岡田武彦 その哲学と陽明学
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ページ TOP 仁寿山校 亀山雲平先生 松原八幡神社 岡田先生の和歌 福岡に赴任 修猷館 灘のけんか祭りと岡田先生 ・画賛/池田草庵 岡田先生ご紹介 岡田武彦先生追想 『わが半生・儒学者への道』 1.世の中の矛盾 2.播磨の自然 姫路市白浜町マップ 頼山陽が名付けた小赤壁 白鷺城 仁寿山 姫路市郷土唱歌 3.旧制姫路高等学校時代 4.九州大学で生涯師事する学者に出会う 5.中学教師時代⑴富山 6.中学校教師時代⑵延岡 7.戦中・戦後時代 8.九州大学時代 9.恩師・楠本正継先生 10.コロンビア大学客員教授時代 11.国際会議 12.思い出の人々 13.斯人舎(しじんしゃ) 参考書籍・資料 白鷺城の容姿は 岡田武彦先生の 心のシンボル 岡田武彦先生のご紹介 ・岡田先生ご紹介 ・岡田武彦先生追想『崇物の道』 『わが半生・儒学者への道』 1.世の中の矛盾を考える 岡田学の源流、播磨聖人・亀山雲平先生 2. 岡田先生の思想形成と播磨の自然 姫路市白浜町マップ 松原八幡神社 灘のけんか祭りと岡田先生 頼山陽が名付けた小赤壁 姫路城(白鷺城) 仁寿山 ・仁寿山校 姫路市郷土唱歌 3.旧制 姫路高等学校時代 4.九州大学で生涯師事する学者に出会う 岡田先生の切なる気持ちを述べた和歌 5.中学教師時代⑴旧制富山県立神通中学校 6.中学教師時代⑵旧制宮崎県立延岡中学校 福岡に赴任⑶旧制福岡県立中学修猷館 7.戦中・戦後時代 8.九州大学時代 9.恩師・楠本正継先生 10.コロンビア大学客員教授時代 11.国際会議 12.思い出の人々 13.斯人舎(しじんしゃ) 画賛 / 池田草庵 参考書籍・資料 フッター 哲学者 岡田武彦と陽明学 岡田武彦/陽明学者/簡素の精神 崇物論 姫路は国宝・姫路城と人間国宝・桂米朝さんで有名ですが、哲学者で陽明学者の岡田武彦先生も有名です。岡田武彦先生(1908~2004)は元九州大学名誉教授で王陽明研究の第一人者であり中国哲学者、陽明学者、及び多くの著作物を出版された著作家でした。先生は王陽明の墓の復建に尽力をされた方で、世界的に王陽明研究で有名な儒学者です。朱子学は理学、陽明学は心学、先生は身学を提唱されました。先生は大学時代に楠本正継教授に師事されています。 姫路藩には賢人で家老の河合寸翁がおりました。彼は藩政改革を行い70万両の借財を解決し、藩主からその功により仁寿山を褒美に貰い受けました。その山の麓に「人材は宝」として人材養成学校の仁寿山校を創立しました。家老・河合寸翁は崎門学派の儒学者でしたが、岡田武彦先生も崎門学派の儒学者でした。 岡田武彦 呉端氏 撮影 岡田武彦先生は兵庫県姫路市白浜村字中村(現代の白浜町中村)にて明治41年(1908)に出生されました。先生は 旧制姫路中学校、旧制姫路高等学校文科を経て、九州帝国大学法文学部に進学し、支那哲学史を専攻されて昭和9年(1934)に卒業されました。 大学卒業後は富山県、宮崎県、福岡県の県立中学校教諭、長崎師範学校教諭、熊本陸軍幼年学校教官を経て、昭和24年(1949)九州大学助教授、昭和33年(1958)九州大学の教授になられました。昭和35年(1960)文学博士、昭和41年(1966)米国・コロンビア大学客員教授、昭和44年(1969)九州大学教養部長を経て昭和47年(1972)九州大学を定年退官された後、中華学術院栄誉哲士と九州大学名誉教授となられました。その後は、昭和47年(1972)西南学院大学文学部教授、昭和52年(1977)活水女子短期大学教授、昭和57年(1982)活水女子大学文学部教授として活躍され平成元年(1989)三月(80歳)に退官されました。 そして、1986年~1996年の間、王陽明の遺跡探訪の旅や本場中国の学者との交流も深められ、王陽明の遺跡修復にも精力的に取り組まれました。また、世界の学者を招き、平成6年(1994)福岡で「東アジアの伝統文化国際会議」と平成9年(1997)京都で「国際陽明学京都会議」を開催するなど陽明学研究の同士に希望と感動を与えました。著述の傍ら地元福岡では「思遠会」「東洋の心を学ぶ会」「簡素書院」、及び全国の市民講座で多くの人々に向けた王陽明の『伝習録』や中国古典、及び自説の「身學説」「兀坐説」「簡素の精神」などの講義を行い東洋の心を教授されました。 昭和56年(1981)に勲三等旭日中授章受賞、平成12年(2000)西日本文化賞(学術部門)を受賞されています。平成16年(2004)10月17日に福岡市の自宅にて逝去されました。享年95歳でした。 主な著書は『王陽明と明末の儒学』『宋明哲学の本質』『簡素の精神』『王陽明紀行』『東洋の道』『楠本端山』『東洋のアイデンティティ』『山崎闇斎』『貝原益軒』『孫子新解』『王陽明小伝』『岡田武彦全集』『ヒトは躾で人となる』『崇物論-日本的思考-』など多数出版されています。詳細は「著作・論文」コーナーを参照してください。 主な称号・役職などは、九州大学名誉教授/中華学術院栄誉哲士/二松学舎大学客員教授/東方学会(日本)名誉会員/日本中国学会顧問/九州中国学会会長/国際陽明学研究中心(中国浙江省社会科学院)学術顧問及び名誉研究員/孔子文化大全編輯部(中国)学術顧問/世界孔子大学籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉校長/孔子大同礼金籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉主委/国際儒学聯合会(中国)顧問/李退渓学会(韓国・日本)顧問/李退渓国際学術賞審査委員。 自宅での述者(ロドニー・テーラー コロンビア大学教授撮影) 岡田武彦先生追想録『崇物の道』 画像をクリックするとYouTubeで動画が見れます。 岡田武彦先生追想録 ①崇物の道 ②岡田武彦先生の人と学問 (映像制作者:京都フォーラム 矢崎勝彦氏) 背景は岡田武彦先生が生まれ育った灘地区(白浜町中村含む) 仁寿山山頂から撮影 岡田武彦 述 『わが半生・儒学者への道』 日本の学友協力で王陽明遺跡探訪と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、 中国の学者との交流、及び成人教育責任者との交流の写真 中国にて、岡田武彦先生と銭明先生考察途中 銭明先生は、浙江省社会科学院哲学研究所研究員(1992年当時) 銭明先生は岡田武彦著『王陽明と明末の儒学』『簡素の精神』等を 中国語訳され出版されています。 1987年首次訪日在岡田先生宅_前 左から菰田正郎、王孝廉、小宮厚、呉光、銭明、二人おいて難波、各先生方 1.青年期に世の中の矛盾を考える様になる 岡田武彦先生の先祖は姫路藩の儒医で七代続いた医師の家系でした。岡田先生の父は播磨聖人と称されていた亀山雲平先生の塾で学んだ人です。儒教に薫陶された強い道義的精神の持ち主で温厚篤実で寡黙な人でした。薄給で家庭も貧しかったのですが、貧しい人の税の支払いや上司の接待費の肩代わりをして支払いを行っていたそうです。村民からは白浜聖人と言われていました。その様な家庭環境でしたので、岡田先生は小学校3年生から朝夕、工場で働かれていたそうです。父も兄も立派な人格のある敬愛する人達でしたが、家庭は苦しく、兄の結核病や姉が他界したことなど、長兄が願う父の酒が止まらず父と長兄との間の重苦しい雰囲気が続きました。このような家庭環境で岡田先生は人生の矛盾を痛感する様になったと話されています。 松原八幡神社境内 亀山雲平先生顕彰碑。 ※松原八幡神社は赤松円心公が崇敬した神社です。 建武の中興は赤松円心(則村)の挙兵に因るところが大きく、また、足利幕府成立の功は半分以上が彼のお蔭と云っても過言ではありません。 岡田学の源流、播磨聖人・亀山雲平先生 亀山雲平先生 亀山雲平先生は姫路藩主酒井公の家臣である亀山家7代目百之の次男として1822年に姫路で生まれました。 九歳の時に父百之が亡くなり八歳の時藩校の好古堂に入校します。 勉学優秀で18歳の時校生より抜擢されて助教となり、その後好古堂肝煎指南手伝に昇進しました。22歳の時亀山氏長男剛毅が病没したので亀山家家督相続をします。その後姫路藩より選ばれて江戸の昌平坂学問所に入学し、3年間在学し卒業後は江戸藩邸に出仕しました。33歳の時姫路に戻り好古堂教授となりました。 明治元年(1868年) 維新を迎えた時、幕府派の藩内過激派を制して朝命を奉じて景福寺山まで進攻してきた朝廷派の備前兵を説得して交戦を避ける活躍をしました。 あわや姫路城に砲火という事態を避けた姫路藩の勝海舟的な役割を演じたといっても過言ではありません。 明治3年(1870年) 藩主忠邦の侍講 (藩主に五経四書を講釈)となり明治4年(1871年) 長男・享に家督をゆずり、八正寺が立ち退いた後とりあえず祠宮に就任した元社僧神田豊齊の後を受けて、明治6年(1873年) 松原八幡宮祠宮 (社司) となり松原へ移り住みました。 私塾、久敬舎を建てて地元向学の士に学問を教え、明治17年(1884年)には新たに講堂と塾舎を建てました。 これが観海講堂です。 現在白浜小学校はこの跡地に建築され、その校庭に観海講堂の碑石が残っています。 又、亀山雲平先生は明治10年(1877年)には宇佐崎、中村、松原村が合体してできた白浜村の村名を「海原を白浜と化し一夜に数千本の松を生ずべし」と宣託があったという神話に基づいて白浜と命名しました。 近世は松原村、中村、宇佐崎、東山村、八家村、木場村の六カ村は松原庄、或いは松原郷と呼ばれ現在の宇佐崎、中村の地は本松原、松原村は西脇と呼ばれていました。 又、一夜にして粟の如く松を生じたので「粟生 (おう) の松原」とも呼ばれていました。 その後、姫路射楯兵主 (いたてひょうず) 神社と姫路神社の社司を兼任しました。現在の松原八幡宮の宮司亀山氏はこの子孫です。 明治32年(1899年)、78歳の時観海講堂において逝去され姫路景福寺に葬られました。直接教えを受けた人は播磨一円に及びその数は五百とも千ともいわれ播磨聖人と言われました。 ※『灘地区の地域資源』 灘地区地域夢プラン実行委員会 平成17年12月より出典 亀山雲平先生 2.岡田先生の思想形成に影響を与えた播磨の自然 岡田先生が出生された地は、瀬戸内海に面した半漁半農で、広大な塩田がある姫路市白浜村(現白浜町)でした。この村には灘のけんか祭りがあり、先生は村祭りが好きで待ち焦がれて、山野で花鳥と戯れ、海で遊泳し、川の蟹と戯れ、春夏秋冬の織りなす自然の饗宴を満喫していたと話されています。先生はこの白浜村の自然が私の思想形成を創ったと話されています。 仁寿山から臨む灘地区と播磨灘 白浜海水浴場、奥に見えるのは木庭山 仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む 岡田武彦先生の出生地、姫路市白浜村(白浜町)マップ 白浜町の空撮映像 ・空中散歩186*兵庫県姫路市白浜町 Shimi Channel ➡ YouTubeサイトにて視聴 ・兵庫県姫路市・小赤壁 / 木庭神社 じゅんじゅんドローン チャンネル ➡ YouTubeサイトにて視聴 ・空中散歩185*八家川 兵庫県姫路市白浜町×木場⇄御国野町*YAKAGAWA Shimi Channel ➡ YouTubeサイトにて視聴 松原八幡神社 松原八幡神社 松原八幡神社(姫路市白浜町甲396番地) 御祭神 本殿中央 品陀和気命 (ほんだわけのみこと) (應神天皇) 右殿 息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと) (應神天皇の母 神功皇后) 左殿 比咩大神( ひめおおかみ ) (宇佐古来の三女神) 多紀理毘売命 (たぎりひめのみこと) ・市寸島姫命 (いちきしまひめのみこと) ・多岐津毘売命 (たぎつひめのみこと) 天平宝字七年癸卯四月十一日(763年)九州豊前宇佐より白雲が東にたなびき、松原沖の海底に毎夜ひかり輝くものがありました。それを引き上げると「宇佐第二垂跡(すいじゃく)八幡大菩薩」の文字がある紫檀の霊木であった為、妻鹿(めが)川の下流の大岩の上に安置し祀りました。このことが朝廷に伝わり、勅使が下向し妻鹿の北東の山頂・お旅山に仮殿を造りご神体を遷しました。 ある夜、国司は神のお告げの夢を見ました。それは「我が永遠に鎮座しようとする所は、今は海原であるが、そこを一夜にして白浜とし、粟が生じる様に数千の松を生やすから、そこに遷して祀れ。」というものでした。このことから、国司は諸国の工人を集め豊前の宇佐宮に倣って立派な社殿を造営し御神体を現在の松原の地に移しました。 中世、播磨の豪族赤松円心は松原八幡神社を敬い、武士の氏神としての性格を濃くしていきました。応仁の乱で山名氏により社殿を焼失され、その後、赤松政則(後南朝に奪われていた三種の神器を奪還し家督の相続を許された)が再興しました。氏子達は喜びに湧き、米俵数百俵をお旅山に担ぎ上げ社前に山のように積み上げたと伝えられています。現在の灘まつりの屋台はこれがきっかけとなってつくられたとも言われています。 その後、天正の初めに羽柴秀吉の三木城攻めの際に戦火に遭い全焼しました。秀吉の怒りを鎮め、とりなしてくれた黒田孝高(官兵衛)のお蔭で社石は六十石に減じられましたが、現在地に存続することができました。 ※松原八幡神社由緒略記より要約、参考:姫路市白浜土地区画整理事業完工誌『歴史を刻む松原荘』 兵庫県上郡町・法雲寺の赤松円心堂 赤松円心のふるさと兵庫県上郡町・白旗山 松原八幡神社より北西に黒田官兵衛の妻鹿城・功山城跡があります。 仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む。左からお旅山と 甲山 手前の幹線道路は姫路バイパス 甲山 南側麓にある妻鹿城址碑 功山城(こうざんじょう) 功山城は、市川左岸の甲山(こうざん)にあり、別称を妻鹿城・国府山城(こうざんじょう)・袴垂城(はかまたれじょう)ともいわれています。 初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。その後、姫路城内て生まれた黒田官兵衛孝高の父織隆(もとたか)は、天正元年(1573年)に姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正八年(1580年)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としました。これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城てある姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩五六万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。天正一三年(1585年一)織隆が没した後は、廃城となったようです。なお、織隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。 平成10年4月吉日 姫路南ライオンズクラブの功山城説明掲示板(旧)より出典 秋季祭典・灘のけんか祭りと岡田先生 毎年10月14,15日に松原八幡神社で行われる秋季大祭は「灘のけんか祭り」で有名です。五穀豊穣を願って行われる、播州の秋祭りを代表するこの祭りは国内外にファン層を拡げ、毎年十数万人の大観衆でにぎわいます。 灘のけんか祭りは毎年10月15日に開催されます。松原、妻鹿、東山、八家、木場、宇佐崎、中村の灘七ヵ村の屋台七台が勢ぞろいし、熱気渦巻く壮大な祭りが繰り広げられます。宵宮は14日、本宮は15日に行われます。豪華な屋台が熱気渦巻く祭り絵巻となって私たちを奮い立たせてくれます。尚、この期間は山陽電鉄の特急が白浜の宮に停車します。 秋季祭典・灘のけんか祭り 左から岡田武彦先生と川崎淳三氏 灘のけんか祭り 1992.10.15 岡田武彦先生(実家跡の前で) 岡田先生は郷里の秋季祭典・灘のけんか祭りを楽しみにされておられました。私(赤松)は川崎淳三氏(故人)から岡田武彦先生の『東洋のアイデンティティ』の書籍を紹介いただいて、岡田先生の哲学と『易経』を深く学ぶきっかけをいただきました。 灘のけんか祭りと岡田先生 早朝の松原八幡神社 秋季祭典「灘のけんか祭り」 松原の神輿と赤の紙垂(しで)、及び木場の神輿と若緑の紙垂 灘のけんか祭りの一の丸、二の丸、三の丸の三基の神輿 秋季祭典「灘のけんか祭り」 松原の神輿と赤の紙垂(しで)、木場の神輿と若緑の紙垂 中村の神輿と青の紙垂 「しで」は「紙垂」と書きます。紙垂は雷を表し五穀豊穣と邪悪なものを払い除けると言う意味をもっています。神社に行くとよく見かけますね。 灘のけんか祭りの「しで」は竹に花のような「しで」を取り付けています。この形は波を表しています。灘のけんか祭りは7地区が参加し、7つの色のしでがあります。ちなみに中村の色は青です。播磨灘の海の色になります。 その様な意味を持ち、祭りでは神輿を盛り立てます。 ・東山はピンク:邪気を祓う桃の色 ・木場は若緑:生気溢れる若竹の色 ・松原は赤:鉄を溶かす鞴 (ふいご) の火の色 ・八家は黄赤:滾 (たぎ) る血汗と熱血の色 ・妻鹿は朱赤:質感溢れる熱血の色 ・宇佐崎は黄:貴人の色 ・中村は青:播磨灘の海の色 頼山陽が名付けた小赤壁 姫路の海側に『小赤壁』と呼ばれる地があります。小赤壁(しょうせきへき)の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。 姫路藩家老、河合寸翁が創立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、この海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宋代の詩人・蘇軾(そしょく)の長江の詩、「赤壁賦」が詠まれ、この時、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。木庭山の断崖絶壁である小赤壁は高さ約50m、長さ約800mあります。 岡田先生はこの海岸沿いを泳いでおられました。岡田先生は絶壁の下の海は竜神の棲家を想像させるくらい紺碧色をしていて、竜神に足を取られないかとびくびくしながら泳いだと話されています。 西側から観た小赤壁 木庭神社より播磨灘を臨む 東側から観た小赤壁 木庭山の周辺に咲く、のじぎく ◆HATENA BLOG 「播磨の山々」の、しみけんさんがドローン空撮で小赤壁を紹介されています。 全天球パノラマでパソコン上やスマホ上で映像を動かすことができます。 兵庫県姫路市の小赤壁 - 播磨の山々 (hatenablog.jp) 姫路城(白鷺城)は心のシンボル 姫路には岡田先生が出生した北西に姫路城(白鷺城)があります。岡田先生は白鷺城の容姿は私の心のシンボルとなっていると話されています。 仁寿山 白浜町の北方に仁寿山と云う山があります。この山は『論語』から命名されました。文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を家老・河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。 岡田先生は仁寿山に登り、山頂から明石、家島、小豆島を臨み、心静かに播磨灘を眺めるのが好きだったようです。 写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に 仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。 姫路藩 河合寸翁・仁寿山校の紹介 人材は「国家の宝」、未来を創る人材養成学校 河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで有名です。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けました。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしました。 仁寿山校絵図 『姫府名士 河合寸翁傳』 姫路市役所 発行 1912.10 より出典 仁寿山と大池(現在は西池)・池の右奥に仁寿山校がありました。 仁寿山校の詳細は「先生とのご縁」の仁寿山校紹介のページへ➡ 仁寿山校 姫路市郷土唱歌 昭和天皇の即位のご大典の記念につくられた、姫路市郷土唱歌です。姫路の歴史をよく表していると思います。 一、天下に三つの名城と 其の名も高き白鷺城 旭の光さし添へば 雄姿颯爽(ゆうしさっそう)世を葢(おお)ふ 偉人豊臣太閤の 偉業燦(さん)たり千代迄も 二、南に続く一帯の 松翠年(しょうすいとし)に色を増し 名も三左衛門の長濠(ちょうごう)に 湛(たた)ふる水の面澄(たもす)みて 名君池田輝政の 壮圖悠(そうとゆう)たり長(とこし)へに 三、仁壽山黌跡訪(と)えば 廃墟空しく月に輝(て)り 昔を語る梅ヶ岡 薫(かほり)の花の香(か)も高く 河合太夫を仰ぐなり 晒(さら)しの布の名と共に 四、王政維新の業成るや 天一日(てんいちじつ)の大義ぞと 版籍奉還(はんせきほうかん)首唱せし 功(いさを)かぐはし酒井侯 剣かたばみの紋と共 語り伝えへん後の世に 五、國(くに)の鎮(しずめ)めの十師団 武勲赫々(ぶくんかくかく)名も高く 寸断血染(ちぎれちぞめ)の連隊旗 勇武の名残(なごり)を留めつつ 響く喇叭(らっぱ)の音色にも 勇往進取の気象あり 六、北には廣峯書寫(ひろみねしょしゃ)の山 梅に其の名の白國(しらくに)や 杖曳(つえひ)く人の増井山 南の内海(うみ)は波静か 治まる御代のためしにて 御祓市川水清(みそぎいちかわみずきよ)し 七、総社十二所本徳治(そうしゃじゅうにしょほんとくじ) 薬師の山に建つ碑文 於菊(おきく)の井戸や姥ヶ石(うばかいし) 残る床(ゆか)しの伝説を 語るに似たり公園の 姫山松は聲立(こえた)てて 八、世界に名を得し姫路革 名も高砂やかちん染め 昔ながらの色に栄え 玉川晒名(たまがわさらしな)も著(いちじる)く 明珍火箸(みょうちんひばし)も古くより 称へられたる名産ぞ 九、錦糸毛糸の紡績や 織物マッチ工場の 煙の雲にうちふるふ 汽笛の音の繁(しげ)きにも 進む市政のしのばれて 我等が意気は揚るなり 一〇、地は中國の要路にて 山舒水緩土肥(さんじょすいかんつちこ)えて 五穀ゆたかに人適(ひとかな)ひ 面積方里人四萬(めんせきほうりひとよまん) 栄えある歴史に彩られ 御代に栄ゆる我が姫路 一一、さはあれ市民(まちびと)心して 自治共同の旗影に 大勅(おおみことのり)かしこみて 殖産興業励みつつ 尚武(しょうぶ)の道もゆるみなく 一つにつくせ國のため 一二、地理の利便に相応じ 歴史の跡に鑑みて 既に備はる錦上に いで花添へん諸共に 郷土を愛する赤心(こころ)もて 更に飾らん市の歴史 眞野義彦先生校閲、米野鹿之助先生校閲、姫路市郷土唱歌委員会作 昭和天皇即位のご大典の記念につくられました。 3.人生の矛盾が解けないか糸口を探した旧制姫路高等学校時代 岡田先生の家庭は貧しかったですが、小学校高等科一年の時にやっと親の許しを得て、難関で名門の姫路中学を受験し合格することができました。受験勉強をし過ぎて健康を害されたそうです。中学四年生の時、高校進学はできない家庭状況だったのですが、高校受験だけは許してもらい受験した結果、見事に合格し、両親も進学を許してくれることになったそうです。学費は中学校と余り変わらず、中学校と同じ自転車通学となりました。出来事を引用・要約して箇条書きにします。 敬愛する長兄の死 「親に孝に兄弟に友に」の長兄が結核で大喀血して他界。 読書 高校の図書館で哲学書や倫理書、及び文学書を読み漁った。 禅への興味 禅、あるいは陽明学の影響がある西田哲学の『禅の研究』の書を読んだが難解であった。 社会科学専攻の伊豆山善太郎教授は禅に通達しており、居士の資格を持っておられた。先生に直接会って禅にについて話を聞いた。「矛盾や悪を徹底的に見つめてみたまえ」とアドバイスをもらった。 姫路中学の横田宗直校長は禅僧で偉い人であると聞いて、先生の所に訪問して、禅の事を聴いた。「先ず数息観より始めよ」と教えられたが、長続きはしなかった。 哲学書 和辻哲郎 哲学書で興味を持ったのは和辻哲郎さんだった。和辻さんは、認識論よりも倫理学をよく研究され、姫路中学の先輩で岡田先生と同じく代々医業の家系であった。 自然主義文学 島崎藤村、田山花袋、国木田独歩などの自然主義文学作品に興味を覚えた。先生の性格は素直であったが孤独を愛し、我が強く、権力や集団圧力には強い反発心を抱いた。 正岡子規 正岡子規の影響を受け和歌や俳句に興味を持って日記によくそれを書いた。雄渾幽深 (ゆうこんゆうしん) な和歌や俳句を好んでいた。 肺炎に罹患 肺炎に罹患し期末試験を受けることができなかったが、一学期の成績が優秀だったのか二年生に進級した。しかし、英語教師の資格は得られなかった。 丹羽教授の授業 丹羽教授の東洋史は印象的で忘れられない。講義から現象と原理の基本的関係から解釈するようになったが、「原理の神髄は具体的な事象によって把握される」と考えている。 大学進学の苦労 不景気でもあり、父と次兄は就職をする様に勧めたが大学進学で口論となった。住友本社の渡辺斌衡氏が学資を出すことで九州大学に進学する事になった。人より3年遅れた。 旧制姫路高等学校正門 (現兵庫県立大学環境人間学部の校舎) 4.進学した九州大学で、生涯師事する学者に出会う 岡田先生は東大や京大への進学に挫折され、九州下りするのを些か憂鬱な気分になっておられたそうです。入学した法文学部は新設学部で教授内容も教授陣も分からない状態で憂鬱な日々が続いたそうです。以下、大学時代での出来事を箇条書きにしました。 文学で心を癒す アララギ派やホトトギス派の和歌、俳句を読み、その源流の古典を読み漁った。 王朝の物語や日記類、随筆などを片っ端から読み耽った。夏季休暇は帰郷せず図書館に閉じこもった。国文学の講義は実証的研究が中心で、文学は文法中心の解釈で文学論や文芸論の解説はなかった。無味乾燥で憂鬱だった アルバイトをして 両親に送金 渡辺氏のご夫妻からは、授業料の他に毎月五十円の送金を受けておられたが、倹約しながら青年学校で数学を教えたり、書店店員に国文の講読をしたり、家庭教師などをして、大学を卒業するまで実家に送金を行った。 在学中に結婚 岡田先生は胃腸が弱く、下痢をして寝込み、同じ下宿先の農学部事務職の女性に粥を炊いてもらった縁から知り合いとなり、結婚をする決意を固めた。 生涯師事する 楠本正継先生 に出会う 二学期の始めに楠本正継先生の『伝習録』の講義を受けて、非常に感激を覚え、終生のわが師と心に誓った。楠本先生の人格が高潔であったことや悩みが解決できると考えたからである。「播磨聖人」亀山雲平先生の人柄を聞いた事や「白浜聖人」といわれた敬愛する父を見て「大学では学徳兼備の偉大な学者に師事したい」と思っていた。 楠本先生から『四書』や『荘子』の「斉物論」をしっかり読むように指導を受ける。特に「西洋と東洋の神秘主義を比較して、東洋の神秘主義が如何に秀れているかを実証してみせる」と思ったこともあった。 若き日の 恩師の 学風 二年生のとき、中国哲学、中国文学、東洋史の教授と、学生との合同研究会が開かれた。岡田先生は敬愛し心惹かれた宋学の周濂渓を発表されたとか。 楠本先生は、老子の道についても西洋哲学の方法論で中国の哲学を分析、解明するやり方だった。後に楠本先生もこの方法から抜け出された。 宋明学への興味 大学時代、楠本先生から聴講した中国哲学は、古代中国史の講義、王陽明の『伝習録』『周易』の購読と、『老子』と載震の『孟子字義疏証』のゼミのみであった。楠本先生の学風を継承できたのは、大学卒業後、絶えず先生に親炙して親しく教えをうけたからではないか。 『伝習録』の講読のときに、この時代の儒学について説明を聴いて宋明学に興味を覚える様になった。周濂渓思想から学び始め、独りでこつこつと宋明学の代表的儒者の書物を読み続け、朱子学を卒論にしようと決めた。 大学の講義 好んで西洋の哲学や倫理学の講義を聴き、ゼミに参加した。ギリシャ哲学やハイデッカーの講義には心が惹かれた。東洋史の講義で、白和文の梁啓超の『近三百年学術史』の講読で白和文の読解力が養われた。禅と神道の全般教養の無さに痛感。行動心理学、音楽美術、イスラエル宗教史、キップリングの詩などの講義は興味深いものがあった。いろいろな学科の講義を聴いて広く教養を身につける様に務めた。芭蕉の講義では俳論に興味を持った。専門外の講義を多く聴くように務めた。特に西洋の哲学や倫理に興味を持って学び、それらの動向を感じ取ることができ、思想形成に大いに役立ったようである。 学生時代の同僚 友人たち 楠本先生の一番弟子は岡田先生で、他二人がおり、計三名が同僚であった。一年後に禅僧の僧侶二人が入ってきた。 忘れがたい友人が二人いた。山本氏と本間君であった。自分の性格と違ったタイプに興味があったのと孤独を愛する性質と無関係ではないと思った。友人からマルキシズムの話を聴いたが批判的だった。 母親による就職先の変更 昭和九年一月十日に卒論の朱子学を提出して、優秀だったのか楠本先生から副手(一年間は無給)になって大学に残らないかと話があり教授会で採用が決定された。しかし、借金を抱え、次兄に気兼ねしていた母親が早く俸給取りにと念願し、富山市の中学校に赴任する事を決めていた。北京の卒業旅行後に知った。 九州大学の門標 岡田武彦先生の恩師 楠本正継先生 岡田先生の和歌 「大学に進学すれば学徳兼備の偉大な学者に師事したい」という、切なる気持ちを述べた和歌を岡田武彦先生は詠じられました。 己が身と己が心のもろもろを なべて捧ぐる人ぞこほしき 武彦 九州大学生時代の岡田先生の写真 大学図書館のイメージ 5.中学教師時代 一 ・旧制富山県立神通中学校教師時代 校長の叱責 昭和九年四月初め、索漠たる気持ちで霙降る薄ら寒い富山駅に降り立った。迎えに来ていた中学校の事務長の案内で神通中学校に向かった。数日後、新任教師の歓迎の宴が催され、酒宴の酣 (たけなわ) になった頃、校長から「君は、もう一度大学に帰って勉強しなおしてこい」と言われてびっくり仰天して一言も口がきけなかった。原因は、赴任したとき校長の自宅に挨拶に行かなかったことらしい。処世術の不手際がこういうところにも表れた。校長は京大の英文科出身で人柄はしごく良く、懐かしい人だったが、酒癖が悪いので評判だった。 禅寺で参禅 事志に反して中学校に勤務しなければならなかったので心中鬱々として楽しまなかった。自分の学問のやり方も変えざるを得なかった。漢文大系を購入し、それを本にして古代の中国思想の研究をして論文を書いては恩師に送って批判を仰いだが、手元に資料がないので実証的な研究はできなかった。その頃は特に老荘思想を研究した。 氷見の臨済宗総本山の官長・勝平老師が月に一回、富山市に出張して提唱すると聞いて早速参禅した。老師は柔和な顔をしておられたが提唱のときは音吐朗々と漢詩を読まれるので、それを聞いただけでも悟りが開ける思いがした。参禅した時は『碧巖録』の提唱をしていた。「ここのところは坐禅して悟りなさい」といわれるのが常であった。「自分は禅をやっても、とても見込みはあるまい」と思うようになった。結局、参禅はしたが効果は上がらなかった。その理由の一つは禅と老荘を超克して古代の儒教を止揚し、それによってこれらを批判した宋明の新儒学に心をよせるようになっていたからである。 学校から帰宅すると、すぐ二階に上がって専門の学問をするようにし、日曜日でも子の遊び相手もせずにひたすら机に向かった。家内の不興をかった。 周濂渓を慕う 富山時代、主に『国学基本叢書』の『宋元学案』『明儒学案』、特に『明儒学案』を読み返して明代の儒学に親しんだが、やや隠逸の気風のある北宋の周濂渓の人柄と処世術に、益々心を動かされるようになっていた。伝記によると濂渓の部屋の前には草が茫々と生えていた。ある人が「なぜそれを刈り取らないのですか」といったところ、「わが意と一般(同じ)」といったという。濂渓は窓前の草を見て、わが心中にある天地の正意を看取したのであろう。 濂渓は蓮を愛した。蓮は泥沼の中から中空の茎を真っ直ぐに上に出し、さざ波に洗われながら清浄の香りを放つ蓮花が好きであった。「世間の人は牡丹を愛し、陶淵明は菊を愛し、自分は蓮を愛する。牡丹は富貴の花であり、菊は隠者の花であり、蓮は君子の花である」といった。また、「人は無欲であれば心は静かになる。そうなれば行いは自然に正直公平になる」ともいった。また、処世術は巧より拙の方を貴んだ。彼のように拙を高く評価し、これを高尚なものに仕上げた思想家は少ない。そこには何故か、晋の陶淵明に相通ずるところがあるように思われる。 ※①巧拙:上手下手の意 ※②周濂渓(周敦頤)の号濂渓は廬山蓮花峰のふもとに構えた濂渓書堂に由来。 ※③フィロソフィーはギリシャ語のフィロソフィア(知恵を愛する)から由来する。 明治新政府の要人、西周(にしあまね)は周濂渓の「士希賢」(士は賢をこいねがう)に倣い賢哲の明知を愛し希求する学と訳し、「哲学」と定めた。後に文部省はこの訳語を採用した。 西周は津和野藩(1829)生まれの藩医の子でオランダのライデン大学を卒業している。明治初期を代表する思想家で西洋学問の先駆者であり、明治新政府の近代軍制の整備に努める要人であった。哲学・科学関係の言葉は西が考案した訳語が多くある。 ※②、③はコトバンクより引用・要約 姫路市・仁寿山の近くにある蓮田の花 富山の風土 住民の気質や物の考え方はその土地の風土と密接な関係があることを、四年間の富山生活で痛感した。富山は「一年の中で晴天は二十日ほどしかない」といわれるくらいであり、冬は殆ど毎日曇天で、ときには激しい吹雪に見舞われた。こういう土地柄であるから、生徒は忍耐強く沈静的であるが、一面、陰気で明朗さに欠けるところがないではなかった。当時、他の地方では殆ど見ない現象であったがこの地方の中学生はときどきストライキを起こした。春の頃、日本晴れの日に授業を中止して呉羽山に遠足させた。そうしないと、上級生が三々五々集まってストライキを起こすからであった。この辺の呼吸を弁(わきま)えていないと生徒指導はできない。 私の授業 一年生には日本史、二年生に東洋史、一、二、三、四年生に修身を教えるのが私の仕事だった。一年生の「日本史の神話を教科書通りに歴史事実のように教えるのは間違いである」と思い、古代の歴史を考古学、民俗学的立場から教え、神話は民族の精神を述べたものとして教えた。唯物史観には賛成できなかった。歴史事実は民族精神と一体とするところに真の歴史学があると考えていたが、一年生に理解させるには無理であった。授業に疑問を持つ生徒がいて、小学校長をしていた父親に話したものがいたらしく、左翼思想家であると誤解を受けて、校長から注意を受けた。歴史は精神と事実の二つから理解するように重ねて説明した。私の東洋史の授業は生徒にとって難しかったようである。修身の授業は、特に下級生の場合、非常に困惑した。上級生には多少倫理学を述べることができるので、さして困惑を感じなかった。 昭和十一年、二・二六事件が勃発。翌年、日支事変が勃発した。「いずれ自分も招集されるだろうから、あらかじめ覚悟しておかなければならない」と思った。 家族の病気 神通中学校に赴任して、二か月後、長女が疫痢に罹患し入院した。一時は危篤状態に陥ったが家内の血を輸血して生命だけは助かった。しかし、病後がはかばかしくなく、看護婦の経験がある大家の老母の助言で、西洋芥子の行水をさせて腹部を温めてから腹部のガスがよく出るようになり、生命を取り留めた。 その後、次女が生まれたが、自家中毒に罹って医者通いが絶えなかった。 私の胃腸も富山に来てからだんだん悪くなり、いつも胃からガスが出通しであった。しかし、若かったせいか生徒と一緒にマラソンをする気力はあった。 家内も次女を出産してから悪性の流感に罹患し肺を悪くし、微熱が出る様に なった。絶対安静を家内に行ったが健康であった彼女は応じてくれず、病状は徐々に進行していった。 私の胃腸病もだんだんひどくなり、家内ともども自滅するかもしれないと、思い、医師に相談した。医師は「気候のよい地に転任するより他ない」とのことであった。 当時は日本国中に不景気の嵐が吹いていた。やっとのことで宮崎県の延岡中学に転任することができた。 祖母と父の死 私が九大に入学した翌年、次兄は音楽教師として岡山市の南西にある女学校に、両親と祖母を連れて転任した。次兄には子供が二人いて、大家族を養って行かなければならなかったので家系は窮屈であったのかもしれない。父は次兄に肩身が狭い思いをして暮らしていたようである。父は飲みたい酒を飲まずに我慢していたらしい。次兄はしごく几帳面で、肉親に対してもそれを強いるところがあった。それが情の強さを感じさせるところであった。 父が郷里に戻ったとき、村の人たちが同情して大いに酒を振舞ったらしく、禁酒しているところに大量の酒を飲んで、父は中風になった。祖母は私が富山に赴任した翌年、一言も喋らず他界した。父は老母を見送って一か月後他界した。 思い出の教え子 私は数々の思い出を心に抱きながら富山を去った。昭和十三年の三月、教え子たちに見送られながら懐かしい富山を後にした。 私と唯一深い因縁のある者がいた。それは元警察庁刑事局長、高松敬治君であった。彼は私が担任したクラスの生徒とではなかったが、私の東洋史の授業を聞いて心に感ずるところがあったらしく、たびたび私邸に来遊するようになった。私は彼が家庭のことで悩んでいる事を知った。私も同じ年頃に家庭の事情から心に悩みを持った経験があったので、彼の気持ちが身に染みて感じられた。 高校に進学してから更に彼の悩みは深刻となり、彼に旅をさせて解決の糸口が見つかるかもしれないと考え、夏休暇を利用して延岡に来る様に勧めた。彼は喜んで延岡の私を訪問した。彼を高千穂峡や五ヶ瀬川や日向灘の海岸に案内しながら人生、社会の問題、学問の問題を話し合った。彼は延岡から郷里に帰るとき、四国の知人を訪問し、奈良に遊んで郷里に帰ったが、その時の感想を手紙に書いて寄こしたりした。彼の手紙によると、汽車が郷里に近づくにつれて胸のときめきを覚えたという。彼にとってはわが家は必ずしも楽しいところではなかったはずであったが、しばらくの間であってもそこを離れてみれば、家庭もまた懐かしく感じるのであった。そこで私は、彼への返事の中に、ドイツ語で、「母は古郷なり、古郷は母なり」と書いて送った。私は旅によって彼の気持ちが和むように望んだ。旅はうまくゆけば心の憂鬱を癒す最良の清涼剤であることを、私は信じて疑わなかったからである。 崇高で厳粛美を持つ冬の立山連峰 日本三大急流の一つ神通川 富山の鱒寿司 6.中学教師時代 二 ・旧制宮崎県立延岡中学校教諭時代 延岡中学 私は家内と女児二人を連れて延岡中学に赴任したのは、昭和十三年四月だった。延岡駅には松本校長と国語科の春日・馬場両教諭が出迎えてくれた。四月の延岡はさすがに南国であって暖かかった。空は北京のように青く澄み渡り、空気は清らかだった。市内は五ヶ瀬川が流れ、川の傍らには城山があり、山頂には私が好きな有名な歌人、若山牧水の歌碑が建っている。牧水は延岡中学校の出身だった。延岡はまことに詩情豊かなところである。 校長は高師出身のタイプで教職員の制服を海軍将校と同じ服装にさせた。挨拶も答礼も軍隊式にした。しかし、宮崎県庁の学務課の廊下で若い学務課長に深々と叩頭 (こうとう) したのには、心中、些か面白くなかった。中学校長たる者はもっと毅然としてほしいと、いいたいぐらいだった。 延岡市は田舎の小都市であるが、中学校には魅力のある教師がいた。私と一緒に赴任した高森氏は詩人肌の人で面白かった。「人はみな海は青いというが、海は赤いといってもよいではないか」といった風の人であった。塩谷君も単なる型はまりの教師ではなく、高森氏とは意気投合の間柄で、後に女子短期大学に勤務し学長になった。もう一人、私の心に強い印象を遺した岩切先生がおられた。先生は地方の名家の出身で早稲田大学の哲学科を出て郷里の延岡中学に勤務され、英語を教えておられた。先生は温厚篤実で人情が厚く大の読書家で思索家でもあったが、また大の酒好きであった。先生の目は優しく奥に深い心を湛えていて哲人らしい風貌の持ち主であった。岩切先生に料亭で馳走になった。先生は芸者の三味線を聴きながら、ちびりちびりと盃を口に運んでおられたが、突然しんみりとした口調で「お前も俺と同じだね。お前は芸を売って暮らしているし、俺も知識を売って暮らしているのだからね」といわれた。先生の心の寂しさを垣間見た感じがした。先生のこの言葉は私に強烈な印象を与えた。岩切先生は私にとっては、生涯忘れることができない一人である。一年後に京大文学部国史科出身の林氏が赴任してきた。京大の学風を持つ彼とは私の史観と一致していたのでよく歴史の話をした。延岡中学生がよい歴史の先生に学べたことを、心ひそかに喜んでいた。 召集令状 温暖な延岡に転任してきたが、家内の病状はよくならず、時々微熱を出した。養生に専念する様に注意するが、専念する風がなかった。私の胃腸は少しよくなったが、相変わらず顔色は青く痩せこけていた。 この頃、日中事変はだんだん深刻になりつつあった。昭和十四年、ついに招集令状が下り、郷里の姫路聯隊に入隊することになった。福岡で下車して、恩師の楠本正継先生に別れの挨拶をした。その時に先生から次のような餞けの言葉を拝受した。「運命というものは、ちょうど頭上に置かれた石のようなものだ。それから逃れようとすればするほど、石はますます大きくなって重く頭上にのしかかってくる」これは名言である。宿命はこれに随循することによってのみ逃れることができる。これは、いわば荘子の因循の思想である。私は列車の中でひたすら『荘子』を読んで、わが心のより処所を求めた。しかし、姫路駅に着く頃にはある程度の悟りが得られたように感じられた。 入隊するとすぐ身体検査が始まった。私は以前、医師から「肺尖が悪い」といわれたことがあったが、そのせいか、即日帰郷を命じられた。生徒諸君には申し訳ない私議となったが、私は在住僅か二年にして延岡を去らなければならなくなった。私の生涯の中で延岡時代は最も詩情に富む時代であった。 延岡市の街並みと空と海 延岡城の石垣 若山牧水は延岡中学校の出身 城山山頂には岡田先生が好きな若山牧水の歌碑が建っている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) ・福岡に赴任⑶旧制福岡県立中学修猷館時代 福岡に赴任 私は念願が叶い、福岡市に帰って再び恩師に親炙 (しんしゃ) することができるようになった。私は昭和十五年四月、福岡市の中学修猷館に赴任することになった。 当時の中学修猷館の館長は隈部先生で、威風堂々とした体躯の持ち主で、如何にも天下の修猷館の館長にふさわしい風貌の持ち主であった。 時世もますます厳しくなり、中学生の軍事訓練も盛んで、学校の配属将校の力も日一日と強くなりつつあった。教師も国民服を着、ゲートルを巻いて登校した。ときどき学徒動員で生徒を引率して農家の農作業の手伝いに行ったものである。 修猷館の気風は蛮カラの方で、荒波の玄界灘に臨み、やや裏日本的気候の地に育ったせいか、生徒の気象も荒っぽいところはあるが、富山の中学生と違って、礼儀正しく、教師と生徒、上級生と下級生のけじめはきちっとしていた。 国語科の授業は他の中学とだいぶん違っていた。教科書は同じであるが、教える教師はクラス毎に異なっており、試験は各教師が一題ずつ出し合って、学年一斉にこれを行うから、教師のレベルの差によってクラスの生徒の成績に格差が生じる畏れがあった。新進気鋭の教師であっても、授業は勢い訓詁的にならざるを得なかった。このような授業は上級学校進学には有利かもしれないが、生徒の教養向上という点では不備は免れない。ある学科の教師が休講すれば、他の授業を繰り上げて生徒を早く帰宅させ、教師も自分の授業が終われば帰宅してよかった。このために生徒も自宅で勉学に精を出すこともでき、教師もまた研究に没頭することができた。 一般に都会の教師には田舎の教師ほど詩情に富む者は少ない。しかし、都会には都会に相応しい情趣のある教師もいた。私が就任した後から二人の国語科の教師が赴任してきた。一人は私より先輩、一人は私より後輩であった。三人で炒豆会というものを作って月一回会食しながら雑話をするのが目的だった。その雑話も自然に学問に及んだので話題も結構中身のあるものになった。 生徒の中にも思い出が残る者が多くいた。特に私宅によく来遊した生徒は印象が深い。 福井君は東大に進学したが、やがて郷里に帰って九大の中国哲学の専攻生となった。吉岡君は東大を出て毎日新聞社に勤務した。永末君は作文で私を驚かせ、後に福岡県田川市の図書館長になった。彼らは私の担任ではなかったが、私の担任の生徒で二年生の時、吉田君は漢詩を作って私を驚かせた。流暢な英語で同僚を驚かせたアメリカ帰りの瀧口君など列挙すればきりがない。恩師、楠本正継先生の令息の業(はじめ)君、韶(しょう)君も私の教え子であった。恩師は我が子に厳しかったのか、文科系の学問を専攻するには余程優秀でないと駄目だと考えられておられたようである。結局、二人とも九大の工学部卒業後、日立の研究所に勤務することになった。 恩師の学風の変化 福岡に帰って再び恩師の謦咳 (けいがい) に接することができるようになったが、そのとき恩師の学風が変わったことに気づいた。恩師が宋明思想の研究には体認が重要であるということを悟られたためではないかと思う。 恩師の楠本正継先生から宋明学関係の貴重な書籍を拝借して読んだ。当時は時世が時世でもあり、中学校に勤務していたので、本格的な研究をするまでに至らなかったが、日本では見ることができない王陽明門下の貴重な資料を読むことができた。 朱 子年譜 私は恩師に読書会のお願いをし、快く承諾を頂いて、毎日曜日の午後、袴を着いてご自宅を訪問して教えを受けることにした。テキストは王白田の『朱子年譜考異』であった。私がこれを読んだあとで、誤読があれば訂正していただき、それから朱子学に関する講話を聴いた。予習は大変苦しかった。なぜならば、年譜の中には『朱子文集』や『朱子語類』の文集が多く引用されているからである。この講読会には、当時、九大の倫理学の助手をしていた永野君も参加して聴講した。 研究会の時には朱子学だけではなく学問全般の話にも及んだ。私は先生の教言をノートに書き留めた。その頃の私は自らゲーテに対するエッケルマンをもって任じていたからである。一般に東洋の偉大な思想家については、「その人の論説よりも、むしろ語録に神髄が表れている」といっても過言ではない。恩師の語録の草稿は、残念なことに空襲で焼失してしまった。これがあれば。若き日の恩師の学風をもっと知ることができたはずである。 ※エッケルマン(Jhhann Peter Eckermann)ドイツの文筆家。ゲーテ晩年の秘書。 コトバンクより引用 孫子を読む 日支事変もはかばかしく事が運ばず、中国大陸に進行した日本軍もだんだん奥地に戦線を拡大して、事態はいつ落着するのか見通しが立たなくなった。このまま行けば大変なことになると思った。日本軍の戦争のやり方がどうも孫子の兵法に背いていると思ったので、もう一度『孫子』を読み返し、試みに語訳などを作ってみたりなどした。そのとき「孫子の形而上的考察-孫子の兵法」と題する小論を書いた。これは恩師の紹介で『時潮』という雑誌に掲載することになった。 戦後、生産性本部九州支部で孫子の講読をしたことがあって、聴講者の中に将軍がおられて、日本の軍人はなぜあんな戦争をしたのか質問をしたところ、「日本の将校は孫子の兵法よりも、ドイツのクラウゼンビッツの戦争論を研究していた」という答えであった。私は古今東西の兵法書の中で、孫子の兵法ほど秀れたものはないと思っている。それは、余分なことを論ぜず。徹底的に戦争の原理を追求したものであるからで、対立ないし、闘争の原理を述べたものとしては、これほど深いものはなく、それだけに孫子には秀れた世界観がある。 岡田武彦 著『孫子新解』 左は初版本で日経BP社、左は岡田武彦全集で明徳出版社 ヘリゲルの弓術論 昭和十五年か十六年頃、恩師が「この本は面白い」といって、小冊子を私に見せられたことがある。それはオイゲン・ヘリゲルの『弓術の話』の日本語訳であった。ヘリゲルは弓道の根本を技術の錬磨に求めず、禅の無心の心、無我の心に求めたが、私自身はそれを禅の心に求めるには反対で、むしろ宋明理学の心に求めるべきものであると考えている。ともあれヘリゲルの考え方は私の学風と密接な関係があるので少しヘリゲルの弓術論を紹介しておこう。 ヘリゲルはドイツ人でリッケルトの門人であって、元々、合理主義で哲学者であり、一面キリスト教神秘主義者のエックハルト・ベーメなどの研究家でもあった。たまたまドイツに留学にきていた仙台の第二高等学校(旧制)のドイツ語の教師に日本精神を研究したいと相談をしたところ、「日本に来て弓道をやればよい」と日本行きを勧めたという。 やがて彼は哲学、ギリシャ語、ラテン語の教師として東北大に来ることになった。ヘルゲルは五か国語に通ずる学者であったが、熱心に東北大の学生を指導したらしい。来日したヘルゲルは阿波師範のもとで弓道を習い、夫人は花道を習った。初心者は藁ずとに向かって矢を射る練習をするのであるが、(中略)阿波師範とヘリゲルとのやり取りの中から腕の力から丹田呼吸、技術の錬磨から無心の心へと悟りを開くのである。ヘリゲルはそこで始めて、弓道の根本は技であるのではなく心、すなわち無心の心にあることを悟り、帰国後、禅を本にし、キリスト教の神秘主義の言葉を雑えて日本の弓道を解説した書物を著し、これをヨーロッパに普及させた。ヘリゲルは弓道を学んで日本の神秘主義の神髄を悟ったのである。 恩師と東大 ある日、恩師は私に、「東大から帰ってこないかといってきた」といわれた。私は「九大生には高校出身者が少なく、東大生はすべて高校出身者ばかりであるから、ぜひ東大にいってほしい」といって嘆願した。私が恩師に東大行きをお勧めしたのは、一つは「恩師には西洋哲学者を惹きつけるほどの学識があるから、東大で講義されるようになれば、その教え子の中から新しい哲学を創造する者がでてくるのではないか」と考えたからである。恩師もまた思うところがあったのか決意をされ、東大の要請に応じて学位論文を提出し、博士号を取得された。しかし、恩師は東大には移られなかった。「東大に行けば俸給が二桁下がるということである。そういう権威主義のところには行かぬ」といって、頑として拒否をされたのである。恩師は定年まで九大で過ごされたからこそ、学問が深潜緻密になって名著を遺すことができたのである。 福岡に赴任 修猷館 7.戦中・戦後時代 わが家の異変 日中事変がだんだん泥沼にはまり込んで行くのと時を同じくして、家内の肺結核も徐々に悪化していった。 その頃、私は離婚した妹の紀子(としこ)と母を手元に呼び寄せていた。妹は私より六歳年下で、子供の頃はよく喧嘩したが兄思いで、きょうだいの中では私と最も仲がよかった。妹は郷里で幼稚園の保母をして母と一緒に暮らしていた。妹は結婚生活が不幸であったので、彼女を離婚させて福岡に呼び寄せた。母も次兄が韓国の京城の女学校に転勤することになったので次兄とともに渡韓する事になっていたが、母が老いて異国の地に行くのを不憫に思った私は、自分の手元に呼び寄せる事にした。しかし、結果的に二人に家内の看病をさせることになってしまった。 当時、私は百円余りの俸給をもらっていたが、その三分の一を薬代に支払っていたので、母と妹と女児二人を抱えた生活は決して楽ではなかった。 家内はついに結核性腹膜炎を併発して容態が悪化した。苦しがるので、医師の指図通りに麻酔薬を注射したところ、昏々と眠り続けた。その夜、隣室に寝ていた私は呼び鈴の音で目が覚めた。急いで病室に入ってみると、家内はすでに胸の上に両手を合掌して眼を瞑っていたが、やがて永遠の眠りについた。呼び鈴は枕辺にあったとはいえ、手の届かないところにあったのに、どのようにして彼女がそれを押したのか不思議でならなかった。彼女の霊魂がそうしたのかもしれない。 思えば長い間の闘病生活であったが、家内は気性の強い方であったから、病気のことで私に苦情や苦痛を訴える事はなかった。二人の女児には心残りがあったであろうが、臨終のときには、彼女の姉妹に別れを告げて静かにこの世を去った。ときに昭和十六年四月二十二日であった。 妹は恩師の世話で九大の法学部の事務員になったが、恩師より嘱望されてアメリカ帰りの恩師の従兄、浜本静修(しずのぶ)と結婚することになった。 家内の死後、女児二人の世話を老母に託せざるを得なくなった。こころの定まらぬまま、恩師ご夫妻の仲介によって、今の妻と結婚することになった。 私が余り健康でない上に、彼女もまた長年肺結核を患った経歴の持ち主であったために、いつもお互い健康に注意しなければならない羽目になった。因縁と言えば因縁である。女児二人と母のいるところに嫁いで来たのであるから、彼女も神経を使ったようである。まもなく長男、靖彦が生まれた。 私もときどき病臥することがあった。微熱が出るとしごく気分が悪いので読書もしない。そういうときは、庭の芭蕉の葉の縁がガラス窓を通して廊下に映るのや、それが明かり障子に蔭を落としているのをじっと凝視しては思いに耽ったものである。そのときは、よく過ぎしわが人生を想起しては、追体験して、「この追体験にこそ人生がある。健康な人はただ日々、心身を駆使するだけで追体験する機会がない。こういう人々に果たして人生があるのだろうか」と思った、また、「天は万人に平等に恵みを与えてくれている。身体の虚弱の人にはそれにふさわしい恵みがあり、不幸な人にはそれにふさわしい恵みがある。要は、それを自覚するかしないかにある」と思ったりしたものである。 長崎へ転任 家庭事情から環境を変える方がよいと思って、私は福岡から離れる決意をした。幸い姫路中、姫路高同窓の吉田豊信君が福岡県秘書課長となって赴任して来たので、彼の斡旋で創設の長崎師範専門学校に赴任することになった。それは昭和十八年四月のことである。 その頃になると太平洋戦争もだんだん日本に不利となって日本敗戦の兆候が明らかになってきた。学校でも軍事訓練が盛んに行われた。また、生徒を軍事工場に引率することも多くなった。 昭和十九年になると空襲警報が鳴り響き、そのたびに私たち家族は防空頭巾を被って防空壕に避難した。ときどきB二十九爆撃機が飛行機雲を曳きながら大村の海軍飛行場を爆撃した。学徒も動員され戦地に向かうようになった。壮行会のときに、教職員一同、あの荘重な信時潔(のぶとききよし)作曲の『海ゆかば』の歌を、万感の思いを込めて高唱して彼らを見送ったときのことは、忘れようとしても忘れることはできない。 ※海ゆかば 軍歌・準国歌 mjrkwe1945チャンネル YouTube動画 ※【竹田学校】音楽・軍歌②~海行かば~|竹田恒泰チャンネル2 YouTube動画 向井去来 長崎では、その他に忘れることのできない思い出がある。昭和十九年の二月、その日は散歩によい小春日和であった。私は蛍茶屋から氷見峠を登ってニ十分ほど歩いて頂上に達し、そこにあるトンネルを通り抜けた。すると眼界が一挙に開けた。トンネルを抜けて、しばらく下り坂を歩いていたところ、路傍の小高いところに、一本の梅の木が数輪白梅を匂わせているのが眼にとまった。そこにいってみると、木の枝の蔭に石碑があった。よく見ると、 『君が手も見ゆるなるべしかれすすき』 と刻してあった。眼を峠の下の方に移すと枯れ薄が靡く野原が展開していた。去来が故郷の人々に見送られて、ここで別れを告げて一人で坂を下って行ったとき、ふと顧みると、枯れ薄の中に別れを惜しむ見送りの人々の手が見えたのでそのときの感慨を述べたものであろう。 ※向井 去来(むかい きょらい、慶安4年(1651年)- 宝永元年9月10日 (1704年10月8日)は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。本名は兼時、 幼名は慶千代、字は元淵、通称は喜平次・平次郎、別号に義焉子・落柿舎がある。 写真『応々といへど敲くや雪の門』 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 熊本に転任 私は長崎に来るとき、蔵書は福岡の家内の家に保管してもらい、『朱子語類』 『朱子文集』『宋元学案』『明儒学案』及び『節宇遺稿』だけを持参した。そのためにこの五部の書物だけは幸いに空襲から免れた。 長崎でも私は勉学に励んだが、空襲警報が鳴り響く情勢下では勉学どころではなかった。これなら思い切って軍の学校に勤務した方がましだと考え、昭和二十年一月、熊本幼年学校に転任した。時世が時世だけに、教室での授業は余り行われなかったが、軍の学校だけあって授業はしごくやりやすかった。熊本も他市と同じように夜の空襲を受け市街は炎上したが、幸い私の家は災害を免れた。 広島に原爆が投下されたことはいち早く報らされたが、日本でもこういう爆弾の研究をしているということは仄聞(そくぶん)していたが、アメリカに一歩先んじられたのであろう。 戦争も末期になったある日、教室で授業中、突然、空襲警報が鳴った。グラマンが山あいを縫うて侵入してきて、学校周辺の村を爆撃したのである。生徒を校庭内のタコツボに避難させ、私自身その後ろから走って避難しようとしたところ、突然、グラマンが頭上に見えたので、急いで地に伏せたとたん銃撃された。幸い弾は足許を掠めただけで命拾いした。 長崎に原爆が投下されたとき、私はちょうど校庭から西の方の空を見渡していたが、突然、鈍い音が西の方から聞こえたかと思うと、きのこ雲が西方の空に拡がるのが見えた。私が長崎に勤務していたらおそらく被爆していたに相違あるまい。これも運命である。 昭和二十年八月十五日、ラジオの前で終戦の玉音を聞いたときは、泣けて泣けて仕方なかった。 飛行するアメリカ海軍のグラマンF6F-3(艦上戦闘機ヘルキャット) (第36戦闘飛行隊所属、1943年撮影。) 岡田先生は米国海軍の艦上戦闘機グラマンF6F に機銃掃射をされたと推測します。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 広島の平和祈念公園・原爆の子の像 広島の原爆ドーム 1945年8月15日8時15分この上空約600mで原子爆弾が爆発し、約14万人、当時広島の人口の33%の方が亡くなられた。 長崎の平和記念像 1945年8月9日11時2分この上空約500mで原子爆弾が爆発し、約7.4万人、当時長崎市の人口の31%の方が亡くなられた。上空を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、軽く閉ざした目は、戦争犠牲者の冥福を祈っている姿を表している。 名 医 終戦後の生活は逼迫していて、日本の全国民は飢餓状態であった。当時の修猷館長、大内覚之助先生から「もう一度修猷館に帰ってこないか」と誘いを受けて、ひと先ず、二十一年四月修猷館に単身赴任することになった。それより一年後、家族と一緒に、今の大野城市白木原にある家内の姉の借家に住むことができるようになった。食料不足のために畑で慣れない野菜作りをした。家内も石鹸売りをして生活費を補った。 ある日、突然、熊本で生まれた次男、修(おさむ)が疫痢で急逝した。当時食料状態の悪化で幼児の体力が衰えていたこともその原因の一つであった。近所の医師に応急の処置をしてもらい、私も医師も最初の処置が功を奏したように感じて安心したのが悪く、ついに死に至らしめてしまった。昭和二十三年六月二十五日のことであった。「ポンポンが痛い」といった子供の声は、生涯、忘れようとしても忘れることができない。 一週間後、長男の靖彦に疫痢が伝染した。今度は疫痢の神様といわれた元の九大助教授で、のちに久留米医大の教授になられた原実先生の診断を仰いだ。すると、必ず治るといわれ、回復の経過までも予言されたが、まったくその通りになって子供は生命を取り留めた。先生の名診察ぶりにはその後も驚嘆させられることがよくあった。病気は名医に診せることに越したことはない。これは芸術も学問も同じで、世界第一等の師につくことがなりよりも大切であろう。私も第一等の師に学ぶことができたことは人生における最大の幸福であった。 次男の死亡で家内は精神的に大きなショックを受けた。そのために家庭内もいろいろなことがあったが、修猷生がよく遊びに来るし、私も家庭で研究会をひらくなどしたので二人にとっては、それだけがせめてもの慰めであった。 中国文学 私の九大生の頃は中国文学専門の教授がおられなかったので、教養不足を感じていた。高校、大学時代は、文学ものはもっぱら国文学関係を読んでいて、中国の文学作品はそれほど熱心に読んだことがなかった。 ただ漢詩については相当興味があり、その中で陶淵明には深く心を寄せていた。そのために陶淵明の伝記と詩についてのノートを作ったことがある。晩年、長崎の活水女子大で講義した場合でも、陶淵明の講義は欠かしたことがない。世の陶淵明論者を見ると、私にはどうも淵明の思想に対する理解が十分でない様に思われるので、いつかはこの面から陶淵明論を書いてみようと思ったこともある。 私は淵明の「心遠」の二字をよく揮毫したものである。神通中学出身の高松敬冶君が、確か警察庁の刑事課長をしていたときではなかったかと思うが、庁内のことで多少厭世的になったらしく、彼はある日、淵明の「心遠」を慕う旨の便りを寄こした。私は彼がこの二字に隠遁的境地を託しているのが気になった。そこで宋の胡文定の「心遠説」を紹介して彼を激励した。 或は古人を尚有とし、 或は志天下にあり、 或は慮 り後世に及び、 或は人の知るを求めずして、 天の知るを求む。 皆いわゆる心遠なり。 私の住んでいた白木原の近くに、九大中国文学の教授、目加田先生が住んでおられたので、私はよく先生のお宅を訪問し、先生もまた拙宅を訪問され、ともによく散歩した。先生は文学性が豊かで、中国文学ばかりでなく日本の文学や芸術にも造詣が深かった。日本に中国文学者は多いが、豊かな文学的才能に恵まれた学者はごく稀である。私は先生に接してこの面でどれほど啓発されたか分からない。 ※慮(おもんばか)り 高校新聞発行 日本では、敗戦を境としてアメリカの民主主義が喧伝せられ、そのために学校の気風も大きく変化した。その結果、修猷館の生徒も個人の主体的活動を尊重するようになったが、一般的には文学的思考を持つ者が多くなった。当時、私は余り健康な方ではなかったので、校友会もやや虚弱体質の生徒たちのグループの指導にあてられた。 ある日、彼らの中の有志が、修猷館新聞を発行したいと申し出てきた。その意気込みたるは壮といわねばならぬ。最初は私的にガリバン刷りで発行していたが、やがて新聞部が正式に校友会の部に認められるようになって、改めて新聞を発行することとなり、私が初代の新聞部長になった。すべてズブの素人がするのであるから大変な苦労を伴った。GHQの許可や新聞社の専門家の指導を仰がなければならなかった。資材の購入、印刷、販売などは生徒が一手に引き受けて行った。私は彼らの目まぐるしい活躍に舌をまいた。修猷館新聞は生徒が発行した新聞としては九州では初めてであり、関西以西では第二番目であった。 福岡県立修猷館高等学校 校舎南門側 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 技と心 戦後は食糧事情が逼迫していたために人々は食生活に追い廻されていた。だから文献を漁る研究などできるような時世ではなかった。時代風潮もまるで百八十度転換したように大変化をきたしたので、若い人々の人生観、社会観も揺れ動いていた。その中で私は、ヘリゲルの『弓術の話』によって教えられた体認の道を探るために、先ず日本の武道芸術の精神を研究することにした。そこで、柔剣道の書や茶道、能楽に関する文献を読み漁り、そして、中国の『荘子』『列子』 の中に出てくる名人芸に関する寓話を読んで。「技と心」と題する論文を書いた。この論文は九大文学部発行の機関紙『哲学年報』に発表したが、この中で私は超越思想と芸術の関係、技術と精神との関係を論じた。この論文はその後書いた多くの論文の中でも最も独創的であったと思う。 この作業を通じて私はますます体認の学の重要性を痛感する様になった。そして、そこに私の少年の頃からの悩みを解決する関鍵があるように思われてきたのである。 8.九州大学時代 読書の会 戦後の日本の教育制度で私が最も遺憾に思うことは、アメリカのGHQの命令で教育制度改革が行われ、旧制高等学校が廃止されて、新制大学が創設されたことである。 新制大学は昭和二十四年に発足したが、私も恩師の尽力で九大の新制大学の教養学部に勤務することになった。ようやく念願の研究生活に入ることができた。体認の学を信ずる私にとっては、研究生活の点からいえば、余り恵まれなかったが、その当時の苦しい生活体験は決して不利ではなく、却って有利に働いたのではないかと思う。 私は相変わらず大野城市に住んでいたが、ときどき学生が来遊するので心は必ずしも索漠たるものではなかった。田坂君とカントの『第二批判』を読んだのもこのときである。また、九大の卒業生や学生ら数人と『論語注疏』の読書会を作り、私宅の二階でこれを一緒に読んだこともある。炊事するときの煙が畳の隙間から上がってくる中での読書会は思い出深いものがある。 次男、修が急逝したので家庭内の空気は重ぐるしく、そのためにいろいろなことが起こったが、私自身、精神的に苦しくなると、いつも二階に上がって机に向かって読書したものである。私にとってはこれが心を慰やす最良の方法であった。また、健康の問題もあって、何か悩み事や思索の行き詰まりがあると、よく臥思したものである。私の人生は積極的な社会活動の中にあるというよりも、むしろ臥思にあったといっても過言ではあるまい。 高眠斎 昭和二十八年の真夏、私たち一家は、大野城市から福岡市大橋の県営分譲住宅に引っ越してきた。家の籬(まがき)に植えられた木以外は一本も木がなかった。そこで、私は裏山から柏や樟の苗をとってきては家の周囲に植えて庭作りに励んだ。暑さよけに、中哲専攻の熊本・佐藤・福田の三君に手伝ってもらって藤棚を造った。 住宅は六人家族の住宅としては手狭であった。やがて家内の工面で六畳の離れを造りそれを書斎にした。私の希望で茶室風に造った。些か「明窓浄机、香を焚いて書を読むといった古の読書人気取りになり、この部屋で香を焚き抹茶を飲んで読書した。」 生活は相変わらず苦しかった。洋服も新調できず、ときどき質屋に行って古物を購入してこれを着た。私が初めて洋服を新調したのはそれより十数年後、ニューヨークに行くときだった。このように貧乏生活はしていても、心の中では淵明の「心遠」の二字が往来していた。ある日、北宋の哲人で詩人である邵康節 (しょうこうせつ) の詩集『伊川撃壌集 (いせんげきじょうしゅう) 』を読んでいたところ、 貧苦と雖 (いえど) も高眠に碍 (さまた) げ無し という句を見出しわが書斎を「高眠斎 ( こうみんさい) 」と命名し、それを雅号にも用いた。私は恩師からよく書画骨董を拝受したが、宛名は必ず「高眠斎主人」となっていた。 その後、私は「唯是庵 (ゆいぜあん) 」「斯人舎 (しじんしゃ) 」の雅号を用いるようになったが、それは、そのときそのときの私の心境を表わしたものである。 高眠斎の岡田先生 明末の儒学 九大に入って、初めて研究に専念することができるようになった。私は自分の思想上の課題を解決するために体認の学を志向していたので、宋明朱子学派もさることながら、特に体認を主とする陸王学派の研究に力を入れた。しかし最も力を注いだのは明末の儒学の研究であった。幸いにもこれらの研究資料は、主として恩師のお宅や九大の研究室に所蔵されていたので、思う存分研究に没頭することができた。 私がなぜ明末の儒学に強い関心を寄せたのか。それは当時の朱子学者や王陽明学者が政治社会の腐敗、国家の危殆に瀕する中にあって、深刻な体認の学を修めたことを知ったからである。 明末の儒学は陽明学派、新朱子学派、及び新陽明学派に分かれるが、陽明学派には左派(良知現成派)、右派(良知帰寂派)、正統派(良知修証派)の三派がある。左派は、「良知は何人にも完全に備わっているから即座にそれを悟り、それを信ずるようにせよ」といって良知の現成を唱えた。右派は良知を本体と作用に分け「本体は静寂なものであるから、心を静寂にして本体を立てるならば、自然に偉大な作用が生ずるようになる」といって良知の帰寂を唱えた。正統派は「本体は修行によって始めて証せられるものである」といって良知の修証を唱えた。特に陽明思想の左派の思想が明末を風靡したが、同時にまた、著しい弊害を生じた。 これを除いて明末の社会を立て直し、国家の履滅を救わんとして立ち上がったのが新朱子学派である。その中には陽明の講友、湛甘泉 (たんかんせん) の一派の他に、堕落した政治家と争って悲壮な死を遂げた東林学者がおり、また陽明学を修正し、宋明の学を集大成して、国土の滅亡ととともに自らわが命を絶った新陽明学者、劉念台がいた。私は東林学者、高忠憲の『静坐論』と、劉念台の『誠意論』に最も心を惹かれたが、別けても彼らの悲壮な殉節は私の心を痛く打った。 高忠憲は非東林党の不当な弾圧に抗して真冬の最中にわが庭中の池に投水自殺したが、そのとき水中に直立し、一方の手は岸にかけ、一方の手は胸にあてて従容として死んでいった。遺書の中には、 「心は太虚と同じで、本来、生死はない」 と記してあった。 劉念台もまた、国土の滅亡に殉じてわが生命を絶った。臨終に際し、 胸中、万斛 (ばんこく) の泪あり。半ばこれを二親に灑 (そそ) ぎ、半ばこれを君上に灑ぐ と述べ、門人が、先生の苦しみは如何ばかりでしょう、というと 「孤忠耿耿 (こうちゅうこうこう) 」 といった。 私は念台の行状を読んでここまで至ったとき、滂咜 (ぼうだ) として涙の流れ落ちるのを禁じえなかった。 深刻な体験を本にした陽明門下や、東林学派の顧憲成・高忠憲、及び劉念台の思想や学徳は幕末維新の朱子学者、陽明学者に大きな影響を及ぼした。 昭和三十年頃、恩師より学位論文を提出するようにいわれたので、私は『明末の儒教』と題する論文を書いて提出した。私の著書『王陽明と明末の儒学』はこれを梓に上せたものである。 ※孤忠耿耿(こちゅうこうこう): 孤独な忠誠心 ※滂咜:とめどなく流れ出る ※梓(し)に上(のぼ)せた:書物を出版する 書画骨董 私は九大に務めるようになってから、週に一回か二回、恩師の宅を訪問し、時には昼食だけではなく夕食さえもご馳走になることがあった。温潤良玉のような先生に接すると、一時でも多く先生の側にいたい気持ちにかられたからである。そのためご夫人には大変ご迷惑をおかけしたことと思う。町育ちの妻は私の田舎っぺの気のきかぬ、こういう欠点をいつも指摘して私に忠告をした。 晩年になるにつれて恩師は骨董の話をされることが多くなり、そのために所蔵の骨董をよく見せていただいたものである。私も先生のお供をしてよく骨董店巡りをした。こういうことから私は宋明時代の骨董に関心を持つようになったが、それによって、文学はいうまでもないが、その時代の書画や陶磁がその時代の精神と不離の関係にあることを知るようになった。私は高価なものを買う資力がないからなるべく下手物を買い、また掘り出し物を見つけるようにした。ときには贋物も掴むがそうでない場合もある。 日本の古い陶器や中国の陶磁器を見ているうちに、私はそれを通じて。日中の思想文化、民族性の相違に思いを致すようになった。 ※温潤良玉 (おんじゅんりょうぎょく) :温かく優しい性格 静坐説 私は最初、陸王学を好んだけれども、やがて、 「それだけでは、ややもすれば主観に陥って客観性を失う惧れなしとしない。だから客観性を強調する朱子学を受容しなければ偏向を免れない」 と考えるようになった。 西洋学に対する朱子学の本領は、その奥にある東洋的なところにあるのではないかと思う。こういう点を深固にしたものは、陸王学をした超克した明末の新朱子学である。特に高忠憲の学はこの点で注目すべきものである。 忠憲の学問の眼目は静坐論にある。それは西洋的な理性中心の思想を受容して、しかも、その根底となっている人間の主体性を端的に樹立し、培養する道を示したものである。そもそも人間の主体性は宇宙の根源としての実在であるべきである。これを端的に樹立するには静坐より他に道はない。私はこのように考えた。そのために静坐に注目したのである。 私が静坐に注目するようになったのは。戦後の大学生や知識人を見て、議論は華やかであっても主体性が欠如しているのを痛感したからである。 ただいえることは、真知という点からいえば西洋学は間接的であり、東洋学は直接的である。だから、この点では前者は末、後者は本ということができよう。また、静は動の本となり得るが、動は静の本とはなり得ない。だから人間の行動、心情の根源は静にあるというべきである。したがって静処で人間の本性を養うことが何よりも重要である。これは私だけの考えではなく 「宋明の儒者たちが老荘や禅などを通過して得た考え方に従ったものである」 といってもよい。 万物一体の仁 あるとき私は、当時高校生であった長男、靖彦に次のようなことをいって聞かせたことがある。 「人間はみな自分一人では生きて行くことはできない。みんなの協力のお蔭で暮らして行けるし、生きて行けるのである。だから自分も人に協力するように心がけねばならない。といっても、取り立てていうような大げさなことをする必要はない。自分の環境や才能に応じて、自分のやれることを一生懸命やることが、みなに対する協力となるのであり、恩返しになるのである」。 ここに述べたことは、実は王陽明の「万物一体の仁」に他ならない。「万物一体の仁」ということは宋代から述べられたが、これを集大成したのが王陽明である。それは孔子の仁思想の最も円熟したものであり、儒教道徳の最高の境地を述べたものである。 「静坐とは、実はこのような仁の体認を求める道に他ならない」といって過言ではない。 私が読んだ小説の中で強い印象を受けたものがある。山本周五郎の小説がその一つである。周五郎の『新潮期』の中に出てくる次の物語は、まさに「万物一体の仁」を述べた他にならない。 芸者梅八は、自分は自分の芸だけを磨いておればよい。世の中がどうなろうと自分には関係がないという考えを持っていたが、彼女はあることからこれを反省し、自分も世の中のことを考え直すようにしなければいけないと思うようになった。世の中というものは、人間が集まってできている。どんな生業をしようとも、世間と関わりなしに自分一人で生きていられるものではない。梅八は今沁み入るようにそのことを思った。 世の中に生きて、目に見えない多くの人々の恩恵を受けるからには、自分も世の中に対して、何か返さなければならないだろう。自分はそれをしたであろうか。 楠本端山 昭和二十九年のある日、恩師は、『楠本端山先生遺書』を私に示して、 「これは私の祖父 (じい) のものである。読んでみなさい」といわれた。私は早速それを一読して驚嘆し、それによって、「道統我にあり」との自覚を持つとともに、いよいよ静坐をもって学の宗旨とするに至った。 端山は平戸藩の藩儒で、藩命により江戸に上って佐藤一斎に師事したが、実際はその高弟、吉村秋陽と大橋訥庵の講義を聴いて痛く感銘し、それより二人の教えを受けたが、特に訥庵 (とつあん) の影響が大きかった。端山は 「この人に遇っていなかったら、一生を空しく過ごしたであろう」というほど訥庵に傾倒した。しかし、その後、秋陽や訥庵の行動に疑わしいところがあるのを感じたので、晩年には交わりも疎遠となった。 端山は四人兄弟で、端山と次の弟、碩水も有名である。端山も碩水を通じて蒙斎に私淑し、そこに流れる崎門の三宅尚斎派の学風を継承した。端山は、身心の修行とする朱子学を説いた崎門学を身に付けるようになった。端山は静坐によって仁を体認し、それを詩文、政治に表した。 碩水は固く崎門の名分論を信じ、そのために大名に仕えることを潔しよしとせず、若いときに致仕して、郷里の針尾島に隠退して講学と子弟の教授に務めたが、端山は政治の要路に立ち、幕末維新の平戸藩政に大功を立てた。 『端山遺書』を読んで感激した私は端山の学術思想の研究を始めた。恩師が「九州儒学思想」の研究を始められたので、私たちもこれに参加し、私は特に請うて端山の研究を行った。その成果は別冊として刊行された、これを一読された、当時の京都大学の西谷啓二教授から私信を恩師に寄せられた。「随分秀徹した問題が、過去に於いて、然も地方で思索されていたことに驚いた次第です。各地方で同じ様な紹介がなされていたら、日本の精神史も別な観をなすかも知れぬと感じました。中略」。 その後、私は、端山の思想こそ今後の日本人の指針となると信じ、これを世に紹介しようと決心し、恩師から新たな資料を拝受して昭和三十四年一月、『楠本端山-生涯と思想』を出版した。私はこの書物をお自費で出版すべく、骨董品を売却し、生活費を切り詰めて費用の捻出を図ったが、家庭の諸事情によりその方に費用がかかり、出版も難航したが、恩師の令息、韶君の協力を得て初志を果すことができた。 幕末維新の朱子学 私は、端山の学が、深潜、緻密、透徹という点では、幕末維新の学者中、第一等ではないかと思った。端山についての著述をする前に、当時、端山・碩水らと交友の間柄であった吉村秋陽、大橋訥庵、並木栗水、東沢潟、林良斎、池田草庵、春日潜庵の著書や彼らの往復書簡を読んで、これらの朱子学者、陽明学者が当時の思想界に重要な地位を占めていることを知るに至った。 これらの儒者が従来のものと異なるは、動乱期の明末の新朱子学、新陽明学を受容し、同じく動乱期に際会して、深切な体認の学を宗として実社会に活躍したところにある。然るに従来、これらの学者は日本の思想史家から余り顧みられなかった。それは彼らに明末の儒学思想に対する知識が欠如していたので、これら諸儒の思想が理解できなかったからである。 右に挙げた幕末維新の朱子学者、陽明学者の思想の重要性を痛感した私は、それを世に紹介するとともに、またアメリカでの国際学会にもこれを紹介した。 長崎県知事と端山 『楠本端山-生涯と思想』が出版されてからまもなく、昭和天皇が長崎県を巡行されることとなった。その行路に端山・碩水の生家がある針尾島葉山が含まれていたので、恩師から、この書物を陛下に献上するようにとの話があった。 私は早速、佐藤勝也長崎県知事に面会して書物の献上をお願いし、知事にも一冊贈呈した。文化人であった知事はこれを読んで大いに感ずるところがあったらしく、端山の「静坐体認」をもって政治の根本理念とするとともに、端山・碩水顕彰に努力をしてくれた。その結果、地元の佐世保市でもまた、顕彰に努力してくれるようになった。その後、坂田親和銀行頭取、本田佐世保市立図書館長、辻佐世保市教育長、当時の大村研修所長などの並々ならぬ熱意によって、恩師が生前切望しておられた、端山・碩水の墓は文化財として、また端山の旧宅も修繕の上保存され、端山・碩水が建てた「鳳鳴書院」も復元された。 私も佐世保市と東京の斯文会で端山・碩水の学術思想についての講演を行い、その顕彰に努めた。私は、端山らの顕彰という意味からでも大村研修所に東洋思想研究所ができればと思い、知事や同研修所長と謀ってその実現に努めたが、不首尾に終わった。 書院学設立の必要性は今でも痛感している。ともあれ中国大陸に最も近い九州に東洋思想研究所がないのは如何にも寂しい。 油絵を習う 母は、私の次男が亡くなった年に佐世保市早岐の妹のところで死去し、私が軽い肺結核を患って入院療養した頃には、妹夫婦も一人の娘を遺してすでにあの世に旅立っていた。私は約八ヶ月間の入院と家で半年余りの療養生活を送っていた。これを好機として、長兄の忘れ形見である良子の行方を探索したが、結局見つからず徒労に帰した。 私が肺結核で入院療養したのは五十歳のときであったが、廊下を隔て隣の部屋のベッドに、偶然、倉知憲夫画伯が入院していた。たまたま画伯がベッドの上で絵を描いていたのを見たので、私は生意気にも東洋画と西洋画の相違を述べ、東洋画の線と空間の素晴らしさを挙げて「こういうものを絵に採り入れられた方が良くありませんか」と述べた。私は特に宋明の絵に興味があったのでこういうことを口走ったのである。戦後日本人が西洋絵画ばかり興味を持って、水墨画のような東洋の精神的絵画を軽視したために、これに対する理解が殆どできなくなっていることに不満を抱いていた。といっても私は西洋美術に興味がないわけではない。昭和四十一年、アメリカからの帰途、わざわざヨーロッパを巡って各国の美術館の見学に二十数日間を費やしたのである。 倉知画伯と絵画の話をしているうちに、画伯が私に「絵を描いてみないか」といったので気晴らしに試みたところ、案に違わず、描いたものは小学一年生の絵にも及ばぬものであったが、退院間際に油絵の描き方を教わり、退院後、一度試みて指導を受けた。東京から帰ってから三点の絵を描いたのである。早速それを画伯に見せたところ「良いでき栄えだ」と賞められた。 絵は技術ではなく心だ、ということを改めて痛感した。 旅行するときには必ずスケッチブックを持参することにした。そうしているうちに絵心というものが少しずつ解ってくるようになった。 東洋精神の立場からいえば、本来、真善美は分けることができない。したがって、真の善は必ず真の美でなければならない。私たちが常に優秀な芸術作品に親しむことが、真や善を求める場合にも大切であることが分かる。 岡田先生の油絵・明石海岸 岡田先生のスケッチ ロンドン・テムズ河畔 9.恩師・楠本正継先生 入院療養 恩師は定年退官される数年前に、米国ロックフェラー財団より奨学金一万ドルを受けられて、『宋明儒学思想の研究』を纏められることになった。これは恩師を敬愛する教育学部の平塚教授の斡旋によるものである。恩師は三年間で原稿を纏められたが、それは長年、練りに練り上げられた研究成果であった。 恩師の研究には私たちも参加させてもらった。私は自分から申し出て、恩師所蔵の稀覯本 (きこうぼん) で、世界にただ一本しかない、『朝鮮写本徽州刊本朱子語類』を中心に、明の弘治版本を参考にして、現行の『和版朱子語類』の校勘 (こうかん)※1 を行なうことにした。私はその後、これを影印して世の専家の研究の資に供することにした。語類の校勘は助手の佐藤仁君、大学院生の福田殖・中川嘉彦の両君に、夏休暇二ヶ月間、毎日一人ずつ交替で恩師の研究室に来てもらって一緒にこれを行なった。このようにして一応、『朱子語類考勘記一』の草稿ができあがった。 やがてこれは刊行されたが、たまたま私は喀血して一年間入院治療しなければならなくなった。別に心配するほどのことではなかったが、恩師は非常に心配された。恩師はよく病院に見舞いに来られたが、ある日、宋代の古端渓の硯を入手したというので、自らその拓本を作って病院まで持参された。この硯は恩師が亡くなられるとき、遺言によって私に贈られた。私は今なおこれを大切に保持している。私の書斎の床の間には恩師の写真と、学資の給与を受けた渡辺氏の写真が並べて掲げてあるが、恩師の写真の前にはこの硯と中国元代の青磁の硯屏 (けんびょう)※2 を置いている。私は著書を出版するたびに、いつも香を焚いてお二方の写真にこれを供えるようにしている。 ※1 校勘:古典などの複数の写本や刊本を比較検討して、本文の異同を明らかにしたり正したりすること。 ※2 硯屏:硯の側に立て、風による塵や埃を防ぐ小さな衝立のこと。 二つの道 前に述べたように、恩師はロックフェラー財団の奨学金を受け、三年間で『宋明時代儒学思想の研究』の原稿を纏められたが、この成果は財団の方で出版してくれるものと信じておられたようである。ところが、出版はしないということになった。それは出版に値しないとみなされたからであった。当時のアメリカの学者には、思想家の体験を逐ってその人の思想を理解するという、恩師の画期的な学風を理解することは無理であったらしい。 当時、私は自分の研究成果は文学部発行の機関誌『哲学年報』に発表することができたが、中哲卒業生には自分の研究成果を発表する機関誌がなかった。そこで私は、「九大の中国哲学の発展のためにぜひ機関誌を発行して、卒業生が自分の研究成果を発表できるようにしたい」と思い、資金の調達を渡辺斌衡氏に依頼したところ、快諾を得たので、『東洋の理想と叡知第一巻』を発刊した。 目次と執筆者は次のとおりである。 二つの道 楠本 正継 東洋思想の現実と理想 岡田 武彦 延平答問を読む 猪城 博之 朱子の生涯とその思想 佐藤 仁 詩人と香炉外一篇 ポール・クローデル 石 進 訳 「二つの道」は恩師が退官のとき文学部の会議室で話されたのを記載したもので、これが恩師の最後の講話となった。「二つの道」は思想上から見た中国の道を、現実的なものと理想的なものとの二つに分けて述べられたもので、恩師が蘊蓄(うんちく)を傾けて説かれたものである。晩年、私も中国の道を論じたが、私はこれを「三つの道」とした。西日本新聞(風車の欄)に次のような書評が記された。 『東洋の理想と叡知』という書物が発行された。発行元は福岡市の東洋思想研究会である。中国哲学専攻の九大名誉教授楠本正継氏、同じく九大教授岡田武彦氏ら五氏の論文を収録したもので、定価は三百円である。 戦後、日本の哲学者、文学者たちの目は、一斉にアメリカとヨーロッパに向けられた。サルトルをはじめとして、西欧哲学の吸収にきゅうきゅうとして寧日なかった。そのかげに、日本に最も影響を及ぼし、日本人の血肉となっている儒教を中心とする東洋思想は、それが封建的であるというだけで極度に疎外されはじめた。今日なおその傾向は改められずに至っているが、本書は、 東洋文化の精神的遺産こそ回復させるべきであるとして、刊行されたものである。編集者の佐藤仁氏は、後記のなかで、「わが国の思想界の現状は、東洋の過去に対して極めて冷淡なばかりか、封建的という、たった三字で、数千年にわたる東洋の精神文化をすべて破棄しようとしているかのごとく見受けられます。それならば、現代的であるはずの西洋が、近来とみに東洋の過去に対して関心を寄せているのはなぜでしょうか。 中略 両洋相たずさえて人類共通の課題を解決して行くために、東洋の長所をはっきりと認識し、それを広く世界に紹介するのが、われわれ東洋人に課せられた重大な使命である」と自負の一端を述べている。 出版の苦労 恩師が纏められた『宋明時代儒学思想の研究』の出版のために、私はできる限り努力したが、思うように事が運ばなかった。もちろんこれは恩師の許可を受けてやったことである。 ・ある人を介して岩波書店にも交渉したが、不首尾に終わった。 ・平塚教授相談して同志に奉賀帳を廻して出版援助金を募集することにし、出版社は平塚教授の斡旋で千葉の広池学園に決定し、楠本先生には賛成を得た。 ・そのとき私は、僅かであったが自分の貯金をすべて引き出して恩師の名義で貯金し、その通帳を恩師に渡して、「必要資金の半分にも満たないかもしれませんが」といって、これを使ってくださるよう申し出た。 ・恩師は恩師で、秘蔵の『朝鮮写本徽州刊本朱子語類』を九大の文学部中国哲学研究室に収めて、三十万円の資金を調達された。それを聞いた私は驚いて恩師のところに駆けつけたが、恩師は、「この書籍を九大に出しておけば自分の責任が果たされる」といわれたので、私も已むなく引き下がらなければならなかった。 恩師の名著『宋明時代儒学思想の研究』が出版されたのは、恩師の定年退官一年後であった。この書物は恩師が想を練りに練り上げて書かれたものである。だから、その後記の中で、 「宋明時代儒学思想の研究は、ついに熟果の落ちるように、おのずから著者の手を離れる日がきた。然し若し季節に応じた養護と刺戟とを欠き、またこれを拾い上げる人が無かったならば、梢の果物は十分に熟さなかったか、熟して落ちても、そのまま路傍で萎んでしまったかも知れないのである」 と述べられたのである。 出版後、恩師は常にこれに訂正と補正を加えられた。そこで私は再版のときにこれを付加した。 恩師はこの出版を非常に喜ばれたとみえ、そのときの感想を詩箋四枚に書き記された。 穏愜於心矣 朱晦庵 心に穏愜(おんきょ) す 精力盡此書 司馬溫公 精力この書に尽く 両賢存道語 両賢、道語を存す 穹蒼付譏譽 穹蒼譏譽(きゅうそうきよ) に付す 昭和壬寅(じんいん)冬日書成有感 蒼茫斎(そうぼうさい)主人 宋明の儒学思想研究書としては、この恩師の著書に優るものはないであろう。日本の中国思想研究は、中国よりも早く西洋の科学的手法を摂取したので、こういう面では今までは中国よりも進んでいたかもしれない。しかし、宋明のような体験を本とする思想の研究は、伝統的な手法を忘れるならば、その神髄は体得しにくい。恩師の学風には西洋の科学的な手法をとりながら、 家学を継承してこれを越えたところがあるから、こういう点では内外の学者の追随を許さない画期的なものであったといわなければならない。私はこれを英訳にして世界の識者に紹介すべく努力したが、それも費用の点で実現をみなかった。今、中国語に翻訳してもらうよう努力しているが、これも覚束ない限りである。今の学者は、果たして体験を本とする恩師の学風をどれだけ理解しているであろうか。東洋から新しい哲学思想が創造されるとすれば、必ず恩師のような学風を通過しなければ不可能であろう。 楠本正継先生(右)と岡田武彦先生 恩師の逝去 師は定年で九大を退官されてから西南学院大学神学部で講義され、また福岡女子大学でも講義された。女子大の方では毎年恩師の講義を依頼していたが、六十五歳の春、恩師は、もう女子大には行かないといわれたので、私は、「ご健康のために続けられては如何がですか」と申し上げたところ、 「もう、そういわんでほしい」とのことであった。その頃、先生は健康を傷(そこな)われていたのであろう。 恩師が余り食欲がなく、 また顔色も余り冴えないのを見た私は、恩師を元気づけるために、恩師を誘って、山田由之助・石進・佐藤仁氏らの同志と一升瓶の酒と手弁当持参で福岡郊外の三沢まで遠足に出かけた。 それから一ヶ月ほど後に、福岡教育大学で「九州中国学会」が開催されたが、その直前に、恩師より、 「胃が悪いから学会は欠席する。 学会費を取り換えておいてほしい」という便りがあった。 学会終了後、急遽ご自宅を訪問したところ、「昨日医師に見せたところ胃カメラを飲むようにとのことであったが、同じことなら九大の第三内科に行ってみようかと思う」といわれた。驚いて恩師が診てもらった医師を訪れたところ、胃癌が相当大きくなっていて、脊髄にまで及んでいるという話であった。 私は胃腸が弱いのでよく胃の検査をしたが、恩師は元来、胃腸が丈夫であったので胃の検診を勧めたことはなかった。これが不幸を招く原因となったのである。私は自分の不甲斐なさに腹が立った。早速恩師のお供をして九大病院に行った。教授は私を呼んで、相当進んだ胃癌であることをひそかに告げた。 早速癌の手術が行なわれ、しばらく入院生活してから、自宅療養されることになった。そのとき、目加田先生の推薦で、恩師に「朝日文化賞」と「西日本文化賞」が授けられることになった。入院される前に、平塚教授が私に、「今回、日本大学で日本の碩学を招聘して自由に研究生活を送ってもらう企画ができたが、楠本先生はそれに応じられるであろうか」という相談があった。早速恩師の宅に駆けつけて右の話をしたところ、恩師は大変乗り気で、「東京へ行って一旗挙げてみよう」といわれた。 日本大学からの招聘が正式に決定したときは、すでに恩師の病状は悪化していた。私は平塚教授と相談して、そのことを恩師には報らせないことにした。 恩師と永遠の別れをしなければならない日がきた。それは昭和三十七年十二月二十三日のことである。私は恩師が息を引き取られるまでその枕辺に待った。恩師はそこにいた二人のご子息の嫁に、にっこり笑いながら、「両手に花」といわれた。恩師は謹厳実直な方であったが、家庭ではときどきユーモラスな言葉を吐かれることがあった。 床の間には祖父、端山が辞世のときに揮毫した 俟天之休命 (天の大いなるいいつけを俟つ) という五字の掛軸が掲げてあった。 恩師はついに亡くなられた。 私は一晩中恩師の遺骸を見守った。私には生まれて始めての徹夜であった。翌二十四日は小雪の散らつく寒い日であったが、この日、私と同窓の、中文出身の大野君の寺で告別式が行なわれた。私は霊前で『中庸』の第一章を朗読したが、嗚咽を禁じ得なかった。なぜ私が『中庸』を読んだかというと、かねがね恩師から、 「自分が死んだら、『中庸』の第一章を読んでくれ」といわれていたからである。 中 庸 第一章 天の命、之を性と謂ひ、性に率ふ、之を道と謂ひ、道を脩むる、之を教えへと謂ふ。 道なる者は、須臾(しゆゆ)も離る可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり。 是の故に君子は其の睹えざる所に戒慎し、其の聞えざる所に恐懼す。 隠より見るるは莫く、微より顯かなるは莫し。故に君子は其の獨りを慎むなり。 喜怒哀楽の未だ發せざる、之を中と謂ひ、發して皆節に中る、之を和と謂ふ。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。 中和を致せば、天地位し、萬物育す。 恩師の思い出 私は夏休暇、ときどき恩師のお供をして郷里の針尾島葉山のご生家を訪問した。 その家は端山が晩年退居していたところである。訪問したときはいつも二、三日宿泊したが、その間、端山の草稿、蔵書、及び遺品などを見せてもらったり、端山・碩水兄弟の逸話を聞いたりした。 恩師は、もちろん名家の出身らしい風貌を備えておられたが、一面、田舎育ちの野生味を持っておられた。 ある日、恩師の宅を訪問したときのことである。夕食に平戸の名産アゴが出された。そのとき恩師からアゴの焼き方を伝授された。 恩師は酒はお好きであったが、体質的に飲めなかったようである。お宅にはいつも日本酒の白鹿やウイスキーが用意してあって、酒好きな者が来るとよくそれを振る舞われた。しかし、ご自身は盃に一、二杯しか召し上がらなかった。 ある夏の日、一人の学生が先生の宅で饗宴にあずかり、思わず酒に酔って寝てしまったことがあったが、恩師はその枕辺に座って、彼の身体を長い間うちわで仰がれた。 私は『楠本端山 生涯と思想』を書く前に、恩師から端山の遺跡のある平戸に案内していただいたことがある。これは私にとって極めて感銘の深い旅であった。そのとき恩師は親身のように私を平戸の親戚や知人に紹介された。事実、恩師は私を実の弟のように思っておられたようである。このことは、直接、恩師の口から聞いたことがある。 楠本正継先生退官記念 楠本教授と門下生たち 昭和35年(1960年)5月 九州大学構内 左から福田殖、中川嘉彦、岡田武彦、高橋正和、山室三良、羽床正範 中央は楠本正継先生 佐藤仁、荒木見吾、山下通雄、大野得雄、瀬戸口拓雄、疋田啓佑、隅本宏 (敬称略) 10.コロンビア大学客員教授時代 坐禅と静座 人間は共存的存在である。人は誰でも、本来、人のことを自分のことのように思う心を持っている。ここに人間の人間たる所以、すなわち人間の本性がある。 これは思弁によるよりも、むしろこの心を培い養うことによって始めて分かるものである。しかし人間には私欲がある。だから、これを除去するようにしなければこの本性は保持できない。この本性を保持し私欲を除くのが、いわゆる存養という修行である。本性を存養するには心を存養しなければならない。なぜなら本性は形而上のもので、心に発用しているから。 「心を存養するにはどのようにするのがよいのか。そもそも、すべての物事は動静循環して止まない。心も同じである。しかしよく考えてみると、前に述べたように、動は静から始まるが静は動からは始まらない。すなわち動静の始原は静である。だから本性を養うには、静坐して心を存養することに力を注ぐことが大切である。このようにすれば本性が得られ、心は主宰を得て人間の主体性が立つ。主体性が立てば自然に知が蔵せられる。これは樹の栽培に例えるならば、枝葉を培うのではなく、根本を培うやり方である」。 このように考えた私は静坐をもって学の宗旨とし、『坐禅と静坐』を著述した。 この書は坐禅と静坐の意義とその異同を述べたものである。ただし、私の静坐論は陸王学から朱子学に遡って得たもので、特に高忠憲や楠本端山の静坐論に負うところが多い。今では静坐よりも兀坐を説いている。 よく人から、坐禅と静坐とは何処が違うのかと尋ねられるが、そのとき、私は 「その背景にある人間観、世界観が違う」と述べたものである。 ・坐禅は仏教的人間観、世界観に立ち、仏教は人間否定から世界観を構成する。 ・静坐は儒教的人間観、世界観に立ち、儒教は人間肯定から世界観を構成する。 要するに、私は、神や仏よりも人間が大切であると思っている。極論すれば、神や仏よりも、先ずわが家族、わが友人、世の人々が大切である。私が仏教よりも儒教を宗とする理由はここにある。儒教は人間共存の道を説く。静坐はその道を端的に自得させる方法である。 米国コロラド大学のテーラー教授は、私の著わした『坐禅と静坐』に関心を寄せ、その中の重要なところを英訳するとともに、私がなぜそのようなことを考えるようになったのか、その背景を探るために私の略伝を述べ、かつ、今日の世界における重要問題に対する私の意見を聞き、それを纏めて、『現代の儒家の道―静坐』〈The Confucian Way of Contemplation 静坐〉を著わした。 ※存養(そんよう):本来の心を失わない様にして、その善性を養い育てること。 米国コロラド大学の宗教学主任 ロドニー・テーラー教授 米国を訪問 『坐禅と静坐』を著わしてからまもなく、米国コロンビア大学のデ・バリー教授から、客員教授として「明代思想セミナー」に参加するよう招かれた。英語に自信がなかったので、これを受諾するかどうか戸惑った。「通訳はいないが、来てもらえば何とかなる」とのことで、思い切ってアメリカに出かけた。 私がアメリカに出発したのは昭和四十一年一月始めのことであった。飛行機で太平洋を渡るときは心細い感じがした。 当時私は渡航費を賄うだけの貯蓄がなかったので、その費用はすべて九大から借用した。英会話が全然できない私ではあったけれども、ともかく無事にコロンビア大学に赴任することができた。 「明代思想セミナー」には、当初からコロンビア大学の学生を指導していた陳栄捷(ちんえいしょう)教授と香港の唐君毅(とうくんき)教授、オーストラリアのカンベラ大学の柳存仁(りゅうそんじん)教授、及び私が招かれたが、これらの学者はいずれも宋明学の世界的権威であった。 陳教授は明代初期の思想、唐教授は王陽明の思想、柳教授は陽明学と道教、私は明末の思想を担当。司会者はデ・バリー教授であった。セミナーの対象の学生は大学院生。オブザーバーとしてコロンビア大学の助教授や他の大学の教授たちが参加し、学生はテーマを与えられて一人ひとり発表した。私は、「このように、世界的権威を集めてセミナーを開いてもらっているアメリカの大学生ほど幸福な者は他にはあるまい」と思った。 しかし、学生の研究発表を聞いて些かがっかりした。というのは、彼らは原典を読まないで、多くは英語の解説書を読んで意見を述べたが、その頃、明代の思想を解説した英書は殆どなかったので、彼らの明代思想に対する理解は極めて不十分であった。彼らの意見を聞いていると、明代思想を述べているのか、宋代あるいは古代思想を述べているのか分からないくらいで、明代という時代精神が殆ど理解されていないため論旨が的を外れていることが多かった。 そのとき私は思った。 「私が指導するとすれば、先ず宋明の書画や陶磁器のスライドを見せ、それによって、視覚を通じて、明の時代精神を理解させてから、哲学思想の資料を提示してこれを研究させるようにする。そうすれば先ず大過がないであろう」と。しかし学生には漢文の読解力が余りないとのことであった。 私は急いで明末儒学の論文を書いて字引片手に英訳し、それをコロンビアで学位を取得しようとしていた、日本人留学生、岡本俊平君に見てもらったところ、始めから全部やり直さなければならないほどのものであった。彼は、そのとき、私の日本文を横に置いてそれを見ながら英文タイプを打った。このとき私は翻訳の恐ろしさを身に感じた。そのために英語恐怖症に陥ったくらいである。 コロンビア大学に行ったとき、デ・バリー教授から、「外国人英語教室で会話を習うように」といわれたので、毎週二回、そこで英会話を習うことにした。聴講者は若い男女学生であったが、私は彼らと同じように厳しく指導された。 「明代思想セミナー」が終了してから、イリノイ大学でデ・バリー教授主催の「国際明代思想研究会」が開かれた。そのとき日本から東京教育大学の酒井忠夫教授が参加された。最初に陳教授の発表があったが、教授は、「明代に至って突如として心学が興った」という立場から明代の思想を説明せられた。 私は陳教授の論に、「明になって突如として心学が興ったといわれるが、突如という言葉はこの場合は適当でない。実は、元代でも表面は朱子学が行われたかのように見えるが、底辺には陸子の心学が流れていたのである。それが明初に出てきたにすぎない」といって、些か自分の意見を述べた。 その頃、私は元代の「朱陸同異論」を詳しく研究していたし、当時の絵画、陶磁器などで宋と元・明の時代精神の変遷を調査していたので、私は自信を持って自分の意見を述べたつもりである。 しかし陳教授は自分の意見を翻さなかった。私も詳しく私の立場を説明すればよかったのであるが、なにぶん英語がうまく喋れないので説明が舌たらずになったと思う。陳教授の意見が述べられると、学会に参加していた中国人学者の中から拍手が起こった。あとで一人のアメリカ人の学者が私のところに来て、「中国人は先生に対して民族意識を持ったようですね」その後の国際学会でも、ときどきこれに似た光景に接したことがある。そのたびに、私は中国人の中華意識の強いことを思い知らされた。 唐教授はコロンビア大学でのセミナーのとき、 「朱子学と陽明学は本質的には同調的である」という立場から両者を比較した。 その発表に対して私は、 「朱王両学の差異は二人の論文もさることながら、根本精神を知ればそれがよく判明する。それには、例えば二人の書風や上奏文の論調を比較するのがよい」と述べた。 唐教授は哲学的思考をするタイプの学者であるが、西洋哲学的な方法論によるところが多く、本来の体認を本とする東洋的志向から遊離する傾向がないでもなかった。デ・バリー教授は常に課題を立てて研究するタイプで、「各学者の長所を摂取して、それを綜合する力が抜群である」ということであった。 コロンビア大学校章 モットー:汝の光によって我等は光を見る 米国ニューヨーク州ニューヨーク 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) コロンビア大学図書館 コロンビア大学キャンパス コロンビア大学キャンパス中央部 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) ウィリアム・セオドア・ド・バリー教授 東アジアの伝統文化会議 平成6年(1994年)3月 ウィリアム・セオドア・ド・バリー(Wm. Theodore de Bary、1919年8月9日 - 2017年7月14日)は、アメリカ合衆国の東洋思想学者。コロンビア大学の教授・理事を70年近くにわたって務めた。 概略 1941年にコロンビア・カレッジを卒業し、ハーバード大学大学院に短期間在学したあと、太平洋戦争の太平洋地域の情報部に配属された。戦後コロンビアに戻り、1953年に博士号を取得。その後非アジア系学生の勉学のため、日本、中国、インドの古典原典を英訳し、儒教の根底にある民主主義性を明らかにした。また新儒学の研究でも新たな分野を開拓した。 ニューヨーク州ブロンクス区に生まれる。父ウィリアム・ド・バリーは1914年にドイツからアメリカに渡ってきた。両親は彼が幼いころに離婚し、母はシングルマザーとして彼を育てた。父との区別のためにWm.と名乗った。1937年に学部生としてコロンビア大学に入った。中国語を学び、海軍で働いたあと1948年に修士号、53年に博士号を取得した。博士論文は「黄宗羲『明夷待訪録』について」だった。その後すぐ教授になった。角田柳作に学び、ドナルド・キーンとは友人で、来日したこともあり、長女のブレット・ド・バリーは柄谷行人の『日本近代文学の起源』の英訳を行った。1974年アメリカ芸術科学アカデミー会員に選ばれる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ベトナム戦争 アメリカに行って学んだことは多くあった。アメリカで日本人に会ったときは、私は努めてその人たちにアメリカやアメリカ人についての観方を聞くようにした。例えばアメリカの大学制度、学生の知識、教養、及び学生気質、研究体制、大学の教授会のあり方、学長、学部長の権限、その他、アメリカの選挙制度、会社経営、民族問題、治安問題などについて彼らの意見を聞いた。当時、ベトナム戦争が起こっていたが、これに対する大学生の関心にも非常に興味があった。 ある日、コロンビア大学に行ってみると、本部の前の広場で学生が二手に分かれてアジ演説をしていた。それぞれテーブルが置いてあってその上にビラが載せてあり、学生たちは自由にそのビラを取って静かにその演説を聞いていた。一方ではベトナム戦争賛成、他方では反対の演説をしていた。私は興味深くこの光景を眺めていた。なぜなら日本ではこのような光景は見られないからである。もし、日本の大学でこういうことがあれば、学生は二手に分かれてお互いに相手を罵倒するか、さもなければ殴り合いになるであろう。 アメリカでは学生ばかりでなく、一般市民もこういう運動は冷静に行なった。ストのときも同じであった。 ある日、街を歩いていると銀行の前でストが行なわれているのに出遭った。見ると、各自でプラカードを手に持って静かに銀行の内外を歩いていた。 また、イーストのときに、華やかな帽子で着飾ったアメリカ女性の群れの中を、一人の男がスローガンを書いたプラカードを両手でささげて、百米の間を往き来しているのを見たことがある。こういう点は日本人の範とすべきところであろう。 想い出の人々 コロンビア大学ではいろいろな人たちに出会った。 当時、日本の能楽について大部な研究書を出版していたドナルド・キーン教授、ただ一人の日本語教授である、二世の白土一郎夫妻、元のピアニストでアジア学図書館日本課課長、甲斐ミワ子女史、専門のインド哲学を教授しながら、日本漢文を指導しておられた羽毛田(はけだ)教授など。 私がコロンビア大学にいたとき、羽毛田教授は『荘子』の演習をされていたが、私も教授の要請でそれに参加した。そのとき、学生たちがあの難解な文章を日本語で漢文読みをしたのには驚いた。アメリカの大学では、中国の思想を専攻する者でも、こいう漢文のゼミをやらされていたのである。アメリカの大学では「日・中・印、いずれかの国の思想文化を専攻する者でも、必ず日本語・中国語・サンスクリット語を修得しなければならない」ということであった。 学内での私の身辺の世話をしてくれたのは、もっぱら同室の日本の政治学専攻の岡本俊平君と、中国史専攻の顧恭凱(こきょうがい)君であった。岡本君は博士課程を終了して学位論文提出中であり、顧君は歳はとっていたが修士課程の学生で、日中事変のときに両国の和平に努力して、ついに蒋介石の凶弾に斃れた汪精衛(おうせいえい)の研究をしていた。岡本君とはよく昼食をともにしたり散歩したりしたが、その間、四方山話をした。彼を通じてアメリカの実体を知ったことが多い。その頃すでに、「真珠湾攻撃はアメリカ政府がこれを誘導したものである」という議論が、資料を根拠にして行なわれているということであった。 顧君は父君が日本の士官学校で学んだという関係もあって、多少日本語ができた。彼はよく中華料理店に案内してくれた。彼は、当時デ・バリー教授から『明儒学案』の中の「蕺山学案(しゅうざんがくあん)」の英訳を委嘱され、毎週訳文を教授に提出していた。 不明のところは岡田教授に聞くようにということであった。 彼は漢詩を何千というほど暗誦しており、彼自身も作詩して新聞紙上に発表していた。私が帰国するとき一冊の漢英辞典を贈ってくれたが、 表の表紙には、(中略)北宋の程明道の『秋日偶成』の詩が記してあった。 私がアメリカに行くに際して、友人たちは私の健康のことを非常に心配してくれた。幸いにもニューヨーク滞在中は鎌田義弘君と大西勇君の並々ならぬ好意により、快適な生活を送ることができた。鎌田君は渡辺斌衡(としひら) ※ 氏より紹介された人である。彼は会社から派遣されて永年ニューヨークに滞在していたので、住居、その他でまことに行き届いた世話を受けた。私がニューヨークに来て約一ヶ月後のこと、突然、鎌田君から連絡があり、渡辺氏が逝去されたことを知った。ニューヨークタイムズには大きく「渡辺の哲学」と題して、氏のアメリカ技術の導入による日本企業の建て直しについての功績が述べられていた。私が東京を出発する前の晩、五十ドルの餞別を持って東京第一ホテルを訪問していただいたこと、私が受けた学資の返還を申し入れたときでも、それを受け取られなかったこと、私に対しても一般の大学の学者に対するように扱っていただいたことなど、氏に対する懐かしい想い出は尽きなかった。早速私は弔電を打った。 日本に帰って来てから一度、鎌田君の世話で、彼の部下の課長たちに中国観について講演したことがあった。そのとき私は、「中国の民族性とアメリカの民族性とはよく似ているが、中国人と日本人は同文同種といわれながら、実は民族性は非常に違っている」という話をしたことがあった。私の話に最も賛成したのは、北京滞在数年の経歴のある一人の課長だけで、他の者は私の話を聞いて奇異に感じたようであった。私は中国及び中国人の実体をよく知らない日本人が非常に多いのを常に憂慮していた。これは今でも変わらない。中国及び中国人の実体をよく知ってこそ始めて、両国及び両国民の真の友好が可能になるのであって、そうでなければ日本にとって大変なことになる。私は常に、「中国では、平和な時代には儒教が伝統思想として宣揚されるが、国柄や民族性からいえば、中国よりも日本の方がもっと儒教的である。したがって、儒教を学ぶことによって、日本人はわが伝統思想を自覚することができるのである」と考えている。 大西君は私の修猷館時代の教え子で、旧制福岡高等学校より東大の経済学部に進み、卒業後、三和銀行に勤務した。実直な人柄と学究肌が買われたのであろう、アメリカ経済の研究のためにニューヨークに派遣された。彼のニューヨーク滞在中に、私がコロンビア大学に招かれたのである。ニューヨークでは殆ど毎週、彼の宅で夕食を馳走になり、また月に一、二回、郊外へのドライブに誘われた。もちろん、彼からはアメリカの実情についての話をよく聞いたが、何よりも家族ぐるみで親身に私を世話してもらったことは、終生、忘れることができない。彼の家族と、真冬にニューヨーク郊外にドライブしたり、うららかな春光を浴しながら遠くボストンへドライブしたり、また、彼と一緒にソ連映画「白鳥の湖」を鑑賞したり、日本から来た人形浄瑠璃を見たりしたときのことは、今でもまざまざと想い浮かべることができる。私自身、ニューヨーク滞在中は時間的に余裕がなかったので余り旅行はしなかったが、それでもワシントンやフィラデルフィヤを訪れる機会があったし、またバーンスタインの指揮する交響楽を聴いたりしたが、暇があればニューヨークの美術館巡りをし、また、スケッチブックを携えてハドソン河畔を散歩したものである。 ※ 渡辺斌衡(としひら):日本電気㈱の6代目社長 東大経済科卒 コロンビア大学客員教授時代の岡田先生 ハドソン河畔でスケッチをされる岡田先生 大学の国際性 イリノイ大学での国際学会終了後、独りでナイヤガラ瀑布観光旅行をしてからニューヨークに帰ったが、六月三十日にニューヨークを出発し、約一ヶ月間、ヨーロッパ、中近東を巡って帰国した。ヨーロッパ旅行中、日本人と出会ったのはただの二回きりであった。今日とはまったく隔世の感がある。この旅行の想い出は限りなくあるが、これによって各国の民族性を垣間見ることができたことは、何より幸いであった。 帰国して感じたことは、日本の大学は国際性に欠けているということである。「せめて二年や三年に一度、各教室に世界的な権威を招いて講義を依頼するようにすれば、日本の学生も視野が広くなり、語学も今よりずっと上達するに相違ない」と思った。 国際性についていえば、九大のように中央から遠く離れた大学は特に心がけねばならない。なぜならば東大や京大は環境上からして海外からの訪問者が多く、そのために知らず識らずのうちに国際性が身に付くが、中央から離れた大学では、余程の心がけがなければ国際性に欠けてくる。 国際性という点で注意しなければならないことがある。それは、「日本人が、自国の文化や思想についての教養を身に付けることが前提にならなければ、決して真の国際性は得られない」ということである。 戦後、日本の青年は欧米、特に米国に留学する者が多くなったが、大体において自国の文化や思想についての教養に欠けるところがあることは、識者の憂えとするところである。こういう点では彼らは他国の留学生と違っている。日本の伝統文化や思想を外国人に理解してもらうこともまた、国際性において重要なことであることを忘れてはならない。 これはずっと後になるが、私は、日本の商社が経済的侵略といわれるほど欧米、特に米国の経済界に脅威を与えている現実を見てこれを憂慮し、両国の友好のためにも、米国人に日本の伝統文化や思想を理解してもらう必要があることを痛感し、アメリカの学者と謀って、日本思想研究所を日本の資金でアメリカに設立し、アメリカの学者がここを拠点として、日本の文化と思想の研究とその普及に専念してもらう企画を立て、これを実現すべく一部の政界に謀ったり、人を介して企業家に出資を依頼したりしたが、こういうことに理解のある者は殆どおらず、そのためにこの計画も不首尾に終わった。 私は、こういうことでは日米関係が今後険悪な状態になりはしないか、と常々懸念していた。私がこういう運動を起こしたのは、一つはこれを介して、戦後の日本人が自国の伝統文化や思想を軽視してきたことを、少しでも反省してほしいと考えたからである。 11.国際会議 学園紛争 昭和四十年、ベトナム戦争が勃発するや、日本の左翼系の人々は反米デモを行ない、 それが学生にも波及し、アメリカの軍艦、エンタープライズが佐世保に寄港するや、 佐世保で反米デモを挙行すべく関東一円からも多数の学生が福岡に押し寄せ、九大教 養部をその拠点とした。 当初、教職員の力で彼らが学園内に入ることを拒否したが力及ばず、彼らの意のままにならざるを得なかった。それ以来、学園紛争が熾烈となって行った。たまたま米軍戦闘機が九大の工学部に落下し、機体が学部のビルに宙吊りになったので、紛争はますます激しくなった。 昭和四十一年になると中国に文化大革命が勃発し、その影響もあって、学生の中の過激派はしばしば大学校内の教室や本部を占拠して、当局に大学の大改革を迫った。彼らは学内で激しい抗争をしたばかりでなく、警察機動隊に対しても火焔瓶を投げつけて対抗した。 私は自分の専門的立場から、彼らが毛沢東の文化大革命の影響を受けていることをいち早く察知し、心中、ひそかに憂慮していた。 当時、日本のいわゆる文化人、ジャーナリストは文化大革命を絶賛した。しかし、私は彼らが中国をよく知らないことを歯痛く思い、改めて中国の現実主義思想、すなわち対立思想を根本とする商鞅・申不害・韓非子などの法家の思想、蘇秦・張儀や鬼谷子などの外交家の思想、孫子・呉子などの兵家の思想を研究した。 また『素書』などの人間の心理を解説した書物を読んで、その原理を深く窮めるよう勉めるとともに、毛沢東の『語録』 『矛盾論』 『毛沢東選集』などを読んで、彼の革命原理を研究し、当時の日本人がこれら中国の古代の現実主義思想、及び中国人の中華思想をよく理解していないために、毛沢東体制の実態が分からなくなっているのを憂慮した。 そもそも、毛沢東の革命思想を評価する場合、重要なのは、それが具体化したとこ ろに、その神髄があるということである。思想に対するこういう見方こそが、実は東洋的である。したがって、この立場から彼の革命的思想を見ればそれに対する評価もたちどころに下すことができるはずである。 中国は概観すれば「混沌」の世界で、 ・法家・兵家・外交家などの「現実主義思想」 ・孔子・孟子などの儒家の「理想主義思想」 ・老子・荘子などの「超越主義思想」 が渾然と展開している。 敢えて日本と違うところを指摘するとすれば、 中国は現実主義的であり、日本は理想主義的であるといえよう。 以上の観点から、私は日本人の中国観に不安を感じ、昭和四十八年、『中国と中国人』を著わして中国の現実主義思想の実態を解説し、毛沢東の革命思想がそれと軌を一にするものであることを示し、かつ、 「中国思想史の展開の上から、毛沢東体制もやがて伝統的な思想に回帰する時期が来て、新たな展開をするようになる」 ということを示唆した。 私がこのような書物を著わしたのは、「儒教的な民族性を持つ日本人が、政治、外交、経済面において、 混沌という言葉で表現するのがふさわしい中国、現実主義的な傾向の強い中国に対する場合、如何にすべきかということをよく考慮してほしい」と思ったからである。 三つの道 約四十年、中国哲学史の研究に従事してきた私は、中国哲学が現代の私たちにどのような課題を提供しているかを考えるようになった。私が三つの道を説くようになったのはこのためである。 三つの道とは「功利的人間観に立つ現実主義」 「道徳的人間観に立つ理想主義」 「宗教的人間観に立つ超越主義」である。この三者はそれぞれ人間観を本にして独自の社会観、自然観を持っている。 ・現実主義は功利的人間観に立つから、人と人とを対立関係にあるとし、 ・理想主義は道徳的人間観に立つから、人と人とを一体の関係にあるとし、 ・超越主義は宗教的人間観に立つから、人を捨てて天に帰依し、また進んで天を本にする天人一体を説く。 この三つの立場は何れも人生にとっては切実なもので、人間はいつ如何なる場合でも、これを心得ておけば道を誤るようなことはない。だから、 「中国哲学が提供したこの三つの課題は普遍性を持つものである」 ということができる。 中国の思想史はこの三つのものが渾然として展開しているが、 中国人自身は理想主義をもって伝統思想としている。 中国の思想には、以上述べた三つの異質的な思想が渾然とした状態にあるので、なかなかその実体が把握しにくい。だから、人から、「中国とはどういう国ですか」と問われると、前に述べたように、「混沌の国」としか答えようがないのである。 たまたま私の隣に佐藤さんという西日本新聞の記者がおられたが、この方の斡旋で 同紙に一年間、「三つの道」についての論説を掲載することになった。 論説といって も、 例話を多く引用したしごく分かり易いものであった。 あとでこれを纏め、明徳出版社から『東洋の道』と題して出版した。 三つの道の中で、私自身は、理想主義すなわち儒家の道に従う者であるが、その中でも「中庸」と「万物一体の仁」を重視した。中とは過不及のない道、庸とは平常。 「万物一体の仁」は、前に述べたように宋以来説かれたもので、王陽明がこれを集大成した。私は、 「この一体の道は静坐によって最も端的に体認自得することができる」と考えたのである。 岡田武彦 著 『東洋の道』 『東洋の道』明徳出版社 1969 台湾に行く 昭和四十七年三月、九大を定年退官したあと私は西南学院大学に勤務し、その後、 活水女子短大、活水女子大学で教鞭を執り、平成元年四月になってようやく永い間の教師生活に別れを告げることができるようになった。九大を辞める頃から私の健康は従来になく良好に向かったので、ようやく宿志の達成に精を出すようになった。 昭和四十七年四月、私は台湾の中華学術院より栄誉哲士の称号を授与された。 なぜ私がこの栄誉を受けるようになったのか、その理由は明らかではないが、おそらく京都の中文出版社社長、李廼揚氏の推挙によるものではないかと思う。 受賞のために早速渡台した。 李廼揚氏は広島高師卒の台湾出身の学者で、満洲、朝鮮史の専門家であり、また、 書誌学に精通した学者であった。 そのために台湾・韓国、後には中国大陸の大学でも斯学(しがく)の講義をするようになった。終戦後、日本で中文出版社を設立して、日中に所蔵 されている多くの貴重な漢籍の影印本を作り、また台湾で発行された中国の書籍の販売に勤め、日本の中国学発展に非常な貢献をした。その功績は実に刮目すべきものがある。 昭和四十三、四年頃だったと思うが、李氏より、 「台湾の国立図書館蔵の、明成化九年江西藩司の『朱子語類』に欠落のところがあるので、内閣文庫所蔵の覆成化本で補填してほしい」 との依頼があったので、当時、九大中哲の助手であった福田殖君と二人でそれを成し遂げた。これは影印本として中文出版社から出版された。こういうことから李氏と親しく交際するようになり、氏から中文出版社設立時の苦労話や出版の裏話、あるいは終戦時の苦労話、台湾政府と氏との関係などについての秘話などを聞くことができた。 中華学術院での栄誉哲士授与式は盛大なもので、講堂の内外に大きな幕が張られ、式典はオーケストラの演奏から始められた。このあと別室で歓迎会が催されたが、その席には有名な銭穆教授以下、各大家が列席されていた。私が、 「今度の賞は、本来、私よりも恩師の楠本正継博士に授与されるべきものである」 と述べたところ、教授は私たち師弟の情に触れ、テーブルを叩きながら台湾では師弟の情が失われていることを述べて、学生に訓示をされた。そして、また、 「陽明学は日本の学者に学ぶべきである」と述べられた。私は、 「私は中国の哲学思想を研究していますが、私自身、お国の哲学思想を研究している気がせず、自国の哲学思想を研究しているつもりでありますと述べた。 中華学術院長、張其昀博士は李廼揚氏と親友の間柄であった。博士は元浙江大学教授で、戦時中、大学は一時重慶に移転したが、そこで講義を行ない、戦後、米国に留学。やがて蒋介石から招聘されて台湾に渡り、そこで蒋介石を補佐した。博士は蒋介石の信任が篤くその秘書長になったこともある。かって文部大臣になったが、文教に非常に力を入れ、在任の間に多くの大学を設立した。中華学術院も博士が創設した大学院大学で、ここには穆教授以下、天下の碩学が集まっていた。博士は容貌魁偉、人を圧するような風貌の持ち主であった。地史学を専攻し膨大な量の編著があり、 博学多識の面では当代第一等の学者である。 私は李廼揚氏からの依頼により、博士の『中華五千年史』中の一冊、『孔学今義』 の日本語訳をし、『孔子と現代』と題してこれを出版した。訳文は当時の活水女子大学の秋田義昭教授、北九州高専の海老田教授以下、数人の方々の助力を煩わした。孔子の思想の解説書のうち、これほど広い視野からなされたものは他にはない。この書は、私が訳する前にすでに世界数ヶ国語に翻訳されていた。 国際学会 私は九大を定年退官してから、国際学会に出席するために、しばしば米国本土・ハ ワイ・台湾・韓国・中国大陸に渡った。また、別に韓国の朱子学者、李退溪の国際学術審査員として三度訪韓した。国際学会では各国のお国ぶりがよく窺われて非常に興味が深かった。 その一、二を紹介しておこう。 「王陽明生誕五百年記念国際学会」に招かれてハワイに行ったときのことである。 ハワイ大学の張教授が、陽明の「心」についての研究発表を行なった際、陽明の「心」 をカント・ヤスパース・ハイデッカーや禅の心で説明したので、私はハワイ大学のワーゴー教授の流暢な通訳で、 「このような比較論は余り意味がない」 といったところ、張教授は憤慨して、 「自分は日本の山田無文について禅の修行もした」 といい、私の質問に対してまともに答えなかったので、それ以上質問することをあきらめた。 しかし、発表が余りにも粗雑だったので米国の陳栄捷教授と香港の唐君毅教授が、私に続いて手厳しい批判を加えた。三人はお互いに論争し合っていたが、激してくると、三人とも英語で話すのを忘れて中国語で喋り出し、三つ巴になって論争した。翌日、張教授は憤慨の余り学会に出席しなかった。 私は学会が終了してから、張教授に、「貴方の発表は、自分の哲学を論ずることを建て前とするためのものであれば結構ですが・・」と述べておいた。 この学会に香港の有名な陽明学者、牟宗三教授も出席していたが、発表は当を得たものであった。しかし、学会で一度も質問しなかったので評判はよくなかったという。 こういうことからでも、アメリカにおける学会の気風の一端を窺うことができよう。 この学会で「西洋哲学と陽明学」「日本文化と陽明学」をテーマとするパネル・デ イスカッションが行なわれた。日本からは私一人だけが招かれていたので、「日本文化と陽明学」と題するパネルディスカッションでは、勢い私が中心とならざるを得なかった。そのとき私は、確か、陽明学と日本の民族性についての話をしたと思うが、この席で一人の若いアメリカの学者が、大塩中斎や三島由紀夫の例を挙げて、陽明学は叛乱の哲学であるといったので、私は反論して、 「陽明は却って叛乱を鎮定した人である」 と述べ、かつ陽明学者の中に反乱を起こした者がいたとしても、それでもって陽明学を叛乱の哲学と決めつけることは誤りであることを指摘し、 「それでは、島原の乱のときキリスト教徒が反乱を起こしたが、貴方はキリスト教を叛乱の宗教と断定するのですか」といって反論を加えた。 それより数年後、同じくハワイ大学のイースト・ ウエストセンターで、デ・バリー教授主催の「十七世紀の実学」をテーマとする国際討論会が開かれ、日本からは私の他に、東大の阿部吉雄教授、名古屋大の山下龍二教授と、日本女子大の源了圓教授の四人が出席した。 私は貝原益軒の実学についての研究発表をしたが、討論会が終了したときに、陳栄 捷教授が、 「中国の哲学も日本に伝わるとだんだん哲学性が薄れてくる」 という意味のことを述べられたので、私は、「私はそうは思わない。 哲学の定義についてはいろいろな考え方があろうが、西洋・インド・中国の哲学と日本の哲学を比較した場合、西洋のものは理論的であり、イ ンドのものは神秘的である。ところが、中国のものになると半ば理論的で、半ば実践的である。日本になると理論性が稀薄になって非常に実践的になる。実践的なものは具体的である。哲学は具体的であればあるほどその精神は深くなる。こういう 見地から日本の哲学を見てほしい。日本人の儒教思想は決して浅いものではない。 それは仮名で書いた日本の儒者の思想を研究すればよく分かる。 和文で書いた貝原益軒のもの、特に崎門派の儒者が口述した、俗語交じりの片仮名で書いたものには、鋭くて深い思想が述べられている」 という意味のことを述べて教授の一考を求めた。これを聞いたデ・バリー教授は、笑 いながら、 「プロフェッサー岡田は山崎闇斎のようですね」といった。 「哲学は、具体的なものの中に自らの姿を没することによって、その精神は一層深くなる」と考えるようになった。 陳教授は宋明学者としては世界第一流の学者であって、その精密な実証的研究はまことに敬服に値する。また教授は中国哲学をアメリカに紹介した点で大きな功績がある。デ・バリー教授が陳教授を、「アメリカの三蔵法師」 といったのも当然であろう。 岡田先生のスケッチ、ハワイの風景 山崎闇斎坐像・宍粟市教育委員会所蔵 山崎闇斎の詳細説明➡ジャンプします。 12.思い出の人々 現代の天満与力 私が九大に勤務していた時代のことである。当時、大阪府警本部長であった高松敬治君に会いに行ったことがある。そのとき、彼は笑いながら、 「大阪の与力になりました」 といっていた。 自ら与力をもって任じた彼は一日、私の案内で京都の骨董店を訪れ、かつての与力であった大塩平八郎の書額を購入した。 彼は後に警察大学校長、防衛庁施設庁長官、 警察庁刑事局長となって退官したが、退官後も上京するたびによく彼と会った。 彼は解決困難な殺人事件によく辣腕を振るったが、彼を最も悩ましたのは静岡県警本部長のときに起こった金喜老事件であった。 日本の警察に恨みを持っていた金喜老は、あるとき静岡県の山奥の宿屋で、日本人の泊まり客十余人を二階に監禁し、昼夜、ライフル銃を構えてここに立て籠った。高松君はマイクで金喜老を説得し、犠牲者が出ないように解決しようと鋭意努力したが、 めどがつかないので、ついに、「自分が人質の身代わりになるから人質を解放するように」 という提案することを決心した。 彼はそのときの心境について、同様 「決心したものの、もし自分が犠牲になったらあとに遺される妻子はどうなるだろうかと思うと、一晩中寝られませんでした。しかし 、朝方やっと覚悟が決まりました」 といった。 天の霊によるというのか、その朝、刑事が宿屋に突入して人質が無事に救い出され、 事件は解決した。 あるとき、手紙の中で、諸葛孔明の『後出師表』の中に出てくる、 「臣鞠躬尽力、死而後已(臣、鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく) 、死して後やむ)」 と句を書いて寄こしたことがある。これによって彼の人柄のほどが偲ばれよう。 彼は清廉潔白の人柄の持ち主で、それについての逸話もいろいろ聞いていたが、あるとき、上司に宋の王安石のような世のためにならぬ剛愎な人物がいたので、 「この男に詰腹を切らせ、自分も辞める覚悟をしたことがある」と述懐したことがあった。 彼は出張で汽車に乗るたびに、七、八冊の書物を持参するほどの読書家でもあった。 彼は戦後の刑事史は自分にしか書けないと思い、退官後、その著述に専念するつもりでいたが、世間は彼を無職のままにし ておくことを許さず、そのため再就職したので、宿志を果たせなくなったのを悔やんでいた。私も心ひそかにそれが達成されるのを祈っていた。幸い簡単な刑事史を自分でワープロを打って書き、それを同志に頒布した。しかし天命というべきか、昭和天皇の大葬に参列して後、病の床に臥す身となり、ついに永眠に就いてしまった。彼は陶淵明が好きであったので、私は訃音 (ふいん) に接するや、 われもまた、ともにゆかなん桃の里 という句を弔電に書いた。 岡田先生の書斎での高松敬冶氏 哲人弁護士 終戦後、 時世が大変革し、 そのために、往々にして人々の価値観も従来と百八十度転換するようなことがあった。特に若い青年たちの人生観、社会観に大きな動揺が生じ、そのために彼らは悩んだ。終戦時に海軍兵学校や陸軍士官学校に在籍していた者は、特にこの傾向が甚だしかったようである。 中学二年生のとき、漢詩を書いて私を驚かせた吉田士郎君もその一人で、終戦後、九大の経済学部に入学した彼はときどき私にその一端を漏らした。悩むことは哲学の始まりである。真摯な者であればあるほどこうなるのは当然のことであろう。彼は経済学部卒業後、司法官の試験に合格し、弁護士になって今日に至っているが、自分の職業についても常に悩んでいたようである。 弁護士という職業も、考えてみれば民事、刑事を問わず、現実社会の最も生々しく人間の功利心が渦巻く中で事件を処理して行かなればならないのであるから、一片の正義感だけでは処理できないことがある。したがって心の潔癖な人であればあるほど悩みが多いのは当然である。 それに対処するにはそれなりの人生観、社会観を持つことが要求される。吉田君は思弁に長けた学究肌の人であったから特に悩みが深かったので、自然に自分で哲学するようになり、また、芸術論などにも独自の見解を有するようになった。 あるとき、純粋潔白という点で法曹界で有名な先輩、玉重無得先生を紹介してもらった。先生はキリスト教信仰者でもあり、神道信奉者でもあった。人格の高潔なことは一見した瞬間看取された。玉重先生は私より二、三歳年下であるが、私はときどき先生が中心になって催されていた土曜会に招かれて、有名な弁護士や判事に儒教の話をしたことがある。 先生からは、 「これを読むように」 と、神道についての名著を贈られたことがあるが、私自身、晩年になるにつれて、知らず識らずのうちに神道を意識するようになった。 ともあれ、こういう哲人弁護士が健在であることはまことに意を強うする。 感恩の人 福岡の儒者、貝原益軒は、 「人は、天の恩、君主の恩、師の恩、親の恩によって始めて生き存らえることができる。だからこの恩に酬いるのが人の道である」 という意味のことを述べている。まさにその通りで、感恩こそ人道の本であるといっても過言ではあるまい。中学修猷館時代の教え子である瀧口実君こそ感恩の人といってよいであろう。 彼は米国育ちの二世であるが、戦時中、日本で学校教育を受けた。両親はアリゾナで農業を営んでいたので、終戦後アメリカに帰り、両親のあとを継いで農業を営んでいる。彼が中学を卒えて熊本の五高に進学したときに終戦になったが、当時の寮生活の食事は想像を絶するものであったことはいうまでもあるまい。そのとき私は、家族を熊本に残して福岡に単身赴任していたが、家族の食生活は大変なものであった。しかし、家内が郊外に買い出しに行ったので食事には多少余裕がないでもなかった。 幸い家が五高の近くにあったので、彼は空腹でどうにも我慢ができないときにはよく拙宅を来訪したらしい。家内も気の毒に思いできるだけのことをしたようである。 しばらく経って彼はアメリカに帰った。 一年後、私は家族を福岡に呼び寄せたが相変わらず貧乏生活が続いた。その頃、彼から米ドルが贈られてきた。これでどれだけ助かったか分からない。以後、現在まで毎年欠かさずアメリカの果物や菓子を贈ってくる。私が訪米したときはラスベガスやグランドキャニオンを案内してくれた。 彼の住むアリゾナの家に宿ったことがあるが、そのとき見た、赤い大きな太陽が西に沈むときの夕景色は、心のカメラに強く焼き付いている。 彼は大柄で大度があり、常に日本の農業実習生をわが家に招いてその指導にあたった。彼の語るアメリカ及びアメリカ人気質についての話は非常に有益であった。 瀧口 実 氏 古武士的 キリスト教信者 私はキリスト教に対しては、前に述べたように余り関心を抱かなかった。しかしキリスト教を排斥するものではない。人は誰でも自分の宗教を持つ権利があるから。 ただ敢えていうなら、日本人のキリスト教は日本的になってほしいと思う。一例を挙げるなら、わが家で自分の祖先を祭ってほしい。 キリスト教徒の中には素晴らしい人がいることは確かである。九大の先輩であり、また同僚でもあった私の知人に、古武士的キリスト教信者の石本岩根教授がおられた。先生の住家は私のごく近くにあったので、ときどき往来して学問、教育、あるいは時世の話をよくしたものである。ご尊父が土佐派の画家であった関係上、子供の頃から土佐絵を習ったという。 専門はドイツ文学であるが、キリスト教とドイツ文学との関係を研究のテーマにしておられた。先生は謹厳実直で、しかも繊細な感覚の持ち主であった。古武士的なところがあったので、一見したところキリスト教信者とは見えないくらいで、私に対してもキリスト教の話は一切されず、もっぱら儒教の話をされた。それは、一つはご本人が儒教的な教養の持ち主であった上に、私自身が儒者的であったからでもあろう。 先生は九大退官後、西南学院大学に奉職されたが、その頃は学園紛争が盛んであった。かつて重い肺結核に罹って片肺が殆ど機能しない身体であったにもかかわらず、 過激派の学生の前にわが身体を張って学長を守ったということである。私はその話を聞いて身の引き締まる感じがした。 先生はこういう方であった。 成人教育 日本には、主として儒教をもって成人教育に邁進しておられる識者が多くいる。こういう人たちは、多くは儒教の精神を身に体して社会活動をしている。この点では大学のアカデミックの研究者と違っているが、儒教が実学であるという点からいえば、 こういう人たちの立場も軽視してはならない。でき得べくんば両者が一体となることが望ましい。それには、宋明時代の中国・韓国・日本の書院学のようなものが再建されることが望ましい。 日本で成人教育に身を挺して活動している人々は、多くは安岡正篤先生の門下生で、 あるいは研修所を設立し、あるいは安岡先生が創設された師友会を存続して社会教育に活躍している。例えば埼玉県にある柳橋由雄氏の郷学研修所、山形県にある地主正範氏の東北振興研修所、大阪府にある伊与田覚氏の成人教育研修所、あるいは関西師友会などがそれである。師友会は関西以外の各地にも結成されているが、関西師友会が最も盛大で隆盛を極めている。 また、儒教を本とする成人教育において儒教の教典を講読しているところは、東京の湯島聖堂や備前(岡山県)の閑谷(しずたに)学校など数えきれないほど多い。私もその一端を担っている。 戦前、戦後を通じて、日本の成人教育に最も偉大な力を発揮したのは安岡先生であろう。先生は学者としても秀れた方であり、また政界の巨頭たちからも師表として尊ばれた。埼玉の研修所では金鶏神社を建立して先生を祀っている。先生と始めてお会いしたのは私が九大に奉職していたときで、恩師楠本先生から始めて紹介された。師の命で、あらかじめ私は先生に、「劉念台の誠意論」と題する拙論を贈っていたが、 面接のとき、 「君が岡田君ですか。もっと年輩の人かと思っていたが」 といわれたことを覚えている。その後、長い間お会いしたことはないが、明徳出版社が『陽明学大系』を出版するにあたって、先生の命で、私が作成した企画案を持参したときにお会いしたのが二度目である。そのとき先生は、企画案に一通り目を通してから、 明徳の社長に、 「この通りやりたまえ」 と命じ、企画案の内容については一言も触れられなかった。そのとき九大の福田殖君も同席していたが、二人とも先生の器量に感服した。 十二年ほど前に二松学舎大学で 陽明学研修所が設立されたが、先生も私もそれに関係していたので、お会いする機会が多くなった。まもなく先生は逝去されたが、先生の学徳の余韻は日本の各地に遺っている。 安岡正篤先生 コロラドの聖人 コロラド大学の宗教学主任、テーラー教授は、前に述べたように、『現代の儒家の道』の著者である。この著述をする前に、二度、福岡の私宅を訪問したことがある。 最初は二日間福岡に滞在したが、二度目は二十日間福岡に滞在して、私と質疑応答を交わした。 教授は私の『坐禅と静坐』の翻訳を企画していたが、やがて私がなぜ静坐を志向するようになったのか、その理由を知るために、再度福岡に滞在して幾度も私宅を訪問した。そのとき世界における最も重要な課題についての私の見解、儒教は宗教か否なかについての問題、私が静坐から兀坐を論ずるようになった動機などについて質問をされた。 それより数年後、私は真冬の一月、ボールダーにある教授の宅を訪問して、再び質疑応答を交わしたことがある。そもそも、私が哲学的思考をするようになったのは それなりの動機があるが、それをよく理解するために私の伝記を知りたいということであった。 テーラー教授はコロンビア大学で学位を取得したが、テーマは「高忠憲論」であった。高忠憲は、前に述べたように明末の朱子学者であるが、静坐を本にする深い体認を説いた学者で、その静坐論は私にも大きな影響があった。忠憲の朱子学は体認の学が根本であったので、その解説には苦心を必要とする。だから、今まで忠憲の哲学思想を詳細に論じたものは殆どなかった。 テーラー教授がこれを研究するようになったのは、彼自身が体認の学に深い関心を持っていたからであろう。それはまた、教授が自分の人生の課題に真剣に取り組んでいたからであることはいうまでもあるまい。教授にはただ哲学史を研究するに満足せず、それを越えて哲学しようとする姿勢が見られる。これは注目すべきことである。 私がテーラー教授の宅を訪問したのは、前に述べたように真冬の一月であった。 一階はオンドルを焚いていたのでわりに温かであったが、書斎のある二階は冷え冷えとしていた。私たちはここでストーブに温まりながら哲学の話をした。私が、 「西洋にも体験を本とする哲学者がいるが、実際は東洋の哲学者ほど体験の学を修めたのではなく、体験の必要なことを説明し記述したにすぎない。例えばニーチェ・ ショウペンハウエル・ベルグソンの哲学でも、東洋の哲学からみればこのようにいわざるを得ない」 といったところ、教授も首肯した。次いで私が、 「ハイデッカーも同じではないか」 というと、教授は、 「いやハイデッカーには体験的なところがあるようだ。というのは、彼はSein (存在)とか、Dasein (現存在)を学生に説明する場合、目に涙を浮かべて述べたという。 おそらく体験を本とする人でなければ、こういう風にはならないであろう」 といった。 教授は謹厳実直、純粋な心の持ち主であり、その眼ざしは真摯で慈愛に満ちていた。九大の福田教授は、よく「テーラー教授はコロラドの聖人だ」といったが、まさにいい得て妙というべきであろう。 米国コロラド大学の宗教学主任 ロドニー・テーラー教授 哲学史と哲学 私は親戚の者や教え子から、よくロマンティストだといわれた。私自身、現実主義の思想も研究しているけれども、実際はロマンティストであるかもしれない。ただ、 「哲学史を研究するだけでなく、それを越えて、せめて、大海の中に投げ入れた一粒の麦であってもいいから、この世を去るまでに自分流の哲学を持ちたい。そしてあの世に往ったときに、袴を着いて地下の恩師を訪問し、自分で小悟したものを恩師に提示して批正を仰ぎたい」と思った。 もちろん哲学史の勉強は忽(ゆるが)せにしてはならない。そうでなければ哲学しても内容のない空虚なものとなってしまい、論語の「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」という誤りを犯すであろう。新しい哲学を産み出すといっても、これは容易なことではない。それには哲学史が提起する課題を研究することも必要であるが、何よりも現実の人生、社会の矛盾に対する切実な感受性と洞察、それを解決しようとする強い意欲がなければ、 それは不可能であろう。私の場合、その解決は体験を本とする儒学思想に拠らざるを得なかった。なぜならば、どこまでも共存的存在としての人間を中心とし、それ以上のものにも、それ以下のものにも求めたくなかったから。 前に述べたように、いわゆる西田哲学は「体験を主とする禅、あるいは陽明学が背景になっている」といわれているが、それを西洋の理論で説明しようとしたために解説が晦渋(かいじゅう)になったのである。体験的な哲学はむしろ随筆風に表現するのが最も適しているのではないかと思う。 私も若い頃はドイツに留学したいと思ったことがある。というのは、 「カントやフィヒテなどが大学で自分の哲学を講義したような学風が、今のドイツの大学にもあるのではなかろうか、あればそれを学びたい」と思ったから。 日本の大学においても、教授たちが自分の哲学を講義するときが一日も早くなるよう念願してやまない。 13.斯人舎 (しじんしゃ) 叢書の刊行 恩師は宋明儒学の研究に画期的な業績を挙げられた。私は恩師が定年退官されたのを好機とし、その宅を研究所として、例え細やかなものであってもよいから、宋明学研究会を作ろうと思った。そのためには多少の資金が必要である。そこで恩師の許可を得て山田由之助 (よしのすけ) 氏と資金の獲得を謀った。 その頃、恩師の崇拝者に奥村福岡市長がいて、市長の協力を得てこれを実現するつもりでいたが、恩師も奥村氏も逝去されたので、これも不首尾に終わった。 師を喪ったとき私は茫然自失し、やがて福岡の地を離れようかと思ったこともあったが、心をとり直し、 「何か宋明学の発展に役立つようなことに努めるのも報恩の一環になる」と思い、先ず日本で出版された宋明儒学関係の書物を影印 ※1 して、これを刊行しようと企画した。 このことを中文社社長、李廼揚 (りないよう) 氏に謀ったところ快諾を得たので、同志の協力を得て刊行書目録を作成し、全国の同学に依頼して各冊に簡単な解説を付し、 『和刻影印近世漢籍叢刊(七十八冊)』を出版した。その他にも 『和刻朱子語類 (八冊)』『劉子全書遺篇続篇(二冊)』などを発行した。 その後、安岡先生の委嘱で九大の福田殖氏の協力を得て、 『陽明学大系』と『朱子学大系』を起案し、両叢書の出版はいずれも完了した。 『叢書日本の思想家(五十巻)』を福田殖・合山究 (ごうやまきわむ) 氏両氏の協力で企画し、現在はその半ばまで刊行されている。この叢書の執筆は殆ど中国学の専家に依頼した。それは、「日本の儒学にどれほど中国の儒学の影響があったのか、日本の儒学の特色は何処にあるのか」ということを読者に知ってもらうためである。 もう一つの特色は、従来余り顧みられなかった崎門学者を多く採用したところにある。それは崎門学は最も日本的で、しかも今後大いに注目すべきものであると考えたからである。 次いで、明徳出版社の依頼で 『シリーズ陽明学 (三十五巻)』 を福田殖氏の協力で企案し、刊行した。 『シリーズ陽明学』企画前に、明治の中期から昭和の初期にかけて発刊された陽明学関係の機関誌の復刻を思い立った。その理由は何か。私は、かねがね、「東洋思想の特色は体験的、実践的なところ、したがって簡易のところにある。儒教では陽明学が最もそれに該当する。中国の思想の展開を観ても、西洋とは反対に、複雑から簡易への様相を呈している」 と考えていた。 そもそも、陽明学は日本の民族性に最も適したものである。韓国では陽明学を受容せずもっぱら朱子学一辺倒となり、 しかも朱子学者の間で派閥を作って激しい争いをし、それが政争までに及んでいる。 然るに日本では幕府は朱子学を官学としたけれども、他の学派を圧迫するようなことをしなかったので、諸藩は各派の儒者を自由に起用して藩政を行なった。また朱子学、 あるいは陽明学を信奉する者でも、他の学派の研究をするという風であったので、学派の間は中国や韓国のように激しい論争をすることは少なかった。だから陽明学者でも一応は朱子学を修めることを忘れなかったのである。 元来、儒教は日本の神道の教えと合致するところがあったので、儒教が伝来するや大いに受容せられ、そのために、儒教は日本人の思想の培養に大きな役目を果たした。 ところが明治の文明開化以来、次第に衰退に向かい、そのため長い間儒教で養われてきた、日本人の醇風美俗(じゅんぷうびじゃく) が失われようとした。これを憂えた明治の陽明学者の中に、雑誌を発行してこの危機を救おうとした者がいた。 戦後の日本では伝統的文化や思想を極度に蔑視し、欧化主義がまた一世を風靡するような状況となり、その結果、日本人はだんだん精神的支柱を失いつつあるように思われた。私はかねがね、日本人は儒教を学ばなければ精神的支柱を保持することができないと考えていたが、それには、「かつて発行された陽明学関係の雑誌を復刻して識者に訴えるしか他あるまい」と思い、その企画を立てたのである。 そこでその資料の蒐集(しゅうしゅう) にとりかかった。その結果、明治二十九年から昭和三年までの間に刊行された陽明学関係の雑誌に、次のような五種類のものがあることが分かった。 陽明学 吉本 襄(鉄華) 編集 鉄華書院(東京)刊 王学雑誌 東 敬治(正堂) 編集 明善学社(東京)刊 陽明学 同 陽明学会(東京)刊 陽明 石崎酉之允(東国) 編集 大阪陽明学会 刊 陽明主義 石崎酉之允等 編集 同 右のうち、鉄華書院刊行の『陽明学(七十九号)』の復刻は完了し、明善学社刊行の『王学雑誌』は目下、印刷中である。 ※1 影印:底本を写真撮影し、それを原版にしてオフセット印刷などで印刷した「複製本」のこと 王陽明先生 画像(岡田武彦先生所蔵) 陽明学 吉本 襄(鉄華) 編集 鉄華書院(東京)刊 林田明大先生より資料提供 唯是庵 (ゆいぜあん) 六十歳の頃、ある日、私は小悟を得た。悟ったものは何であったかというと、結局、 宇宙の根本実在ともいうべきものであった。しかし、それはただ黙識神通によるもの であって、言葉ではとてもいい表わせるものではなかった。『易』の「太極」 朱子 のいう「理」「所以然の故( しょいぜんのこ) 」という言葉でもこれを表わすことができないと思われた。 ここに達すると、私の言動思考がすべて人為を越えて自然に基づくように感じられたのである。そのとき、私は次のように書いた。 黙会所以然之故乎 所以然(しょいぜん)の故(こ)を黙会(もっかい)せんか 則天下之諸事 則ち天下の諸事 迎刃而解焉 刃 (やいば) を迎えて解けん この根本の実在は、敢えて述べようとすれば「唯だ是れ(ただ・・・である)」というしか他にいいようがない。そこで私は、従来の「高眠斎(こうみんさい)」の他に「唯是庵(ゆいぜあん)」という書斎名を用いるようにした。 その頃、私は自分の学問の境地を示すために、次のような「偶成」と題する一詩を作った。 偶成 人籟紛拏是与非 人籟紛拏 (じんらいふんだ) す、是と非と 天籟相忘只子棊 天籟 (てんらい) 相忘る、ただ子綦 (しき) のみ 博士章句古学墜 博士の章句、古学墜つ 性理空談大道衰 性理空談して、大道衰う 鍑釘訓詁益河漢 餌釘 (とうてい) の訓詁 (くんこ) 、河漢を益す 涵養体認転式微 涵養体認、転 (うた) た式微 (しきび) す 聖賢至意応認取 聖賢の至意、応 (まさ) に認取すべし 静坐読書深天机 静坐読書、天机 (てんき) 深し 先師示以些存字 先師示すに些か存するの字を以す 唯是二字余所希 唯だ是れの二字は、余の希 (こいねが) ふところ 言詮不堕空与有 言詮 (げんせん) 、空と有とに堕ちず 工夫到処実証之 工夫到る処、実にこれを証す 養真蘅門蕩世故 真を蘅門 (こうもう) に養ひて、世故を蕩 (あら) う 嗟非斯人誰与帰 嗟斯 (ああこ) の人にあらずして誰にか帰せん 或云汝是一狂者 或は云う、汝はこれ一狂者と 狂簡成章孔所期 狂簡 (きょうかん) 、 章を成なすは、孔 (はなは) だ期するところ 時対孤影酌聖酒 時に孤影に対して聖酒を酌めば 歳寒松栢青離々 歳寒うして、松栢青きこと離々 (りり) 備考。この詩は王孝廉 (おうこうれん) 博士の批正を煩わした。 岡田武彦先生の墨書 所以然之故 (昭和56年)春正月 偶成 斯人舎 (しじんしゃ) 戦後は儒教に対する批判が特に激しかったが、それは儒教の原典を読んで、その根本精神をよく理解しなかったからではないかと思う。何よりも大切なことは儒教の根本精神が何処にあるかをよく知ることである。それには先ず儒教の基本書である『論語』を素直に読んで、それを理解するようにしなければならない。この場合、大切なことは孔子の述べた言葉もさることながら、孔子の精神を深く理解することである。 もう一つ重要なことは、それを他の思想、すなわち現実主義、超越主義と比較してその特色を理解することである。この二つのことは識者が往々にして忽(ゆるが)せにするとこ ろである。私が、「ものの観方に深観と大観が必要である」 という理由はここにある。 このようにして考えると、孔子の精神は『論語』「微子篇」に述べられている、次の句に端的に示されていることが分かる。 鳥獣は与 (とも) に群を同じうすべからず。 吾れ斯 (こ) の人の徒と与 (とも) にするにあらずして、誰と与にかせん。 天下道あらば、丘 (きゅう) 、与 (とも) に易 (か) えざるなり。 「斯(こ)の人」とは世の人々のことである。孔子は世の人を捨てて、独りわが身を保全しようとは思わなかった。だから世の人々との困苦を見て、これを見るに忍びない心に駆られたのである。孔子の説く道、いわゆる儒教道徳は「斯の人」に対する思いやりの心、誠の心が基本である。この心があれば自然にそれを実現する方途を講じなければならなくなる。そこで知が働いてくる。 したがって、知はむしろ情意から発するといってもよいであろう。だから、このような情意の有無が人間であるか否かを決する要因となる。そこで私は、儒教は基本的に人倫的情意主義に立つものであると考えた。 孟子は 「四端 (したん) の心のない者は人間ではない」 といった。四端とは惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心であるがその根本は惻隠の心にある。だから、人に対する思いやりの心のない者は人間ではないといってよ いのである。孟子は、孔子の「斯の人の徒と与にする心」をよく説明したものと思う。 近年の考古学、人類学によると、 「人間はHomo Communicans (分かち合う動物)である。分ち合うことができるのは人間だけで、霊長類にはこれがない。ここに人間が霊長類と異なるところがある」 ということが、百五十万年以前の人類の遺跡の調査から明らかになったという。これによって、人間は霊長類から進歩したものであるという、ダーウィンの進化論が否定された。人間は霊長類から進歩した動物なのか、そうでないのかは別として、少なくとも、これによってゆえん 「人間の人間たる所以は、思いやりの心にある」 ことが実証されたわけである。 私は晩年になるにつれて、私の心の中に孔子のいう「斯の人」という言葉が重要な意味を持つようになってきた。「斯人」という語は私の「偶成」の語の中にも出てくるが、七十歳頃になって始めてそれに対する明確な自覚を持つようになった。そこで また、わが書斎名を「斯人舎」と名付けた。これで私の書斎名は「高眠斎」「唯是庵」 「斯人舎」の三つとなった。 恩師在世中は「高眠斎」だけであった。地下の恩師はこれをどう思われるであろうか。 「斯人舎」(しじんしゃ) 武彦書 印 兀坐 (こつざ) 私は今、東洋的な哲学思想の骨髄は実践的、具体的なところにあると思っている。 なぜならばそれは体験の世界に属するからである。ただし、理論的、抽象的な西洋流の思弁を否定するつもりではない。それはそれで大いに必要である。しかし、神髄のところの把握という点になると東洋の方が秀れているように思われて仕方がない。 私が理論的、抽象的な思弁を畏れるのは、それは譬えば禅を心理学的に研究して、それでその神髄を把握したと思ったり、あるいは『荘子』に出てくる「混沌」に七つの穴を穿(うが)って、これを死に至らしめたような愚を敢えて犯したりするからである。 ではどうすればよいのか。 従来私は、それは静坐して心を収斂(しゅうれん)するより他はないと考えていた。けれども修行はできるだけ簡易、かつ具体的でなければならない。 簡易とは単純になることであるが、 その単純さは複雑に対する単純なく、複雑を簡易化したものである。譬えていえば、五彩を中に含む水墨画、七彩を中に含む白磁のようなものであると考えればよい。 私は簡易化、具体化の空極のところは、物と一体となるところにあると考えた。そして、静坐ではまだ簡易化、具体化において徹底さを欠くところがあるように思われ。そこで兀坐を説くようになったのである。兀坐とはただ身体を静かにすることである。 私が兀坐を説くようになったのは七十歳の頃であった。その頃、私は次のように述べた。 余嘗説静坐矣。 余、嘗て静坐の説けり。 頃日宗兀坐。 近ごろ兀坐を宗とす。 何也。 何ぞや 曰、体躯而非体躯者也。 曰く、体躯 (たいく) にして体躯に非ざる者なり。 『正法眼蔵』で有名な道元は只管打坐 (しかんだざ) といった。私のは謂わば只管兀坐 (しかんこつざ) である。何処が違うのか。それは背景となっている世界観を考えれば自ずから明らかになるであろう。 道元のは「人を棄てて仏を求める仏教的世界観」がその背景にあり、私のは「人を本とする儒教的世界観」が背景にあるのである。 兀坐すれば、人は自然に物と一体になって、道の骨髄が得られる。 画贊 池田草庵 私は『楠本端山-生涯と思想』を著わす前に、端山と交友関係のあった幕末維新の朱子学、 陽明学の大儒の往復書簡を読んだが、その書簡は両楠本家、及び草庵 (そうあん) の池田家所蔵のものを参照した。 池田家にはこれら大儒の書簡が多く所蔵せられていることを聞いたので、早速同家を訪問した。 今でも覚えているが、それは残雪が山野の各所に見られた早春の日であったが、池田家の子孫から思わぬ手厚いもてなしを受けた。そのとき子孫の方々が、「草庵先生、草庵先生」と称して、草庵を尊崇されていることに非常な感銘を受けた。こういうことが縁になって、私は池田家をしばしば訪問するようになったが、ある日、草庵の顕彰のため、その全集の刊行を企画されるよう池田粂雄(くめお)氏に勧めた。 その結果、『池田草庵全集』が青溪書院保存会で企画され、今までに『山窓功課・上中下三巻』 『池田草庵先生著作集』『池田草庵先生遺墨集』が刊行され、残すものは『池田草庵先生書簡集』だけになった。草庵の全集刊行に際して私も編集や解説などで協力した。全集の刊行と草庵の顕彰に最も力を注いだのは、保存会委員の山本茂信氏である。氏の想像を絶する粉骨砕身、身を挺しての東奔西走の労がなければこれも不可能であったであろう。氏はかって郷里の高校に勤務され、定年後、郷里の先賢の顕彰、遺書の出版などに大活躍されたが、聞くところによれば、高校勤務のときは一日も遅刻欠勤がなかったという。 氏はなお、草庵の門人、森梅園 (ばいえん) 先生の顕彰碑も建立され、『味道館主梅園森周一郎先生とその門人』を刊行された。私は『草庵著作集』『梅園集』の刊行に際しては数度お宅に招かれたが、山本氏の熱意には思わず頭が下がる思いがした。 氏はまた草庵・梅園顕彰のために、京都の画家に草庵の肖像画一幅、梅園の肖像画三幅を依頼されたが、私の肖像画も作りたいとのことであったので、結局、合計五幅の肖像画が作られた。 草庵・梅園の肖像画ができたとき、私は氏の切なる希望によって、次のような画賛を書いた。 池田草庵先生画賛 静坐澄心神識内明 静坐澄心、神識、内に明かなり 自訟慎独説入微也 自訟慎独( じしょうしんどく) 、説いて微に入る 布帛之文菽粟之味 布帛 (ふはく) の文、菽粟 (しゅくぞく) の味 蓋世之氣孰知內藏 蓋世 (がいせい) の気、孰(たれ)か内に蔵するを知らん 高眠斎 印 森梅園先生画賛 親炙青溪十有余年 青溪 (せいけい) に親炙 (しんしゃ) すること、十有余年 堅志類稀味道之腴 堅志は類 (たぐ) い稀に、道の腴 (ゆ) を味う 薪伝之盛識者所羲 薪伝 (しんでん) の盛、識者の羨むところ 東有草庵西有梅園 東に草庵あり、西に梅園あり 高眠斎 印 望山而楽臨川而悦 山を望んでは楽しみ、川に臨んでは悦ぶ 希志気隆希才智流 志気の隆 (たか) きを希 (こいねが) い、才智の流るるを希う 遷善改過非礼無為 遷善改過 (せんぜんかいか) 、礼にあらざればなすことなし 金誠之心発正気歌 金誠の心、正気の歌に発す 高眠斎 印 青渓風月吟弄梅園 青溪の風月、梅園に吟弄 (ぎんろう) す 温厚篤実徳望日旺 温厚篤実、徳望日に旺んなり 際会盛時退居村落 盛時に際会するも、村落に退居す 一千子弟継承遺業 一千の子弟、遺業を継承す 高眠斎 印 私の画賛は、自画賛になるので、些か躊躇せざるを得なかったが、結局、昭和六十三年秋、山本宅を訪問して次のような画賛を書いた。 自画賛 余性樸陋幼鮮健康 余、性樸陋 (ぼくろう) 、幼にして健康鮮 (すくな) し 少厭世事独居猶專 少くして世事を厭 (いと) い、独居猶 (な) お専らにす 求道良師時値弱冠 道を良師に求む、時に弱冠に値 (あ) う。 始室失偏家亦大難 始室、偏 (へん) を失い、家にまた大難あり 誠執静坐希求高眠 誠に静坐を執り、高眠を希求す 道統帰我五十垂年 道統我に帰するは、五十垂年 (すいねん) なり 耳順之始太極心間 耳順 (じじゅん) の始め、太極、心に間す 古稀其来斯人旨全 古稀のそれ来るや、斯人 (しじん) の旨全し 何以至此兀坐使然 何を以てかここに至る、兀坐 (こつざ) 然らしむ 余将何之天命従爲 余まさに何 (いず) くに之かんとするや、天命に従わんのみ 斯人舎 「余まさに何くに之かんとするや、天命に従わんのみ」 とは、今の私の境地を述べたものである。 池田草庵先生の胸像 青谿書院の外観 青谿書院の外観 青谿書院の内部 写真提供:養父市 教育委員会教育部 歴史文化財課 様 幕末の大儒・池田草庵先生半世紀の墨蹟の精粋 『池田草庵先生遺墨集』 本誌・池田草庵先生の遺墨と関係資料 別冊・草庵先生遺墨の訳註・草庵先生の和歌・書・落款の考察 監修 岡田武彦 編集 池田草庵先生遺墨集編集委員会 発行 財団法人 青谿書院保存会 昭和60年(1985)5月16日発行 岡田武彦先生による池田草庵先生百年祭記念の講演 『林良斎と池田草庵』岡田武彦 著 明徳出版社 主静体認の学 過激な師と異なり虚心に学を求めた醇儒 朱子学一辺倒の藩風の中、体認を主とする陽明学を唱えた良斎は、朱王両学を究める草庵と初めて会い千古の心友と激賞・敬慕された。両儒の生涯と思想。 ・画賛/池田草庵 参考書籍・資料(要約部分は頁を記載) 岡田武彦述『我が半生・儒学者への道』 福岡県小郡市「思遠会」 1990.11.22(非売品) ・掲載に関して岡田武彦先生のご子息に了承をいただいております。 ・岡田武彦先生の写真は、この書籍でコロンビア大学教授・ロドニー・テーラーが撮影されたものを掲載。 ・日本の学友協力で王陽明遺跡探訪と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、そして中国の学者との交流、及 び成人教育責任者との交流の写真をこの書籍から掲載。思遠会の金内美代子氏より写真の掲載の了承をいただきました。 ※岡田武彦先生の想いを忠実に伝えたい為、引用、又は引用・要約しています。分かり易く図で表現している箇所もあります。 1.「青年期に世の中の矛盾を考える様になる」 は「第一章 ふるさと」pp.11-49と「第二章 自然を友に」 pp.51-81から岡田先生と家族に関する内容。 2.「岡田先生の思想形成に影響を与えた播磨の自然」 は「第二章 自然を友に」pp.51-81から岡田先生に影響を 与えた内容。写真は現地にて撮影。 仁寿山と仁寿山校 「頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育」島田清 著 兵庫県教育研修所 1969、 『姫路藩の藩老 河合寸翁伝』穂積勝次郎 著 1972 『論語新釈』宇野哲人 著 講談社文庫 1980 3.「人生の矛盾が解けないか糸口を探した旧制姫路高等学校時代」 は「第三章 高校生時代」pp.83-115か ら中 項目のテーマを取り上げ、小項目を掲載。※旧制姫路高等学校の写真は追悼文集から掲載。 4.「進学した九州大学で、生涯師事する学者に出会う」 は「第四章 大学生時代」pp.117-157から中項目のテ ーマ を取り上げ、小項目を掲載。※九州大学関連の写真は追悼文集から掲載。 5.「中学教師時代 一 旧制富山県立神通中学校教師時代」 は「第五章 中学教師時代 一」pp.159-183から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 6.「中学教師時代 二 ・旧制宮崎県立延岡中学校教諭時代、福岡に赴任・旧制福岡県立中学修猷館時代」 は「第六章 中学教師時代 二」pp.185-211から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 ※イメージ写真はphotoAC(著作権有り)より購入したものを掲載 7.「戦中・戦後」 は「第七章 戦中・戦後」pp.213-233から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 ※向井去来とグラマンF6F-3はウィキペディアより出典、 広島の平和記念公園、広島の原爆ドーム、長崎の平和記念像、福岡県立修猷館高等学校の写真はphotoAC(著作権有り)より購入したものを掲載 8.「九州大学時代」 は「第八章 九州大学時代」pp. 235-263から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 ※『劉念台文集』『楠本端山』は明徳出版社発行の書籍表紙から、楠本端山先生の写真は『わが半生・儒学者への道』p.258からそれぞれ掲載。 9.「恩師・楠本正継先生」 は「第九章 恩師・楠本正継先生」pp.265-289から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 楠本 正継先生と岡田武彦先生の写真は『わが半生・儒学者への道』p.279より出典 「楠本教授と門下生たち 昭和35年(1960年)5月 九州大学構内」は楠本正継先生退官記念写真より出典 『中庸』第一章は『全釈漢文大系 第三巻 大学・中庸』山下龍二 著 ㈱集英社 1974.3 pp.200-207より引用 1 0.「コロンビア大学客員教授時代」 は「第十章 コロンビア大学」pp.291-316から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 米 国コロラド大学の宗教学主任ロドニー・テーラー教授の写真は p.355より出典、コロンビア大学客員教授時代の岡田武彦先生の写真はp.296より掲載、ハドソン河畔でスケッチをされる岡田先生の写真は『光風霽月―岡田武彦先生追悼文集』p.52より掲載 11.「国際会議」 は「第十一章 国際会議」pp .317-337 から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 岡田先生のスケッチ、ハワイの風景写真はp. 333より掲載、山崎闇斎坐像写真は宍粟市教育委員会様に許可を得て掲載しています。 12.「思い出の人々」 は「第十二章 思い出の人々」pp.339-360 から中項目を取り上げ、小項目を掲載 。 高松敬冶氏の写真はp. 344より掲載、瀧口実氏の写真はp.348より掲載、安岡正篤先生の写真はp.352より掲載、 米 国コロラド大学の宗教学主任ロドニー・テーラー教授の写真は p.355より掲載 13.「斯人舎」 は「第十三章 斯人舎」pp.361-382 から中項目を取り上げ、小項目を掲載 。 福田 殖 著「岡田武彦先生の生涯と学問」 学術雑誌論文 2004.12.25 九州大学付属図書館 九大コレクション 岡田武彦 著「わが生涯と儒教―体認の学を求めて― 」 1995.9.21 台湾国立中央研究院にて 岡田武彦 著『簡素の精神』 致知出版社 1998 岡田武彦 述 佐藤栄子 記「簡素の精神 日本人を日本人たらしめるもの」 致知1996-8 岡田武彦先生追悼文集刊行会 事務局代表 森山文彦 発行『光風霽月―岡田武彦先生追悼文集』 平成十七年(2005)十月十七日 (主な役職・称号などはp.683から引用)
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Allegro con brio 08:07 2. Andante con moto 19:18 3. Allegro. atacca 25:07 4. Allegro - Presto Mahkun Yoshida・チャンネル提供 Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor Berlin Philharmonic Orchestra Click here 歴史的復帰演奏会 フルトヴェングラーの『田園』 Mahkun Yoshida・チャンネル提供 00:08 田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め 11:12 小川のほとりの情景 24:11 田舎の人々の楽しい集い 29:44 雷雨、嵐 33:48 牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち Click here フルトヴェングラーの英雄 Mahkun Yoshida・チャンネル提供 ベートーヴェン:交響曲 第3番「英雄」 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 、 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 00:09 第1楽章 Allegro con brio 16:17 第2楽章 Marcia funebre: Adagio assai 33:40 第3楽章 Scherzo: Allegro vivace 40:11 第4楽章 Finale: Allegro molto 1952年11月26,27日、Musikvereinssaal Click here 【演奏家紹介⑤】偉大な指揮者フルトヴェングラー!歴代最高の指揮者との呼び声が最も高いフルトヴェングラー!その音楽の魅力や名盤を紹介します!ベートーヴェン第9 車田和寿・チャンネル提供 車田和寿‐音楽に寄せて 大指揮者と呼ばれる指揮者は沢山いますが、フルトヴェングラーはその中でも歴代最高と呼ばれる事が多い指揮者になります。そのように呼ばれる理由は何なんでしょうか?フルトヴェングラーの魅力に迫ります! 目次: 0:00 オープニング 1:17 フルトヴェングラーの生涯 6:35 フルトヴェングラーの魅力 9:35 振ると面食らう 12:40 不揃いの美学 17:02 名盤 21:10 おまけ フルトヴェングラー: Click here Symphony No.9 in D Minor,Op.125 の楽譜とベートーヴェン Click here ウィーンの中央墓地にあるベートーヴェンのお墓 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞した。しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。翌1827年3月23日には死期を悟って遺書をしたためた。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま同年3月26日、肝硬変のため波乱に満ちた生涯を閉じた。享年58(満56歳没)。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、シューベルト、ヨーゼフ・マイゼダーも参列している。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 Click here フルトヴェングラー ベートーヴェン 《歓喜の歌》 1942 chiharu aozora・チャンネル提供 1942年4月19日(ライヴ) エルナ・ベルガー(S) ゲルトルーデ・ピッツィンガー(A) ベルゲ・ロスヴェンゲ(T) ルドルフ・ヴァツケ(Bs) ブルーノ・キッテル合唱団 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調作品125《合唱つき》から、第4楽章 表紙:「写真は鳴門市ドイツ館前の右手を大きく振り上げたベートーヴェン像・フォトACより有償提供・著作権あり)」 【ベートーベン像】「第九」アジア初演の地、鳴門に降臨 徳島新聞https://www.topics.or.jp/articles/-/639233 Click here ベートーヴェン広場にあるベートーヴェン像 ウイーンのベートーヴェンは22歳から35年間亡くなるまでこの地で過ごしました。1880年に立てられた記念碑で彼は椅子に座り、その足元には縛られたプロメテウスと天使たちを見ることができます。 Click here 岡田先生は柴田治夫先生に次の様な話を生前されていました。 「若い時、悩み多かった自分を救ってくれたのは事実ベートベンの音楽でもありました。私は死ぬときは、音楽を聴きながら往生したいものだと常々思ってもいます」。 出典 『小夜の中山 岡田武彦先生のご霊前にささぐ』柴田治夫 著 2024.7.23 岡田武彦先生 御逝世2004.10.17 密葬10.19 密葬では、トリオによる生演奏が終始流され、読経や焼香はなく、祭壇に設けられた大きな盃に、先生がこよなく愛された日本酒を各人が灑ぎ、弔意を表しご冥福を祈りました。 岡田武彦先生 祭壇 お別れ会 2004.10.30 出棺には、バイオリンソロでベートベンの「第九・第四楽章」が奏され、お見送りをしました。 ※『光風霽月』岡田武彦先生追悼文集より出典 バイオリン演奏のイメージ WIX提供 ベートーベン 第九 第四楽章「合唱」【歌詞訳付】Beethoven's Ninth final movement クラシック名曲チャンネル提供 岡田先生のスケッチ・ギャラリー 自動的に3秒間隔で右にスライドしていきます。 画面にタッチすると拡大表示してスライドできます。拡大画面で「✖」を押すと元の画面に戻ります。 ・『光風霽月』岡田武彦先生追悼文集 表 ・『光風霽月』岡田武彦先生追悼文集 裏 ・テムズ河畔 ・場所不明 ・別府湾 ・場所不明 ・セーヌ河畔 ・ハワイの風景 ・井之頭公園 ・平戸 ・阿蘇山 ・明石海岸 ・場所不明 岡田先生の絵画・ギャラリー 自動的に3秒間隔で右にスライドしていきます。 画面にタッチすると拡大表示してスライドできます。拡大画面で「✖」を押すと元の画面に戻ります。 岡田武彦全集・25巻 自動的に3秒間隔で右にスライドしていきます。 画面にタッチすると拡大表示してスライドできます。拡大画面で「✖」を押すと元の画面に戻ります。 1.『王陽明大伝 -生涯と思想-(一)』 王陽明蘇る! 万感の思いで書き下した畢生の大作。 2.『王陽明大伝 -生涯と思想-(二)』 3.『王陽明大伝 -生涯と思想-(三)』 4.『王陽明大伝 -生涯と思想-(四)』 5.『王陽明大伝 -生涯と思想-(五)』 6.『王陽明全集抄評釈(上)』 陽明学の精神 原典を通して陽明思想の根幹を詳説。 7.『王陽明全集抄評釈(下)』 8.『王陽明紀行(上)』 王陽明遺跡探訪 波乱万丈の足跡をたどる貴重な記録。 9.『王陽明紀行(下)』 10.『王陽明と明末の儒学(上)』 渾身の代表作 明末儒学研究に先鞭をつけた名著。 11.『王陽明と明末の儒学(下)』 12.『孫子新解』 必勝の哲学! 不戦屈敵の孫子兵法の極意に学ぶ。 13.『劉念台文集』 誠意の哲学! 忘れられた明末の大樹を再評価。 14.『東洋の道』 東洋人の英知 時代を開く東洋のこころと生き方。 15.『東洋のアイデンティティ』 中国古代の英知 孔子と諸子百家の思想に学ぶ人生観。 16.『朱子の伝記と学問』 朱子学の世界 孔孟の学を蘇生させた宋学の集大成 17.『宋明哲学の本質(上)』 儒学思想再生 新精神文化の形成過程とその本質。 18.『宋明哲学の本質(下)』 儒学思想再生 岡田陽明学の根底となる貴重な業績。 19.『中国思想の理想と現実』 中国思想の課題 中国思想の根本問題と現代的意義 20.『中国と中国人』 中国の実体 中国人の特質と現実社会の在り方 21.『江戸期の儒学』 幕末儒学の諸相 朱王学の日本的展開と近代への影響 22.『山崎闇斎と李退渓』 朱子学蘇る! 敬義・存養の日本的朱子学の確立。 23.『貝原益軒』 実学の精神 朱子学精神の日本的な継承と発展。 24.『林良斎と池田草庵』 主静体認の学 過激な師と異なり虚心に学を求めた醇儒 25.『楠本端山』 「全集」完結 楠本家所蔵の貴重な資料を駆使して、また朱子学・陽明学への深い理解をもってその思想を解明し、端山の生涯と思想を一体として書いた渾身の書。 ※1~20巻の紹介文は「岡田武彦全集のすすめ」森山 文彦 編から掲載。 21~25巻の紹介文は各書籍の帯に掲載している紹介文を掲載。 岡田武彦先生の著作・39巻 (全集を除く) 画面にタッチすると拡大表示してスライドできます。拡大画面で「✖」を押すと元の画面に戻ります。 1/1 写真をクリックすると拡大画面と説明文が見れます。一部ビデオも観れます。 岡田武彦記念館(現在閉館中) 2007.10.13~2024.3.31 福岡県朝倉市日向石字上川原55-1 姫路市白浜町海水浴場 奥に見えるのは木庭山で海岸は岩壁があり、頼山陽が小赤壁と名付けた。岡田先生はその海岸沿いを泳いでおられました。 秋季祭典「灘のけんか祭り」 七村が神輿を練る絢爛豪華な秋季秋祭り 旧制姫路高等学校 現兵庫県立大学環境人間学部 正門より。校舎と講堂は登録有形文化財に指定されています。 山陽電鉄・白浜の宮の駅の看板 毎年、10月14日と15日に開催されます。14日の宵宮(夜営)で始まります。祭りの間は特急が終日止まります。 仁寿山の近くに蓮田があり、毎年7月中旬に綺麗な花を咲かせます。中国北宋時代の哲学者・周濂渓は蓮の花が好きでした。 姫路城と姫路市街 仁寿山から北側を臨んだ風景です。姫路城の後ろの山は廣峯山です。 王陽明墓修復除幕式の岡田武彦先生 日本の学友との協力で王陽明遺跡修復や記念碑建立、及び中国の学者とも交流を深められました。 岡田武彦 著『簡素の精神』 『易経』の「賁」卦によれば、「文極まれば素に反る(飾りをつきつめていくと、もとの飾りのないものになる)」とあり、『簡素の精神』の著者・岡田武彦は「表現を抑制すれば簡素になる。それを抑制して簡素になればなるほど内的精神はますます豊かになり、充実し、深化する。これを簡素の精神という。」と述べられています。 姫路市灘地区と播磨灘 岡田武彦先生のふるさとです。手前の道路は姫路バイパスです。仁寿山の頂上から撮影しました。 小赤壁 頼山陽が小赤壁と名付けました。岡田先生はこの海岸沿いを泳いでおられました。岡田先生は絶壁の下の海は竜神の棲家を想像させるくらい紺碧色をしていて、竜神に足を取られないかとびくびくしながら泳いだと話されています。 仁寿山と灘地区、播磨灘 仁寿山中腹から仁寿山の電波塔と灘地区、及びお旅山を撮影しました。 素顔の岡田武彦先生 (岡崎豪 氏撮影) 岡田武彦先生 述『わが半生・儒学者への道』 思遠会 発行(非売品)1990.11.22 岡田武彦先生の誕生日に発行されています。 姫路市白浜町と播磨灘の中の小島 岡田先生が四歳年上の次兄と小舟を漕いでこの島に渡ったそうです。岡田先生たちはこの島を円山と呼んでおられたそうです。 桜と姫路城 姫路市白浜町乙・中村の固寧倉 固寧倉は凶作や水害対策で考え出された米麦の備荒貯穀(びこうちょうこく)倉庫で、文化6年(1809年)に大庄屋衣笠弥惣左衛門氏長などが倉庫の設立を河合寸翁に建議し、藩主酒井忠が創設したものです。固寧倉は姫路藩独自の呼び方をした社倉です。 社倉は、古く中国の隋の義倉から始まり、凶作や端境期対策で設けられた穀物倉庫です。社倉の「社」は今で言う、市町村の倉庫で、平時においては低金利で農民に貸付け、凶作や災害時に備える穀物用備蓄倉庫です。この考えは朱子の社倉の考えから由来しているようです。社倉は今で言う自治の考えであり、信用組合に近い考え方のようです。日本の産業組合を考える上で大事な内容と思います。江戸時代には朱子学が導入されましたが、山崎闇齋先生が研究された朱子社倉法があります。尚、余談ですが、河合寸翁先生は山崎闇斎学派の儒教学者であり、武士だったそうです。固寧倉は『書経』より「民惟邦本、本固邦寧」民は惟れ邦の本 本固ければ 邦寧し(たみはこれくにのもと もとかたければ くにやすし) から名付けられました。河合寸翁先生の行財政改革の三本柱の一つ「民生安定」の思想が実行された社倉です。1846年には集落ごとに288ヶ所設置され、現在は野里、妻鹿、東山、白浜町乙(中村)、刀出(かたなで)の5棟が現存しています。写真は白浜町乙(中村)。 岡田武彦先生から頂いた墨書の写し 昔、岡田先生からお手紙を頂いた時に同封されていた先生の墨書のコピーです。 文字は「夜深同看千巖雪」です。 これは、『碧巌録』51則にある句 「南北東西帰去来 夜深同看千巖」 浜口雄幸首相が、東京駅で凶弾に倒れたとき、担架ではこばれていく時に次の禅語を口ずさんだそうです。 「南北東西帰去来(なんぼくとうざい、かえりなんいざ) 夜深けて同じく看る千巖の雪 」 いろんな生き方もあれば、死に方もいろいろ。どこでどういう死に方をしても「平等」なのだ。 雪景色をみて死んでいくのも、ピストルで撃たれて死んでいくのもみんな帰るところは一つなんだ。 人間の生き死には一枚。どこでどう転んでも同じところに帰って行く。「どこから生まれきて、死んでどこの行くのか?」 ある老師は、おっしゃったそうです。 「人の死に方は様々である。別にこだわる必要なんてないでしょう。 みな誰しも何にも知らずにこの世に命を受け、また何にも知らずにあの世に旅立つ。それでいいのだと思います。」と。わかりようのないところに落ち着く。わかったつもりになるとかえって、限定してしまう。何にもわからないところに落ち着く。 何にも知らずにこの世に生まれ、何にも知らずにあの世に帰って行く。それでいい。それでいいんだ。」 岡田先生がこのような深い意味のある句を覚えておられ、さっさっと書かれるのは凄いことですね。岡田先生は禅の研究もされていました。 臨済宗大本山 円覚寺より引用 https://www.engakuji.or.jp/blog/27855/ 日本海軍連合艦隊・旗艦三笠 聯《姫路市北原八幡神社・境内奉納写真より》 敵艦見ゆとの警報に接し合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす 本日天気晴朗なれども波高し 皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ 東郷平八郎 《平文は、主席参謀・秋山真之中佐が付け加えたものである》 楠正成の五語『非理法権天』 昔、親戚の習字の先生に書いてもらった掛け軸の墨書です。この五語に出会わなかったら、『易経』と陽明学を学ばなかったと思います。 私は若い頃、楠木正成の五語に出会いました。その五語とは「非理法権天(ひりほうけんてん)」※です。その意味は、悪い事は道理に負かされる、道理は法律に負かされる、法律は権力に負かされるが行きつく所、天の御心(神の力・自然の摂理)には勝つことができない。故に神の御心に沿って行動した者は、最後に勝利を得ると言うことです。これは真実を表しており、正しい道を求めた楠木正成の精神を表していると感じました。神の力とは自然の摂理と私は解釈しています。私はこの五語に出会って、道を求める様になりました。そして、出会ったのが変化の理法、英知の書の『易経』です。『易経』は東洋思想の原点であり、その思想は自然と共に生きてきた日本民族の思想とよく融合し、日本人の心の中核にある「共生の心」を育んだのではないかと思います。皆さんと共に、人類の英知である易を正しく理解し、活用して、激変し、混迷する社会を正しく力強く、そして心豊かに生きていけたらと願っています。 ※参考書籍:廣池千九郎 『道徳科学の論文・第九冊』 ㈶モラロジー研究所 1928年 『第八章(百十一) 非・理・法・権・天ハ是レ眞利ナリ』 3336頁 姫路・仁寿山校の跡地 現代の仁寿山校跡地は土塀と竹林、井戸の跡が残る地となっています。当時、国内でも著名で優秀な学者が招聘されて授業が行われていました。頼山陽(4回):学問のあり方など様々な問題を討論させた。堤鴻佐、猪飼敬所、摩島松南、斎藤拙堂、大国隆正、松林飯山など。この地が整地されず、河合寸翁の短歌や頼山陽の詩碑が無いのは非常に残念に思います。 灘のけんか祭りの紙垂(しで) 「しで」は「紙垂」と書きます。紙垂は雷を表し五穀豊穣と邪悪なものを払い除けると言う意味をもっています。神社に行くとよく見かけますね。 灘のけんか祭りの「しで」は竹に花のような「しで」を取り付けています。この形は波を表しています。灘のけんか祭りは7地区が参加し、7つの色のしでがあります。ちなみに中村の色は青です。播磨灘の海の色だそうです。 その様な意味を持ち、祭りでは神輿を盛り立てます。 東山はピンク:邪気を祓う桃の色 木場は若緑:生気溢れる若竹の色 松原は赤:鉄を溶かす鞴の火の色 八家は黄赤:滾る血汗と熱血の色 妻鹿は朱赤:質感溢れる熱血の色 宇佐崎は黄:貴人の色 中村は青:播磨灘の海の色 赤松円心の白旗山 北条幕府打倒の先兵・赤松円心則村。新田貞義軍6万をわずか2千の兵で防御し、その間に、足利尊氏を九州に逃がす。赤松円心は足利尊氏に九州にて英気を養い再挙することと、錦の御旗印を掲げることを進言した。足利幕府の足掛かりをつけたのが、赤松円心である。 フランス柔道の父は姫路の灘菊酒造の五男・川石酒造之助 川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。1951年ヨーロッパ柔道選手権大会王者ジャン・ド・エルトゥを見つめる川石酒造之助(中央)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』YouTube映像は2021年。 講義中の岡田先生をスケッチ 『王陽明の生涯と思想』第十回 講師:岡田武彦 九州大学名誉教授 2003年2月22日 1:30~3:00 雨 易 八卦とは、必然理、当然理の中でどうあるべきか。 “倫理” 人生とは求めようとする心 真理・真実 “悟り” 陽明はよく“易”を考えていた。 岡田武彦先生追悼文集 『光風霽月』より出典 西村広子 氏 提供 フォト&ビデオ・ギャラリー 岡田武彦先生と中国の学者先生、及び関係者の方々 1991年聯合考察結団儀式于杭州西子賓館 1992年4月 銭明 普通岡田進行陽明遺跡考察(1992年4月于南寧机場) 岡田先生在広西考察 1992年4月 広西考察断藤峡合影 1995年12月 岡田張岱年世紀対談宴会 広西考察陽明遺跡途中 広西貴港政府招待所前合影 ビデオ・ギャラリー All Videos All Videos 動画を再生 シェア 全チャンネル この動画 Facebook Twitter Pinterest Tumblr リンクをコピー リンクをコピーしました 動画を検索… 再生中 世界の真理を蔵した「知恵の書」の中身とは?【『易経』徹底解説①】 33:07 動画を再生 再生中 松原八幡宮 宇佐神宮より奉迎、灘のけんか祭は世界中で有名です。 05:36 動画を再生 再生中 空中散歩186*兵庫県姫路市白浜町 Shirahamacho Himeji Hyogo Japan 02:37 動画を再生 収録ビデオ一覧・YouTubeの各チャンネルの皆様の動画を掲載させて頂いています。 ・姫路藩勤皇志士終焉之地 synchronicity64チャンネル ・『易経』王の必読書 Floating Storiesチャンネル ・松原八幡神社 パワースポット大人旅チャンネル ・空中散歩186*兵庫県姫路市白浜町 Shimi Channel ➡ YouTubeサイトにて視聴 ・河合寸翁と高砂の申義堂 synchronicity64チャンネル ・高砂市史全七巻完成 『申義堂』 兵庫県高砂市公式動画チャンネル ・妻鹿 国府山城(甲山城・妻鹿城)の磐座(いわくら) synchronicity64チャンネル ・姫路市別所六騎塚 synchronicity64チャンネル ・祝・姫路城とブルーインパルス(仁寿山山頂から) synchronicity64チャンネル ・下御霊神社神社と山崎闇斎 (当該サイトの管理人が制作) ・姫路懐古 頼山陽 synchronicity64チャンネル ・仁寿山から見た風景(2012年冬の姫路の浜手と姫路市街) synchronicity64チャンネル ・兵庫県姫路市・小赤壁/木庭神社 じゅんじゅんドローンチャンネル ・桂米朝さんの姫路名誉市民墓 synchronicity64チャンネル ・【兵庫】姫路城の城下町は江戸時代の〇○だった【姫路】 (古地図で歩く姫路)丸竹夷 / 歴史旅行チャンネル ・令和五年2023年灘のけんか祭り 松原八幡神社秋季例大祭 パールっちチャンネル ・兵庫県立大学環境人間学部キャンパス紹介2021 兵庫県立大学環境人間学部チャンネル ・九所御霊天神社 河合寸翁の姫路木綿の商人が寄進した大鳥居 synchronicity64チャンネル ・歴史の街・播磨 オープニング映像 synchronicity64チャンネル Web・ギャラリー ・姫路市木場の小赤壁の由来 頼山陽が名付けた小赤壁 文学逍遥 伊奈文庫(伊奈遊子ブログ)より ・姫路市 播磨古道調査報告書・パンフレットの紹介 ・姫路観光ナビ ひめのみち ・姫路観光ナビ パンフレット・ダウンロードコーナー
- 業績 | 岡田武彦 その哲学と陽明学/陽明学
ページ TOP 業績 多くの生徒・学生を教授 論文・著作活動 東アジアの伝統文化国際会議 国際陽明学京都会議 王陽明遺跡修復と中国学者交流 学ぶ会・書院教育 参考書籍・資料 業績 多くの生徒・学生を教授 論文・著作活動 東アジアの伝統文化国際会議 国際陽明学京都会 議 王陽明遺跡修復と中国学者交流 学ぶ会・書院教育 参考書籍・資料 フッター 岡田武彦先生の業績を5分野に分けて紹介致します。 まず 1. 大学助教授・教授として多くの学生を教授し、論文や著作活動に活躍された業績 2. 「東アジアの伝統文化国際会議」の開催の実行委員長として活躍された業績 3. 21世紀の地球と人類に貢献する陽明学をテーマに「国際陽明学京都会議」の議長として活躍された業績 4.日本の学友協力で王陽明遺跡探査と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、そして中国の学者との交流で活躍された業績 5.人と共に生きる共生思想の実践で市民講座や書院教育を実践され活躍された業績 が挙げられます。特に国際会議を開かれ陽明学を世界的に知らしめた功績は非常に大きいと思います。 業績 (1)大学助教授・教授として多くの学生を教授 昭和24年(1949)九州大学文学部助教授兼第三分校助教授 昭和26年(1951)九州大学第二分校助教授 昭和28年(1953)九州大学文学部講師(中国哲学史)併任 昭和35年(1960)文学博士 昭和41年(1966)米国・コロンビア大学客員教授 昭和42年(1967)日本中国学会評議員 昭和44年(1969)九州大学教養部長、九州中国学会会長 昭和46年(1971)日本中国学会理事 昭和47年(1972)九州大学定年退官、九州大学名誉教授、中華学術院栄誉哲士 昭和47年(1972)西南学院大学文学部教授 昭和51年(1976)東方学会評議員 昭和52年(1977)活水女子短期大学教授 昭和57年(1982)活水女子大学文学部教授 参考 中学校・高等学校で多くの生徒に教授 昭和9年(1934)旧制富山県立神通中学校教諭 (1年生には日本史、2年生に東洋史、1~4年生に修身を教授) 昭和13年(1938)旧制宮崎県立延岡中学校教諭 昭和14年(1939)旧制福岡県立中学修猷館教諭 昭和18年(1943)長崎県師範学校教諭 昭和20年(1945)熊本陸軍幼年学校教官 昭和20年(1945)熊本補導講習所嘱託 昭和21年(1946)福岡県中学修猷館教諭 昭和22年(1947)福岡県立修猷館高等学校教諭 岡崎豪 氏 撮影 1. 多くの学生・生徒を教授し、論文や著作活動に活躍 (2)論文・著作活動 論文118/著作41/共編著・校注12/中国語訳4/監修・編集16/メディア3参考図書2 詳細は「著作・論文」コーナーを参照してください。 2.「東アジアの伝統文化国際会議」の開催の実行委員長の業績 開会挨拶で岡田武彦実行委員長は、「まもなく20世紀が終わろうとしている今日、世界は政治的、経済的、文化的に激しく揺れ動いている。我々は、伝統文化・思想をもう一度学び直すことによって、人類の未来を切り拓いていく何ものかをそこから探すことができるかどうか。伝統思想を今日に新しく生かす方法を見いだすことができるかどうか。今回の国際会議は、このような重大かつ切実な課題を担っている。」と述べられました。 テーマは「貝原益軒を考える」で、先ず岡田会長開会挨拶のあと。コロンビア大学名誉教授のW・T・ド・バリーが「世界的に評価を受ける貝原益軒」と題して通訳付きで基調講演を行いました。 つづいて「シンポジウム」に移り、司会は元東北大学名誉教授の源了圓、パネリストに元福岡大学教授の井上忠、恵光会 原病院院長の原敬二郎、温和堂木下クリニック院長の木下勤、福岡教育大学教授の板坂耀子の日本側4名と、バックネル大学教授のアメリカ M・E・タッカーという豪華メンバーで、シーボルトから東洋のアリストテレスと称えられ、地元福岡が生んだ養生の神様ともいうべき「貝原益軒」について、それぞれのパネラーから発表があり、益軒の偉大な業績を語り、今に生きる意義を学び今後の指針としました。 ◆2日目も同会場で、岡田委員長が「日本文化と簡素の精神」と題し講演しました。「日本には、古来から「簡素の精神」があり、簡素になればなるほど内的精神は豊かになり、深くなる」ということを、例をあげて簡潔に話されました。(詳細は岡田武彦 著 『簡素の精神』 致知出版社 発行を参照) このあと三つの分科会に分かれて、それぞれに研究発表と討論が行われた。以下に各テーマと発表者の氏名を記します。 第一分科会 中庸の解釈をめぐって 金谷 治(東北大学名誉教授) 「心遠考」─宋代新儒家の意識構造に関する一考察 佐藤 仁(久留米大学) 宋明の道学詩について 福田 殖(九州大学) 岡本監輔の思想について 町田三郎(九州大学) 明中葉以後の反伝統思想 李 焯然(シンガポール大学) 黄梨洲の陽明学に対する批判と理論的訂正 呉 光 (浙江省社会科学院) 乾嘉学派と清代の実学 葛 栄晋(中国人民大学) 熊十力の清代考証学に対する批判 林 慶彰(台湾中央研究院) 明代庶民儒者顔鈞とその大中思想 黃 宣民(北京社会科学院) 曾點楽から狂禅の風へ 古 清美(台湾大学) 第二分科会 中国の公と日本の公 溝口雄三(大東文化大学) 清末民国初の思想的展開─伝統と近代─ 河田悌一(関西大学) 中国商人倫理思想の現代的意義 川勝 守(九州大学) 近代儒学と中華文化 徐 遠和(中国社会科学院) 無と自然─中国道家思想の考察─ 戴 璉璋(台湾中央研究院) 論語版本源流考 昌 彼得(台湾故宮博物院) 四庫全書と中国伝統文化 呉 哲夫(台湾故宮博物院) 明宣宗歴代臣鑑の文化史上における意義 趙 令揚(香港大学) 王陽明と道家 泰 家懿(トロント大学) 荀子の孟子批判の要因 ─子思・孟子の五行説に関する新解釈─ 黃 俊傑(台湾大学) 南宋における太上感応説と民衆道徳について 朱 栄貴(台湾中央研究院) 第三分科会 明代儒学の回顧と展望 余 英時(プリンストン大学) 毛沢東における伝統文化の継承に関する分析 劉 述先(香港中央大学) 陳白沙から王陽明へ 羌 允明(マケリー大学) 孔子仁学の歴史的発展と現代的意義 歩 近智(北京社会科学院) 仁義道徳と二十一世紀 高 令印(厦門大学) 四海一家─儒教エコロジーについて─ R・L・テーラー(コロラド大学) 儒家の現代的意義 柳 存仁(オーストラリア大学) 儒家人文精神の現実化 王 邦雄(台湾中央大学) 中国伝統文化の自然に対する重視と擁護 鄭 良樹(香港中央大学) ◆3日目はNHK福岡放送センタービルに移り、2日目と同様三つの分科会に分かれて、それぞれの研究発表と討論を行いました。 第一分科会 中国伝統宗教の転機 福井文雄(早稲田大学) 木陳道忞の著作について 野口善敏(長性寺) 儒教的資本主義の精神 金 日坤(釜山大学) 批判的継承と創造的発展 ─伝統的儒教者と現代化課題について─ 傳 偉勲(テンプル大学) 中国伝統倫理思想とその基本的特徴 王 鳳賢(浙江省社会科学院) 中国伝統の展開 龔 鵬程(台湾中正大学) 儒家思想とその現代的意義 陳 来 (北京大学) 荀子礼楽論の解明 楼 宇烈(北京大学) 大同思想の理論的価値と実践的意義 周 桂鈿(北京師範大学) 第二分科会 朝鮮の儒学者炳憲の儒教復興論 坂出祥伸(関西大学) 李退渓の書院観 朴 洋子(江陵大学) 趙重峰『東還封事』の改革主義と民本思想 安 炳周(成均館大学) 道教─言葉からの解放─ M・ミルシンスキー(リュブリアナ大学) 新儒家の歴史観─胡宏を例として─ C・シロカウエル(ニューヨーク私立大学) 中国古代哲学思想と文芸思想の関連 張 少康(北京大学) 関漢卿の歴史劇について 曾 永義(台湾大学) 宋代の仏教文学 黃 啓江(ホーバードアンドウィリアムス大学) 貝原益軒の大疑録 黃 錦鋐(台湾師範大学) 貝原益軒と朱熹の「理」思想の比較 李 甦平(中国人民大学) 第三分科会 人文世界と当代新儒学の再建 成 中英(ハワイ大学) 「継往開来」から見た当代新儒家の学術的功績 蔡 仁厚(台湾東海大学) 中国伝統文化の精髄─和合学─ 張 立文(中国人民大学) 中国の伝統的方志学と東方の文化 捷先(台湾大学) 中国戯曲の戯変から見た中国思想文化の展開 金 学主(ソウル大学) 儒家倫理における現代の道徳的危機 L・ヴァンデルメルシュ(パリ大学) 竹内好のアジア現代文化と現代主義の批判倫理 H・D・ハラチュニエン(シカゴ大学) 儒教倫理説の現代における再構成 尹 絲淳(高麗大学) この折りの論文は、台湾の正中書局から『東亜文化的探求─伝統文化的発展─』と『同─近代文化的動向』の二冊として刊行されました。(『光風霽月』岡田武彦先生追悼文集─528頁・町田三郎文より引用) 左より張立文教授、杜維明教授、岡田先生、ド・バリー教授、疋田啓佑教授 テーマ「貝原益軒を考える」 国際会議のイメージ図 岡田先生が講演「日本文化と簡素の精神」 3.21世紀の地球と人類に貢献する陽明学をテーマに「国際陽明学京都会議」の議長として活躍された業績 平成9年(1997年)8月11日から三日間、国立京都国際会館で、将来世代総合研究所主催、京都フォーラム・将来世代国際財団後援で開かれました。この国際会議は「21世紀の地球と人類に貢献する陽明学」というテーマで、米国・中国・台湾・シンガポール・韓国・カナダ・フランス・オーストラリア・イギリス・ロシアなど世界各地から25名の招待学者と、国内から約300名の研究者・実践家が参加しました。 岡田武彦先生はその年まもなく満八十八の米寿を迎える歳でしたが、矍鑠(かくしゃく) とした議長としての開会挨拶の中で「近年になって、漸く科学文明が環境破壊、利己主義、物質的・経済的価値の重視、人倫道徳の破壊などの弊害をもたらすことが注目され、(途中略)、それらを克服するには21世紀以後の陽明学の意義と価値を真剣に考えなければならない時期に来ていると思います。(途中略)そこで私たちは、文明文化が進歩し、人智が発達すればするほど、ますます良知を磨いてその光明を輝かしてその功罪を明らかにするとともに、人間の功利心を徹底的に除去することに最も力を注がねばなりません。これが真の文明文化や人智の進歩発達及び人類の平和と繁栄を将来するための必須の道と思います。」と結びました。 その後の基調講演はコロンビア大学名誉副総長のド・バリー、プリンストン大学教授の余英時、大東文化大学教授・東京大学名誉教授の溝口雄三、京都大学名誉教授の島田虔次、ハーバード大学教授の杜維明、トロント大学教授の秦家懿、将来世代総合研究所所長の金泰昌と七名の先生方で行われ、とくに京都大学名誉教授の島田虔次の「我々は儒学というと古くさいと、はじめから決めつけるが、はたしてそうであろうかと思う。例えば王陽明の<大学問>は名文で内容があり、すばらしい。王心齋の<鰍鱔説>も、半死半生のような、こういう人間という生き物を少しでも空気をかよわせて、生きかえらせてやる。それが儒教のゆき方。私はこれが昔から好きで、これは絶対(『儒教選集』を作るとしたら)落とせないと思っていた。」という話しは心にしみるものがありました。 12のセッションでは中国語、英語、日本語に分かれて、熱心に発表と討論が行われました。特にセッション6では、実践部会委員長の京都大学名誉教授の吉田和男の司会のもと、住友生命保険名誉会長の新井正明、元環境庁長官の林大幹、北枝篆会主宰の北室南苑の三氏による実践活動報告が行われました。 最終日の全体会議では、林田明大氏をはじめとする全国の実践活動者の報告が熱心になされ、続いて20代研究者の志として、陳瑋芬(台湾)、白恩錫(韓国)、ロマノフ(ロシア)、藤本茂(日本)の各氏が、それぞれ思うところを発表されました 。こういう実践報告は、この国際会議組織委員会議長岡田武彦の「実践家の参加は陽明学が根付いている日本でなければ出来ない試み」という判断と、長年にわたる実践家との熱い交流があったからこそ実現したのでした。 この国際会議は、組織委員会事務局長・将来世代国際財団理事長・京都フォーラム事務局長・矢崎勝彦の献身的尽力によって所期以上の成果をおさめることができました。これは岡田武彦先生の人徳によるところも大きいと思います。(『光風霽月』岡田武彦先生追悼文集─456頁・福田殖先生の文より引用。 組織委員会名簿・国内外招待者一覧は右下記に記します。) 21世紀の地球と人類に貢献する陽明学のテーマのイメージ図 国際陽明学京都会議の会議風景 岡田先生、議長としての開会挨拶 ご案内状より出典 4.日本の学友協力で王陽明遺跡探査と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、そして中国の学者との交流で活躍された業績 昭和60年(1985)から平成8年(1996)の間、5次にわたり本場浙江省社会科学院はじめ中国の学者を先導に、日本の学者や門人たちと中国本土の王陽明関連遺跡を精力的に探査されました。中国の学者との交流も深く、日本の学友との協力で王陽明遺跡修復や記念碑建立にも貢献され、1989年(平成元年)4月5日(清明節)には「明王陽明先生之墓」竣工除幕式が挙行されました。岡田先生が墓前で挨拶され、自作の四六駢儷の「祭文」も朗読されました。(詳しくは、岡田武彦著 『王陽明紀行』─登龍館発行・明徳出版社 参照願います。) 王陽明墓修復除幕式1989.4.5 中国 浙江省紹興県蘭亭郷花街鮮蝦山南麓 右端は岡田先生。王陽明墓修復除幕式を見守る参加者たち 5.人と共に生きる共生思想の実践で市民講座や書院教育を実践され活躍された業績 岡田武彦先生は、人と共に生きる共生の精神を省みる為、修身に真摯に取り組み共に人としての理想の社会の実現に向かって努力しなければならないと強調されていました。そして、共に学び共に生きる実践として、特に市民講座や書院教育(「思遠会」「東洋の心を学ぶ会」「簡素書院」など)に積極的且つ熱心に取り組んでおられました。 「学ぶ会・書院」のコーナーを参照願います。 ◆参考書籍・資料(引用要約部分は頁を記載) 「岡田武彦先生の生涯と学問」福田 殖 著 学術雑誌論文 2004.12.25 九州大学付属図書館 九大コレクション ・中学・高校・大学で多くの生徒と学生を教授した記事は岡田武彦先生年譜 PP.120-121より引用要約。 『光風霽月─岡田武彦先生追悼文集』岡田武彦先生追悼文集刊行会(代表 森山文彦)2005.10.17 発行制作 明徳出版社 ・写真に関してもこの追悼文集から掲載 岡田武彦先生の写真(岡崎豪 氏 撮影) /東アジア伝統文化国際会議の岡田先生と学者達の写真/国際陽明学会議の会議風景、及び岡田先生、議長としての開会挨拶の写真、国際陽明学京都会議’97のご案内状/王陽明墓修復除幕式で岡田先生挨拶の写真、及び除幕式を岡田先生と見守る参加者達の写真 『我が半生・儒学者への道』岡田武彦述 福岡県小郡市「思遠会」 1990.11.22 ・思遠会と岡田武彦先生の活動内容については、思遠会 松尾正威 氏の「あとがき」p.385より記載。 ※イラストはイラストAC(著作権有り)より購入したものを掲載しています。 ※このコーナーは古賀氏が作成された文章を許可を得て赤松が編集・追記しています。
- 思想哲学・人柄 | 岡田武彦 その哲学と陽明学/陽明学
ページ TOP 三、制物と崇物 岡田先生のお言葉「嘉遯」 思想哲学 崇物論 四、物は霊的存在 五、崇物と感性的思考 六、崇の意義 七、人間の本性 八、相克と相生 九、万物一体的思考 十、自己抑制と自己の主体性 十一、身学説 『簡素の精神』 人柄 陽明学 「易を読む」王陽明 近江聖人 中江藤樹 山崎闇斎 崎門学派系譜 山崎闇斎と京都の下御霊神社 参考書籍・資料 思想・哲学と人柄 思想・哲学 崇物論-日本的思考 三、制物と崇物 四、物は霊的存在 五、崇物と感性的思考 六、崇の意義 七、人間の本性 八、相克と相生 九、万物一体的思考 十、自己抑制と自己の主体性 十一、身学説 『簡素の精神』 人柄 ・岡田先生の最後のお言葉「嘉遯」 陽明学 「易を読む」王陽明 近江聖人 中江藤樹 山崎闇斎 崎門学派系譜 山崎闇斎と京都の下御霊神社 参考書籍・資料 フッター 思想・哲学 ◆まとめ ・青年時代から人生及び時世に対する苦悩と疑念を抱いたのが哲学の出発点でした。 ・宋明儒者の体験を追体験して東洋の哲学思想の特色を高唱することが真の東洋哲学の研究方法であることを自覚されました。 ・近年になって青い鳥はわが日本にいることに気づかれました。それは「簡素の精神」 でした。 ・岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』 です。 「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると説かれました。 ・山崎闇斎学派の儒学者 山崎闇斎先生は仁愛(天地の物を生ずる心、万物を生成してやまない宇宙精神)を人生の目標にされました。朱子学を学んだが盲信的ではなく、研究的であり学問的に究明する人でした。闇斎先生が重んじた文は教学の法『白鹿洞書院掲示』と存養の要法(心の修養法)『敬斎箴』でした。 ・楠本正継先生に師事 九州帝国大学在学中は尊敬する楠本正継教授に師事され、教授の著書『宋明時代儒学思想の研究』に感化を受け研究され、自らも『王陽明と明末の儒学』を書き上げられました。 楠本正継先生の祖父は、幕末維新期に活躍された山崎闇斎学派の儒学者・楠本端山です。 楠本端山は若い頃、佐藤一斎の門弟となり、後に三宅尚斎の流れを引き継ぐことになりました。 ・周濂渓 岡田先生が中国哲学を専攻されるようになったのは、宋学の祖と云われる周濂渓の人格思想に魅了されたからです。 ・宋明哲学を中心に幅広く儒学を修められた 岡田先生は孔子を祖とする儒学から、宋学、陽明学、更に日本の儒学まで広く深く修められました。そして、人と共に生きる共生の思想が孔子の精神の基本であるとし、それを心に置かれて修身に精進し、共に生きる理想を世の中に実現しなければならないと強調されました。その実践として市民講座や書院教育に積極的に熱心に取り組まれ、共に学び、共に生きる姿勢を貫かれました。 ・原典資料を読み込み、思想家と同じ心になる学び 岡田武彦先生の、講義は原典資料を読み込んで思想家と同じ心になり、思想上の問題点を解決するという独自の講義をされていました。 ・体認の学 「朱子学は主知的」であり「陽明学は情意的」であると説き、知識を重ねるだけの頭でっかちであるより、実践し体で覚える「体認」が重要と説かれました ・崇物論 岡田武彦先生の学問の究極の到達点は『崇物論-日本的思考-』です。 真の世界的思考は日本の崇物的思考と西洋の制物的思考と一体になるところに成立すると説かれました。「身学説」を書かれ、兀坐して身命の根を培養することが大切であると実践され、書院教育の場でも参加者と一緒に実践されました。 朱子学の理学、陽明学の心学、岡田武彦先生は身学を提起されました。静座は心の敬を求める法、兀坐(こつざ)は身の敬を求める法です。兀坐とは、背筋を伸ばし、腰骨を立てて、目をつぶり、身体を静かに、ただじっと坐ることです。椅子に座ってもよし、床に座ってもよいようです。身体が静を知っている、兀坐だそうです。YouTubeに岡田武彦先生の講義が掲載されていますが、勉強会の冒頭に10分程度兀坐をされています。現代人は忙しすぎる、動を働かすには静の兀坐を生活に入れることが大事といわれています。自然体の兀坐です。先生は『身学説』として「人間の心の精妙な働きが身体、特に脳の生理的作用による、故に、身は宇宙の根源であり、兀坐して以てその根を培養することが初学の道である。」と説かれています。皆様も兀坐を生活に取り入れてみてください。 ※座禅:仏教的(超越主義)な世界観、人生観から生まれた心の学。 ※静座:儒教的(理想主義)な人生観から生まれた心の学。座禅を超えて出てきた修行法。 ※兀坐:静坐を超克して出てきたもの。身の学。 孔子像 王陽明 陽明園 岡田武彦 著『王陽明紀行』明徳出版社 1997 『崇物論-日本的思考-』2003.8.24 岡田武彦 口述 森山文彦 編 崇物論-日本的思考 岡田武彦先生は晩年『崇物論』を発表されました。先生は「人や物を崇敬せよ」と呼びかけられています。「敬虔の心こそが万物を一体とする」と。人と共に悲しみ、人と共に喜ぶ。そして自然と共に生きる。『共に生きる』ことです。 崇物とは物や人、自然を含む全ての物を大切に崇敬する意味です。崇物とはすなわち、日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教、哲学、思想、文化を貫く基本的な思考になります。 以下、岡田武彦先生の『崇物論―日本的思考』を要約致しました。 尚、一の特殊性と普遍性、ならびに二の国文法の特色は略しています。 三、制物と崇物 西洋人(日本人以外)は自己主張的で理知的で他と対立し他を制御する民族性を持っています。反対に日本人は自己抑制的であり、情緒的で、他と調和し他を尊崇する民族性を持っています。 ⑴ 崇物 日本人 特徴 自己抑制的で他と調和し、 情緒的で他を尊崇する民族性 ⑵ 要因 日本の家屋は開放的で、人と自然が常に一体となるように造られており、日本の自然環境は人間生活を潤してくれています。日本は島国で、山の幸、海の幸に恵まれています。自然は春夏秋冬の四季の変化があり極めて風雅に富んでいます。他国から侵略されることはありませんでした。同一民族、同一言語で論理的に自分の意向を伝える必要はありませんでした。 ⑶ 制物 西洋人(日本人以外) 自己主張的で理知的で他と 対立し他を制御する民族性 ⑸ 西洋の家屋は自然に対して防御的で窓は小さく壁は厚くなり自然と隔離する構造となっています。西洋の自然環境は人間生活に厳しい環境を与えています。日本以外の国は侵略された歴史があり、自然環境も厳しく人間生活に厳しいものになっています。 多民族で多言語が多く、理論的に自分の意向を伝える必要がありました。 ⑹ 結果 日本人は自然の恩恵に対して深い感謝の念を抱き、これを崇敬する様になりました。その結果自然崇拝、万物を崇敬する民族性ができました。 因って、日本人の思考は崇物的となりました。 ⑷ 西洋人は自然と人を一体と見ることがなく、反対に対立するものと見ていますので、自然を制御する為に法則原理を探究して人に利用しようとする風潮が生まれました。結果、西洋人は理性的、理智的となり科学文明が発達し思考は制物的になりました。 ⑺ 民族 ◆崇物の例として ①物に対する恩恵に対する深い感恩の念を表す行事として、筆供養、針供養、藤の花供養、日本人形供養、鯨塚供養があります。 ⑻ ②「頂きます」「ご馳走さま」などは自然崇拝、物崇敬の念の 一端を示すものと考えられます。 ⑼ ③山岳信仰、奇岩老木には神霊が宿っているとして崇敬する習慣があります。 ⑽ ご神木崇拝 人形供養 針供養 湖魚供養 三、制物と崇物 四、物は霊的存在 日本人は古来、物は霊的で尊厳な存在であると考えました。したがって、人間に人格があるように、物にも物格があると言わなければなりません。人格が尊厳なものであるとするならば、物格もまた尊厳なものであると考えました。日本人はその尊厳さを神と称し、その霊性の純粋なもの偉大なものを特に尊崇し、畏れ多いものとして崇拝祭祀したのでした。 ⑾ 人は皆、老若男女の別なく絶大に霊的で尊厳な存在です。そのことを示す為に、人には人格があると言ってもよいのかもしれません。物と人とを区別して考えると人には人格があり、物には物格があります。そして、人格と物格の間には質的相違があります。 ⑿ 崇物とは日本人の自然崇拝からきたもので、物を崇拝し崇敬する事です。この崇物こそ日本の宗教・哲学・思想・文化を貫く基本的思考になっています。 ⒀ 形而下の物は感覚で捉えられるもので、形而上の物は感覚で捉えられないものを言います。形而下は物質的なもの、形而上は精神的なもので、物の本質は中国思想でいうと両方とも気になります。それ故、物は全て気霊で霊的存在になります。万物は生物・無生物の別なく心を持っているというべきなのです。霊性は種によって質を異にするのです。そして万物はそれぞれ主体性を持つ独自の存在でそれを尊厳なものといわなければなりません。 ⒁ 日本人の崇物的思考(感性的思考)の筆者の私見 「月見れば千々(ちぢ)にものこそ悲しけれ」というように月を見る。 (小倉百人一首23番 大江千里) 日本人は千年杉をみると、生命力に溢れた霊気を感知する。 秋の虫の音を聴けば「あはれ」と感じる。 京都の竜安寺の石庭は何らかの心を示すものと思うであろう。 日本人は「一木一草にも心がある」という。 大空の行雲にも心があると感じる。 では、この心とは何を意味するのでしょうか。 東洋では、人間には心があり、それは気の霊妙な働きであるとしています。ですので、心とは気霊といってもよく、そうなれば、心は霊と言ってもよいのです。これによって私が物は皆霊的存在であるという意味が理解できると思います。 ⒂ 秋の月 若狭姫神社 社殿と千年杉 竜安寺の石庭 大空の行雲 五、崇物と感性的思考 崇物的思考 制物的思考 民族 特徴 日本人 情緒的・感性的・全一的。物の本質は直感的=神秘的 自己抑制自己謙譲的であるから自他一体的思考となり、心の全体、すなわち全一的思考によってその本質を感知するからである。 (16) 神秘主義的に徹し、実修に徹している。 坐禅は厳しい系統的な実修がある。東洋は切至な実践的な修行を必要とする。 (17) 日本の思想文化は感性的直観を根本としている。 崇物は主として日常生活において求められ、厳しい実修はない。「崇」は自我を放棄して他に従う心の修行であり、無心無我の心で他と一体になる立場をとるもの (18) インドや中国の思想も神秘主義的であるが、日本のそれと比較すれば、やはり両者の間に差異があるのを認めざるを得ない。それは神秘主義といいながら理論的な解明を要するところがある。 日本の場合は殆どそれはない。ここでいう崇物は、日本の宗教・哲学・倫理・文化を貫く思想で実践を要とするだけで理論は皆無に近いといってよい。 (23) 西洋人(日本人以外) 理知的・局部的 理性的=合理主義的 自己主張より生まれるから自他対立的となり、 他を説得し制御する傾向とならざるを得ない。 そのためには他の本質を究める必要がある。 その結果、自己の理性理智を絶対的なものと し、他を対象として分析してその本質を究め、 これを我が方に利用する様にようにならざるを得 ない。近世に至って自我の理性を絶対視するよ うになって合理主義が盛んになり、その結果科 学文明の興起をもたらした。 (19) 哲学も合理主義でカント、フィヒテ、ヘーゲルなど 大家が輩出した。合理主義を批判したニーチェ、ベルグソンなど神秘主義者もいた。 (20) 西洋の神秘主義はキリスト教的神秘主義とは 些か異なるが、禅学における坐禅のような切至 な実修がない。特色を記述するに止まっている。 (21) 技の基本は技巧錬磨の極地を述べたのは西洋 的合理主義的見地に立った見方。 (22) 六、崇の意義 崇拝の意に解すれば宗教性を帯びますが、崇敬とすると中国宋代の儒者、程朱やその学派のいう「居敬」に類似します。朱子によれば、敬には三義があります。 敬の三義 (24) ①心中一物も容れず(伊和靖の説) 心の中に一点の物欲もないようにすること。 ②整斎厳粛(程伊川の説)心身が現に従っている行を正し、心を正して厳しく反省すること。 朱子は程伊川の説を重視した。朱子は高遠な理想主義者で物の理を厳粛な存在としたので、伊川の敬を主とするに到った。それは動静を貫くものとし、静坐を入門の処とした。 ③常惺惺(謝上蔡の説) 心の明知を覚醒して曇らさないようにすること。 居敬を最も詳細に論じたのは、明初の朱子学者の胡敬斎です。崇物と居敬は似て非なるところもあります。朱子学の居敬は、物の理を究める知的な学で窮理の学と並進することを求めましたが、知的な学を先とし、居敬のような実修を後にするところがありました。朱子学は物を物質的な要素の気と理に分け、理は気の法則原理として、この理を知的に究める事の必要性を切論しました。そして、居敬といっても、理に対する実修であるとしました。故に、知行につても、先知後行の学とみられたのです。ところが崇物の場合は、直接、物そのものを崇敬しますから、朱子学の居敬とは異なります。崇物は物そのもの、物の霊を崇拝・崇敬するものですから宗教的・情緒的です。 (25) 崇物の「崇」は前に述べたように心の全一的な修行ですが、その真を求めようと思えば、そこにまた西洋の伝統的な思想文化から学ばなければならないところがあります。 崇物の実修が主観に陥ったり偏ったりしない為に東洋的な伝統を学習する必要があります。日本の神道、仏教老荘、儒教の学習が必要で ありますが、特に儒教の学習は大切です。禅語の「放下」(ほうげ・一切を捨て去ること。仏語。禅宗)などは学ぶべきものです。私見によれば、「崇」の修行には「我欲、我見、我執」があって、この三我を放下棄捨しなければなりません。すなわち、三無我を要としなければなりません。 仏教、儒教、崇物の物に対する態度に積極性と消極性の差異があります。 ・仏教では死生の超脱を主としますから物に対する態度は消極的になります。 ・儒教は経世を目的としますから積極的になります。 ・崇物における自己抑制的修行は退歩思量(自分の内に目を向けて物事の根本に立ち戻り、思いはかること)といってもいいか分からないですが、崇物での物に対する態度は儒教よりも端的で一層積極的です。 (26 ) 崇物の場合は儒教の理智的傾向を帯びたものとは違って、活発な情意的な発露があります。 崇物の修行に大いに役立つ教えは、 ・孟子の「修行に絶えず進め励んで間断があってはならない。修行の効果を期待してはならない。修行することを忘れるのもいけないが、無理強いをしてはならない」 (『孟子』公孫丑章句上篇) ・孔子の「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」 (『論語』衛霊公篇) (自分がしてほしくない事は、人にしてはいけない。) ・孔子の「己れ達せんと欲して人を達せしむ」 (『論語』雍也篇) (自分が事をなし遂げようと思えば、まず人を助けて目的を遂げさせる。仁ある者は、事を行なうにあたり自他の区別をしないことをいう。) (27) 儒教は、日本人の民族性と適合するところが多いです。日本民族は同一民族なので人倫を重んじますが、儒教も人倫を重んじます。「斯の人の徒と与にせずして誰と与にかせん」(『論語』微子篇)というように人倫を重んじています。両者ともに現実の人間生活の道を説きます。貝原益軒も「日本は神人合一を説き、中国は天人合一を説くが、その道は同じである」(写本『神儒並行相不悖論』)と述べています。神の道、天の道は共に現実的なもので、仏教などの超越的な道とは異なります。 ・儒教は人倫を重んじ、現実の人間生活の道を説きます。日本人の民族性と適合するところが多いです。 ・神道はこの世の明るい現実的な道を説きます。(明るい生の世界を説きます) ・仏教は超越的な道を説きます。(暗い死の世界を説きます) 崇の修行が真実のものとなるためには前に述べたような心がけが必要ですが、崇の修行本性から自然に発露するものでなければならないでしょう。つまり、本性自身が向上するために自ら発するものとならなければなりません。 (28) 崇物 崇物は物そのもの、物の霊を崇拝・崇敬するものですから宗教的・情緒的です。 ご神木崇拝 針供養 秋の月 湖魚供養 姫路甲山の大岩崇拝 (古神道の磐座) 人形供養 伊勢志摩の夫婦岩 神道 神道はこの世の明るい現実的な道を説く(明るい生の世界を説く) 神社拝殿前 石清水八幡宮・京都府八幡市 霧島神社 松下幸之助社 鈴鹿の椿大神社境内 家庭の神棚 神社での神前結婚 姫路松原八幡神社 姫路・松原八幡神社秋季例大祭 「灘のけんか祭り」 儒教 儒教は人倫を重んじ、現実の人間生活の道を説く。日本人の民族性と適合するところが多い 孔子像 崎門学の祖・山崎闇斎坐像 王陽明像 朱熹像 朱子の白鹿洞書院掲示 姫路藩仁寿山校 学問の心構え 仏教 仏教は超越的な道を説く(暗い死の世界を説く) 仏舎利塔 姫路名古山墓地 東大寺の大仏像 親鸞聖人像 大阪・四天王寺 東大寺 仏壇の灯明 (灯明は仏さまの智慧を象徴し、迷い、煩悩、苦しみの原因、愚かさなどを消滅してくれると云われています) 家庭の仏壇 七、人間の本性 崇物の物は万物を意味し、万物の中には人間も含まれます。人間と他の物とは、もちろん同気ですが、人間は他の物とは違って特別に霊妙な気の働きを持つ生物といってよいでしょう。人間は他の物とは異なる超絶的に優れた特性の持ち主です。 人類が類人猿と異なる点を挙げると従来は ①知恵のあるヒト(Homo sapiens) ②工作するヒトとなりますが(Homo faber) 最近では ③分かち合うヒトであることが分かりました。(Homo communicans) 今後は③に注意を払って哲学的研究をしなければなりません。 (29) 儒教は、人倫道徳を根本とする修己治人を説いています。「分かち合うヒト」すなわち社会生活ができるのは、人間が本来、わがことばかりでなく常に他人のことを思いやる心があるからです。すなわち、人倫道徳性を持つからであり、これを人間の本性として述べたのが儒者です。 儒教は人倫道徳を根本とする修己治人を説いています。その修己治人を明らかにしたのが『大学』で、正心、誠意、致知、格物、修身、斉家、治国、平天下の八条目の教えになります。 しかし、人間の特異性は人倫道徳的本性ばかりではありません。このことは、中国の古代思想とその歴史を見るならば容易に知ることができます。 人間の特性を中国の古代思想とその歴史から見ると下記の様な分類となります。これらは、いずれも根深い人間性の表現であるといわなければなりません。 ① 現実主義―功利的人間観に基づく。 人間は先ず己れの利を求める功利的な存在です。そこで現実主義の観方をする思想家は、人間の功利主義が如何に根強く切実なものであるかを洞察し、それに対処する道を説きました。孫子などの兵法家、韓非子などの法家、縦横家(外交家)がそれになります。 ② 超越主義―宗教的人間観に基づく。 人間は本来宗教性を持っているという宗教的人間観に基づく超越主義思想も現れました。すなわち、人間は相対的な存在であって様々な矛盾・葛藤・苦悩から逃れ得ない運命を背負っており、人間以上の超越的なものへの随順によってのみ運命の束縛から離脱し安楽な絶対界に安住することができるとして、一切の人為を否定し天の無為自然に因循することを求めました。老子、荘子などの道家、中国化された仏教がそれになります。 ③ 理想主義―道義的人間観に基づく。 一方、現実の人間は確かに功利的で人と人との共同生活には様々な矛盾・葛藤などを伴うけれども、人間は本来道徳的であり、お互いに情義(人情と義理)によって結ばれていると道義的人間観に基づく理想主義思想が生まれました。孔子、孟子、朱子、王陽明などの儒家がそれになります。 ④ 芸術主義―審美的人間観に基づく。 (30) 八、相克と相性 人間の本性は何かということを考える場合、植物や動物など地球上の生物は如何にしてわが生命、種の生命を保持しているかを考察することも肝要です。というのは、人間も生物にほかならないからです。 相克についていえば、動物の世界は弱肉強食です。相生についていえば、蜂は花の蜜をあさりますが、そのお蔭で花粉が雌蕊に付着して木は実を結ぶことができます。また、虎やチーターのような強い動物は少ししか子を産みませんが、鰯や蛙のような小さく弱い動物は多くの子を産みます。このようなことは植物の間でも見得られます。要するに、生物は相克相生を通じて共存共生していることが分かります。 したがって、各生物は共存共生によってわが生命ないしは種を保持し、生存の目的を達しているということができます。 (31) 先程述べた動物の相克は循環型といってもよいですが、しかし別の観方をすれば対立型でもあります。それは剛と柔、陰と陽のようなものです。両者は矛盾存在ですから、それは闘争によって解消されると考えられます。しかし、矛盾存在であるが故に調和して新たなものを生むのです。このことは『易』の睽(けい)の卦の彖伝の語がよくこれを解明しています。睽は一口でいえば、矛盾を説いた卦です。その彖伝に、 天地睽(そむ)いてその事同じきなり。男女睽いてその志通ずるなり。万物睽いてその事類するな り。睽の時用、大いなるかな。 とあります。 よく考えてみますと、相克と相性も矛盾存在です。したがって、両者の関係は対立的でもありますが、同時に調和的でもあります。それは相克といっても内に相生を蔵し、相生といっても内に相克を蔵するからです。地球上の生物の生態をよく観察している自然科学者は恐らくそれに対する詳細な知識を有するでしょう。筆者のような素人でも、例えば男性の身体にも女性ホルモンがあり、女性の身体にも男性ホルモンがあることから、このことを推察することができます。 要するに、地球上の生物はお互い相克と相生の関係にあっても、それによって共存共生しているのです。こういう点から考えるならば、相克と相生に於いても、相克より相生の面が重んじられるべきです。その相生は相克相生を超越した相生を忘れてはなりません。生命を保持している動物たちは各自本能のままに生きていますが、共存共生によってわが生命を保持しています。人間も動物であることを忘れてはいけません。このことは、人間の本性を考える場合、重要な契機となるものです。 (32) ※以下⑴火沢睽と⑵陰陽五行説による相克相生の補足説明 ⑴『易経』の睽の卦の説明 上卦は離・火、下卦は兌・沢でそれぞれの性質は相反し、和合しません。人に例えると、上卦は離・中女、下卦は兌・少女で考え方が異なっており、背反するのです。これを解決するには時間をかけて内部を調うように努力し応和していくことが大切になります。 参考書籍:公田連太郎 述 『易経講和 三巻』(全五巻) 明徳出版社 1958年 火沢睽 ⑵陰陽五行説による相性相克の説明 陰陽五行説は古代中国の自然哲学で、宇宙や自然界に存在する全ての現象やものは陰陽の調和から成り立ち、陰陽の消長、変化、循環によって生まれるとする陰陽説と、宇宙の全ての万物は木火土金水の五つの気(五行)によってできているという説で成り立っています。宇宙にはこの五つの気が絶えず循環しており、運行していることを行と言い、五行と言います。五行には相生・相克関係があり、森羅万象の生成・変化を説く考え方が陰陽五行説です。中国の春秋戦国時代の鄒衍(すうえん)によって唱えられました。我々が存在する宇宙・自然界は膨張(陽)し、収縮(陰)して循環します。 ◆五行の法則 五行の法則には、相生と相克関係があり、相生は自分から他のものを生み出し、反対に他のものを剋していく相克があります。 相生 木生火:木は擦れて火を熾(おこ)す 火生土:火は燃えて灰(土気)となる 土生金:土から金属が生じる 金生水:金属の表面に水滴が生じる 水生木:水は木を育む 相克 木克土:木は根を締め付け、栄養を吸い取る 土克水:土は水を制御する 水克火:火は水に消火される 火克金:金属は火に溶かされる 金克木:木は金属の刃物に切り倒される 参考書籍:長田なお『陰陽五行でわかる日本のならわし』 淡交社 2018年 九、万物一体的思考 人間は本来、社会性を持つもので、それが人間の本性であることは、それに対する理解の浅深は別として、深い思考を凝らさなくとも誰しも容易に知ることができると思います。そして、そこにこそ人間として生きる真の道があるといわなければなりません。それは孔子の「斯の人の徒と与にせずして誰と与にかせん」(『論語』微子篇)や孟子の「楽しみは人と与にするに若かず」(『孟子』梁恵王句下篇)にその訓えが示されているように、己れ一人でなく「人と与に」というのが人間性の本来であることは容易に自覚することができます。ただ、私利私欲に駆られ「人に反して」とか「人に対して」という功利心が時として生ずるが故に、このような共存共生の心を失い、それを自覚するに至らないのです。また、このことは人間の家族生活を考えるならば、それが人倫の道であり、人間性の本性からの発露にほかならないことを知るでしょう。このような家族道徳を拡充したものが共存共生の社会道徳です。 このような家族道徳、社会道徳、人倫道徳は共存共生の道徳にほかなりません。それが共存共生の自然界の道であることを知るならば、家族道徳、社会道徳も宗教性を帯びるに到るし、また自然界の共存共生の道も人倫的情感を帯びるようになるでしょう。これをもって人倫道徳の理想的世界としたのが中国の宋明時代の儒者でした。 万物一体論は、孔子の仁の思想を発展させた究極の道です。万物一体論を集大成したのは明の王陽明で、良知を持ってこの思想の根本としました。その良知は道徳的感知であり、道徳的法則ともいうべきもので、陽明は、人々がこの心を一にし、この徳を一にして、わが能力に応じた職分を全うすることが、万物をもって一体となす仁を達成する所以であると考えました。 陽明の良知の体は「真誠惻怛(しんせいそくだつ)」です。 ※「真誠惻怛」とは人の真心と人に対する思いやりのことです。 (33) 陽明の万物一体論は社会生活が家族生活の延長であるとしました。社会生活にあっては各人が家族的な肉親の情を一にし、その家族的な道徳を一にして、わが職分を果たし、職業の貴賤については、家族生活において親子兄弟が分業に従事するのと同じように、その間、一切の羨望卑下をしないようになって初めて万物一体の心を遂げることができるとしました。そして、それを鋭敏に知覚するのが良知であるとし、良知を本とする万物一体を説きました。もちろん陽明の万物一体論は、それ以前の仁、礼、誠を以て万物一体を説いたものの集大成ともいうべきものですが、それは要するに「斯の人の徒と与にせずして誰と与にかせん」(『論語』微子篇)に表されている孔子の仁における究極の境地を述べたものです。 宋明時代の儒者は万物一体の仁をもって聖人の道とし、各人がこの仁心をもってわが能力、わが職分を全うすることを求め、万物一体論を切論しました。彼らの万物一体論は、前述したように仁、礼、誠、良知という理念をもつものですが、要するに自他一体になることが根本です。 (34) 万物一体的思想の妨げになるものは功利的思想になります。深く考察するならば、功利性は人倫道徳を高唱したり、超越的立場を強調したりするところにも潜在していることが理解されます。故に、万物一体的思考は切実な功利的思考の克服によらなければ、これを実現することはできないし、また秀れた理智や技巧を用いなければ、その実現性と理想性を全うすることはできないでしょう。そのためには、西洋と中国の人間観を精密に考察することが肝要です。 万物一体的思考と筆者の崇物的思考とを比較するならば、後者がより一層、簡易直截です。というのは、崇物的思考によれば宗教性を帯びて自他一体となり、また功利心を棄絶することが極めて容易となるからです。 物も固定的で不変の存在ではなく、変化に応じて物をして真の物として存在せしめることが重要で、「崇」もこれに応ずるものでなければなりません。そこで、物の観方、つまり観物についてよく考察することが肝要となります。 一、大観 長い時間と広い時間の中に物を位置づける観方をすること 二、小観 物の法則及び原理を精細に考察すること 三、深観 物性の本質を洞察すること この三観がなければ、崇物も素朴なものとなる恐れがあります。(35) 崇物は学の終始になります。崇物は科学的思考を受容しなければ、その理想的世界は実現不可能となります。科学的思考は枝葉で、崇物は根本になります。 日本の崇物は自然崇拝から来ていますので山川草木まで及びます。環境問題やエコロジーを考えると容易にその必要性が理解できます。 日本の崇物的思考は、実に世界性を持ち得るものです。西洋の制物思考と一体になってこそ、真の世界的思考が生まれるのです。従来、日本的思考については、日本人は潜在的に持っていて、これを十分に自覚するまでには到りませんでしたが、今日においては、これを自覚的に発揚していかなければなりません。そして、これが人類の思想文化の発展に大いに寄与するものであることを忘れてはなりません。 筆者のいう崇物的思考は太古の神道と密接な関係があると思われます。ところがJ・W・T・メーソンの名著『神ながらの道』で日本人は余りにも自己抑制的であって、伝統的な素晴らしい神道についての自覚と多少の論理的表現が欠けていると論じています。中略(メーソンの神道論)~。故に筆者は、日本人が潜在的に持っている伝統的な思考の究極の理念と思われるものを敢えて掲げたのです。 (36) 『神ながらの道』 J・W・T・メーソンの写真 『神ながらの道』J・W・T・メーソン 著 今岡信一良 訳 たま出版 1980.9.1 十、自己抑制と自己の主体性 日本人の自己抑制は真の自己の主体性を樹立し、それを発揚するものであるといってよいでしょう。一見すれば、自己主張的思考は自己の主体性を堅持し、自己抑制的思考は反対に自己の主体性を軟弱にするように思われます。実はそうではないのです。というのは、日本的な自己抑制は崇物に因るからです。自己抑制は、いわゆる「退歩思量」に通ずるところがあります。その究極に到れば、無我の境地に達します。筆者によれば。無我とは三私三我「私欲、私情、私見」と「我欲、我見、我執」を棄絶することにほかならないです。 ここで留意しなけばならないことは執着です。すなわち、無我を求めても、敢えて無我になろうとすれば、却って我執に陥ます。故に、道家も無無を説き、仏家も空空を説いたのです。 崇物を要とすれば自ら無我に到るが、それも無我の棄絶にまで到らなければなりません。そうなれば「崇」も「無崇」とならねばならないでしょう。のみならず、「無崇」もまた棄絶しなければならないでしょう。故に。「無崇の崇」に到って、その究極に達するといわねばなりません。中略~。 (37) ここで特に考慮すべきことは、「崇」は盲目的に物を崇拝崇敬するのではなく、その真なるものは、その物が本来の生き方あり方を切願し、その物をして、その処を得させること、いわゆる「物をして物に付す」ようにすることがなければ、真の崇物ととはいえないでしょう。そのためには、前に述べたように、各物の本性を感知するようにしなければならない。これは無我による全一心によってのみ可能となります。 (38) そうなれば、「崇物」における自己抑制は真我の働き、すなわち活溌々地の主体性を発揚することになります。故に、日本人の「崇物」における自己抑制は、自己の主体性を抑圧するものではなく、反対にこれを積極的に堅持することになります。故に、「崇物」の自己抑制の真意をよく理解し自得しなければ、自己抑制は卑屈になり、人としての尊厳を毀損する恐れなしとしないです。 (39) 日本人の自己抑制に対し、外国人の中には往々にして日本人は己が意向を論理的に表現せず、また表現を曖昧模糊として人を欺瞞する民族性をもっていると誤解するものがあります。しかし、彼らに日本人が潜在的に伝統として持っている「崇物」についての理解があれば、そのようなことはあり得ないでしょう。そのためにも、日本人自身が先ず「崇物」に対する自覚を持つよう努めなければなりません。要するに、崇物は人間の真我を発揮する道です。 (40) 十一、身学説 物とは宇宙の森羅万象であり、かつ一物についても、前述のように固定的なものではありませんが、すべてはいわゆる物質的・精神的素因ともいうべき一気の作用にほかならないです。しかも、気は同質のものではなく、気中に無限の異質のものを存しているといってよいでしょう。物はその気から生じた一主体的存在であり、その主体はそれぞれ質量ともに異なるものです。例えば無生物と生物、植物と動物、動物と人間、ともに一気の所産ではありますが、各自、質ないし量を異にします。また、同質の中にも優劣があり、量にも多寡(たか・多少)があります。 ただし、一気の生ずるものでありますから、宇宙の森羅万象はすべて同体であるということができます。したがって、人間もまた宇宙内の諸物と同体で、かつその優秀な質を受容した存在であることができましょう。それ故に、人間は宇宙的存在です。人間のみならず他の諸物もすべて宇宙的存在でありますから、それは皆、尊厳な存在です。ただ人間は、その中でも特に優秀な質を賦与された存在であり、抜群の特性を持つに到りました。中略~。 しかし、この心は身と一体のもの(心身一如)であることを忘れてはいけません。最初に筆者は、物の霊性は物と不可離であるとし、物がそのまま霊的存在であるといったが、人間についても身体そのものが霊的存在です。しかも、その身体は気の精妙の生ずるところですので、人間の身体は宇宙的存在であるのみならず、このことを自覚するところに人間の人間たる所以があります。中略~ 最近の物理学、医学、生理学の研究によれば、宇宙の根元は物質でなく精神と言うべきものであり、人間の心の精妙な働きが身体、特に脳の生理的作用に帰せられることが証明されつつあります。故に、身は宇宙の根元であり、兀坐して以てその根を培養することが初学の道になります。よって、心学説を次に掲げ、本論の結びとします。 (41) 身學説 先儒多以聖學爲心學各揭其說以篤行 之矣其爲工夫也精微深奥真髓入微矣 其發明聖學之功可謂至大也自陽明子 出提唱良知之說心學乃大明于世矣曰 良知二字千古聖々相傳一點滴骨血體 大思精寰宇賡繼相承以是爲本體工夫 則聖人之學致知盡焉聖人易簡之學於 斯極矣余謂天地萬物會歸於心心歸於 身身是心之本源宇宙生氣之充實處也 故曰學也者身學也致身盡焉初學者宜 兀坐以培其身命之根應宇宙在手萬化 生身其功切至矣 「先儒多く聖学を以て心学となし、各々その説を掲げ以て篤くこれを行う。その工夫たるや精微深奥にして神髄微に入る。その聖学を発明するの功、至大と謂ふべきなり。陽明子出でて良知の説を提唱せしより、心学すなわち大いに世に明かなり。曰く良知の二字は千古聖々相伝の一点の滴骨血となりと。体大、思精、寰宇賡継して相承く。是を以て本体工夫となせば、すなわち聖人の学はこれを尽くす。聖人の易簡の学、ここにおいて極まる。余、謂へらく、天地万物は心に会帰し、心は身に帰す。身はこれ心の本源にして、宇宙の生気の充実するところなり。故に曰く。学とは身学なり。致身これを尽くすと。初学者は宜しく兀坐して以てその身命の根を培ふべし。まさに宇宙手に在り、万化、身より生ずべし。その功、切に至る。」 (42) 『簡素の精神』 『易経』の「賁」卦によれば、「文極まれば素に反る(飾りをつきつめていくと、もとの飾りのないものになる)」とあり、『簡素の精神』の著者・岡田武彦は「表現を抑制すれば簡素になる。それを抑制して簡素になればなるほど内的精神はますます豊かになり、充実し、深化する。これを簡素の精神という」と述べられています。 『簡素の精神』致知出版社 1998 敷島の大和の国を 人とはば よろづの物を 畏れ敬ふ 武彦 岡田武彦先生の和歌『簡素の精神』より出典 簡素の精神 目次 第一章 日本人と簡素の精神 1 埴輪の心 2 自然への回帰 3 松のことは松に習え 4 芸術の国日本 5 日本の神話と歴史 6 自他一体の心 7 言挙げせぬ日本人 8 清貧の生活 9 洒落の境地 10 日本語の特質 第二章 簡素の形態とその精神 1 表現と内容 2 ピカソとクレーの絵画 3 水墨画の心 4 絵画と余白空間 5 白磁と簡素の精神 6 簡素と平淡 7 拙と巧 8 内蔵と呈露 9 自然の性情 10 以心伝心 11 易簡の学 12 簡素への回帰 13 日本文化の特質 14 外国文化の日本的受容 第三章 日本文化と簡素の精神 1 随 筆 イ 清少納言と枕草子 ロ 鴨長明と方丈記 ハ 吉田兼好と徒然草 2 和歌 イ 和歌俳句第二芸術論 ロ 日本三大歌集 ハ 万葉集 ニ 古今集 ホ 新古今集 3 連 歌 イ 連歌の成立 口 心敬の連歌 ハ 宗祇の連歌 4 俳 諧 イ 俳諧の特質 ロ 俳句の文芸性 ハ 俳句と表現の抑制 ニ 俳文の特質 ホ 松尾芭蕉の俳諧 へ 芭蕉の俳文 ト 横井也有の俳文 チ 小林一茶の俳文と俳句 リ 正岡子規の和歌と俳句 ヌ 文人の草庵生活 5 日本絵画 イ 大陸芸術の日本的受容 ロ 文人画の発展 ハ 象徴性と精神性 二 印象性と装飾性 ホ 日本書道の特質 6 日本彫刻 イ 日本彫刻の絵画性 口 円空・木食の戯れ彫 ハ 神像の特質 7 日本建築 イ 日本住宅建築の特質 口 中国建築様式の日本化 ハ 伊勢神宮 ニ 桂離宮 8 日本庭園 イ 作庭の様式 ロ 日本庭園の歴史 ハ 日本庭園の特質 9 日本料理 イ 日本料理と中国欧米の料理 ロ 自然の風味 ハ 総合美 10 日本のやきもの イ 縄文・弥生土器と埴輪 ロ 日本陶磁器の歴史 ハ 日本陶磁器の特質 ニ 茶器の特質 ホ 茶人の風流 へ 不完全の美 11 茶道 イ 総合芸術としての茶道 ロ 珠光の茶道 ハ 紹鷗・利休の茶道 二 利休没後の茶道 12 能楽 イ 二阿弥と禅竹 ロ 能面 13 日本音楽 イ 大陸音楽の受容と日本音楽の発展 ロ 新日本音楽の誕生 ハ 日本音楽の特質 14 日本武道 イ 技と心 ロ 剣の心術 第四章 日本の宗教と思想 1 日本儒教 イ 神儒一体論 ロ 日本儒学の特質 2 神道 イ 仏教・儒教との習合 ロ 神道の特色 ハ 日本文化と神道 ニ 神道の自覚 3 日本仏教 第五章 簡素の精神とその意義 人柄 ・岡田武彦先生は忠恕の真心を尽くされる方で、暗黙のうちに「まごころが大切」であると示された先生でした。 ・岡田武彦先生は自己の発見した道を信じ、好み、楽しみ、他人の非難や批判にとらわれない人柄でした。 ・乞われれば全国に出向き世を去るまで熱く語り続け、学者はもとより、一般市民から園児まで多くの心ある人々に慕われました。 ・使命感と情熱の人でした。海外の国際会議に頻繁に出席され、学問的恩恵と人的交流を持つことができたとされ、恩返しとして二つの国際会議の責任者になられました。 ・会われた人々からは、岡田武彦先生から「元気を貰った」と多くの人が話されていました。 ・岡田先生の周辺にはいつも心温かい信頼関係に満ちた人々がおられました。 岡崎豪 氏 撮影 岡田 先生が、私達に教授して下さっている最後のお言葉 嘉遯 この二文字は、岡田武彦先生がご臨終の際に床の間に掲げておられた墨書です。 この二文字は、『易経』の三十三番目の卦で遯・天山遯の五爻の爻辞の二文字になります。 遯・天山遯は隠遁する、退き避けるという意味になります。五爻・五番目の爻(主爻)でその爻辞は 九五、嘉遯。貞吉。 九五、嘉(よ)く遯(のが)る。貞しくして吉なり。 遯の時に際し、その遯れる姿は麗(うるわ)しく立派である。正しい道を固く守っているので吉である。 志を貞しく固く守っているからこそ嘉遯なのです。 人生の最後にあたって、岡田先生のお気持ちをよく表しているお言葉だと感動致しました。私達も人生の最後に、岡田先生の「嘉遯」が言える様に志を貞しく固く守って人生の道を学び続けることが大切であると強く思いました。 岡田先生のお言葉「嘉遯」 陽明学について 王陽明(1472~1529・58歳没)は中国・明朝時代の儒学者、文武両道の文官で陽明学を起こした聖人です。明朝時代は今までになく皇帝の独裁政権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影響を及ぼした時代でもあります。歴史はこのような暗黒が蔓延した時代に英雄や聖人を出現させます。王陽明もその一人です。彼は文官ですが、武芸や詩学など様々な才能に秀で、儒学と兵法を究めた文武両道の儒学者でした。彼は日常生活の中で、実践を通して心に理を求める実践の儒学である陽明学を唱えました。王陽明の功績は三征という軍事的業績があります。それは、江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧や寧王の乱をわずか2か月で鎮圧した事、及び、江西で反乱が起き、病気をおして討伐、戦後処理を行ったことです。 彼が35歳の時、15歳の武宗が即位したが宦官の劉瑾(りゅうきん)に実権を任せていた愚かな皇帝でした。宦官の劉謹は実権をほしいまま行い、贈収賄が横行して、それを諫言する者は粛清されました。軍紀は退廃し政治は弱体化しました。王陽明は皇帝に諫言する職務の諫官を投獄することに対して批判し、弁護する上疏文(じょうそぶん)を提出したが、反対に劉瑾を弾劾したことで武宗皇帝を怒らせ、投獄されてしまいます。厳しい鞭打ちを受け、十二月の厳しい寒さの中で『易経』を読み研究したと伝えられています。 陽明は伝習録の中で『「易」とは、天に判断を問う事です。中略。天のみは作為の付け入る余地がないからです。』と言っています。その後、貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まりました。その時に占筮して得た卦は。地火明夷・䷣の「不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ意」でした。陽明はついに、龍場に行く決意をし、その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記しました。 王陽明 画像 王陽明 拡大画像 陽明学のまとめ ⑴儒教の創始者達 孔子(552~479 BC)春秋時代の人。人倫道徳を主眼とした理想的な社会を実現するこ とと、伝統文化を尊重し、これを学んでそこから時代に適応する新しい道を創造する事(温故知新)を説いています。 孟子(372~289 BC)戦国時代の人。老子、荘子などの超越主義の影響もあり、徳業の本である人間の本性や良心を説いています。万物我に備わる「善は人と与にし」「楽しみは人と与にする」万物一体思想です。 ⑵朱子と陽明の比較 理知的で他律的な人倫道徳を説いた朱子に対して、情愛に溢れた自律的な人倫道徳を 説いたのは陽明です。 ⑶王陽明について 姓:王 名:守仁 字(あざな):伯安 号:陽明 諡(おくりな):文成 一般的には王陽明と尊称される。中国明代の儒学者、文官(文武両道の儒学者)58歳没(1472~1529) ⑷明朝時代の背景 明朝時代は今までになく皇帝の独裁権が強く、独裁皇帝の耳目を果たした宦官が悪影 響を及ぼしました。南宋と明の末期の時代は歴史の中でも退廃した世の中でした。の ような退廃した世の中から社会貢献をした偉大な賢人が輩出したのは、意義深いものがあります。 ⑸思想体系 陸象山の心に万物の法則があるという「心即理」の立場をより明確にしました。 ⑹格物致知 あらゆる事(物)を格(ただ)すことで、誰もが本来持っている良知を発揮すること ができる様になります。(良知:人が生まれながらに持っている、是非・善悪を誤ら ない正しい知恵) ⑺理・気 【一元論】大宇宙の法則である「理」とそれらを構成する要素である「気」は一体であ ると考えました。理、気、性、物は一体であり、自己の外にあるものではないと考えました。万物一体思想。聖学の究極である万物一体の仁としました。 ⑻性、理 万物に具わっている本性を「性」と言います。性即理という立場は朱子と変わりませ んが性は理の作用であると考えました。 ⑼善悪 性善説。人間の本質は至善で、本来は善悪一元、又は、無善無悪です。しかし、相 対的な存在としての善悪があるので、良知を発揮して至善に至ることが大切としてい ます。 ⑽経書に対する姿勢 心の学びがあってこその経書と考えました。 ⑾静坐 内省の手段として勧めたが、静に偏ることや厭世的(えんせいてき:人生を悲観し、 生きるのがいやになるさま)になることを戒めました。 「静坐悟入(理・本質を体認する静坐)」と言われ、門人中で間違って認識し仏教の 静寂の道に陥る者が出たので廃しました。 ⑿聖人君子 聖人君子と同じ心を誰もが持っていると考え、それを発揮することを主張しました。 ⒀大学 『大学古本』朱子が改訂する前の『大学』を王陽明は提唱しました。『大学』は大人 の学です。大人とは天地万物を一体とするものです。 『大学』:儒学の理想である修己治人を要領よく系統的に説き明かした書物で、修 身、斉家、治国、平天下の政治と学問を直結した儒学の精髄です。 ⒁『大学』三綱領の「親民」 民に親しむと解釈し、民と同じ目線に立った民との融和と考えました。 『大学』の三綱領のあと二つは「明徳(天から授かった立派な本性を明らかにする)」「至善」を言います。 ⒂『大学』八条目 理を窮めて性を尽くすことを、「物、知、意、心、身、家、国、天下」という観点で 説いたものと考えました。 ◎日本の小学校の校庭にある二宮金次郎像が読んでいる本は何? 彼が読んでいる本は『大学』で、大学の伝九章の一文が書いてあります。 (書いてないものもあります) 子供たちに教えてあげたいですね。 一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂。其機如此。 一人ひとりが仁(思いやり)の心を持てば、国すべてが仁の心になり 一人ひとりが謙虚な気持ちを持てば、国すべてが謙虚な心になる。 一人ひとりが利を貪れば、国は乱れてしまう。 ⒃人民救済天下平定 王陽明の三征(軍事的業績) ・江西福健省南部の農民反乱・匪賊の鎮圧 ・寧王の乱をわずか2か月で鎮圧 ・江西で反乱、病気をおして討伐、戦後処理 ⒄『易』の占筮事例 王陽明:貴州省龍場駅の駅丞(事務官)に左遷が決まった時に占筮して得た卦は、 地火明夷 ䷣でした。その意は不遇の意、隠忍持久の意、忍耐して時機到来を待つ意になります。王陽明の状況と一緒の内容になります。そして、陽明は龍場に行く決意をしました。その時『海に泛(うか)ぶ』という詩を筆で壁に記したのでした。 ⒅名言 王陽明「山中の賊を破るのは易いが、心中の賊を破るのは難しい」 「此の心光明亦復(またま)た何をか言わん」王陽明辞世の句 (我々の心の中には光り輝く良知があるではないか、他に何も言い残すことはない) ⒆易 王陽明の言葉「易とは天に判断を請うことである」 弟子で心学易研究の王龍溪(王畿)は心にこそ真理があるとする心即理を易で解釈し ました。 「易を読む」王陽明の獄中詩 讀易、 囚居亦何事 省愆懼安飽 暝坐玩義易 洗心見微奥 乃知先天翁 畫畫有至教 包蒙戒爲寇 童牿事宜早 蹇蹇匪爲節 虩虩未違道 遯四獲我心 蠱上庸自保 俛仰天地閒 觸目俱浩浩 簞瓢有餘樂 此意良匪矯 幽哉陽明麓 可以忘吾老 易を読む。 囚居 亦た何をか事とせん 愆(あやまち)を省み 安飽を懼る 瞑坐して義易を玩び 心を洗ひて微奥を見る すなはち知る 先天翁の 画画に至教あるを 蒙(もう)を包(くる)ねて 寇(あだ)をなすを戒め 童牿(どうこく) こと宜しく早かるべし 蹇蹇(けんけん) 節のためにあらざるも 虩虩(げきげき)として 未だ道に違はず 遯四(とんし) 我が心を獲たり 蠱上(こじょう) 庸(なん)ぞ自ら保たん 俛仰(ふぎょう)す 天地の間 触目 俱(とも)に浩浩(こうこう)たり 箪瓢(たんぴょう)に余楽あり この意 良に矯(た)むるにあらず 幽(しずか)なるかな 陽明の麓 以て吾が老を忘るべし 安岡正篤監修 明徳出版社刊『王陽明全集』第六巻「詩」 168-169頁より出典 私なりに纏めてみました。 易を読む。 (陽明洞での王陽明の獄中詩になります) 獄中の生活で何をするか ただ愆(あやまち)を省み 安逸をおそれる 静坐して易を味わう 心が洗われて道の微奥が分かる そこで知る伏羲の易の 一画一画 ※① に至教があるのだ。 愚かな者を包容して、悪事をしないように戒め 幼少のころから束縛を加えて学問を教えることを早めるべきである 進退窮まる苦しみは苦節のためだけではなく 恐れおののき 未だ道に違はず 易の遯卦(とんか) ※② の四爻の地位に恋々としない事に我が心を獲たり 易の蠱卦(こか) ※③ の上九の様に、君子は不遇の時に自ら高い心を保とう 天地の間を俯仰(ふぎょう)すれば 目に触れるところ広々と果てもない 顔回は貧の中で道を楽しんだ この心は本物だ 幽(しず)かな陽明の麓で 老い行くのも忘れて道を求めたいものだ ※①一画一画:一卦一卦(現代意訳) ※②遯:天山遯 ䷠ 序卦伝33番目の卦 隠遁、退避の意 天山遯の九四(下から四番目の陽の爻):君子は好む感情があっても、これを絶って逃れるのである。 ※③蠱:山風蠱 ䷑ 序卦伝18番目の卦 腐敗、不正、事変の意 山風蠱の上九(下から六番目の陽の爻):王侯に仕えず、徳を養って行いを高潔にする。 日本陽明学の開祖、近江聖人中江藤樹 1608(慶長13年)-1648(慶安元年)。江戸時代初期の儒学者。わが国における陽明学の開祖。数多くの徳行、感化によって、没後に《近江聖人》とたたえられる。近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)に、中江吉次の長男として生まれる。 名は原(げん)、字は惟命(これなが)、号は嘸軒または顧軒、通称は与右衞門(よえもん)、幼名は原蔵(げんぞう)という。普通おこなわれている藤樹とは号でなく、屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来する。 9歳、米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行く。10歳、藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住む。15歳、祖父の死去により、100石取りの武士となる。17歳、独学で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒する。しかし、33歳のとき、『王龍渓語録』を、37歳のときには『王陽明全書』を入手するや、熟読玩味して、おおいに触発感得をうける。それまでの学問上の疑念が解け、格法主義的な生活の非なることを知り、しだいに王陽明の「致良知説」へと信奉していった。これより以前の27歳のとき、母への孝養と自身の健康を理由に大洲藩士の辞職を佃家老に願いでるが、ついに許可を待たずに脱藩して、ふるさとの小川村へ帰る。浪人(牢人とも書く)となった藤樹は、居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、大洲からやってきた藩士や近郷の人々に《孔孟の学》や《陰隲》を教導する。 代表的な門人としては、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいるが、とりわけ藤樹没後における蕃山の事績によって、藤樹の名声をいちだんと高めたことは注目しなければならない。 また、魯鈍の門人であった大野了佐にたいして、大部の『捷径医筌』を著わし、それをテキストにして熱心に医学を教え、立派な一人前の医者に育てあげた話は、人を教えて倦まない藤樹の生き方を知るうえで、あまりにも有名なエピソードの一つである。 藤樹の著書は、『藤樹先生全集』全5冊(岩波書店版、昭和15年)に収められている。そのおもなものとして、『翁問答』『鑑草』『孝経啓蒙』『論語郷党啓蒙翼伝』『論語解』『大学考』『大学解』『大学蒙註』『中庸解』などがある。 高島市ホームページ中江藤樹より掲載 高島市JR安曇野駅前 中江藤樹像 藤樹夫妻の神主(位牌)(藤樹書院内) 神龕欄間(しんがんらんま)の上部に地山謙・䷎、左扉に八卦の乾・☰(藤樹先生)が、右側に坤・☷(奥様)が其々刻まれています。中江藤樹先生にぴったりの地山謙の卦になっています。 この写真はホームページ「蒼流庵随想・漢方と易学」の蒼流庵様の許可を得て掲載しています。 山崎闇斎 山崎闇斎先生は仁愛(天地の物を生ずる心、万物を生成してやまない宇宙精神)を人生の目標にされました。朱子学を学んだが盲信的ではなく、研究的であり学問的に究明する人でした。闇斎先生が重んじた文章は教学の法『白鹿洞書院掲示』と存養の要法(心の修養法)『敬斎箴』でした。明治維新を導いた崎門学の國體思想は皇政復古(王政復古)です。 崎門学の開祖、山崎闇斎は兵庫県宍粟市(しそうし)山崎町鹿沢にある闇斎神社に御霊が祭祀されています。昭和15年の皇紀2600年を記念して京都の闇斎神社より御霊を勧請(かんじょう・御霊を他の場所に移し祀る事)し神社として祀っています。 山崎闇斎の父と祖父はこの地、宍粟郡山崎村の出身です。闇斎は山崎姓をこの地から由来として名乗ったと云われています。山崎闇斎は儒教では崎門学、神道では垂加神道を開いた学者で6千人を超える弟子がいたと云われています。九州の門流としては、山崎闇斎➡三宅尚斎➡楠本端山といった系譜になります。 山崎闇斎は聡明で幕政の名宰相である会津藩主の保科正之に礼遇を受けていました。寛文五年(1661)に保科正之に招聘され彼が没するまで8年間、「君臣水魚の交わり」の様な交流がありました。 山崎歴史郷土館(宍粟市立図書館2階)に山崎闇斎坐像が展示されています。時を超え、河合寸翁や明治維新を導いた偉大な儒学者、神道家を感じることができます。非常に貴重な山崎闇斎坐像です。この像は評論家の嘉治隆一氏が東京本郷の古本屋で発見し、知人の小説家の吉川英治氏を通して昭和35年に寄贈されたものだそうです。江戸時代中期の作品で兵庫県指定文化財となっています。見学は事前に予約が必要です。 山崎闇斎神社の門前にある坐像 宍粟市の山崎闇斎神社 岡田先生、宍粟市の山崎闇斎神社に参拝 岡田武彦先生(左)と森山文彦氏 山崎闇斎神社(宍粟市山崎町)境内にある会津藩校 日新館の木碑 山崎闇斎は会津藩主の保科正之に礼遇を受けていました。 山崎闇斎坐像 山崎歴史郷土館(宍粟市立図書館2階)見学は事前予約が入ります。 後ろの掛け軸の説明 孔子の言行録『論語』雍也第六 山崎闇斎紹介映像 室内の山崎闇斎坐像は宍粟市教育委員会所蔵資料です。 (室内の山崎闇斎坐像は宍粟市教育委員会様の許可を得て撮影・掲載をしています。) 岡田武彦 著『山崎闇斎』 叢書・日本の思想家6 明徳出版社 昭和60年10月(1985.10) 岡田武彦 著『山崎闇斎と李退渓』 岡田武彦全集22 明徳出版社 平成23年10月(2011.10) 崎門学派系譜 この度、山崎闇斎研究会のご好意で、大分大学 牛尾弘孝名誉教授 監修、本條 衞 氏 記の崎門学派系譜を掲載することができました。 真中右に姫路藩の河合寸翁(武士・大老・儒学者)、その下に楠本端山、その下二つ目に岡田武彦(儒学者・陽明学者)、その下四つ目に頼山陽の父の頼春水と頼山陽、その下左に保科正之(藩主)の名を確認することができます。 ※無断転載・複写は禁止致します。 山崎闇斎と京都の下御霊神社 京都市中京区寺町通丸太町にある下御霊神社の境内末社として猿田彦社相殿・垂加社(すいかしゃ)に贈正四位の山崎闇斎先生の神霊を祭祀してあります。毎年、下御霊神社では2月22日に山崎闇斎先生に関する文献を展示し、見学できるようにされています。 ※下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 「平安初期の貞観五年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。 当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神(うぶすながみ)として崇敬され、享保年間(1716~1736)に霊元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。 本殿は寛政三年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祭っている。 京都市」 ※下御霊神社前の京都市の立札(説明文) 下御霊神社 下御霊神社境内にある山崎闇斎神社 山崎闇斎と京都・下御霊神社の紹介映像 参考書籍・資料 岡田武彦述『我が半生・儒学者への道』 福岡県小郡市「思遠会」 1990.11.22 福田 殖 著「岡田武彦先生の生涯と学問」 学術雑誌論文 2004.12.25 九大コレクション 岡田武彦 述 森山文彦 編『崇物論-日本的思考-』 2003.8.24 引用・要約 (掲載に関しては岡田武彦先生のご子息に了承をいただいております) ⑴pp.17-18、⑵pp.17-18、 ⑶pp.18-19、⑷P18、⑸pp.17-18、⑹p.18、⑺pp.18-19、⑻p.20、⑼ p.23、⑽ p.24、⑾ pp.24-25、⑿ p.25、⒀p.25、⒁p.26、⒂pp.27-28 ⒃p.21、⒄p.31、⒅p.31、⒆pp.28-29、⒇ p.30、 (21) P.30、 (22) P.31、 (23) P.30 (24) pp.32-33、 (25 ) pp.33-34、 (26) pp.34-35、 (27) p.35、 (28) pp35-37、 (29) pp.37-38 (30) pp.38-40 、 (31) pp.41-42、 (32) pp.42-43、 (33) pp.43-45 、 (34) p.45、 (35) pp.45-47 (36) pp.47-50、 (37) p.51、 (38) p.52、 (39) p.52、 (40) pp.52-53 、 (41) pp.53-55 (42) pp.55-56 九州文化探検隊ホームページ・貝原益軒「養生訓」 松尾允之 氏の記事 『貝原益軒「養生訓」貝原益軒文化講座』 平成14年 岡田武彦講師(93歳) 九州大学名誉教授 岡田武彦先生の「兀坐」最終回 「静坐」を超克した「兀坐」 https://touka.com/hou/kaibara/ 「岡田先生が、私達に教授して下さっている最後のお言葉 嘉遯」は岡田武彦先生のご子息から教えていただきました。嘉遯に関しての参考書籍:黒岩重人 著『全釈 易経 中』 (全3巻)㈱藤原書店 2013.9.30 33遯(天山遯) 「陽明学のまとめ」の記事はイーチンライフ・I CHING LIFE の柏村學震氏と赤松昇の共著 「日本陽明学の開祖、近江聖人中江藤樹」高島市ホームページ「中江藤樹」より掲載 イメージ・写真はphotoAC(著作権有り)より購入したものを掲載 島田清 『山崎闇斎先生と播磨の門流』 昭和57年12月9日 山崎郷土研究会 発行 出雲路敬和 『闇斎先生とその時代』 昭和45年12月9日 山崎町教育委員会 発行 宍粟市教育委員会『山崎歴史郷土館 展示資料 解説資料』 下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 下御霊神社前の京都市の立札(説明文)
- 先生とのご縁 |岡田武彦 その哲学と陽明学/陽明学/ 河合寸翁と仁寿山校の顕彰で岡田武彦先生から励ましのお手紙をいただく。
ページ TOP 仁寿山校の紹介 姫路懐古・頼山陽 岡田先生とのご縁 東洋のアイデンティティと『易経』 古代人から学ぶ「処世に重要な三つの人生観」 仁寿山の紹介 河合寸翁の和歌 頼山陽 頼山陽と易経【考察】 頼山陽と渡部昇一 参考書籍・資料 岡田武彦先生とのご縁は河合寸翁・仁寿山校の探究 岡田武彦先生とのご縁 東洋のアイデンティティから学んだ事『易経』 古代人から学ぶ「処世に重要な三つの人生観」 仁寿山の紹介 仁寿山校の紹介 河合寸翁の和歌 頼山陽 姫路懐古・頼山陽 頼山陽と『易経』【考察】 頼山陽と渡部昇一 参考書籍・資料 フッター 私はUターンで姫路に戻ってきました。私が住居しています地に仁寿山と云う論語から命名した山があります。その麓に、姫路藩の家老・河合寸翁が設立した仁壽山黌(仁寿山校)があり、素人なりに調べておりました。その時に地元企業の経営者から岡田武彦先生の『東洋のアイデンティティ』の著書を紹介いただきました。また、別の地元企業の経営者の縁で岡田先生に私が纏めておりました、『河合寸翁と仁寿山校』の資料をお送り致しました。岡田先生からは人材育成の重要性と、郷里の賢人、河合寸翁の顕彰の励ましのお言葉を お手紙でいただきました。その後、『歴史の街・播磨』のブログとホームページを立ち上げて河合寸翁と仁寿山校を紹介してまいりました。 昨年、令和5年に、岡田武彦先生の御縁により、福岡県の古賀様の御縁と御協力をいただき、今回このホームページを立ち上げる事となりました。 仁寿山(左側」)と西池(旧大池)、及び麻生山(小富士山、右側) 右側に水楼とその奥に仁寿山校がありました。現在は土塀と竹林となっています。 仁寿山校井戸跡 仁寿山校跡地 竹林と土塀 『歴史の街・播磨』河合寸翁と仁寿山校のホームページを立上げて紹介 下の画面をクリックすると、『歴史の街・播磨』にジャンプします。 1.岡田武彦先生の著書「東洋のアイデンティティ」から学んだこと ⑴ 『易経』は占いと倫理道徳の書 岡田武彦先生の著書「東洋のアイデンティティ」の中の「古代人の英知-処世の道」で「『易経』は専ら宿命を説く書でもなければ、専ら倫理道徳を説く書でもない。両者を一体として説いたところに『易経』が英知を説く書とみなされる理由がある。」と先生は書かれておられます。私はこの文章を読んで占いと人倫道徳を一体として学ぼうと決めました。その両方を学ぶことによって自然の摂理や変化の理法がより見えてくるのではないかと思ったからです。 易・八卦のイメージ 宇宙の万物の根源、中心、元気である太極があり、それが活動して陽と陰に分かれ、(両義)陽は⚊、陰は⚋の符牒(記号)で表します。易は二元論の様に見えますが太極は一つであり一元論です。太極が動いて陰陽となっています。陽は天、太陽、昼、剛、男、父、などであり、陰は地、月、夜、柔、女、母などとして表現します。更に、陽と陰を重ねて⚌老陽(夏)、⚏老陰(冬)、⚍少陽(春)、⚎少陰(秋)として表します。これを四象と言い、時の流れを表現しています。そして、陰陽を三つ重ねて小成卦とし、自然現象を八卦で表しています。 『易経』六十四卦索引表 この64卦の中に自然摂理や人生が包含されています。上卦の八卦と下卦の八卦を組み合わせると64卦の大成卦ができます。一つの卦には6つの変爻(時間の変化)があります。 仁寿山校で『太極図』を出版 天保三年(1832年)九月に出版 出典:「兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況」 島田清 著 天保三年九月(1832年)、仁寿山校で『太極図』を出版されました。 『太極図』は宋学における宇宙と人間の根本原理を説くもので、周敦頤がつくり出し、朱子が重要な新解釈を行いました。宋学の入門書『近思録』(1176年刊行)の「道体」に太極図説の説明があります。近思録とは「論語」の「切に問いて近く思う、仁その中にあり」から取ったもので「身近なことから考えてゆく」という意味です。朱子は宇宙論・形而上学を補い、宋学(新儒教)のリーダー的役目をにないました。 『易経』を学ぶホームページ『私の易の学び方』を立ち上げて 『易経』の紹介を行っています。 下の画面をクリックすると、『私の易の学び方』にジャンプします。 2.古代人から学ぶ「処世に重要な三つの人生観」 現実主義と超越主義をよく理解し、理想主義に向かって生きる そして、もう一つ、岡田武彦先生から学んだことがあります。それはその本の巻末の「あとがき」に書かれている文章でした。先生は古代の思想家から時間と場所を超えて通用する「処世に重要な三つの人生観」を私達現代人に教えて下さっています。先生の著書からその部分を抜粋します。それは「第一は、人間は徹底的に私利私欲を求める功利的な存在であるという考え方にもとづき、これに対処する道を講ずる現実主義に立つもの、第二は人間のなすことは徹底的に矛盾に充ちたものであるという考えにもとづき、人間を超えた自然の道に従っていこうとする超越主義に立つもの、第三は、人間は元来思いやりの深い存在であるという考えにもとづき、倫理道徳による理想社会を実現しようとする理想主義に立つもの、この三つである。私個人の希望を率直に申し上げれば、第一・第二の人生観をしっかりとよく理解した上で、第三の人生観に従ってほしいと思う。」です。私はこの文章を読み、何か腑に落ちた様な感じがしました。私自身が企業や社会で体験したことやビジネス倫理で説かれている内容が、この先生の言葉に全て含まれていると思いました。 仁寿山の紹介 白浜町の北方に仁寿山と云う山があります。この山は『論語』から命名されました。文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を家老・河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。 岡田先生は仁寿山に登り、山頂から明石、家島、小豆島を臨み、心静かに播磨灘を眺めるのが好きだったようです。 写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に 仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。 姫路藩 河合寸翁・仁寿山校の紹介 人材は「国家の宝」、未来を創る人材養成学校 河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで有名です。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けました。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしました。 仁寿山南側登山口の仁寿山校略絵図 姫路市教育委員会、姫路市文化財保護協会 仁寿山と大池(現在は西池)・池の右奥に仁寿山校がありました。 仁寿山校の紹介 仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑 学問の心得が書かれており、頼山陽が仁寿山校で教授しました. 出典 『河合寸翁大夫年譜』 矢内正夫 編輯 「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」 「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」デジタル処理を行いながら復元しました。 朱夫子白鹿洞書院掲示 この碑に書かれているのは、学問を志す者が、肝に銘じておかなければいけない「学問の重要な心得」が書かれています。儒教は「修己治人」の学問であり、その学問をどのように学んだらよいか、わかりやすく示されています。朱子は規則を好まず、自己を律することを尊重しており掲示としたようです。碑の主要なところを抜粋しました。 「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり※2。 博く学び、審かに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う※3。 言は忠信であること、行いは篤敬であること※4。忿りを懲らし慾を窒ぐこと※5、善に遷って過ちを改めること※6。 右は身を修むるの要なり。 その義を正してその利を謀らず。その道を明らかにしてその功を計らないこと※7。 右が事柄に対処する要である。 自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならい。※8。実行してうまくゆかぬときは、わが身に振り返って反省すること※9。 右が人と応対する要である。」 ※1 朱子が制定した学生心得。朱子は外から規制する学規を嫌い、掲示としました。 朱子が白鹿洞掲示碑にピックアップした出典書物 ※2 『孟子』、※3『中庸』、※4『論語』、※5『易経』損卦、※6『易経』益卦、※7『漢書』、※8『論語』、※9『孟子』 出典:三浦国雄 著『人類の知的遺産 19 朱子』講談社 1979年 抜粋引用:325頁~327頁 ニ 白鹿洞書院掲示 朱子は四書五経や漢書から重要な点をピックアップして説いています。 朱子は当時、多くの人がそうであった功利主義の人が目指す科挙(国の試験制度)を嫌いました。「民と共にある」人間をつくる学問を目指しました。河合寸翁や仁寿山校で講義を行った頼山陽もそのような志の人間を養成したかったと思います。 河合寸翁も財政改革を成し遂げたあと、半官半民の学校による人づくりを目指しました。 仁寿山校の白鹿洞掲示碑は 長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に生まれ変わっていました。 姫路の聖人・亀山雲平先生が詠んだ鎮魂の漢文 龜山節宇(亀山雲平先生)が教え子の悲しみを詠んでいます。 近世名家短文集になっています。 地蔵院にある長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑 長谷川君父子瘞髪之碑とお地蔵様 亀山雲平先生の漢文 その碑は今、姫路市京町の地蔵院の境内にお地蔵様と南天の木に守られて「長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑」となって、建立されています。この碑は、亀山雲平先生の教え子であった長谷川君父子の瘞髪鎮魂の碑です。 ※瘞髪(えいはつ・遺髪を埋める) 幕末・明治初頭は遊学と留学が盛んに行われました。父である長谷川鍛冶馬は藩の命により武術習得の為に福岡に遊学に、時を経ての娘婿の長谷川雉郎は明治政府の命により米国ニューヨーク州トロイに留学に行きました。しかし、長谷川君父子は遊学先、留学先で志半ば病に倒れて客死しました。亀山雲平先生はこの教え子の不幸を嘆かれ、親戚の依頼を受けてこの鎮魂の漢文をつくり父子の遺髪を埋めて碑を建立されました。藩と国の為に志を高くもって他国で亡くなった二人。遺髪を合葬すれば二人の魂はひとつのところに帰ってきて出会うだろうと、この碑がつくられたそうです。 詳しいことはホームページ「日本漢文の世界・長谷川君父子瘞髪之碑」の記事をお読みください。 ホームページ ➡ 日本漢文の世界 ※リンクは「日本漢文の世界」の管理人様の許可を頂いています。 私はこのホームページを見て、この歴史的事実を知りました。いろいろと調べていきますと明治期初頭の留学生は痛々しいほどに国のため、プレッシャーや病と闘いながら苦学をされていたということを知りました。本当に胸が詰まる思いがします。 今、長谷川雉郎の墓はニュージャージー州ニューブランズウィックの日本人留学生の墓地に眠っています。その写真をブログに載せておられる方がいます。見てください。ニューブランズウィック市は山形県鶴岡市と福井市と姉妹都市となっています。 ※ホームページ「Rutgars 日下部太郎の墓を訪ねてより」は(管理人不明、現在インターネットプロバイ ダーのサービス終了の為、閲覧できなくなっています。) ※ホームページより抜粋 ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。 一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。 ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと 入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳 小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳 松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳 長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳 日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳 仁寿山校の朱子の白鹿洞掲示之碑と長谷川君父子瘞髪之碑は碑文が変わっていますが、学問の心構え、つまり、「修己治人」の教えを学び実践した志の魂の碑として変わっていないのではないでしょうか。私はそのように思っています。仁寿山校の学生もそのような志を持った人が多く集まりました。 碑の上部には前の碑と変わらず、双龍が守っています。その双龍の上部中央に宝珠がありますが、現在の碑となって、宝珠が魂に描かれているように思えるのですが、そのように見えるのは私だけでしょうか。 (※宝珠:災難を除き、濁水を清め、望みを叶えると言われています) 碑の前に南天の木が植えられています。今、赤い南天の実をつけています。南天は発音から「難転」つまり禍を転じると云われ、幸せをもたらす木として昔からも用いられてきました。英語では「heavenly bamboo」と言います。実は咳の鎮静の薬とされてきました。南天の赤い実が長谷川君父子の魂を守っているようにも見えました。ご冥福をお祈り致します。 明治維新前後の米国留学は命がけだった 新しい日本国家の礎になる為に、海を渡った若獅子達 さる3月5日ニュージャージー州のラトガース大学150周年記念会議「ラトガース大学、日本との出会い」と題するオンライン会議が開催されました。米国の週刊NY生活に「海を渡った若獅子たち」としてこの記事が掲載されました。オランダ修正協会を母体とする学校を前身として1866年に設立された州立大学です。慶応3年から明治30年までに日本人300人がこの大学で学びました。因みに姫路藩士・長谷川雉郎はニューヨーク州トロイで学びました。墓は日下部太郎を含め六人の留学生と共にニュージャージー州ニューブランズウィック、ウィローグローブの日本人留学生墓地に眠っています。幕末から明治にかけて海外に留学することは命がけの学びであったことが分かります。彼は残念ながら喀血で亡くなるのですが、彼のホームステイ先のトロイの中学校教師・ウィルソン氏は四つの行いを讃えています。 一つは潔さ、二つは学問好き、三つは慎み、四つは真心であると言っています。 海を渡り、米国に学び近代日本を支えた命がけの日本人留学生の記事を、是非読んでいただきたいと思います。 週刊 NY 生活2021年3月6日 「海を渡った若獅子たち」 週刊 NY 生活 WEB 版「海を渡った若獅子たち」 ※記事では長谷川鍛郎となっていますが、雉郎が正しい名です。 因みに父の名は鍛冶馬です。 福井市グリフィス記念館 企画 日下部太郎の時代 アメリカに眠る志士たち 2019.2 ※長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑は姫路市教育委員会に顕彰をお願いし、顕彰を行っていただきました。市の刊行物「文化財見学シリーズ」を改訂され 、顕彰資料は姫路市内の高等学校・国際文化科の学習資料として提供されているようです。 詳細は『歴史の街・播磨』河合寸翁と仁寿山校のホームページへ 姫路にある仁寿山校跡に咲く椿と竹林 玉椿 は椿の美称で、長寿の 木として祝賀の歌に多く使われる語であり、また茶席などの和室の花として鑑賞され、桜とともにきわめて宗教的な花と言われています。姫路銘菓「玉椿」は、姫山に咲く可憐な乙女椿を着想して、茶人でもある河合寸翁が名づけたとも云われています。 春には、仁寿山校跡地には、造園業者が植えた多くの椿が咲き乱れています。椿は世界の園芸種が6,000種あるといわれ、花は散っても誇らしげに上を向く椿の特性を多くの人が愛したと言われています。 河合寸翁の和歌 河合寸翁肖像 『姫府名士河合寸翁伝』より 河合寸翁が遅桜の歌を詠んでいます。 四月三日(現在の五月十日頃) 遅櫻を 武士のえりはらひせしほまれかな はるにをくれて匂ふさくらは 他界した義母のタンスから出てきたと、家内がくれた河合寸翁の複製の短冊。裏には「複製 小林松濤園」と印刷されています。 姫路藩家老 河合寸翁略伝 明和四年江戸姫路藩邸に生る。幼きにして機慧、藩主酒井宗雅忠以公殊の外之 を愛し自ら茶道、詩歌、書、絵画等を指導す。元鼎硯なる名硯を所持し、自ら 鼎或ひは元鼎を称す。藩主酒井忠道公より道の字を賜り道臣と名のる。 字は漢年、号は白水、晩年致仕して寸翁と号す。 忠以公、忠道公、忠実公、忠学公四代の藩主に仕へ、天賦の才と抜群の博識卓 見を以て藩の財政を大いに振興し、禄五千石を賜り家老の上座を命ぜられる。 文政四年場外仁寿山に自らの学問所を設け、朱子と藤原惺窩を祀り、頼山陽 等を招きて藩内外の子弟を教育し、藩黌好古堂と相俟て、多数有用の士を輩 出す。 天保六年三月隠居、同十二年六月二十四日歿、七十五、仁寿山に葬る。 弌 菴 識 頼山陽 仁寿山校に招聘され、真の学問を 教授した 広島・頼山陽史跡史料館 頼山陽坐像 竹原の頼山陽坐像 頼山陽(安永九年~天保三年/1780~1832)は大阪生まれの「安芸の人」で江戸時代後期の儒学者、漢詩人、歴史家、画家、書家の人と言われ、旅や酒も女性も好きな自由人でした。あの有名な『日本外史』を執筆した方です。『日本外史』は史記を参考に、源平から徳川までの武家の栄枯盛衰の歴史を綴ったもので、天皇と武家の関係を執筆し、幕末尊王思想に影響を与えた書物です。 頼山陽は仁寿山校を訪れ学問のあり方や方法、教育や人生の意義・目的など色々な問題を討論させとた言われています。 ※昔、頼山陽先生の旅に広島に行っていました。頼山陽先生のふるさと、小京都といわれる竹原に先生の像があります。 頼山陽先生は、銘酒・剣菱を飲みながら幕府の恐れに屈することなく、酒標の霊気と酒魂によって『日本外史』を執筆されたそうです。昔買った箱入り「黒松剣菱」の中に冊子が入っており、その中に頼山陽先生が剣菱を飲みながら執筆されている絵が描かれています。また、赤穂浪士の討ち入り出陣の際にも剣菱が飲まれたそうです。その絵も描かれています。 ※剣菱は不動明王の剣と鍔が商標となっています。古来武家の慶祝の祝酒に用い られていたそうです。私も好きな一つのお酒です。 黒松剣菱の箱に入っている 冊子の中の頼山陽の絵 頼山陽愛飲の酒 広島の頼山陽史跡資料館にて展示 ◆十二歳で『易経』を読み終えた頼山陽➡私のサイト『私の易の学び方』へ 姫路懐古・頼山陽 今年の桜は風雨に負けず綺麗に咲き続けました。 姫路城内に頼山陽の『姫路懐古』の七律の漢詩が展示されています。姫路城について頼山陽の鋭い歴史観と洞察力で詠まれています。 姫路懐古 頼山陽 五畳城楼挿晩霞 五畳の城楼、晩霞(ばんか)を挿しはさみ。 瓦紋時見刻桐花 瓦紋(がもん)時に見る、桐花を刻するを。 兗州曽啓阿瞞業 兗州(えんしゅう)曽(か)って啓(ひら)く、阿瞞(あまん)の業。 淮鎮堪興匡胤家 淮鎮(わいちん)興すに堪(た)へたり、匡胤(きょういん)の家。 甸服昔時随臂指 甸服昔時(でんぷくせきじ)、臂指(ひし)に随ひ。 勲藩今日扼喉牙 勲藩今日、扼牙(こうが)を扼(やく)す。 猶思経略山陰道 猶思ふ山陰道を経略せしを。 北走因州路作叉 北、因州に走りて、路叉をなす。 姫路懐古・頼山陽 頼山陽と『易経』【考察】 頼山陽は12歳で『易経』を読み終えました 頼山陽史跡資料館の玄関前の頼山陽坐像 頼山陽は12歳(以下全て数え年)で『易経』を読み終えて、「立志論」を書きました。そして、14歳で「述懐(立志詩)」を作りました。その漢詩が、学界の重鎮で昌平黌教授、柴野栗山(しばのりつざん)の目に留まり、高く評価され、父、春水を通して、詩より歴史を学ぶようにと、『通鑑綱目(つがんこうもく)』(朱熹の撰と云われる史書)を薦められました。そして、彼はこのアドバイスを受け、『通鑑綱目』から勉強を始めるのでした。この学びが彼の見識と史観を高める事となり、彼のデビューのきっかけをつくる出来事となりました。 (1 p.39-44) 私は、この頼山陽の話を知り、12歳で、このようなことができるのは天才であると思いました。彼の決意としての立志論を書かせ、立志詩を作らせたのは『易経』が大きくかかわっているのではないかと考えています。 (2 p.141-142) その『易経』の教えは何だったのか、私なりに考察をしたいと思います。 先ず、頼山陽が幼少期に読んだ書物を、順を追って確認したいと思います。7歳の時には四書の大学の素読を始めています (1 p.34) 。大学は、君主や宰相として天下を導く者が治める学門で、修身、斉家、治国、平天下の政治哲学と学問を結び付けた大人の学です。次に、10歳の時、読んだのが四書の論語です (1 p.39) 。 論語は孔子の言行録で、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方を説いた書物です。そして、12歳の4月に経書の筆頭である『易経』を修了しています。 (1 p.39) 『易経』は占いと人倫道徳を包含し、自然摂理と自然哲学を教えている経書です。『易経』は変化の書であり、「生」の学問です。現代人は『易経』と言えば、占いと思う人が多く、また、インターネット検索をすると占いの内容で満ち溢れています。いつの間に、日本人は占いばかりに興味を持つようになってしまったのか、本当に残念でしかたありません。『易経』は簡単に云いますと、64卦、つまり64の自然から学んだ物語と君子への教えで構成されています。また、『易経』はストーリー付けされた順序(序卦伝)で配置されています。1番目の乾為天(けんいてん) ䷀(天)と2番目の坤為地(こんいち) ䷁(地)が交流して3番目の水雷屯(すいらいちゅん) ䷂(万物発生)となり、~中略、63番目は水火既済(すいかきせい) ䷾(完成)、そして、最後の64番目は火水未済(かすいびせい) ䷿(未完成)となり、誕生から完成、完成から未完成となり、新たなるスタートとなります。そして、永久に循環していきます。 そして、易には三義(さんぎ)と六義(りくぎ)が有ります。 ◆易の三義(さんぎ・①~③)と六義(りくぎ①~⑥) (3 p.60-p.61) ①易簡(いかん) 分かり易い 自然摂理はシンプルです。 ②変易(へんえき) 変わる 例)1年の季節は刻々と変わります。 ③不易(ふえき) 不変 例)次の年も変わらぬ四季は来ます。 ④神秘的です。 ⑤創造・発展(天地万物の創造・進化)します。 ⑥治めます。(自然現象を観て、人間の道を治めます。) 頼山陽は、我々人間は刻々と変化する時間の中で生きている、人間にとって学を治めるには時間がない、この世で大成するには、まず、志を立てて早く踏み出したい、そして、公に尽くし、国の為に尽くしたいと自覚し、決心したのではないかと考えます。(2 p.141-142) そして、『易経』は乾為天(けんいてん) ䷀と、坤為地(こんいち) ䷁を理解できれば、大半を理解できたことになるとも云われています。その一番目の乾為天は「龍による帝王学の物語」となっています。乾為天 ䷀は天であり積極果敢に活動する大元気で、万物を発生させ、育成させる卦です。次に、彖辞(たんじ)と爻辞(こうじ)の内容を見ていきたいと思います。 彖辞(たんじ) 乾は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し。 (4 p.49彖辞のみ引用) 彖辞(たんじ) 卦の意義・性質を説明し、吉凶悔吝を断定する言葉) 乾は、大いに事が運び、うまく叶う。正しい事を固く守ること。 爻辞(こうじ) (4 p.50-p.53用九と爻辞のみ引用) (爻の意義・性質を説明し、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)を断定する言葉) ※爻の表示は算木と同じようにしています。 用九、羣龍(ぐんりゅう)を見るに首(かしら)无(な)し。吉(きつ)なり。 六つの陽爻の龍は首を雲で隠して現わさない。従順・謙遜であれば吉である。 ※用九:六十四卦全ての九爻(陽爻)の用い方が示されている。 ⚊ 上九(じょうきゅう)、亢龍(こうりゅう)なり。悔(く)いあり。 昇りつめた龍。頂点を極めた時。自ら後退する。 ⚊ 九五(きゅうご)、飛龍(ひりゅう)、天にあり。大人(たいじん)を見るに利(よろ)し。 天空を飛ぶ龍。運気盛大で能力を発揮できる時。志を達成したが驕り高ぶらず、衰退に 対処すること。リーダーの人材育成を行う時。 ⚊ 九四(きゅうし)、或(ある)いは躍(おど)らんとして淵(ふち)に在(あ)り。咎无(とがな)し。 龍が天に飛翔しようとする時であるがその時では無い。慎重に進めば禍は無い。 ⚊ 九三(きゅうさん)、君子(くんし)、終日(しゅうじつ)乾乾(けんけん)し、夕(ゆうべ)まで 惕(てき)若(じゃく)たり、厲(あや)うけれども咎(とが)无(な)し。 猛烈に活動する龍。一生懸命に努力研鑽する時。果敢に活動し、内省すること。 ⚊ 九二(きゅうじ)、見龍(けんりゅう)、田(でん)に在(あ)り。大人(たいじん)を見るに利(よろ) し。 地上に姿を見せた龍。大人(九五・指導者)に出会い、学ぶこと。基礎をつくる時。 ⚊ 初九(しょきゅう)、 潜龍(せんりゅう)なり、用(もち)うること勿(なか)れ。 地に潜む龍。志を立てる時期。時期尚早、力量不足、実力涵養の時。 ※初九と九二が「地」、九三と九四が「人」、九五と上九が「天」の位置づけとなります。 更に簡略化して纏めますと、この様になります。乾為天の龍の帝王の物語を下から見ていくと、六つある爻の一番下が、頼山陽の十二歳の時と見ます。つまり、龍は田の下に潜んでおり、志を立てて実力をつける時です。そして、五爻(下から五番目)の飛龍の大成に至るまで、何を行わなければならないかが書いてあります。頼山陽はこの乾為天の教えをよく理解したと考えます。 乾為天(乾・天・剛健)の爻(時間の変化)の説明。爻は初爻(一番目)から上爻(六番目)に向かって上昇していきます。乾為天は龍を使ってリーダー(帝王)の心得を教えています。 龍は君主・皇帝のシンボルで、龍を君主に見立てて君主の歩む道を説いています。そして、龍は剛健で強いシンボルです。しかし、龍独りでは、力は発揮できません。そうです、龍(陽)は雨雲(陰)を呼び、恵みの雨を降らせ、万物を育成させます。龍(陽)と雨雲(陰)は一体なのです。これを君主に例えると、剛健すぎると行き過ぎて傲慢になります。よって、陰の徳である、柔順謙虚であることが大事になってきます。ですので、用九があり、64卦全ての陽爻の使い方が記してあるのです。 (5) ※仁寿山校の白鹿洞書院掲示は明治維新後、競売にかけられ、亀山雲平先生が詠まれた長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に変わっていますが、双龍はそのまま残っています。その龍にも雲が描かれています。写真からデジタル処理をして再現しました。ご覧ください。 出典 『河合寸翁大夫年譜』「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」 頼山陽は河合寸翁の娘婿の河合屏山に、経書は大義大局を掴む事 (6 P.351) と仁寿山校でアドバイスをしており、幼少期から物事の正当性の判断とマクロ的に要点を掴むことに長けていたと考えます。 以上のことから、頼山陽は、大学の天下国家を治める君主・宰相の学問から入り、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方の論語を学びました。そして、君子が学ぶ究極の学問、つまり、自然哲学、変化の書、及び「生」の学問を学ぶことによって、気付いたのではないでしょうか。それは、人間とは何か、学問とは何の為にするのかを自覚し、決心し、志を立てることが重要であることに気付いたのではないでしょうか。私はこのように考察しています。 ◆立志論(抄) (1 p.40-41引用) 男児、学ばざれば則ちやむ。学ばば則ち、まさに群を越ゆべし。 今日の天下は、なお古昔(こせき)の天下のごときなり。今日の民は、なお古昔の民のごときなり。 天下と民と、古(いにしえ)の今に異ならず。而して、これを治(おさ)むる所以の、今の古に及ばざるものは何ぞや。 国、勢いを異にするか。人、情を異にするか。志ある人のなければなり。 庸俗(ようぞく)の人は 情勢に溺れて、而して自ら知らず。上下(しょうか)となく一なり。これ深く議するに足らず。 独り吾が党(儒学の徒)、その古帝王(堯・舜など聖天子)の天下の民を治むるの術を伝うるものに あらざるか。・・・・・ 吾れ東海千載(せんざい)の下(もと)に生まれたりと雖も、生まれて幸に男児たり。 また儒生たり。いずくんぞ奮発して志を立て、以て国恩に答え、以て父母の名を顕わさざるべけんや。 古の賢聖・豪傑の成すところ、吾れもまた、ちかかるべきのみ。たれか我が言の狂を言わん。 吾れ生まれて十有二年なり、父母の教(おしえ)を以て、古道を聞くを得ること六年なり。 春秋に富めりと雖も、その成るやすでに近し。いやしくも自ら奮わずして、因循に日を消す。 すなわち、かの章を尋ね、句を摘(つ)むの徒に伍して止まらんか、恥じざるべけんや。 ここに於て、書して以て自ら力(つと)む。またこれを申(の)べて曰く、ああ汝、これを選び、同じく天下に立ち、 同じく此の民の為にす。なんじ庸俗に群(ぐん)せんか、そもそも古の賢聖・豪傑に群せんか。 ◆癸丑(きちゆう)歳 偶作 (1 p.41-42引用) [述懐(立志詩)] 十有三春秋 逝者已如 レ 水 天地無 二 始終 一 人生有 二 生死 一 安得 下 類 二 故人 一 千載列 中 青史 上 十有三の春秋 逝くものはすでに水のごとし 天地始終なく 人生生死あり いずくんぞ古人に類して 千載青史に列するを得ん 【大意】 わが十三歳の年月は、水の流れのように、早くも過ぎ去ってしまった。天地には始めも終わりもないが、人生には限りがある。だから、生きているうちに、昔のえらい人たちに負けないような仕事をして、長く歴史に名を残したいものである。 ◆汝、草木と同じく朽(く)ちんと欲するか (1 p.39引用) 頼山陽は、この言葉を高らかに唱えて、わが身を励ましたそうです。 頼山陽と渡部昇一 頼山陽・剣菱黒松の冊子より出典 渡部玄一 著『明朗であれ 父、渡部昇一が遺した教え 』 河合寸翁坐像図 『姫府名士 河合寸翁傳』 上記に『易経』と頼山陽の考察文を投稿させていただきましたが、渡部昇一先生の著書『知的生活の方法』を読んで『易経』と頼山陽のことを知りました。渡部昇一先生は、皆さんもよくご存じと思いますが、上智大学名誉教授で、英語学者、哲学者、評論家でもあり、多くの著書を出されている著名な方です。平成27年に逝去されました。享年86歳でした。「知の巨人」と云われ、自宅には地下三階の書庫があり、15万冊の蔵書を遺されました。私は30歳の時、先生の講演を聞いて、明確で分かり易く、興味深い講演だったことを覚えています。 著書『知的生活の方法』の中で、渡部昇一先生が頼山陽の漢詩に出会ったことが書かれています。先生は小学生の頃、少年講談や少年向き『三国志』を読まれ、大人向けの『キング』という雑誌の付録にあった『唐詩選』の有名な漢文を見て、感動されたそうです。その事から、五言絶句を知り、漢文をやりたいと思い、お姉さんに塚本哲三著『基礎漢文解釈法』の本を買ってもらって漢文を学び始め、朝5時ごろ台所で火を焚く手伝いをしながら大部分を読み、学ばれたそうです。その著書の中に、頼山陽が11歳の時に書いた『立志論』に出会い、自分よりも年下の人間が書いたことを知って愕然としたそうです。そして、先生はその漢詩の二文「男子不学則已 学則当超羣矣」を書いて机の前の壁に貼り付けたそうです。また、頼山陽が「汝草木と同じく朽ちんと欲するか」を紙に書いて自らを励まして勉強したと知って、先生も同じように紙に書いて机の前に張り付けていたそうです。その様なことから、漢文と漢字が無暗に好きになったそうです。それから頼山陽が13歳の時に作った『立志詩(述懐)』に出会って、当時12歳だった先生は、山陽にあやかりたいと思って漢詩を作り始めたそうです。渡部昇一先生は子供の頃に頼山陽の漢文に出会い、頼山陽と同じく「小さな自分で一生を終わらせるな」と思われたのではないでしょうか。そして、愛国心を強く持たれていたのも同じだったのではないでしょうか。渡部昇一先生も母親を尊敬し、母から常に正直であれと幼少から教えられていたそうです。そして、自分に対して忠実であれと心に基軸を持っておられたようです。先生が子供たちに遺された教えは「明朗であれ」とのことです。未来を生きる若者に対して、日本のあり方や未来を生きる道筋を書籍として多く遺して下さっています。 先生は経済的に苦しい学生時代、苦学して大学生活を送り、ドイツやイギリスに留学をされています。苦学生であっても、焦らず腐らず、自分に忠実に弛まぬ努力をしたから今日があるとおっしゃっています。頼山陽も大志を抱いて出奔した後、厳しい監禁生活の間に時期を待って学び続けました、又、河合寸翁も、祖父定恒の刃傷沙汰で河合家は家名断絶となり、謹慎状態で厳しい少年期を過ごした様です。一方、藩主酒井忠以(ただざね)は彼の才能を愛し、諸芸文武を、徳をもって彼を教え導きました。後に、藩主は、祖父定恒の忠義による刃傷沙汰である事を思いやり、河合家は家名復興となりました。しかし、河合寸翁が21歳の時に父宗見は他界し、悲しみに暮れる中、家督を継ぎ家老職に列しましたが、同僚と意見が合わず、職を辞して20年間孤独と闘いながら学事に専念しました。苦難の中でも学問を忘れず奮励努力し、42歳の時に勝手掛を命じられ、藩政大改革に着手して73万両の借財を返済し、姫路藩に貢献しました。逆境の中でどのように対処していくかで、その人の人生が決まるようです。 私事ですが、昔、ビジネスで「冷や飯を食う」逆境の時期を過ごす経験をしました。その時に出会ったのが『易経』の「地火明夷」で不遇対処の道の卦でした。その教えの内容を実践して境遇を脱した貴重な経験をしました。その経験から『易経』を学ぶ様になりました。その『易経』のフィールドワークとして、河合寸翁と仁寿山校を探究する様になり、河合寸翁から、山崎闇斎、朱子、頼山陽、渡部昇一先生、岡田武彦先生の本と出会うことができました。このような 賢人達の生き方から、本当の学問とは何か、自分の人生をどのように生きていくのかを更に考える様になりました。また、最近では、死ぬまで学び続けることが大事であると考える様にもなりました。私は、自宅に佐藤一斎の『三学戒』の額を掲げています。昔、新たな道に挑戦するため退職した時、広島出身の会社の大先輩から頂いた額です。今もこの『三学戒』の額を毎日見ながら生活をしています。 私の人生目標である生涯学習の励ましの言葉となっています。 三学戒 小(わか)くして学べば 壮にして為す有り 壮にして学べば 老いて衰へず 老いて學べば 死して朽ちず 書は安岡正篤先生が揮毫されたものです 。 尚、渡部昇一先生は、麗澤大学学長の中山理先生と『運命を開く易経の知恵』を出版されています。副題は「老いも若きも、学ぶべきは人間学」となっています。対談形式で書かれており、博識の両先生が様々な視点から『易経』を語られています。 参考書籍・資料 岡田武彦 著『東洋のアイデンティティ 中国古代の思想家に学ぶ』批評社 1994 島田 清 著『兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況』 昭和47年(1972) 姫路藩支校「仁寿山校」出版の太極図(木活)の図(p.9)を掲載 仁寿山と仁寿山校 島田清 著「頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育」兵庫県教育研修所 1969、 穂積勝次郎 著『姫路藩の藩老 河合寸翁伝』 1972 宇野哲人 著『論語新釈』講談社文庫 1980 『中国の古典名著・総解説(近思録)』自由國民社 1993年 芳井直利 著『姫府名士河合寸翁伝』 姫路市役所 1912年 仁寿山校絵図を掲載 頼山陽と『易経』【考察】 1. 安藤 英男 編「頼山陽選集 1 頼山陽伝」㈱近藤出版社 1982年 2.渡部昇一 著「人生を創る言葉 古今東西の偉人たちが残した94の名言」致知出版社 2005年 3.安岡正篤 著「易学入門」明徳出版社 1960年 4. 黒岩重人 著「全釈 易経 上」藤原書店 2013年 5.竹村亞希子 著「リーダーの易経 「兆し」を察知する力をきたえる」㈱KADOKAWA 2014年 6.安藤英男 編「頼山陽選集2 頼山陽詩集」近藤出版社 1982年 辛卯仲冬、仁寿山黌を過ぐ。時に白水大夫、東邸に在り。令郎子魚、寮中に居る。此れを作り子魚に呈して、兼て大夫に寄す。 頼山陽と渡部昇一 渡部昇一 著『知的生活の方法』講談社 1976年 渡部昇一 著『人生を送る言葉 古今東西の偉人たちが残した94の名言』致知出版社 2005年 ウェイン・W・ダイア― 著渡部昇一訳・解説『小さな自分で一生を終わるな! 人生に奇跡を起こす生き方』 三笠書房 1990年 渡部玄一 著『明朗であれ 父 渡部昇一が遺した教え』海竜社 2020年 安藤英男 著『頼山陽傳』近藤出版社 1982年 寺林峻 著『姫路城凍って寒からず』東洋経済新報社 1998年 芳井直利 著『姫府名士 河合寸翁傳』姫路市 1912年 藤戸孝純 著『播磨会会報誌 播磨が生んだ人物 河合寸翁』姫路独協大学 播磨会 発行 1996年 渡部昇一・中山理 著『運命を開く易経の知恵』モラロジー研究所・廣池学園事業部 2016年
- 墨蹟 | 岡田武彦 その哲学と陽明学/陽明学
墨蹟 與斯人之徒 人々有此身万古一日 仁者壽 吾心自有光明月 兀坐説 泛海 杜甫詩句 フッター 岡田先生は昭和30年頃より揮毫をよくするようになり、はじめは雅号を「高眠齋」としていましたが、歳を重ねるうちに「唯是庵」 「斯人舎」などと変化し、最晩年は「自然齋」と名のり、自然と同化したような日本古来の観念に思いを強くしたように思われます。揮毫は知人の多くに手渡されたので所持している方も多いです。 このひとのととともにす 「與斯人之徒」(斯の人の徒と與にす) 平成乙亥(1995)正月 斯人舎 印 岡田先生八十七歳の作です。この書は『論語』微子篇「長沮・桀溺~」の「鳥獣不可與同羣、吾非斯人之徒與而誰與。」(人は鳥獣と一緒にはできない、斯の人の仲間とともに生きていかないで誰と生きていけようか)という、孔子の断固とした信念が述べられている章から取られたもので、末尾の「斯人舎」は、この章に感じ入った岡田先生が雅号として晩年に長く用いられました。 岡田先生は人と與におられるのを好まれた方で、この孔子の言葉に心から共感され、晩年には「斯人舎」「斯人齋」号と落款をよく使用しておられました。先生がお亡くなりになったあとの年忌祭は「斯人祭」として、コロナが始まる前までの15年間、命日の10月17日前後に催行されました。 「斯人舎」(しじんしゃ) 武彦書 印 「人々有此身万古一日」 高眠齋 印 人々有此身萬古一日(人々此の身 万古一日に有り)は、王陽明「抜本塞源論」の末尾に見える語を念頭に書かれたもので、その前後を書き抜くと「……。幸いとする所は、天理の人心に在るや、終(つい)に泯(ほろぼ)す可からざる所有りて、良知の明らかなること、萬古一日なれば、則ち其れ吾が抜本塞源の論を聞かば、必ず惻然として悲しみ、戚然として痛み、憤然として起つこと有りて、沛然として江河を決するが若く、禦(ふせ)ぐ可らざる所の者有らん。夫(か)の豪傑の士の、待つ所無くして興起する者に非ずんば、吾誰にか望まんや。」(岡田武彦著 警世の明文『王陽明抜本塞源論』より転載) 号は「高眠齋」 岡田武彦 著『警世の明文 王陽明拔本塞源論』 明徳出版社 平成10年9月20日 「仁者壽」 丙寅正月以明方于魯墨書 斯人舎 印 仁者壽(仁者はいのちながし)とは、『論語』雍也篇にある名言で、「丙寅(昭和62年)正月、明方于魯の墨を以て書す」とあり、明代の名墨「方于魯」で書かれています。 岡田先生はこの「方于魯」の名墨をことのほか愛し、小粒になっても摺り続け、多くの揮毫を好事家に渡されました。 号は「斯人舎」 姫路の仁寿山 姫路市白浜町の北部に仁寿山(標高175m)があります。岡田先生はこの山に登っておられました。写真の右側に仁寿山校(仁壽山黌)がありました。 詳細は「HOME」の仁寿山か「岡田先生とのご縁」のコーナーを参照してください。 文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。 「吾心自有光明月」 以明方于魯製墨書 王陽明 斯人舎 武彦 印 吾心自有光明月(吾が心、自ずから光明の月有り) こちらも前者と同じく、方于魯の墨で書かれています。 この語は『王文成公(王陽明)全書』巻之二十-外集二 にみる七言律詩「中秋」の五句目で、王陽明の偽りない心境が表れています。57歳の陽明が青龍舗に停泊していた舟上で、臨終に際し弟子の周積に告げたとされる「此の心光明、また何をか言わん」の遺言と、この「中秋」の詩句が符合しています。岡田先生は《この辞世の句は「陽明学」の神髄をよく示したものである。陽明が晩年に吟じた「中秋」の詩に「吾が心に自ずから光明の月あり、千古団円、永へに欠くることなし」という句がありますが、ここでいう光明とは良知の輝きのことであり、心の本体を月に譬えたのです。》と、自著『王陽明大伝』巻五 272頁に述べています。 号はやはり「斯人舎」。 「兀坐説」 最晩年の書(自然齋) 此の身は、七尺の躯殻に過ぎずと雖も、その体は、虚霊不昧にして、内、万里を蔵し、外、万事に応じ、古今に亘り、万物を一体となす。故に学の要は、致身これを尽くす。若し能く此の身を致せば、則ち、啻にわが身命を保全するのみならず、またもって天地を化育し、万世の為に太平を開くべし。蓋し致身なるものは本体工夫なり。然れども、体立ちて用達す。学ぶ者は、須く兀坐してもって此の身命の根を培うことを要むべきなり。平成十一年九月七日 自然斎において書す 岡田武彦 自然齋 「泛海」 王陽明 昭和三十六年四月 高眠齋 泛海 海に泛(う)かぶ 險夷原不滞胸中 険夷(けんい)原(もと) 胸中に滞(とどこう)らず 何異浮雲過太空 何ぞ異ならん 浮雲の太空(たいくう)を過ぎるに 夜靜海濤三萬里 夜は静かなり 海涛(かいとう)三万里 月明飛錫下天風 月明(げつめい) 錫(しゃく)を飛ばして天風を下(くだ)る ※語釈 険夷:順境と逆境 錫:錫杖 詳細は、岡田先生著『王陽明大伝』巻二-生涯と思想-明徳出版社刊 60頁参照 王陽明が龍場に向かう