

岡田武彦 その哲学と陽明学
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思想・哲学と人柄
八、相克と相生
思想・哲学
◆まとめ
・青年時代から人生及び時世に対する苦悩と疑念を抱いたのが哲学の出発点でした。
・宋明儒者の体験を追体験して東洋の哲学思想の特色を高唱することが真の東洋哲学の研究方法であることを自覚されました。
・近年になって青い鳥はわが日本にいることに気づかれました。それは「簡素の精神」でした。
・岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』です。
「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると説かれました。
・山崎闇斎学派の儒学者
山崎闇斎先生は仁愛(天地の物を生ずる心、万物を生成してやまない宇宙精神)を人生の目標にされました。朱子学を学んだが盲信的ではなく、研究的であり学問的に究明する人でした。闇斎先生が重んじた文は教学の法『白鹿洞書院掲示』と存養の要法(心の修養法)『敬斎箴』でした。
・楠本正継先生に師事
九州帝国大学在学中は尊敬する楠本正継教授に師事され、教授の著書『宋明時代儒学思想の研究』に感化を受け研究され、自らも『王陽明と明末の儒学』を書き上げられました。楠本正継先生の祖父は、幕末維新期に活躍された山崎闇斎学派の儒学者・楠本端山です。楠本端山は若い頃、佐藤一斎の門弟となり、後に三宅尚斎の流れを引き継ぐことになりました。
・周濂渓
岡田先生が中国哲学を専攻されるようになったのは、宋学の祖と云われる周濂渓の人格思想に魅了されたからです。
・宋明哲学を中心に幅広く儒学を修められた
岡田先生は孔子を祖とする儒学から、宋学、陽明学、更に日本の儒学まで広く深く修められました。そして、人と共に生きる共生の思想が孔子の精神の基本であるとし、それを心に置かれて修身に精進し、共に生きる理想を世の中に実現しなければならないと強調されました。その実践として市民講座や書院教育に積極的に熱心に取り組まれ、共に学び、共に生きる姿勢を貫かれました。
・原典資料を読み込み、思想家と同じ心になる学び
岡田武彦先生の、講義は原典資料を読み込んで思想家と同じ心になり、思想上の問題点を解決するという独自の講義をされていました。
・体認の学
「朱子学は主知的」であり「陽明学は情意的」であると説き、知識を重ねるだけの頭でっかちであるより、実践し体で覚える「体認」が重要と説かれました
・崇物論
岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』です。真の世界的思考は日本の崇物的思考と西洋の制物的思考と一体になるところに成立すると説かれました。「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると実践され、書院教育の場でも参加者と一緒に実践されました。
朱子学の理学、陽明学の心学、岡田武彦先生は身学を提起されました。静座は心の敬を求める法、兀坐(こつざ)は身の敬を求める法です。兀坐とは、背筋を伸ばし、腰骨を立てて、目をつぶり、身体を静かに、ただじっと坐ることです。椅子に座ってもよし、床に座ってもよいようです。身体が静を知っている、兀坐だそうです。YouTubeに岡田武彦先生の講義が掲載されていますが、勉強会の冒頭に10分程度兀坐をされています。現代人は忙しすぎる、動を働かすには静の兀坐を生活に入れることが大事といわれています。自然体の兀坐です。先生は『身学説』として「人間の心の精妙な働きが身体、特に脳の生理的作用による、故に、身は宇宙の根源であり、兀坐して以てその根を培養することが初学の道である。」と説かれています。皆様も兀坐を生活に取り入れてみてください。
※座禅:仏教的(超越主義)な世界観、人生観から生まれた心の学。
※静座:儒教的(理想主義)な人生観から生まれた心の学。座禅を超えて出てきた修行法。
※兀坐:静坐を超克して出てきたもの。身の学。

孔子像

王陽明 陽明園

岡田武彦 著『王陽明紀行』明徳出版社 1997

『崇物論-日本的思考-』2003.8.24
岡田武彦 口述 森山文彦 編
崇物論-日本的思考
岡田武彦先生は晩年『崇物論』を発表されました。先生は「人や物を崇敬せよ」と呼びかけられています。「敬虔の心こそが万物を一体とする」と。人と共に悲しみ、人と共に喜ぶ。そして自然と共に生きる。『共に生きる』ことです。
崇物とは物や人、自然を含む全ての物を大切に崇敬する意味です。崇物とはすなわち、日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教、哲学、思想、文化を貫く基本的な思考になります。
以下、岡田武彦先生の『崇物論―日本的思考』を要約致しました。
尚、一の特殊性と普遍性、ならびに二の国文法の特色は略しています。
三、制物と崇物
西洋人(日本人以外)は自己主張的で理知的で他と対立し他を制御する民族性を持っています。反対に日本人は自己抑制的であり、情緒的で、他と調和し他を尊崇する民族性を持っています。⑴
崇物
日本人
特徴
自己抑制的で他と調和し、
情緒的で他を尊崇する民族性⑵
要因
日本の家屋は開放的で、人と自然が常に一体となるように造られており、日本の自然環境は人間生活を潤してくれています。日本は島国で、山の幸、海の幸に恵まれています。自然は春夏秋冬の四季の変化があり極めて風雅に富んでいます。他国から侵略されることはありませんでした。同一民族、同一言語で論理的に 自分の意向を伝える必要はありませんでした。⑶
制物
西洋人(日本人以外)
自己主張的で理知的で他と
対立し他を制御する民族性⑸
西洋の家屋は自然に対して防御的で窓は小さく壁は厚くなり自然と隔離する構造となっています。西洋の自然環境は人間生活に厳しい環境を与えています。日本以外の国は侵略された歴史があり、自然環境も厳しく人間生活に厳し いものになっています。
多民族で多言語が多く、理論的に自分の意向を伝える必要がありました。⑹
結果
日本人は自然の恩恵に対して深い感謝の念を抱き、これを崇敬する様になりました。その結果自然崇拝、万物を崇敬する民族性ができました。
因って、日本人の思考は崇物的となりました。⑷
西洋人は自然と人を一体と見ることがなく、反対に対立するものと見ていますので、自然を制御する為に法則原理を探究して人に利用しようとする風潮が生まれました。結果、西洋人は理性的、理智的となり科学文明が発達し思考は制物的になりました。⑺
民族
◆崇物の例として
①物に対する恩恵に対する深い感恩の念を表す行事として、筆供養、針供養、藤の花供養、日本人形供養、鯨塚供養があります。⑻
②「頂きます」「ご馳走さま」などは自然崇拝、物崇敬の念の一端を示すものと考えられます。⑼
③山岳信仰、奇岩老木には神霊が宿っているとして崇敬する習慣があります。⑽

ご神木崇拝

人形供養

針供養

湖魚供養
四、物は霊的存在
日本人は古来、物は霊的で尊厳な存在であると考えました。したがって、人間に人格があるように、物にも物格があると言わなければなりません。人格が尊厳なものであるとするならば、物格もまた尊厳なものであると考えました。日本人はその尊厳さを神と称し、その霊性の純粋なもの偉大なものを特に尊崇し、畏れ多いものとして崇拝祭祀したのでした。⑾
人は皆、老若男女の別なく絶大に霊的で尊厳な存在です。そのことを示す為に、人には人格があると言ってもよいのかもしれません。物と人とを区別して考えると人には人格があり、物には物格があります。そして、人格と物格の間には質的相違があります。⑿
崇物とは日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教・哲学・思想・文化を貫く基本的思考になっています。⒀
形而下の物は感覚で捉えられるもので、形而上の物は感覚で捉えられないものを言います。形而下は物質的なもの、形而上は精神的なもので、物の本質は中国思想でいうと両方とも気になります。それ故、物は全て気霊で霊的存在になります。万物は生物・無生物の別なく心を持っているというべきなのです。霊性は種によって質を異にするのです。そして万物はそれぞれ主体性を持つ独自の存在でそれを尊厳なものといわなければなりません。⒁
日本人の崇物的思考(感性的思考)の筆者の私見
「月見れば千々(ちぢ)にものこそ悲しけれ」というように月を見る。(小倉百人一首23番 大江千里)
日本人は千年杉をみると、生命力に溢れた霊気を感知する。
秋の虫の音を聴けば「あはれ」と感じる。
京都の竜安寺の石庭は何らかの心を示すものと思うであろう。
日本人は「一木一草にも心がある」という。
大空の行雲にも心があると感じる。
では、この心とは何を意味するのでしょうか。
東洋では、人間には心があり、それは気の霊妙な働きであるとしています。ですので、心とは気霊といってもよく、そうなれば、心は霊と言ってもよいのです。これによって私が物は皆霊的存在であるという意味が理解できると思います。⒂

秋の月

若狭姫神社 社殿と千年杉

竜安寺の石庭

大空の行雲
五、崇物と感性的思考
崇物的思考
制物的思考
民族
日本人
西洋人(日本人以外)
特徴
情緒的・感性的・全一的。物の本質は直感的=神秘的
自己抑制自己謙譲的であるから自他一体的思考となり、心の全体、すなわち全一的思考によってその本質を感知するからである。(16)
神秘主義的に徹し、実修に徹している。
坐禅は厳しい系統的な実修がある。東洋は切至な実践的な修行を必要とする。(17)
日本の思想文化は感性的直観を根本としている。崇物は主として日常生活において求められ、厳しい実修はない。「崇」は自我を放棄して他に従う心の修行であり、無心無我の心で他と一体になる立場をとるもの(18)
インドや中国の思想も神秘主義的であるが、日本のそれと比較すれば、やはり両者の間に差異があるのを認めざるを得ない。それは神秘主義といいながら理論的な解明を要するところがある。日本の場合は殆どそれはない。ここでいう崇物は、日本の宗教・哲学・倫理・文化を貫く思想で実践を要とするだけで理論は皆無に近いといってよい。(23)
理知的・局部的
理性的=合理主義的
自己主張より生まれるから自他対立的となり、
他を説得し制御する傾向とならざるを得ない。
そのためには他の本質を究める必要がある。
その結果、自己の理性理智を絶対的なものと
し、他を対象として分析してその本質を究め、
これを我が方に利用する様にようにならざるを得ない。近世に至って自我の理性を絶対視するようになって合理主義が盛んになり、その結果科学文明の興起をもたらした。(19)
哲学も合理主義でカント、フィヒテ、ヘーゲルなど大家が輩出した。合理主義を批判したニーチェ、ベルグソンなど神秘主義者もいた。(20)
西洋の神秘主義はキリスト教的神秘主義とは些か異なるが、禅学における坐禅のような切至な実修がない。特色を記述するに止まっている。
(21)
技の基本は技巧錬磨の極地を述べたのは西洋的合理主義的見地に立った見方。(22)
インドや中国の思想も神秘主義的であるが、日本のそれと比較すれば、やはり両者の間に差異があるのを認めざるを得ない。それは神秘主義といいながら理論的な解明を要するところがある。日本の場合は殆どそれはない。
六、崇の意義
崇拝の意に解すれば宗教性を帯びますが、崇敬とすると中国宋代の儒者、程朱やその学派のいう「居敬」に類似します。朱子によれば、敬には三義があります。
敬の三義
(24)
①心中一物も容れず(伊和靖の説) 心の中に一点の物欲もないようにすること。
②整斎厳粛(程伊川の説)心身が現に従っている行を正し、心を正して厳しく反省すること。
朱子は程伊川の説を重視した。朱子は高遠な理想主義者で物の理を厳粛な存在としたので、伊川の敬を主とするに到った。それは動静を貫くものとし、静坐を入門の処とした。
③常惺惺(謝上蔡の説) 心の明知を覚醒して曇らさないようにすること。
居敬を最も詳細に論じたのは、明初の朱子学者の胡敬斎です。崇物と居敬は似て非なるところもあります。朱子学の居敬は、物の理を究める知的な学で窮理の学と並進することを求めましたが、知的な学を先とし、居敬のような実修を後にするところがありました。朱子学は物を物質的な要素の気と理に分け、理は気の法則原理として、この理を知的に究める事の必要性を切論しました。そして、居敬といっても、理に対する実修であるとしました。故に、知行につても、先知後行の学とみられたのです。ところが崇物の場合は、直接、物そのものを崇敬しますから、朱子学の居敬とは異なります。崇物は物そのもの、物の霊を崇拝・崇敬するものですから宗教的・情緒的です。 (25)
崇物の「崇」は前に述べたように心の全一的な修行ですが、その真を求めようと思えば、そこにまた西洋の伝統的な思想文化から学ばなければならないところがあります。
崇物の実修が主観に陥ったり偏ったりしない為に東洋的な伝統を学習する必要があります。日本の神道、仏教老荘、儒教の学習が必要でありますが、特に儒教の学習は大切です。禅語の「放下」(ほうげ・一切を捨て去ること。仏語。禅宗)などは学ぶべきものです。私見によれば、「崇」の修行には「我欲、我見、我執」があって、この三我を放下棄捨しなければなりません。すなわち、三無我を要としなければなりません。
仏教、儒教、崇物の物に対する態度に積極性と消極性の差異があります。
・仏教では死生の超脱を主としますから物に対する態度は消極的になります。
・儒教は経世を目的としますから積極的になります。
・崇物における自己抑制的修行は退歩思量(自分の内に目を向けて物事の根本に立ち戻り、思いはかること)といってもいいか分からないですが、崇物での物に対する態度は儒教よりも端的で一層積極的です。 (26)
崇物の場合は儒教の理智的傾向を帯びたものとは違って、活発な情意的な発露があります。
崇物の修行に大いに役立つ教えは、
・孟子の「修行に絶えず進め励んで間断があってはならない。修行の効果を期待してはならない。修行することを忘れるのもいけないが、無理強いをしてはならない」(『孟子』公孫丑章句上篇)
・孔子の「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」(『論語』衛霊公篇)
(自分がしてほしくない事は、人にしてはいけない。)
・孔子の「己れ達せんと欲して人を達せしむ」(『論語』雍也篇)
(自分が事をなし遂げようと思えば、まず人を助けて目的を遂げさせる。仁ある者は、事を行なうにあたり自他の区別をしないことをいう。) (27)
儒教は、日本人の民族性と適合するところが多いです。日本民族は同一民族なので人倫を重んじますが、儒教も人倫を重んじます。「斯の人の徒と与にせずして誰と与にかせん」(『論語』微子篇)というように人倫を重んじています。両者ともに現実の人間生活の道を説きます。貝原益軒も「日本は神人合一を説き、中国は天人合一を説くが、その道は同じである」(写本『神儒並行相不悖論』)と述べています。神の道、天の道は共に現実的なもので、仏教などの超越的な道とは異なります。
・儒教は人倫を重んじ、現実の人間生活の道を説きます。日本人の民族性と適合するところが多いです。
・神道はこの世の明るい現実的な道を説きます。(明るい生の世界を説きます)
・仏教は超越的な道を説きます。(暗い死の世界を説きます)
崇の修行が真実のものとなるためには前に述べたような心がけが必要ですが、崇の修行本性から自然に発露するものでなければならないでしょう。つまり、本性自身が向上するために自ら発するものとならなければなりません。(28)
崇物
崇物は物そのもの、物の霊を崇拝・崇敬するものですから宗教的・情緒的です。

ご神木崇拝

針供養

秋の月

湖魚供養

姫路甲山の大岩崇拝
(古神道の磐座)

人形供養

伊勢志摩の夫婦岩
神道
神道はこの世の明るい現実的な道を説く(明るい生の世界を説く)

神社拝殿前

石清水八幡宮・京都府八幡市
