釈し、民と同じ目線に立った民との融和と考えました。
『大学』の三綱領のあと二つは「明徳(天から授かった立派な本性を明らかにする)」「至善」を言います。
⒂『大学』八条目
理を窮めて性を尽くすことを、「物、知、意、心、身、家、国、天下」という観点で
説いたものと考えました。
◎日本の小学校の校庭にある二宮金次郎像が読んでいる本は何?
彼が読んでいる本は『大学』で、大学の伝九章の一文が書いてあります。
(書いてないものもあります) 子供たちに教えてあげたいですね。
一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂。其機如此。
一人ひとりが仁(思いやり)の心を持てば、国すべてが仁の心になり
一人ひとりが謙虚な気持ちを持てば、国すべてが謙虚な心になる。
一人ひとりが利を貪れば、国は乱れてしまう。
⒃人民救済天下平定
王陽明の三征(軍事的業績)
・江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧
・寧王の乱をわずか2か月で鎮圧
・江西で反乱、病気をおして討伐、戦後処理
⒄『易』の占筮事例
王陽明:貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まった時に占筮して得た卦は、
地火明夷 ䷣でした。その意は不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ意になります。王陽明の状況と一緒の内容になります。そして、陽明は龍場に行く決意をしました。その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記したのでした。
⒅名言
王陽明「山中の賊を破るのは易いが、心中の賊を破るのは難しい」
「此の心光明亦復(またま)た何をか言わん」王陽明辞世の句
(我々の心の中には光り輝く良知があるではないか、他に何も言い残すことはない)
⒆易
王陽明の言葉「易とは天に判断を請うことである」
弟子で心学易研究の王龍溪(王畿)は心にこそ真理があるとする心即理を易で解釈し
ました。
「易を読む」王陽明の獄中詩
讀易、
囚居亦何事
省愆懼安飽
暝坐玩義易
洗心見微奥
乃知先天翁
畫畫有至教
包蒙戒爲寇
童牿事宜早
蹇蹇匪爲節
虩虩未違道
遯四獲我心
蠱上庸自保
俛仰天地閒
觸目俱浩浩
簞瓢有餘樂
此意良匪矯
幽哉陽明麓
可以忘吾老
易を読む。
囚居 亦た何をか事とせん
愆(あやまち)を省み 安飽を懼る
瞑坐して義易を玩び
心を洗ひて微奥を見る
すなはち知る 先天翁の
画画に至教あるを
蒙(もう)を包(くる)ねて 寇(あだ)をなすを戒め
童牿(どうこく) こと宜しく早かるべし
蹇蹇(けんけん) 節のためにあらざるも
虩虩(げきげき)として 未だ道に違はず
遯四(とんし) 我が心を獲たり
蠱上(こじょう) 庸(なん)ぞ自ら保たん
俛仰(ふぎょう)す 天地の間
触目 俱(とも)に浩浩(こうこう)たり
箪瓢(たんぴょう)に余楽あり
この意 良に矯(た)むるにあらず
幽(しずか)なるかな 陽明の麓
以て吾が老を忘るべし
安岡正篤監修 明徳出版社刊『王陽明全集』第六巻「詩」 168-169頁より出典
私なりに纏めてみました。
易を読む。 (陽明洞での王陽明の獄中詩になります)
獄中の生活で何をするか
ただ愆(あやまち)を省み 安逸をおそれる
静坐して易を味わう
心が洗われて道の微奥が分かる
そこで知る伏羲の易の
一画一画※①に至教があるのだ。
愚かな者を包容して、悪事をしないように戒め
幼少のころから束縛を加えて学問を教えることを早めるべきである
進退窮まる苦しみは苦節のためだけではなく
恐れおののき 未だ道に違はず
易の遯卦(とんか)※②の四爻の地位に恋々としない事に我が心を獲たり
易の蠱卦(こか)※③の上九の様に、君子は不遇の時に自ら高い心を保とう
天地の間を俯仰(ふぎょう)すれば
目に触れるところ広々と果てもない
顔回は貧の中で道を楽しんだ
この心は本物だ
幽(しず)かな陽明の麓で
老い行くのも忘れて道を求めたいものだ
※①一画一画:一卦一卦(現代意訳)
※②遯:天山遯 ䷠ 序卦伝33番目の卦 隠遁、退避の意
天山遯の九四(下から四番目の陽の爻):君子は好む感情があっても、これを絶って逃れるのである。
※③蠱:山風蠱 ䷑ 序卦伝18番目の卦 腐敗、不正、事変の意
山風蠱の上九(下から六番目の陽の爻):王侯に仕えず、徳を養って行いを高潔にする。
日本陽明学の開祖、近江聖人中江藤樹
1608(慶長13年)-1648(慶安元年)。江戸時代初期の儒学者。わが国における陽明学の開祖。数多くの徳行、感化によって、没後に《近江聖人》とたたえられる。近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)に、中江吉次の長男として生まれる。
名は原(げん)、字は惟命(これなが)、号は嘸軒または顧軒、通称は与右衞門(よえもん)、幼名は原蔵(げんぞう)という。普通おこなわれている藤樹とは号でなく、屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来する。
9歳、米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行く。10歳、藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住む。15歳、祖父の死去により、100石取りの武士となる。17歳、独学で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒する。しかし、33歳のとき、『王龍渓語録』を、37歳のときには『王陽明全書』を入手するや、熟読玩味して、おおいに触発感得をうける。それまでの学問上の疑念が解け、格法主義的な生活の非なることを知り、しだいに王陽明の「致良知説」へと信奉していった。これより以前の27歳のとき、母への孝養と自身の健康を理由に大洲藩士の辞職を佃家老に願いでるが、ついに許可を待たずに脱藩して、ふるさとの小川村へ帰る。浪人(牢人とも書く)となった藤樹は、居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、大洲からやってきた藩士や近郷の人々に《孔孟の学》や《陰隲》を教導する。
代表的な門人としては、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいるが、とりわけ藤樹没後における蕃山の事績によって、藤樹の名声をいちだんと高めたことは注目しなければならない。
また、魯鈍の門人であった大野了佐にたいして、大部の『捷径医筌』を著わし、それをテキストにして熱心に医学を教え、立派な一人前の医者に育てあげた話は、人を教えて倦まない藤樹の生き方を知るうえで、あまりにも有名なエピソードの一つである。
藤樹の著書は、『藤樹先生全集』全5冊(岩波書店版、昭和15年)に収められている。そのおもなものとして、『翁問答』『鑑草』『孝経啓蒙』『論語郷党啓蒙翼伝』『論語解』『大学考』『大学解』『大学蒙註』『中庸解』などがある。
高島市JR安曇野駅前
中江藤樹像
藤樹夫妻の神主(位牌)(藤樹書院内)
神龕欄間(しんがんらんま)の上部に地山謙・䷎、左扉に八卦の乾・☰(藤樹先生)が、右側に坤・☷(奥様)が其々刻まれています。中江藤樹先生にぴったりの地山謙の卦になっています。
この写真はホームページ「蒼流庵随想・漢方と易学」の蒼流庵様の許可を得て掲載しています。
山崎闇斎
山崎闇斎先生は仁愛(天地の物を生ずる心、万物を生成してやまない宇宙精神)を人生の目標にされました。朱子学を学んだが盲信的ではなく、研究的であり学問的に究明する人でした。闇斎先生が重んじた文章は教学の法『白鹿洞書院掲示』と存養の要法(心の修養法)『敬斎箴』でした。明治維新を導いた崎門学の國體思想は皇政復古(王政復古)です。
崎門学の開祖、山崎闇斎は兵庫県宍粟市(しそうし)山崎町鹿沢にある闇斎神社に御霊が祭祀されています。昭和15年の皇紀2600年を記念して京都の闇斎神社より御霊を勧請(かんじょう・御霊を他の場所に移し祀る事)し神社として祀っています。
山崎闇斎の父と祖父はこの地、宍粟郡山崎村の出身です。闇斎は山崎姓をこの地から由来として名乗ったと云われています。山崎闇斎は儒教では崎門学、神道では垂加神道を開いた学者で6千人を超える弟子がいたと云われています。九州の門流としては、山崎闇斎➡三宅尚斎➡楠本端山といった系譜になります。
山崎闇斎は聡明で幕政の名宰相である会津藩主の保科正之に礼遇を受けていました。寛文五年(1661)に保科正之に招聘され彼が没するまで8年間、「君臣水魚の交わり」の様な交流がありました。
山崎歴史郷土館(宍粟市立図書館2階)に山崎闇斎坐像が展示されています。時を超え、河合寸翁や明治維新を導いた偉大な儒学者、神道家を感じることができます。非常に貴重な山崎闇斎坐像です。この像は評論家の嘉治隆一氏が東京本郷の古本屋で発見し、知人の小説家の吉川英治氏を通して昭和35年に寄贈されたものだそうです。江戸時代中期の作品で兵庫県指定文化財となっています。見学は事前に予約が必要です。
山崎闇斎神社の門前にある坐像
宍粟市の山崎闇斎神社
岡田先生、宍粟市の山崎闇斎神社に参拝
岡田武彦先生(左)と森山文彦氏
山崎闇斎神社(宍粟市山崎町)境内にある会津藩校 日新館の木碑
山崎闇斎は会津藩主の保科正之に礼遇を受けていました。
山崎闇斎坐像 山崎歴史郷土館(宍粟市立図書館2階)見学は事前予約が入ります。
後ろの掛け軸の説明 孔子の言行録『論語』雍也第六
山崎闇斎紹介映像
室内の山崎闇斎坐像は宍粟市教育委員会所蔵資料です。
(室内の山崎闇斎坐像は宍粟市教育委員会様の許可を得て撮影・掲載をしています。)
岡田武彦 著『山崎闇斎』
叢書・日本の思想家6 明徳出版社
昭和60年10月(1985.10)
岡田武彦 著『山崎闇斎と李退渓』
岡田武彦全集22 明徳出版社
平成23年10月(2011.10)
崎門学派系譜
この度、山崎闇斎研究会のご好意で、大分大学 牛尾弘孝名誉教授 監修、本條 衞 氏 記の崎門学派系譜を掲載することができました。
真中右に姫路藩の河合寸翁(武士・大老・儒学者)、その下に楠本端山、その下二つ目に岡田武彦(儒学者・陽明学者)、その下四つ目に頼山陽の父の頼春水と頼山陽、その下左に保科正之(藩主)の名を確認することができます。
※無断転載・複写は禁止致します。
山崎闇斎と京都の下御霊神社
京都市中京区寺町通丸太町にある下御霊神社の境内末社として猿田彦社相殿・垂加社(すいかしゃ)に贈正四位の山崎闇斎先生の神霊を祭祀してあります。毎年、下御霊神社では2月22日に山崎闇斎先生に関する文献を展示し、見学できるようにされています。
※下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)
「平安初期の貞観五年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。
当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神(うぶすながみ)として崇敬され、享保年間(1716~1736)に霊元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。
本殿は寛政三年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祭っている。 京都市」
※下御霊神社前の京都市の立札(説明文)
下御霊神社
下御霊神社境内にある山崎闇斎神社
山崎闇斎と京都・下御霊神社の紹介映像
参考書籍・資料
岡田武彦述『我が半生・儒学者への道』 福岡県小郡市「思遠会」 1990.11.22
福田 殖 著「岡田武彦先生の生涯と学問」 学術雑誌論文 2004.12.25 九大コレクション
岡田武彦 述 森山文彦 編『崇物論-日本的思考-』 2003.8.24
引用・要約 (掲載に関しては岡田武彦先生のご子息に了承をいただいております)
⑴pp.17-18、⑵pp.17-18、 ⑶pp.18-19、⑷P18、⑸pp.17-18、⑹p.18、⑺pp.18-19、⑻p.20、⑼ p.23、⑽ p.24、⑾ pp.24-25、⑿ p.25、⒀p.25、⒁p.26、⒂pp.27-28
⒃p.21、⒄p.31、⒅p.31、⒆pp.28-29、⒇ p.30、(21)P.30、(22)P.31、(23)P.30
(24) pp.32-33、 (25) pp.33-34、 (26) pp.34-35、 (27) p.35、 (28) pp35-37、 (29) pp.37-38
(30) pp.38-40 、 (31) pp.41-42、 (32) pp.42-43、 (33) pp.43-45 、 (34) p.45、 (35) pp.45-47 (36) pp.47-50、(37)p.51、(38)p.52、(39)p.52、(40)pp.52-53、(41)pp.53-55
(42) pp.55-56
九州文化探検隊ホームページ・貝原益軒「養生訓」 松尾允之 氏の記事
『貝原益軒「養生訓」貝原益軒文化講座』 平成14年 岡田武彦講師(93歳)
九州大学名誉教授 岡田武彦先生の「兀坐」最終回 「静坐」を超克した「兀坐」
https://touka.com/hou/kaibara/
「岡田先生が、私達に教授して下さっている最後のお言葉 嘉遯」は岡田武彦先生のご子息から教えていただきました。嘉遯に関しての参考書籍:黒岩重人 著『全釈 易経 中』 (全3巻)㈱藤原書店 2013.9.30 33遯(天山遯)
「陽明学のまとめ」の記事はイーチンライフ・I CHING LIFE の柏村學震氏と赤松昇の共著
「日本陽明学の開祖、近江聖人中江藤樹」高島市ホームページ「中江藤樹」より掲載
イメージ・写真はphotoAC(著作権有り)より購入したものを掲載
島田清 『山崎闇斎先生と播磨の門流』 昭和57年12月9日 山崎郷土研究会 発行
出雲路敬和 『闇斎先生とその時代』 昭和45年12月9日 山崎町教育委員会 発行
宍粟市教育委員会『山崎歴史郷土館 展示資料 解説資料』
下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 下御霊神社前の京都市の立札(説明文)