
岡田武彦 その哲学と陽明学
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白鷺城の容姿は
岡田武彦先生の
心のシンボル
岡田武彦先生のご紹介
頼山陽が名付けた小赤壁
哲学者 岡田武彦と陽明学 岡田武彦/陽明学者/簡素の精神 崇物論
姫路は国宝・姫路城と人間国宝・桂米朝 氏で有名ですが、哲学者で陽明学者の岡田武彦先生もまた広く知られています。岡田武彦先生(1908~2004)は元九州大学名誉教授で王陽明研究の第一人者であり、中国哲学者・儒学者・陽明学者として多くの著作物を出版された著作家でした。先生は王陽明の墓の復建に尽力をされた方で、世界的に王陽明研究で有名な儒学者です。朱子学は理学、陽明学は心学、先生は身学を提唱されました。先生は大学時代に楠本正継教授に師事されています。
江戸時代後期、姫路藩には賢人で家老の河合寸翁がおりました。彼は藩政改革を行い70万両の借財を解決し、藩主からその功により仁寿山を褒美に貰い受けました。その山の麓に「人材は宝」として人材養成学校の仁寿山校を創立しました。武士で家老の河合寸翁は崎門学派の儒学者でしたが、岡田武彦先生も崎門学派の儒学者でした。

岡田武彦 呉端氏 撮影
世界の平和と幸福と繁栄は日本の簡素の精神と崇物論
岡田武彦先生の学問の究極の到達点は
『簡素の精神』と『崇物論―日本的思想』
「朱子学は主知的」であり「陽明学は情意的」であると説き、知識を重ねるだけの頭でっかちであるより、実践し体で覚える「体認」が重要と説かれました。
岡田先生の経歴・業績の概要
岡田武彦先生は兵庫県姫路市白浜村字中村(現代の白浜町中村)にて明治41年(1908)に出生されました。先生は旧制姫路中学校、旧制姫路高等学校文科を経て、九州帝国大学法文学部に進学し、支那哲学史を専攻されて昭和9年(1934)に卒業されました。
大学卒業後は富山県、宮崎県、福岡県の県立中学校教諭、長崎師範学校教諭、熊本陸軍幼年学校教官を経て、昭和24年(1949)九州大学助教授、昭和33年(1958)九州大学の教授になられました。昭和35年(1960)文学博士、昭和41年(1966)米国・コロンビア大学客員教授、昭和44年(1969)九州大学教養部長を経て昭和47年(1972)九州大学を定年退官された後、九州大学名誉教授と中華学術院栄誉哲士となられました。その後は、昭和47年(1972)西南学院大学文学部教授、昭和52年(1977)活水女子短期大学教授、昭和57年(1982)活水女子大学文学部教授として活躍され平成元年(1989)三月(80歳)に退官されました。
そして、1986年~1996年の間、王陽明の遺跡探訪の旅や本場中国の学者との交流も深められ、王陽明の遺跡修復にも精力的に取り組まれました。また、世界の学者を招き、平成6年(1994)福岡で「東アジアの伝統文化国際会議」と平成9年(1997)京都で「国際陽明学京都会議」を開催するなど陽明学研究の同士に希望と感動を与えました。著述の傍ら地元福岡では「思遠会」「東洋の心を学ぶ会」「簡素書院」、及び全国の市民講座で多くの人々に向けた王陽明の『伝習録』や中国古典、及び自説の「身學説」「兀坐説」「簡素の精神」などの講義を行い、東洋の心を教授されました。
昭和56年(1981)に勲三等旭日中授章受賞、平成12年(2000)西日本文化賞(学術部門)を受賞されています。平成16年(2004)10月17日に福岡市の自宅にて逝去されました。享年95歳でした。
主な著書は『王陽明と明末の儒学』『宋明哲学の本質』『簡素の精神』『王陽明紀行』『東洋の道』『楠本端山』『東洋のアイデンティティ』『山崎闇斎』『貝原益軒』『孫子新解』『王陽明小伝』『岡田武彦全集』『ヒトは躾で人となる』『崇物論-日本的思考-』など多数出版されています。詳細は「著作・論文」コーナーを参照してください。
主な称号・役職などは、九州大学名誉教授/中華学術院栄誉哲士/二松学舎大学客員教授/東方学会(日本)名誉会員/日本中国学会顧問/九州中国学会会長/国際陽明学研究中心(中国浙江省社会科学院)学術顧問及び名誉研究員/孔子文化大全編輯部(中国)学術顧問/世界孔子大学籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉校長/孔子大同礼金籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉主委/国際儒学聯合会(中国)顧問/李退渓学会(韓国・日本)顧問/李退渓国際学術賞審査委員。

自宅での述者(ロドニー・テーラー コロンビア大学教授撮影)
岡田武彦 述 『わが半生・儒学者への道』

日本の学友協力で王陽明遺跡探訪と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、

中国の学者との交流、及び成人教育責任者との交流の写真


中国にて、岡田武彦先生と銭明先生考察途中
銭明先生は、浙江省社会科学院哲学研究所研究員(1992年当時)
銭明先生は岡田武彦著『王陽明と明末の儒学』『簡素の精神』等を
中国語訳され出版されています。

1987年首次訪日在岡田先生宅_前
左から菰田正郎、王孝廉、小宮厚、呉光、銭明、二人おいて難波、各先生方
1.青年期に世の中の矛盾を考える様になる
岡田武彦先生の先祖は姫路藩の儒医で七代続いた医師の家系でした。岡田先生の父は播磨聖人と称されていた亀山雲平先生の塾で学んだ人です。儒教に薫陶された強い道義的精神の持ち主で温厚篤実で寡黙な人でした。薄給で家庭も貧しかったのですが、貧しい人の税の支払いや上司の接待費の肩代わりをして支払いを行っていたそうです。村民からは白浜聖人と言われていました。その様な家庭環境でしたので、岡田先生は小学校3年生から朝夕、工場で働かれていたそうです。父も兄も立派な人格のある敬愛する人達でしたが、家庭は苦しく、兄の結核病や姉が他界したことなど、長兄が願う父の酒が止まらず父と長兄との間の重苦しい雰囲気が続きました。このような家庭環境で岡田先生は人生の矛盾を痛感する様になったと話されています。


松原八幡神社境内 亀山雲平先生顕彰碑。
※松原八幡神社は赤松円心公が崇敬した神社です。建武の中興は赤松円心(則村)の挙兵に因るところが大きく、また、足利幕府成立の功は半分以上が彼のお蔭と云っても過言ではありません。
岡田学の源流、播磨聖人・亀山雲平先生

亀山雲平先生
学に勉め徳を養い 職を奉じて我が身を忘れる
謙虚に人に接し 真面目に励んで己を修めた
その行いは厳格で その言葉は穏やかであった
亀山雲平先生の墓碑に刻まれている一節⑵
亀山雲平先生は、姫路藩の家臣であり、勉学に優れた人物でした。幼少期から学問に励み、助教や教授として多くの若者に教育を施しました。また、藩内の対立を調停し、平和を守るために尽力するなど、強いリーダーシップと公正な判断力を持っていました。地元の神話に基づいて村名を命名するなど、地域の文化と歴史を尊重し、大切にする姿勢も見受けられます。彼の人柄は、知識と教育への情熱、公正さ、文化への敬意に満ちあふれていました。以下、亀山雲平先生の歴史を箇条書きに纏めました。
・亀山雲平先生は姫路藩主酒井公の家臣である亀山家7代目百之(ももゆき)の次男として1822年に姫路で出生。
・9歳の時に父百之が亡くなり、8歳の時に藩校の好古堂に入学。勉学優秀で18歳の時に助教となる。
・22歳の時に亀山氏長男剛毅(よしたけ)が病没し、亀山家家督を相続。
・江戸の昌平坂学問所に入学し、3年間在学後卒業。卒業後は江戸藩邸に出仕。
・33歳の時に姫路に戻り、好古堂教授となる。
・明治元年(1868年)幕府派の藩内過激派を制し、朝廷派の備前兵を説得して交戦を避ける。亀山雲平先生の活躍がなかったら、姫路城下は砲火を受けていた。
・明治3年(1870年)藩主忠邦の侍講となり、明治4年(1871年)長男・享に家督を譲る。
・松原八幡宮祠宮となり、塾「久敬舎(くぎょうしゃ)」を開設し地元の若者に学問を教える。明治17年(1884年)観海講堂を建設。
・白浜村の村名を「海原を白浜と化し一夜に数千本の松を生ずべし」という神話に基づいて命名。
・六カ村(松原村、中村、宇佐崎、東山村、八家村、木場村)は松原庄または松原郷と呼ばれていた。
・78歳で観海講堂で死去、景福寺に葬られる。播磨一円で教えを受けた弟子は五百から千人と言われ、播磨聖人と称された。⑴
2.岡田先生の思想形成に影響を与えた播磨の自然
岡田先生が出生された地は、瀬戸内海に面した半漁半農で、広大な塩田がある姫路市白浜村(現白浜町)でした。この村には灘のけんか祭りがあり、先生は村祭りが好きで待ち焦がれて、山野で花鳥と戯れ、海で遊泳し、川の蟹と戯れ、春夏秋冬の織りなす自然の饗宴を満喫していたと話されています。先生はこの白浜村の自然が私の思想形成を創ったと話されています。


仁寿山から臨む灘地区と播磨灘

白浜海水浴場、奥に見えるのは木庭山

仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む
松原八幡神社

松原八幡神社(姫路市白浜町甲396番地)
御祭神
本殿中央 品陀和気命(ほんだわけのみこと) (應神天皇)
右殿 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) (應神天皇の母 神功皇后)
左殿 比咩大神(ひめおおかみ) (宇佐古来の三女神)
多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津毘売命(たぎつひめのみこと)
天平宝字七年癸卯四月十一日(763年)九州豊前宇佐より白雲が東にたなびき、松原沖の海底に毎夜ひかり輝くものがありました。それを引き上げると「宇佐第二垂跡(すいじゃく)八幡大菩薩」の文字がある紫檀の霊木であった為、妻鹿(めが)川の下流の大岩の上に安置し祀りました。このことが朝廷に伝わり、勅使が下向し妻鹿の北東の山頂・お旅山に仮殿を造りご神体を遷しました。
ある夜、国司は神のお告げの夢を見ました。それは「我が永遠に鎮座しようとする所は、今は海原であるが、そこを一夜にして白浜とし、粟が生じる様に数千の松を生やすから、そこに遷して祀れ。」というものでした。このことから、国司は諸国の工人を集め豊前の宇佐宮に倣って立派な社殿を造営し御神体を現在の松原の地に移しました。
中世、播磨の豪族赤松円心は松原八幡神社を敬い、武士の氏神としての性格を濃くしていきました。応仁の乱で山名氏により社殿を焼失され、その後、赤松政則(後南朝に奪われていた三種の神器を奪還し家督の相続を許された)が再興しました。氏子達は喜びに湧き、米俵数百俵をお旅山に担ぎ上げ社前に山のように積み上げたと伝えられています。現在の灘まつりの屋台はこれがきっかけとなってつくられたとも言われています。
その後、天正の初めに羽柴秀吉の三木城攻めの際に戦火に遭い全焼しました。秀吉の怒りを鎮め、とりなしてくれた黒田孝高(官兵衛)のお蔭で社石は六十石に減じられましたが、現在地に存続することができました。⑶ ⑷

兵庫県上郡町・法雲寺の赤松円心堂

赤松円心のふるさと兵庫県上郡町・白旗山
松原八幡神社より北西に黒田官兵衛の妻鹿城・功山城跡があります。

仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む。左からお旅山と甲山
手前の幹線道路は姫路バイパス

甲山南側麓にある妻鹿城址碑
功山城(こうざんじょう)
功山城は、市川左岸の標高102mの甲山(こうざん)にあり、別称を妻鹿城・国府山城(こうやまじょう)・袴垂城(はかまたれじょう)ともいわれています。
初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗(めがまごさぶろうながむね)です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。その後、姫路城内て生まれた黒田官兵衛孝高(よしたか)の父織隆(もとたか)は、天正元年(1573年)に姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正八年(1580年)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としました。これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城てある姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩五六万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。天正一三年(1585年)織隆が没した後は、廃城となったようです。なお、織隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。⑸
秋季祭典・灘のけんか祭りと岡田先生
毎年10月14,15日に松原八幡神社で行われる秋季大祭は「灘のけんか祭り」で有名です。五穀豊穣を願って行われる、播州の秋祭りを代表するこの祭りは国内外にファン層を拡げ、毎年十数万人の大観衆でにぎわいます。
灘のけんか祭りは毎年10月15日に開催されます。松原、妻鹿、東山、八家、木場、宇佐崎、中村の灘七ヵ村の屋台七台が勢ぞろいし、熱気渦巻く壮大な祭りが繰り広げられます。宵宮は14日、本宮は15日に行われます。豪華な屋台が熱気渦巻く祭り絵巻となって私たちを奮い立たせてくれます。尚、この期間は山陽電鉄の特急が白浜の宮に停車します。

秋季祭典・灘のけんか祭り

左から岡田武彦先生と川崎淳三氏 灘のけんか祭り 1992.10.15



