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​思想・哲学と人柄

​思想・哲学

◆まとめ

・青年時代から人生及び時世に対する苦悩と疑念を抱いたのが哲学の出発点でした。

・宋明儒者の体験を追体験して東洋の哲学思想の特色を高唱することが真の東洋哲学の研究方法であることを自覚されました。

・近年になって青い鳥はわが日本にいることに気づかれました。それは「簡素の精神」でした。

・岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』です。

「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると説かれました。

 

・山崎闇斎学派の儒学者

山崎闇斎先生は仁愛(天地の物を生ずる心、万物を生成してやまない宇宙精神)を人生の目標にされました。朱子学を学んだが盲信的ではなく、研究的であり学問的に究明する人でした。闇斎先生が重んじた文は教学の法『白鹿洞書院掲示』と存養の要法(心の修養法)『敬斎箴』でした。

 

・楠本正継先生に師事

九州帝国大学在学中は尊敬する楠本正継教授に師事され、教授の著書『宋明時代儒学思想の研究』に感化を受け研究され、自らも『王陽明と明末の儒学』を書き上げられました。楠本正継先生の祖父は、幕末維新期に活躍された山崎闇斎学派の儒学者・楠本端山です。楠本端山は若い頃、佐藤一斎の門弟となり、後に三宅尚斎の流れを引き継ぐことになりました。

 

・周濂渓

 岡田先生が中国哲学を専攻されるようになったのは、宋学の祖と云われる周濂渓の人格思想に魅了されたからです。

 

・宋明哲学を中心に幅広く儒学を修められた

岡田先生は孔子を祖とする儒学から、宋学、陽明学、更に日本の儒学まで広く深く修められました。そして、人と共に生きる共生の思想が孔子の精神の基本であるとし、それを心に置かれて修身に精進し、共に生きる理想を世の中に実現しなければならないと強調されました。その実践として市民講座や書院教育に積極的に熱心に取り組まれ、共に学び、共に生きる姿勢を貫かれました。

 

・原典資料を読み込み、思想家と同じ心になる学び

岡田武彦先生の、講義は原典資料を読み込んで思想家と同じ心になり、思想上の問題点を解決するという独自の講義をされていました。

 

・体認の学

「朱子学は主知的」であり「陽明学は情意的」であると説き、知識を重ねるだけの頭でっかちであるより、実践し体で覚える「体認」が重要と説かれました

 

・崇物論

岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』です。真の世界的思考は日本の崇物的思考と西洋の制物的思考と一体になるところに成立すると説かれました。「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると実践され、書院教育の場でも参加者と一緒に実践されました。

朱子学の理学、陽明学の心学、岡田武彦先生は身学を提起されました。静座は心の敬を求める法、兀坐(こつざ)は身の敬を求める法です。兀坐とは、背筋を伸ばし、腰骨を立てて、目をつぶり、身体を静かに、ただじっと坐ることです。椅子に座ってもよし、床に座ってもよいようです。身体が静を知っている、兀坐だそうです。YouTubeに岡田武彦先生の講義が掲載されていますが、勉強会の冒頭に10分程度兀坐をされています。現代人は忙しすぎる、動を働かすには静の兀坐を生活に入れることが大事といわれています。自然体の兀坐です。先生は『身学説』として「人間の心の精妙な働きが身体、特に脳の生理的作用による、故に、身は宇宙の根源であり、兀坐して以てその根を培養することが初学の道である。」と説かれています。皆様も兀坐を生活に取り入れてみてください。
※座禅:仏教的(超越主義)な世界観、人生観から生まれた心の学。
※静座:儒教的(理想主義)な人生観から生まれた心の学。座禅を超えて出てきた修行法。
※兀坐:静坐を超克して出てきたもの。身の学。

孔子像

​孔子像

03.安曇川 陽明園の王陽明石像 開園時中国から贈られた

​王陽明 陽明園

岡田武彦 著『王陽明紀行』明徳出版社

​岡田武彦 著『王陽明紀行』明徳出版社 1997

『崇物論―日本的思想』

『崇物論-日本的思考-』2003.8.24
​岡田武彦 口述 森山文彦 編 

​崇物論-日本的思考

 岡田武彦先生は晩年『崇物論』を発表されました。先生は「人や物を崇敬せよ」と呼びかけられています。「敬虔の心こそが万物を一体とする」と。人と共に悲しみ、人と共に喜ぶ。そして自然と共に生きる。『共に生きる』ことです。

 崇物とは物や人、自然を含む全ての物を大切に崇敬する意味です。崇物とはすなわち、日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教、哲学、思想、文化を貫く基本的な思考になります。

以下、岡田武彦先生の『崇物論―日本的思考』を要約致しました。

尚、一の特殊性と普遍性、ならびに二の国文法の特色は略しています。

​三、制物と崇物

 西洋人(日本人以外)は自己主張的で理知的で他と対立し他を制御する民族性を持っています。反対に日本人は自己抑制的であり、情緒的で、他と調和し他を尊崇する民族性を持っています。

崇物

​日本人

特徴

自己抑制的で他と調和し、

情緒的で他を尊崇する民族性

要因

日本の家屋は開放的で、人と自然が常に一体となるように造られており、日本の自然環境は人間生活を潤してくれています。日本は島国で、山の幸、海の幸に恵まれています。自然は春夏秋冬の四季の変化があり極めて風雅に富んでいます。他国から侵略されることはありませんでした。同一民族、同一言語で論理的に自分の意向を伝える必要はありませんでした。

​制物

​西洋人(日本人以外)

自己主張的で理知的で他と

対立し他を制御する民族性

西洋の家屋は自然に対して防御的で窓は小さく壁は厚くなり自然と隔離する構造となっています。西洋の自然環境は人間生活に厳しい環境を与えています。日本以外の国は侵略された歴史があり、自然環境も厳しく人間生活に厳しいものになっています。
多民族で多言語が多く、理論的に自分の意向を伝える必要がありました。

​結果

日本人は自然の恩恵に対して深い感謝の念を抱き、これを崇敬する様になりました。その結果自然崇拝、万物を崇敬する民族性ができました。

因って、日本人の思考は崇物的となりました。

西洋人は自然と人を一体と見ることがなく、反対に対立するものと見ていますので、自然を制御する為に法則原理を探究して人に利用しようとする風潮が生まれました。結果、西洋人は理性的、理智的となり科学文明が発達し思考は制物的になりました。

​民族

◆崇物の例として

①物に対する恩恵に対する深い感恩の念を表す行事として、筆供養、針供養、藤の花供養、日本人形供養、鯨塚供養があります。

②「頂きます」「ご馳走さま」などは自然崇拝、物崇敬の念の一端を示すものと考えられます。

③山岳信仰、奇岩老木には神霊が宿っているとして崇敬する習慣があります。

ご神木

ご神木崇拝

人形供養

人形供養

針供養

針供養

湖魚供養

湖魚供養

三、制物と崇物

四、物は霊的存在

日本人は古来、物は霊的で尊厳な存在であると考えました。したがって、人間に人格があるように、物にも物格があると言わなければなりません。人格が尊厳なものであるとするならば、物格もまた尊厳なものであると考えました。日本人はその尊厳さを神と称し、その霊性の純粋なもの偉大なものを特に尊崇し、畏れ多いものとして崇拝祭祀したのでした。

人は皆、老若男女の別なく絶大に霊的で尊厳な存在です。そのことを示す為に、人には人格があると言ってもよいのかもしれません。物と人とを区別して考えると人には人格があり、物には物格があります。そして、人格と物格の間には質的相違があります。

崇物とは日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教・哲学・思想・文化を貫く基本的思考になっています。

形而下の物は感覚で捉えられるもので、形而上の物は感覚で捉えられないものを言います。形而下は物質的なもの、形而上は精神的なもので、物の本質は中国思想でいうと両方とも気になります。それ故、物は全て気霊で霊的存在になります。万物は生物・無生物の別なく心を持っているというべきなのです。霊性は種によって質を異にするのです。そして万物はそれぞれ主体性を持つ独自の存在でそれを尊厳なものといわなければなりません。

日本人の崇物的思考(感性的思考)の筆者の私見


「月見れば千々(ちぢ)にものこそ悲しけれ」というように月を見る。(小倉百人一首23番 大江千里)
日本人は千年杉をみると、生命力に溢れた霊気を感知する。
秋の虫の音を聴けば「あはれ」と感じる。
京都の竜安寺の石庭は何らかの心を示すものと思うであろう。
日本人は「一木一草にも心がある」という。
大空の行雲にも心があると感じる。


では、この心とは何を意味するのでしょうか。
東洋では、人間には心があり、それは気の霊妙な働きであるとしています。ですので、心とは気霊といってもよく、そうなれば、心は霊と言ってもよいのです。これによって私が物は皆霊的存在であるという意味が理解できると思います。

秋の月

​秋の月

若狭姫神社 社殿と千年杉

若狭姫神社 社殿と千年杉

竜安寺の石庭

竜安寺の石庭

大空の行雲

大空の行雲

五、崇物と感性的思考

崇物的思考

​制物的思考

​民族

特徴

​日本人

情緒的・感性的・全一的。物の本質は直感的=神秘的

自己抑制自己謙譲的であるから自他一体的思考となり、心の全体、すなわち全一的思考によってその本質を感知するからである。(16)

神秘主義的に徹し、実修に徹している。
坐禅は厳しい系統的な実修がある。東洋は切至な実践的な修行を必要とする。
(17)

 

日本の思想文化は感性的直観を根本としている。崇物は主として日常生活において求められ、厳しい実修はない。「崇」は自我を放棄して他に従う心の修行であり、無心無我の心で他と一体になる立場をとるもの(18)

 

インドや中国の思想も神秘主義的であるが、日本のそれと比較すれば、やはり両者の間に差異があるのを認めざるを得ない。それは神秘主義といいながら理論的な解明を要するところがある。日本の場合は殆どそれはない。ここでいう崇物は、日本の宗教・哲学・倫理・文化を貫く思想で実践を要とするだけで理論は皆無に近いといってよい。(23)

​西洋人(日本人以外)

理知的・局部的

理性的=合理主義的 

 

自己主張より生まれるから自他対立的となり、

他を説得し制御する傾向とならざるを得ない。

そのためには他の本質を究める必要がある。

その結果、自己の理性理智を絶対的なものと

し、他を対象として分析してその本質を究め、

これを我が方に利用する様にようにならざるを得ない。近世に至って自我の理性を絶対視するようになって合理主義が盛んになり、その結果科学文明の興起をもたらした。(19)

哲学も合理主義でカント、フィヒテ、ヘーゲルなど大家が輩出した。合理主義を批判したニーチェ、ベルグソンなど神秘主義者もいた。(20)

西洋の神秘主義はキリスト教的神秘主義とは些か異なるが、禅学における坐禅のような切至な実修がない。特色を記述するに止まっている。

(21)

技の基本は技巧錬磨の極地を述べたのは西洋的合理主義的見地に立った見方。(22)

​人柄

・岡田武彦先生は忠恕の真心を尽くされる方で、暗黙のうちに「まごころが大切」であると示された先生でした。

 

・岡田武彦先生は自己の発見した道を信じ、好み、楽しみ、他人の非難や批判にとらわれない人柄でした。

 

・乞われれば全国に出向き世を去るまで熱く語り続け、学者はもとより、一般市民から園児まで多くの心ある人々に慕われました。

・使命感と情熱の人でした。海外の国際会議に頻繁に出席され、学問的恩恵と人的交流を持つことができたとされ、恩返しとして二つの国際会議の責任者になられました。

 

・会われた人々からは、岡田武彦先生から「元気を貰った」と多くの人が話されていました。

 

・岡田先生の周辺にはいつも心温かい信頼関係に満ちた人々がおられました。

岡田武彦先生の写真

岡崎豪 氏 撮影

陽明学について

 王陽明(1472~1529・58歳没)は中国・明朝時代の儒学者、文武両道の文官で陽明学を起こした聖人です。明朝時代は今までになく皇帝の独裁政権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影響を及ぼした時代でもあります。歴史はこのような暗黒が蔓延した時代に英雄や聖人を出現させます。王陽明もその一人です。彼は文官ですが、武芸や詩学など様々な才能に秀で、儒学と兵法を究めた文武両道の儒学者でした。彼は日常生活の中で、実践を通して心に理を求める実践の儒学である陽明学を唱えました。王陽明の功績は三征という軍事的業績があります。それは、江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧や寧王の乱をわずか2か月で鎮圧した事、及び、江西で反乱が起き、病気をおして討伐、戦後処理を行ったことです。

 彼が35歳の時、15歳の武宗が即位したが宦官の劉瑾(りゅうきん)に実権を任せていた愚かな皇帝でした。宦官の劉謹は実権をほしいまま行い、贈収賄が横行して、それを諫言する者は粛清されました。軍紀は退廃し政治は弱体化しました。王陽明は皇帝に諫言する職務の諫官を投獄することに対して批判し、弁護する上疏文(じょうそぶん)を提出したが、反対に劉瑾を弾劾したことで武宗皇帝を怒らせ、投獄されてしまいます。厳しい鞭打ちを受け、十二月の厳しい寒さの中で『易経』を読み研究したと伝えられています。

陽明は伝習録の中で『「易」とは、天に判断を問う事です。中略。天のみは作為の付け入る余地がないからです。』と言っています。その後、貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まりました。その時に占筮して得た卦は。地火明夷・䷣の「不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ意」でした。陽明はついに、龍場に行く決意をし、その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記しました。

王陽明肖像 中天閣蔵

​王陽明 画像

王陽明肖像 中天閣蔵 拡大写真

​王陽明 拡大画像

岡田武彦著『王陽明と明末の儒学』口絵 王陽明肖像

陽明学のまとめ

⑴儒教の創始者達

孔子(552~479 BC)春秋時代の人。人倫道徳を主眼とした理想的な社会を実現するこ とと、伝統文化を尊重し、これを学んでそこから時代に適応する新しい道を創造する事(温故知新)を説いています。

孟子(372~289 BC)戦国時代の人。老子、荘子などの超越主義の影響もあり、徳業の本である人間の本性や良心を説いています。万物我に備わる「善は人と与にし」「楽しみは人と与にする」万物一体思想です。

⑵朱子と陽明の比較

理知的で他律的な人倫道徳を説いた朱子に対して、情愛に溢れた自律的な人倫道徳を

説いたのは陽明です。

⑶王陽明について

姓:王 名:守仁 字(あざな):伯安 号:陽明 諡(おくりな):文成

一般的には王陽明と尊称される。中国明代の儒学者、文官(文武両道の儒学者)58歳没(1472~1529)

⑷明朝時代の背景

明朝時代は今までになく皇帝の独裁権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影

響を及ぼしました。南宋と明の末期の時代は歴史の中でも退廃した世の中でした。の

ような退廃した世の中から社会貢献をした偉大な賢人が輩出したのは、意義深いものがあります。

⑸思想体系

​陸象山の心に万物の法則があるという「心即理」の立場をより明確にしました。

⑹格物致知

あらゆる事(物)を格(ただ)すことで、誰もが本来持っている良知を発揮すること

ができる様になります。(良知:人が生まれながらに持っている、是非・善悪を誤ら

ない正しい知恵)

⑺理・気

【一元論】大宇宙の法則である「理」とそれらを構成する要素である「気」は一体であ ると考えました。理、気、性、物は一体であり、自己の外にあるものではないと考えました。万物一体思想。聖学の究極である万物一体の仁としました。

⑻性、理

万物に具わっている本性を「性」と言います。性即理という立場は朱子と変わりませ

んが性は理の作用であると考えました。

⑼善悪

性善説。人間の本質は至善で、本来は善悪一元、又は、無善無悪です。しかし、相

対的な存在としての善悪があるので、良知を発揮して至善に至ることが大切としてい

ます。

⑽経書に対する姿勢

心の学びがあってこその経書と考えました。

⑾静坐

内省の手段として勧めたが、静に偏ることや厭世的(えんせいてき:人生を悲観し、 

生きるのがいやになるさま)になることを戒めました。

「静坐悟入(理・本質を体認する静坐)」と言われ、門人中で間違って認識し仏教の

静寂の道に陥る者が出たので廃しました。

⑿聖人君子

聖人君子と同じ心を誰もが持っていると考え、それを発揮することを主張しました。

⒀大学

『大学古本』朱子が改訂する前の『大学』を王陽明は提唱しました。『大学』は大人

 の学です。大人とは天地万物を一体とするものです。

 『大学』:儒学の理想である修己治人を要領よく系統的に説き明かした書物で、修

 身、斉家、治国、平天下の政治と学問を直結した儒学の精髄です。

⒁『大学』三綱領の「親民」

民に親しむと解釈し、民と同じ目線に立った民との融和と考えました。

『大学』の三綱領のあと二つは「明徳(天から授かった立派な本性を明らかにする)」「至善」を言います。

⒂『大学』八条目

理を窮めて性を尽くすことを、「物、知、意、心、身、家、国、天下」という観点で 

説いたものと考えました。

◎日本の小学校の校庭にある二宮金次郎像が読んでいる本は何?

彼が読んでいる本は『大学』で、大学の伝九章の一文が書いてあります。

(書いてないものもあります) 子供たちに教えてあげたいですね。

一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂。其機如此。

一人ひとりが仁(思いやり)の心を持てば、国すべてが仁の心になり

一人ひとりが謙虚な気持ちを持てば、国すべてが謙虚な心になる。

一人ひとりが利を貪れば、国は乱れてしまう。

​⒃人民救済天下平定

王陽明の三征(軍事的業績)

・江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧

・寧王の乱をわずか2か月で鎮圧

・江西で反乱、病気をおして討伐、戦後処理

⒄『易』の占筮事例

王陽明:貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まった時に占筮して得た卦は、

地火明夷 ䷣でした。その意は不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ意になります。王陽明の状況と一緒の内容になります。そして、陽明は龍場に行く決意をしました。その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記したのでした。
⒅名言

​王陽明「山中の賊を破るのは易いが、心中の賊を破るのは難しい」

「此の心光明亦復(またま)た何をか言わん」王陽明辞世の句

(我々の心の中には光り輝く良知があるではないか、他に何も言い残すことはない)

⒆易

王陽明の言葉「易とは天に判断を請うことである」

弟子で心学易研究の王龍溪(王畿)は心にこそ真理があるとする心即理を易で解釈し

ました。

日本陽明学の開祖、近江聖人中江藤樹

 1608(慶長13年)-1648(慶安元年)。江戸時代初期の儒学者。わが国における陽明学の開祖。数多くの徳行、感化によって、没後に《近江聖人》とたたえられる。近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)に、中江吉次の長男として生まれる。
名は原(げん)、字は惟命(これなが)、号は嘸軒または顧軒、通称は与右衞門(よえもん)、幼名は原蔵(げんぞう)という。普通おこなわれている藤樹とは号でなく、屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来する。
9歳、米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行く。10歳、藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住む。15歳、祖父の死去により、100石取りの武士となる。17歳、独学で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒する。しかし、33歳のとき、『王龍渓語録』を、37歳のときには『王陽明全書』を入手するや、熟読玩味して、おおいに触発感得をうける。それまでの学問上の疑念が解け、格法主義的な生活の非なることを知り、しだいに王陽明の「致良知説」へと信奉していった。これより以前の27歳のとき、母への孝養と自身の健康を理由に大洲藩士の辞職を佃家老に願いでるが、ついに許可を待たずに脱藩して、ふるさとの小川村へ帰る。浪人(牢人とも書く)となった藤樹は、居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、大洲からやってきた藩士や近郷の人々に《孔孟の学》や《陰隲》を教導する。
代表的な門人としては、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいるが、とりわけ藤樹没後における蕃山の事績によって、藤樹の名声をいちだんと高めたことは注目しなければならない。
また、魯鈍の門人であった大野了佐にたいして、大部の『捷径医筌』を著わし、それをテキストにして熱心に医学を教え、立派な一人前の医者に育てあげた話は、人を教えて倦まない藤樹の生き方を知るうえで、あまりにも有名なエピソードの一つである。
藤樹の著書は、『藤樹先生全集』全5冊(岩波書店版、昭和15年)に収められている。そのおもなものとして、『翁問答』『鑑草』『孝経啓蒙』『論語郷党啓蒙翼伝』『論語解』『大学考』『大学解』『大学蒙註』『中庸解』などがある。

​高島市ホームページ中江藤樹より掲載

中江藤樹のイメージ

日本の陽明学の開祖
​中江藤樹のイラスト

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高島市JR安曇野駅前
​中江藤樹像

​山崎闇斎

山崎闇斎先生は仁愛(天地の物を生ずる心、万物を生成してやまない宇宙精神)を人生の目標にされました。朱子学を学んだが盲信的ではなく、研究的であり学問的に究明する人でした。闇斎先生が重んじた文章は教学の法『白鹿洞書院掲示』と存養の要法(心の修養法)『敬斎箴』でした。明治維新を導いた崎門学の國體思想は皇政復古(王政復古)です。

崎門学の開祖、山崎闇斎は兵庫県宍粟市(しそうし)山崎町鹿沢にある闇斎神社に御霊が祭祀されています。昭和15年の皇紀2600年を記念して京都の闇斎神社より御霊を勧請(かんじょう・御霊を他の場所に移し祀る事)し神社として祀っています。

山崎闇斎の父と祖父はこの地、宍粟郡山崎村の出身です。闇斎は山崎姓をこの地から由来として名乗ったと云われています。山崎闇斎は儒教では崎門学、神道では垂加神道を開いた学者で6千人を超える弟子がいたと云われています。九州の門流としては、山崎闇斎➡三宅尚斎➡楠本端山といった系譜になります。

山崎闇斎は聡明で幕政の名宰相である会津藩主の保科正之に礼遇を受けていました。寛文五年(1661)に保科正之に招聘され彼が没するまで8年間、「君臣水魚の交わり」の様な交流がありました。

山崎歴史郷土館(宍粟市立図書館2階)に山崎闇斎坐像が展示されています。時を超え、河合寸翁や明治維新を導いた偉大な儒学者、神道家を感じることができます。非常に貴重な山崎闇斎坐像です。この像は評論家の嘉治隆一氏が東京本郷の古本屋で発見し、知人の小説家の吉川英治氏を通して昭和35年に寄贈されたものだそうです。江戸時代中期の作品で兵庫県指定文化財となっています。見学は事前に予約が必要です。

宍粟市・山崎闇斎神社前の闇斎坐像

山崎闇斎神社の門前にある坐像

宍粟市の山崎闇斎神社

宍粟市の山崎闇斎神社

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​山崎闇斎坐像 山崎歴史郷土館(宍粟市立図書館2階)見学は事前予約が入ります。

後ろの掛け軸の説明 孔子の言行録『論語』雍也第六

山崎闇斎紹介映像
室内の山崎闇斎坐像は宍粟市教育委員会所蔵資料です。

(室内の山崎闇斎坐像は宍粟市教育委員会様の許可を得て撮影・掲載をしています。)

山崎闇斎と京都の下御霊神社

京都市中京区寺町通丸太町にある下御霊神社の境内末社として猿田彦社相殿・垂加社(すいかしゃ)に贈正四位の山崎闇斎先生の神霊を祭祀してあります。毎年、下御霊神社では2月22日に山崎闇斎先生に関する文献を展示し、見学できるようにされています。

 ※下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)

「平安初期の貞観五年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。

 当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神(うぶすながみ)として崇敬され、享保年間(1716~1736)に霊元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。

 本殿は寛政三年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祭っている。     京都市」

                            下御霊神社前の京都市の立札(説明文)

京都の下御霊神社

下御霊神社

京都の山崎闇斎神(京都の下御霊神社境内)

下御霊神社境内にある山崎闇斎神社

山崎闇斎と京都・下御霊神社の紹介映像

参考書籍・資料

岡田武彦述『我が半生・儒学者への道』  福岡県小郡市「思遠会」 1990.11.22

福田 殖 著「岡田武彦先生の生涯と学問」 学術雑誌論文 2004.12.25 九大コレクション

岡田武彦 述 森山文彦 編『崇物論-日本的思考-』 2003.8.24

引用・要約
⑴pp.17-18、⑵pp.17-18、 ⑶pp.18-19、⑷P18、⑸pp.17-18、⑹p.18、⑺pp.18-19、⑻p.20、⑼ p.23、⑽ p.24、⑾ pp.24-25、⑿ p.25、⒀p.25、⒁p.26、⒂pp.27-28

⒃p.21、⒄p.31、⒅p.31、⒆pp.28-29、⒇ p.30、(21)P.30、(22)P.31、(23)P.30

九州文化探検隊ホームページ・貝原益軒「養生訓」 松尾允之 氏の記事 

 『貝原益軒「養生訓」貝原益軒文化講座』 平成14年 岡田武彦講師(93歳)

 九州大学名誉教授 岡田武彦先生の「兀坐」最終回 「静坐」を超克した「兀坐」

https://touka.com/hou/kaibara/

吉野裕子 『易と日本の祭祀 神道への一視点』 人文書院 1984年

長田なお 『陰陽五行でわかる日本のならわし』 淡交社 2018年

「陽明学のまとめ」の記事はイーチンライフ・I CHING LIFE の柏村學震氏と赤松昇の共著

「日本陽明学の開祖、近江聖人中江藤樹」高島市ホームページ「中江藤樹」より掲載

イメージ・写真はphotoAC(著作権有り)より購入したものを掲載

島田清 『山崎闇斎先生と播磨の門流』 昭和57年12月9日 山崎郷土研究会 発行
出雲路敬和 『闇斎先生とその時代』 昭和45年12月9日 山崎町教育委員会 発行
宍粟市教育委員会『山崎歴史郷土館 展示資料 解説資料』 
下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 下御霊神社前の京都市の立札(説明文)

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