
岡田武彦 その哲学と陽明学
© Okada Takehiko-Youmeigaku
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- 父の時代から戦争と平和を考える
父は戦時中、駆逐艦時津風と航空戦艦伊勢に乗艦し、熾烈な戦争体験をして生き抜いてきました。父の時代は戦争の時代でした。 父は横須賀の海軍工機学校を卒業後、駆逐艦時津風に乗艦してラエ方面輸送作戦(八十一号作戦)に出撃し、B25(中型爆撃機)のスキップボミング爆撃(石を水面に投げた様にして徹甲弾を海面上に投げて艦船の土手っ腹にぶつける戦法)を受け、機関室が浸水して航行不能となり総員退去となりました。その時、姉妹艦の雪風が時津風の横に救援に来て、父達は乗り移り奇跡的に助かりました。 「・昭和18年3月2日の朝、午前7時20分、船団はニューブリテン島の西端グロスター岬の北東30マイルに差し掛かった時、米軍のB17、B24、P38、計40機と零戦33機と空中戦に入った。 ・午前8時16分、零戦の網の目をくぐって、B17、3機が高度2000mで爆撃を行い旭盛丸が被弾沈没。(陸兵1500名中、918名が「朝雲」「雪風」に救助される。日没後、ラエに入港。) その後、戦闘は続いた。中略~。 ・3月3日晴、雪風は夜明けと同時に輸送船団に合流。まもなく敵の大編隊(中型陸上攻撃機)が攻撃してきた。午前7時50分に米中型爆撃機B17は32機ほどであったが、8時10分には70機に増えた。「瑞鳳」(空母)の零戦41機が迎撃したが、高度3千mぐらいにB17が20機、その上にP38戦闘機約50機が支援しており、高度6千mで待っていた零戦隊は意表を突かれ、中爆B17の低空スキップボミング攻撃を許してしまった。零戦隊は不利な状況下で24機を撃墜したが、日本軍は7隻の輸送船全部(建武丸、愛洋丸、太明丸、帝洋丸、大井川丸、神愛丸など)の沈没と、旗艦「白雪」、「荒潮」、「時津風」、「朝潮」の駆逐艦4隻を撃沈された。駆逐艦8隻と陸兵を乗せた輸送船8隻で出航し、帰還できたのは駆逐艦4隻のみと大敗退であった。制空権が完全に獲得できていない状況下の悲惨な戦いであった。 『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 豊田譲 著 光人社NF文庫 1993.11 を要約 私見: 勝率50%の無謀な作戦であり、「孫子の兵法」の勝算が望めない時は戦ってはならないとある。日本軍はドイツ式の戦法を研究していたが、「孫子の兵法」を疎かにし、日本魂という精神論で突っ切って行ったところに敗戦の原因がある。 B17(爆撃機)ウィキペディアより掲載 B25(中爆撃機)ウィキペディアより掲載 P38(戦闘機)ウィキペディアより掲載 零式艦上戦闘機ウィキペディアより掲載 父と海軍の映像を制作しました。 父を救った強運駆逐艦『雪風』 「父と海軍」歴史の街・播磨 強運駆逐艦『雪風』 2025年8月15日 映画『雪風 YUKIKAZE』公開 父が乗艦した戦艦伊勢の川崎造船所発行の竣工記念ハガキです。竣工当時は戦艦です。その後、強化する為に航空戦艦にしました。カタパルトを搭載し22機、飛行機を搭載していました。銃火器や装甲板も強化したお陰で、父達は沈まずに帰ってきました。 川崎造船所竣工記念葉書き(絵葉書は偶然古本市で見つけました。) 航空戦艦伊勢の雄姿 戦争と平和を『易経』から考える 『易経』では、平和の卦は「地天泰」、天地が和合する卦です。反対に天地が和合しない卦は「天地否」です。戦争対処の卦は「地水師」です。 戦後、我々戦争を知らない世代は平和を謳歌し産業立国を目指して生きてきました。反対に父の世代は戦争の時代でした。あまりにも強烈な体験を父は海軍で経験をしています。多くの人達が亡くなりました。何故、日本人が戦争に突き進んで行ったのか、それは、大国の謀略と、その謀略に気付かなかった我が国の軍大学校卒のエリート、つまりスペシャリスト達の驕りと暴走であり、楽観的な精神主義で現実を直視する能力が無かったことに尽きます。『易経』や「孫子の兵法」の教えから照らし合わせれば、負ける戦争であったことがわかります。日露戦争に集結したトップ達は全体が見渡せ、政治が理解できるゼネラリストであったと思います。 令和の日本は、外敵がやってくる確率が高くなりました。自分達の国は自分達で守る「受益者負担の精神」で国防をしっかり考える事が必要な時代になりました。平和の時代が末永く続くように日本人全員が努力しなければならない時代ではないでしょうか。下に『易経』の解説を入れています。 参考書籍など 『雪風ハ沈マズ』強運駆逐艦 栄光の生涯 豊田譲 著 光人社NF文庫 1993.11 『黒幕はスターリンだった 大東亜戦争にみるコミンテルンの大謀略』落合道夫 著 ハート出版 2018.4.5 『転落の歴史に何を見るか』齋藤健 著 ちくま文庫 2011.4 『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 森恒英 著 グランプリ出版 1995.1 戦争対処の道・地水師䷆ 地水師 (序卦伝7番目) ䷆ 師 坎下坤上 【戦争対処の道】 師は衆人が集まって争う意で、集団で戦い争う卦です。上卦は坤で地、下卦は坎で水の意。大地の下に水が集まっている象意から多くの人が集まっていると解し地水師と名付けました。存亡を懸けた戦争対処の道を説いています。師は正義と大義の為に戦う武力行使です。国の存亡を懸けて戦うので、正しい大義名分が必要であり、その軍隊を統率する者は徳のある優秀な人間でなければなりません。 「比は楽しみ、師は憂う」(雑卦伝) (師 ䷆ 錯卦 ䷇比) 比は、九五の天子は他の五つの陰爻を統括し、陰爻達は君子と親しんで楽しんでいる。師は国の存亡を懸けた戦いに臨むので険難や悩み(下卦に坎)と言う憂いを包含しています。 天地否䷋と地天泰䷊ 天地否 (序卦伝12番目) ䷋否 坤下乾上 閉塞・乱世対処の道】 天の気と地の気が交流しない象です。天の気は上昇し、地の気は下降し、交流、調和しないで塞(ふさ)がっています。人間関係で例えると、上下が相通じない状態です。物事や、人間関係、組織など通じないことを表しています。君子はこのような暗黒の時代に遭遇したなら才知力量を隠して時期を待ち、志を持つ臣下、賢人と平和な世が来る様に努力していく事が重要になります。 天地交流せず 地天泰 (序卦伝11番目) ䷊泰 乾下坤上 【天下泰平・平和の道】 この卦は安泰・やすらか、平和、天地交流の卦です。内卦は乾で天、外卦は坤で地です。天の気は上に昇ろうとし、地の気は下に下ろうとしています。それぞれ通じ交流し万物が生まれます。人間の上下関係、君臣の関係など双方の気が交流すれば事がうまく運びます。この卦を泰と呼び、双方の気が通じて調和することを表している卦です。 ※内卦=下卦、外卦=上卦 天地交流する 「否泰はその類に反するなり。」(雑卦伝) (泰䷊ 綜卦 否䷋) 否と泰は仲間や同類が正反対。否は小人の仲間が一緒に進み、泰は君子の仲間が進むのである。 泰平の時には油断せず、平和な時代が永く続くように努力しなければなりません。その事を怠ると天地否䷌の争乱や戦争に傾いていきますので要注意です。地天泰で否なる兆しを見たなら迅速に対処が必要です。常に天地否と地天泰をセットで意識しておくことが肝要です。
- 〈考察〉小泉八雲 ー「見えないもの」を感じた日本人の心
1. 異国の文学者とその生い立ち 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン/Lafcadio Hearn, 1850–1904)は、ギリシャのレフカダ島に生まれ、アイルランド、アメリカを経て日本に渡った作家です。幼くして精神を病んだ母と生別し、父は旧愛人と再婚してインドへ赴任してしまいました。残された八雲は大叔母のもとで育ち、厳格なカトリック教育を受けながら孤独な少年時代を送ります。 さらに彼は、十代の初めに事故で左目を失明し、以後、生涯片目で生きることになりました。この出来事は、肉体的な不自由だけでなく、幼い心に深い影を落とし、「外界から疎外されている」という感覚をいっそう強めたと言われています。人に見られることを避け、光よりも陰を好むようになった性質は、この体験と無縁ではありません。 しかし、視力を失った左目の代わりに、八雲は“内なる視線”を研ぎ澄ませていきます。目に見えないもの、言葉にならない情感、物や自然の奥に潜む気配。後年、日本文化の中に深い共鳴を覚えた感受性の基層には、この若き日の喪失と静かな鍛錬があったと考えられます。 孤独・失明・流浪という背景は、八雲に“異邦人として世界を見る眼”を与え、のちに日本で出会う「見えないものを敬う心」への大きな共感となって開花していきました。 1890年、39歳で来日した八雲は、島根県松江に英語教師として赴任します。そこで出会った日本の文化、風土、人々の温かさに大きな感銘を受けました。日本の家庭の静けさ、神仏を敬う素朴な姿、季節の行事の中に宿る「見えないものを大切にする心」ー 八雲はそこに、故郷では得られなかった深い安らぎを感じ取ったのです。 小泉八雲記念館の入館券より 2011.4 小泉八雲記念館・島根県松江市奥谷町322 2. 八雲が見た“心の日本” 八雲が最も心を動かされたのは、日本人が「形のないもの」を信じ、敬い、共に生きている文化でした。仏壇に手を合わせる姿、古い道具を大切に使う所作、山や木を神として祀る信仰。彼はこう書いています。 「日本人は、見えぬものに心を寄せ、形なきものの中に魂を感じる。」 (『知られぬ日本の面影』より) 日本文化は「感じる文化」である。 八雲は、理屈ではなく“心”で世界を受け止める日本人の生き方に深く共鳴しました。この発見こそ、彼の思想の核でした。 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は日本文化を五感で受け止め、日本人の立場になって考える人でした。 宍道湖の夕日 「八雲」という名に込めた思い 帰化後に名乗った「八雲」は、『古事記』の出雲の枕詞「八雲立つ」から取ったものです。松江=出雲の地で出会った“神と自然、人とものが共にある暮らし”への感謝が、この名に込められています。 小泉八雲の言葉 『神道の神髄は書物や儀式や戒律の中にあるものではない、むしろ国民の心の中に生きているものであり、未来永劫滅びることも古びることもない、最高の信仰の表れなのである』 『風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂とも言える強力な精神がこんこんと脈打っているのである』 『日本人の美意識も芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも 信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の 本能の域にまで至っているのである』 出雲大社・大国主大神の像(むすびの御神像)2011.4 3. 八雲の思想背景 ― 仏教・神道・儒教・崇物 私は、八雲の精神を、単なる感性や美意識のあらわれとしてではなく、深い思想と宗教的理解に支えられたものだと考えています。そこには、仏教・神道・儒教という三つの宗教、そして日本独自の「崇物(すうぶつ)」の心が、静かに響き合っているように思います。 仏教 は、「すべての存在に仏性が宿る」という慈悲の教えを通して、ものにも魂を見いだす心を育てます。 神道 は、山や木、岩や風といった自然の一つひとつに神を見出し、自然とともに生きる清らかな感性を養います。 儒教 は、「敬(けい)」の心をもって人や物に接し、人と社会の調和を保つ道を示します。 崇物 は、物を大切にし、崇(あが)め敬う心のことです。「崇物とは、人や自然、あらゆるものを天理のあらわれとして尊び、共に生きる日本人の心」です。つまり、物を単なる対象や道具として見るのではなく、そこに生命と理(ことわり・摂理)を感じ取り、謙虚に向き合う姿勢です。 この「崇物」の考え方が加わることで、仏教・神道・儒教の精神がそれぞれを補い合い、より深く、調和のとれた思想として結びついていくのだと思います。 私にとって、八雲の精神とは、 仏教の慈悲(すべてを包み込む心) 神道の清浄(自然とものへの感謝と畏れ) 儒教の敬(人や物に対する礼と節度) 崇物の心(人・自然・物を共に敬い生きる意識) これらが一つに融け合い、「もの・人・自然とともに在る」生き方として形づくられたものだと感じています。 ―崇物 ・神道 ・儒教・仏教― 写真:崇物・神道・儒教・仏教を示す図版 4. 八雲が伝えた「心の哲学」 八雲の作品を貫く主題は、「心」であり、「敬」であり、「共生」です。『心(Kokoro)』では、「日本の美とは、自己を抑えて他を思う心の美である」と記しました。日本の心は、他者・自然・ものにまで広がる優しさと謙虚さの文化なのです。 5. 結びに 小泉八雲が日本に惹かれたのは、単なる文化や風景ではありません。彼が愛したのは、見えないものを敬う日本人の心でした。それは、仏教の慈悲、神道の清浄、儒教の敬、崇物の畏敬に支えられていたと私は考えています。そして、岡田武彦先生が説かれた『簡素の精神』 『崇物論-日本的思考』 と響き合い、静けさの中に豊かさを見出す生き方として今も息づいています。「ものを敬い、人を思いやり、自然に感謝して生きる」――これこそが、八雲が見つめた“心の国ニッポン”の姿なのです。 さらに、八雲の「怪談」には、彼の個人的な心の影も映し出されています。幼くして別れた母への思慕、そして彼を見捨てた父への許しがたい思い。その深い情念が、『水飴を買う女』や『子捨ての話』といった作品に昇華されています。 小泉八雲旧居・島根県松江市北堀町315 松江市の堀川めぐり(堀川遊覧船)の広告 2011.4 明治27年(1894)44歳の時に現代の神戸労働会館の地に居住 2015.12 上野の国際こども図書館にある小泉八雲記念碑 松江 カラコロ広場の小泉八雲のレリーフ
- 姫路藩主、酒井忠以の胸像と茶筅塚
姫路神社境内に姫路藩主、酒井忠以(ただざね)の胸像と茶筅塚があります。二代目城主酒井忠以(号宗雅:そうが・1755~1790)は、将軍の補佐役として最も重要な地位にありました。藩政においては、他藩と同じく財政の危機的状況にありながら、領民や家臣を慈しんで善政を行いました。後に藩財政を立て直した河合寸翁を見いだして登用した藩主です。宗雅は、文芸をこよなく愛する風雅の藩主で天性芸術的な才能に恵まれていました。宗雅は文芸を愛し、書画や俳句、和歌、能、鍛刀、絵画などの才能を持ち、特に茶道に熱心に取り組んでいました。 茶筅塚(ちゃせんづか)は岡田武彦先生の『崇物論(すうぶつろん)-日本的思考-』にあります、「物と人に畏敬の念を持つ」共生の心を大切にする日本人の心の表れです。魚塚、筆塚、針供養、人形供養などがあります。 姫路神社境内にある姫路藩主、酒井忠以の胸像と茶筅塚
- 小学校の校庭に佇む二宮金次郎の像
『易経』の風山漸䷴(積少為大)の卦と地風升䷭(積少高大)の卦を見ると、二宮金次郎を思い出します。彼の思想を一言で言うと積小為大(せきしょういだい)です。つまり、「小を積んで大を致すは自然の道なり」が、彼が大自然から学んだ思想です。『易経』の風山漸は焦らず徐々に進む意となり、小さな木が時間を掛けて大きく成長する姿です。そして、地風升は従順、謙虚に焦ることなく光を求めて進み升ることは正しい道と説いています。これらの卦は彼の思想と一致します。私は農業を通じて陽明学を実行した人は二宮金次郎であると思っています。 ◆全国にある小学校の二宮金次郎の像 彼は何を読み、広げているページには何が彫られているのでしょうか。私が小学校の時代には、二宮金次郎の像は全国の小学校に在りました。最近では歩きながら読むのは危険であるから坐った二宮金次郎の像があったり、価値観の違いから無くなったりしているところもあると聞いています。彼が読んでいるのは中国古典で有名な四書五経の中の『大学』です。読んでいるページには下記の内容が彫られています。未来を担う子供たちに伝えてあげたいです。 「一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂。其機如此。」 家の皆が思いやりの心を持てば、 国中の人々が思いやりの心を持つようになる 一家の皆が謙譲の気持ちを持てば、 国中の人々が謙譲の心を持つようになる 君主一人が貪欲であれば、民も倣って貪欲になり 国は乱れてしまう。重要な点は、この通りである。 ※「大学」:紀元前430年頃の儒学の政治哲学と学問の書。自己修養と家庭、国、天下の平和を追求します。 身を修め、家庭をととのえ、国を治め、天下を平和に導く大学の道は、天から与えられた良知を明らかにする。つまり、万物の一体の仁の根本を立て、万物一体の仁をあまねく及ぼして民を親愛して最高善の境地、つまり良知に踏み止まることである。 三綱領 一、大學の道は明徳を明らかにするに在り。 修身斎家治国平定下の道は良知を明らかにする。 二、民に親しむに在り。 万物一体の仁の根本を立て、民を親愛する。(区別しない共生の仁) 三、至善に止するに在り。 良知に踏み止まること。 姫路市白浜小学校の二宮金次郎の像と相撲場 二宮金次郎の像は、日本国内に戦前からありましたが、戦後、造像会社がコンクリートで二宮金次郎を製造し、全国の小学校にセールスを行って販売拡大を図った歴史があります。文部省が推進したのではないそうです。白浜小学校の二宮金次郎さんは老朽化により像の根元より落下したらしく、現在は撤去されています。現在は再建の予定は無いそうです。寂しく感じられますが彼が読んでいた『大学』の一節は不変です。
- 映画「雪の花 ―ともに在りて―」
映画「雪の花 ―ともに在りて―」は、吉村昭の時代小説を原作とし、江戸時代末期に天然痘と闘った町医者・笠原良策の種痘(現代のワクチン)普及奮闘を描いた作品です。主演は松坂桃李で、共演に芳根京子、役所広司などがいます。 仁あるこころ、人共に生きる実践者、笠原良策。 「私は町医者として病を抱える人々の力となり、共に在りたい。 名を求めず、利を求めず」 笠原良策(かさはら りょうさく)は、日本において天然痘(疱瘡)の予防接種、すなわち「種痘」の普及に尽力した医師・蘭学者として知られています。彼の功績は、19世紀の日本における公衆衛生の発展において非常に重要なものであり、天然痘という当時の恐ろしい感染症の撲滅に大きく寄与しました。 以下に笠原良策の業績を簡潔にまとめます。 ◆ 背景と人物概要 生没年:正確な生年は不詳だ が、幕末から明治初期にかけて 活動。 出身地:肥前国(現在の佐賀 県)出身とされる。 • 職業:医師、蘭学者。 • 江戸時代後期、蘭学の影響を受けて最新の西洋医学を学んだ。 ◆ 疱瘡(天然痘)と種痘 天然痘は、かつて世界的に猛威を振るったウイルス性の感染症。高い致死率を持ち、治っても重度の痘痕が残ることから「疱瘡」として恐れられていた。 種痘は、1796年にエドワード・ジェンナーによって開発された予防接種法。牛痘ウイルスを接種することで天然痘に対する免疫を得る方法である。 ◆ 笠原良策の功績 1. 種痘技術の導入と普及 • 蘭学を通じてジェンナーの種痘法を知り、それを日本に導入した先駆者の一人。 • 特に長崎などで西洋医学を学んだ後、自らも種痘を実施し、安全性と有効性を訴えた。 2. 種痘苗(ワクチン)の保存と流通に貢献 • 牛痘苗は保存が難しく、劣化しやすかったため、牛から人へ、人から人へと「生苗接種」(リンパのリレー方式)が行われた。 • 笠原はこの仕組みを活用し、広い地域に種痘を広めることに成功した。 3. 種痘の普及運動 • 種痘に対する民衆の不信感や宗教的抵抗があったが、彼は講演や啓蒙活動を通じて説得・指導を行い、接種率を向上させた。
- 朱子白鹿洞書院掲示
岡山県にある興譲館高等学校は「朱子白鹿洞書院掲示」が建学の精神となっています。姫路藩の仁寿山校の郷学を調査している時に偶然見つけた映像です。感動しました。 「興譲館学校紹介映像 YouTubeYouTube説明文 1853年(嘉永6年)創立。地域の郷校として160年近い歴史を刻んできた私立高校。「伝統の品格」をテーマに伝承の校訓「白鹿洞書院掲示」の教えの理解と実践に挑戦しています。近年、急激な少子化、私学助成金の削減により過疎部私学への逆風が強まっていますが、生徒達は「論語」「人間学」などの学びによって質の高い「文武両道」をめざし、素直で謙虚で誠実な生徒達が輝きを放つようになってきました。」 私の詳細解説 この「白鹿洞書院掲示」に書かれているのは、学問を志す者が、肝に銘じておかなければいけない「学問の重要点」が書かれています。儒教は「修己治人」の学問であり、その学問をどのように学んだらよいか、わかりやすく示されています。朱子は規則を好まず、自己を律することを尊重しており掲示としたようです。碑の主要なところを抜粋しました。 「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり※2。 博く学び、審かに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う※3。 言は忠信であること、行いは篤敬であること※4。忿りを懲らし慾を窒ぐこと※5、善に遷って過ちを改めること※6。 右は身を修むるの要なり。 その義を正してその利を謀らず。その道を明らかにしてその功を計らないこと※7。 右が事柄に対処する要である。 自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならい。※8。実行してうまくゆかぬときは、わが身に振り返って反省すること※9。 右が人と応対する要である。」 ※1 朱子が制定した学生心得。朱子は外から規制する学規を嫌い、掲示としました。 朱子が白鹿洞掲示碑にピックアップした出典書物 ※2 『孟子』、※3『中庸』、※4『論語』、※5『易経』損卦、※6『易経』益卦、※7『漢書』、※8『論語』、※9『孟子』 出典:三浦国雄 著『人類の知的遺産 19 朱子』講談社 1979年 抜粋引用:325頁~327頁 白鹿洞書院掲示 朱子は四書五経や漢書から重要な点をピックアップして説いています。 朱子は当時、多くの人がそうであった功利主義の人が目指す科挙(国の試験制度)を嫌いました。「民と共にある」人間をつくる学問を目指しました。河合寸翁や仁寿山校で講義を行った頼山陽もそのような志の人間を養成したかったと思います。
- 李白の漢詩
知人から座右の銘がおくられてきました。李白の漢詩でした。 「夫天地者万物之逆旅光陰者百代之過客」 訳 天地は万物を迎え入れる旅館のようなもの、光陰は永遠の旅人のようなものだ。 素晴らしい詩ですね。 この詩を私なりに『易経』で説明致します。 易には働きがあります。 天 人 地 万物や人は天と地の間に存在します(天地は万物を迎え入れる旅館のようなもの)。易では天人地と表現します。 この宇宙は元は一元論で一つ。分化して二元論(太極図は陰陽に分かれた表現)になっています。変化しクリエーションしていきます。 太極図は一年の日陰を表しています。 一年の中に四つの四季があり、変化していきます。そして、次の年にも同じ四季があります。そして、自然はシンプルです。 変化 不変 簡易 これを易の三義と言います。 変化しクリエーションしていきます。 (光陰は永遠の旅人のようなものだ) 陽は膨張し、陰は収縮します。 この宇宙は膨張し、収縮します。 永遠に繰り返されます。メリーゴーランドの様です。 李白の詩は素晴らしい詩ですね。『易経』そのものだと私は思いました。 『易経』は自然の摂理を説明しています。占いも人倫道徳も根底に流れているのは自然摂理です。 ご参考 全文掲載のサイト ① 春夜宴桃李園序:李白 ② 李白 春夜宴桃李園序 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩 libai 写真 渦巻き銀河と不規則銀河 明石市立天文科学館より 渦巻銀河の下を不規則銀河が通過したと考える写真です。アンドロメダ座にある不規則銀河の距離は3億光年です。ハッブル望遠鏡による撮影された写真です。明石市立天文科学館より。 明石市立天文科学館
- いくさ物語の絵画展
兵庫県立歴史博物館のいくさ物語の絵画展に行ってきました。 躍動感あふれる歴史絵画に感動しました。ちょうど、高校生の団体さんが来ており、大変賑わっておりました。歴史の勉強になりますね。 特別展 「いくさ物語の絵画―瀬戸内の名品と収蔵コレクション―」 6月15日(日)まで開催 Ⅰ. 保元・平治の乱合戦図 Ⅱ. 源平合戦図 Ⅲ. 太平記・戦国合戦図 Ⅳ. 合戦図の諸相 詳細は兵庫県立歴史博物館のホームページを見てください。 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/exhibition/19145/#
- 姫路藩の郷学(きょうがく)について
私の住む姫路市には「仁寿山」と呼ばれる山があります。この名は「仁ある者は寿(いのち)永し」という論語の一節から取られたもので、江戸時代後期にはその麓に「仁寿山校」という人材育成のための学校が設立されました。創設者は、姫路藩の財政を73万両の借財から立て直した名家老・河合寸翁です。その功績によりこの山を与えられ、自らの理想を実現する場として学校を開きました。 姫路藩には好古堂がありましたが、実学に重きを置いた河合寸翁の私校として仁寿山校が設立されましたが、藩主からの強い要望もあり、半官半民の学校となりました。 仁寿山校には全国から優れた儒学者が招かれ、教育にあたりました。その中には『日本外史』で有名な頼山陽も名を連ねています。現在も校地跡には礎石と土塀の一部、及び井戸跡が残されており、私自身もこの跡地と礎石の出会いをきっかけに、江戸時代や中世、さらには中国の宋代から明代にかけての思想や教育への関心を深めていきました。 仁寿山校で学んだ人物の一人に、河合惣兵衛(文化3年~元治元年)がいます。彼は文武に秀で、後に姫路藩の好古堂肝煎役、勘定奉行、宋門奉行、物頭、持筒頭などの要職を歴任しました。とりわけ、勤王の志を持って愛国運動に尽力した中心人物として知られています。興味深いのは、徳川幕府の側近であった姫路藩・酒井家のもとから、勤王の志士が輩出されたという事実です。これは、仁寿山校や好古堂といった教育機関が果たした精神的基盤の大きさを物語っていると言えるでしょう。尚、河合惣兵衛は河合寸翁の親族です。 戦後の混乱期において思想家・安岡正篤先生は、日本人の精神的再生を目指し「郷学」を提唱しました。郷土の偉人を顕彰し、その学問や業績を地域の人々に再認識させることで、「自己を知り、自己をつくる」ことの大切さを説かれました。そして、郷学を単なる歴史的遺産とせず、新しい時代を生きるための活力の源泉とすべきだと訴えました。まさに今の時代にも通じる考えではないでしょうか。 河合寸翁は崎門学派の儒学者で武士(筆頭家老)でした。 写真はお旅山から撮影した仁寿山と仁寿山から観た姫路城です。絵図は江戸時代後期の仁寿山校の図で、奥山から入る登山口にある掲示板から掲載しました。姫路神社にある河合寸翁胸像です。 これらの郷学の歴史や地元の賢人の紹介としてホームページを作成しました。「歴史の街・播磨」です。 https://synchronicity64.wixsite.com/harima 仁寿山(お旅山から撮影。)山の右端の麓に仁寿山校がありました。左は姫路市街。 仁寿山から観た姫路城と姫路市街 仁寿山校略絵図(仁寿山の南側、奥山からの登り口にある掲示板) 姫路神社にある河合寸翁像
- 今年はケジメの乙巳の年
今年、2025年は乙巳(きのとみ)の年廻りになります。干支の日本史から今年を紐解いてみたいと思います。 今年の乙巳の日本は? 日本の社会は、けじめをつける年になります。 大化元年(645) 中臣鎌足が権力者・蘇我大臣を宮中で暗殺。蘇我氏の時代が終焉し、大化改新が行われる。 文治元年(1185) 壇ノ浦で平家一門が滅亡。 慶長十年(1605) 徳川家康が征夷大将軍を辞退し、隠居する。 昭和40年(1965) 社会党が防衛庁の秘密文書暴露で国会大混乱。 興和製薬の薬物人体実験が明るみに出た。 ベ平連が組織されデモが繰り返された。 長野県松代群発地震発生。 佐藤栄作首相が初めて沖縄訪問。本土復帰でもが起こる。 国鉄が緑の窓口を開設し、コンピュータ指定券を発売。 朝永振一郎、ノーベル物理学賞を受賞。 南海ホークスの野村克也が日本で初めて三冠王となる。 東海村の原子力発電所が送電を開始。 出典 『干支から見た日本史』 邦光史郎 著 1996.7 大変化の年を鉄人28号の力の様に勇気を出して乗り切って行きたいと思います。 撮影 長田区若松町 撮影日 2024.12.18
- 赤穂浪士と播磨気質(はりまかたぎ)
昨年3月に東京の高輪でセミナーがあり、近くに泉岳寺がある事を知って墓参に行ってきました。 『父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり』 武士の教育に思いを馳せました。 播磨気質(はりまかたぎ) ・血が騒ぐ 心と心凄まじく 灘のけんか祭りなど ・灘王国 受け継ぐ反骨精神 ・幕の内 無国籍駅弁の元祖 ・反骨の系譜 赤松円心(建武の新政に大功) 赤松満祐(恐怖政治のくじ引き将軍・足利義教を謀殺) 赤松政則(捨て身で南朝から三種の神器を奪還してお家再興。 灘のけんか祭りの始まり) 別所長治(秀吉による三木の干し殺し。籠城に耐えた仏教信仰) 赤穂浪士 開場幕府へ強烈な抵抗 赤穂浪士 討ち入り・周到に同志選ぶ 目次より引用要約:『播磨気質(はりまかたぎ)』神戸新聞総合出版センター発行 1988年 泉岳寺の大石内蔵助像
- 崇物、神道、儒教、仏教とは
岡田武彦 口述 『崇物論ー日本的思考』より制作しています。











