top of page

​白鷺城の容姿は
岡田武彦先生の
心のシンボル

​岡田武彦先生のご紹介

​哲学者 岡田武彦と陽明学 岡田武彦/陽明学者/簡素の精神 崇物論

 姫路は国宝・姫路城と人間国宝・桂米朝さんで有名ですが、哲学者で陽明学者の岡田武彦先生も有名です。岡田武彦先生(1908~2004)は元九州大学名誉教授で王陽明研究の第一人者であり中国哲学者、陽明学者、及び多くの著作物を出版された著作家でした。先生は王陽明の墓の復建に尽力をされた方で、世界的に王陽明研究で有名な儒学者です。朱子学は理学、陽明学は心学、先生は身学を提唱されました。先生は大学時代に楠本正継教授に師事されています。

 姫路藩には賢人で家老の河合寸翁がおりました。彼は藩政改革を行い70万両の借財を解決し、藩主からその功により仁寿山を褒美に貰い受けました。その山の麓に「人材は宝」として人材養成学校の仁寿山校を創立しました。家老・河合寸翁は崎門学派の儒学者でしたが、岡田武彦先生も崎門学派の儒学者でした。

岡田武彦先生の晩年の写真

​岡田武彦  呉端氏 撮影

世界の平和と幸福と繁栄は日本の簡素の精神と崇物論

岡田武彦先生の学問の究極の到達点は

『簡素の精神』と『崇物論―日本的思想』

「朱子学は主知的」であり「陽明学は情意的」であると説き、知識を重ねるだけの頭でっかちであるより、実践し体で覚える「体認」が重要と説かれました。

​岡田先生の経歴・業績の概要

 岡田武彦先生は兵庫県姫路市白浜村字中村(現代の白浜町中村)にて明治41年(1908)に出生されました。先生は旧制姫路中学校、旧制姫路高等学校文科を経て、九州帝国大学法文学部に進学し、支那哲学史を専攻されて昭和9年(1934)に卒業されました。

 

大学卒業後は富山県、宮崎県、福岡県の県立中学校教諭、長崎師範学校教諭、熊本陸軍幼年学校教官を経て、昭和24年(1949)九州大学助教授、昭和33年(1958)九州大学の教授になられました。昭和35年(1960)文学博士、昭和41年(1966)米国・コロンビア大学客員教授、昭和44年(1969)九州大学教養部長を経て昭和47年(1972)九州大学を定年退官された後、中華学術院栄誉哲士と九州大学名誉教授となられました。その後は、昭和47年(1972)西南学院大学文学部教授、昭和52年(1977)活水女子短期大学教授、昭和57年(1982)活水女子大学文学部教授として活躍され平成元年(1989)三月(80歳)に退官されました。

そして、1986年~1996年の間、王陽明の遺跡探訪の旅や本場中国の学者との交流も深められ、王陽明の遺跡修復にも精力的に取り組まれました。また、世界の学者を招き、平成6年(1994)福岡で「東アジアの伝統文化国際会議」と平成9年(1997)京都で「国際陽明学京都会議」を開催するなど陽明学研究の同士に希望と感動を与えました。著述の傍ら地元福岡では「思遠会」「東洋の心を学ぶ会」「簡素書院」、及び全国の市民講座で多くの人々に向けた王陽明の『伝習録』や中国古典、及び自説の「身學説」「兀坐説」「簡素の精神」などの講義を行い東洋の心を教授されました。

 

昭和56年(1981)に勲三等旭日中授章受賞、平成12年(2000)西日本文化賞(学術部門)を受賞されています。平成16年(2004)10月17日に福岡市の自宅にて逝去されました。享年95歳でした。

 

 主な著書は『王陽明と明末の儒学』『宋明哲学の本質』『簡素の精神』『王陽明紀行』『東洋の道』『楠本端山』『東洋のアイデンティティ』『山崎闇斎』『貝原益軒』『孫子新解』『王陽明小伝』『岡田武彦全集』『ヒトは躾で人となる』『崇物論-日本的思考-』など多数出版されています。詳細は「著作・論文」コーナーを参照してください。

 主な称号・役職などは、九州大学名誉教授/中華学術院栄誉哲士/二松学舎大学客員教授/東方学会(日本)名誉会員/日本中国学会顧問/九州中国学会会長/国際陽明学研究中心(中国浙江省社会科学院)学術顧問及び名誉研究員/孔子文化大全編輯部(中国)学術顧問/世界孔子大学籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉校長/孔子大同礼金籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉主委/国際儒学聯合会(中国)顧問/李退渓学会(韓国・日本)顧問/李退渓国際学術賞審査委員。​

自宅での岡田武彦 ロドニー・テーラー撮影

​自宅での述者(ロドニー・テーラー コロンビア大学教授撮影)

岡田先生の経歴・業績の概要
IMG_5872.jpg

​岡田武彦先生追想録『崇物の道』

​画像をクリックするとYouTubeで動画が見れます。

岡田武彦先生追想録『崇物の道』、岡田武彦先生の人と学問

​岡田武彦先生追想録

​①崇物の道 ②岡田武彦先生の人と学問
​(映像制作者:京都フォーラム 矢崎勝彦氏)

背景は岡田武彦先生が生まれ育った灘地区(白浜町中村含む)
仁寿山山頂から撮影

​岡田武彦 述 『わが半生・儒学者への道』

わが人生・儒学者��への道

日本の学友協力で王陽明遺跡探訪と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、

王陽明史跡龍場探訪・王陽明墓碑除幕式参列訪中団

中国の学者との交流​、及び成人教育責任者との交流の写真

中国の学者と成人教育責任者との交流
岡田先生と銭明先生

中国にて、岡田武彦先生と銭明先生考察途中
​銭明先生は、浙江省社会科学院哲学研究所研究員(1992年当時)

銭明先生は岡田武彦著『王陽明と明末の儒学』『簡素の精神』等を
中国語訳され出版されています。

岡田邸・中国人学者と日本人学者達

1987年首次訪日在岡田先生宅_前

左から菰田正郎、王孝廉、小宮厚、呉光、銭明、二人おいて難波、各先生方

1.青年期に世の中の矛盾を考える様になる

 岡田武彦先生の先祖は姫路藩の儒医で七代続いた医師の家系でした。岡田先生の父は播磨聖人と称されていた亀山雲平先生の塾で学んだ人です。儒教に薫陶された強い道義的精神の持ち主で温厚篤実で寡黙な人でした。薄給で家庭も貧しかったのですが、貧しい人の税の支払いや上司の接待費の肩代わりをして支払いを行っていたそうです。村民からは白浜聖人と言われていました。その様な家庭環境でしたので、岡田先生は小学校3年生から朝夕、工場で働かれていたそうです。父も兄も立派な人格のある敬愛する人達でしたが、家庭は苦しく、兄の結核病や姉が他界したことなど、長兄が願う父の酒が止まらず父と長兄との間の重苦しい雰囲気が続きました。このような家庭環境で岡田先生は人生の矛盾を痛感する様になったと話されています。

亀山雲平先生顕彰碑 松原八幡神社

松原八幡神社境内 亀山雲平先生顕彰碑。

※松原八幡神社は赤松円心公が崇敬した神社です。建武の中興は赤松円心(則村)の挙兵に因るところが大きく、また、足利幕府成立の功は半分以上が彼のお蔭と云っても過言ではありません。

​岡田学の源流、播磨聖人・亀山雲平先生

亀山雲平先生

 亀山雲平先生は姫路藩主酒井公の家臣である亀山家7代目百之の次男として1822年に姫路で生まれました。

 九歳の時に父百之が亡くなり八歳の時藩校の好古堂に入校します。 勉学優秀で18歳の時校生より抜擢されて助教となり、その後好古堂肝煎指南手伝に昇進しました。22歳の時亀山氏長男剛毅が病没したので亀山家家督相続をします。その後姫路藩より選ばれて江戸の昌平坂学問所に入学し、3年間在学し卒業後は江戸藩邸に出仕しました。33歳の時姫路に戻り好古堂教授となりました。

 明治元年(1868年) 維新を迎えた時、幕府派の藩内過激派を制して朝命を奉じて景福寺山まで進攻してきた朝廷派の備前兵を説得して交戦を避ける活躍をしました。 あわや姫路城に砲火という事態を避けた姫路藩の勝海舟的な役割を演じたといっても過言ではありません。

明治3年(1870年) 藩主忠邦の侍講 (藩主に五経四書を講釈)となり明治4年(1871年) 長男・享に家督をゆずり、八正寺が立ち退いた後とりあえず祠宮に就任した元社僧神田豊齊の後を受けて、明治6年(1873年) 松原八幡宮祠宮 (社司) となり松原へ移り住みました。

  私塾、久敬舎を建てて地元向学の士に学問を教え、明治17年(1884年)には新たに講堂と塾舎を建てました。 これが観海講堂です。 現在白浜小学校はこの跡地に建築され、その校庭に観海講堂の碑石が残っています。 又、亀山雲平先生は明治10年(1877年)には宇佐崎、中村、松原村が合体してできた白浜村の村名を「海原を白浜と化し一夜に数千本の松を生ずべし」と宣託があったという神話に基づいて白浜と命名しました。

 近世は松原村、中村、宇佐崎、東山村、八家村、木場村の六カ村は松原庄、或いは松原郷と呼ばれ現在の宇佐崎、中村の地は本松原、松原村は西脇と呼ばれていました。 又、一夜にして粟の如く松を生じたので「粟生(おう)の松原」とも呼ばれていました。

 その後、姫路射楯兵主(いたてひょうず)神社と姫路神社の社司を兼任しました。現在の松原八幡宮の宮司亀山氏はこの子孫です。 明治32年(1899年)、78歳の時観海講堂において逝去され姫路景福寺に葬られました。直接教えを受けた人は播磨一円に及びその数は五百とも千ともいわれ播磨聖人と言われました。

※『灘地区の地域資源』 灘地区地域夢プラン実行委員会 平成17年12月より出典

 亀山雲平先生

2.岡田先生の思想形成に影響を与えた播磨の自然

 岡田先生が出生された地は、瀬戸内海に面した半漁半農で、広大な塩田がある姫路市白浜村(現白浜町)でした。この村には灘のけんか祭りがあり、先生は村祭りが好きで待ち焦がれて、山野で花鳥と戯れ、海で遊泳し、川の蟹と戯れ、春夏秋冬の織りなす自然の饗宴を満喫していたと話されています。先生はこの白浜村の自然が私の思想形成を創ったと話されています。

姫路市白浜町の位置
姫路市白浜町 松原、中村、宇佐崎

仁寿山から臨む灘地区と播磨灘

姫路市白浜海水浴場

白浜海水浴場、奥に見えるのは木庭山

仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む

​仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む

 松原八幡神社

​松原八幡神社

img_1946.jpg

​松原八幡神社(姫路市白浜町甲396番地)

御祭神

本殿中央 品陀和気命(ほんだわけのみこと) (應神天皇)

右殿 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) (應神天皇の母 神功皇后)

左殿 比咩大神(ひめおおかみ)  (宇佐古来の三女神)

多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津毘売命(たぎつひめのみこと)

 天平宝字七年癸卯四月十一日(763年)九州豊前宇佐より白雲が東にたなびき、松原沖の海底に毎夜ひかり輝くものがありました。それを引き上げると「宇佐第二垂跡(すいじゃく)八幡大菩薩」の文字がある紫檀の霊木であった為、妻鹿(めが)川の下流の大岩の上に安置し祀りました。このことが朝廷に伝わり、勅使が下向し妻鹿の北東の山頂・お旅山に仮殿を造りご神体を遷しました。

 ある夜、国司は神のお告げの夢を見ました。それは「我が永遠に鎮座しようとする所は、今は海原であるが、そこを一夜にして白浜とし、粟が生じる様に数千の松を生やすから、そこに遷して祀れ。」というものでした。このことから、国司は諸国の工人を集め豊前の宇佐宮に倣って立派な社殿を造営し御神体を現在の松原の地に移しました。

 中世、播磨の豪族赤松円心は松原八幡神社を敬い、武士の氏神としての性格を濃くしていきました。応仁の乱で山名氏により社殿を焼失され、その後、赤松政則(後南朝に奪われていた三種の神器を奪還し家督の相続を許された)が再興しました。氏子達は喜びに湧き、米俵数百俵をお旅山に担ぎ上げ社前に山のように積み上げたと伝えられています。現在の灘まつりの屋台はこれがきっかけとなってつくられたとも言われています。

 その後、天正の初めに羽柴秀吉の三木城攻めの際に戦火に遭い全焼しました。秀吉の怒りを鎮め、とりなしてくれた黒田孝高(官兵衛)のお蔭で社石は六十石に減じられましたが、現在地に存続することができました。 

※松原八幡神社由緒略記より要約、参考:姫路市白浜土地区画整理事業完工誌『歴史を刻む松原荘』

◇円心堂.jpg

兵庫県上郡町・法雲寺の赤松円心堂

赤松円心のふるさと兵庫県上郡町・白旗山

​松原八幡神社より北西に黒田官兵衛の妻鹿城・功山城跡があります。

お旅山と甲山.jpg

​仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む。左からお旅山と甲山
​手前の幹線道路は姫路バイパス

妻鹿城碑-1.jpg

甲山南側麓にある妻鹿城址碑

功山城(こうざんじょう)

   功山城は、市川左岸の標高102mの甲山(こうざん)にあり、別称を妻鹿城・国府山城(こうやまじょう)・袴垂城(はかまたれじょう)ともいわれています。

  初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗(めがまごさぶろうながむね)です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。その後、姫路城内て生まれた黒田官兵衛孝高(よしたか)の父織隆(もとたか)は、天正元年(1573年)に姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正八年(1580年)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としました。これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城てある姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩五六万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。天正一三年(1585年)織隆が没した後は、廃城となったようです。なお、織隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。

          平成10年4月吉日 姫路南ライオンズクラブの功山城説明掲示板(旧)より出典​

​秋季祭典・灘のけんか祭りと岡田先生

 毎年10月14,15日に松原八幡神社で行われる秋季大祭は「灘のけんか祭り」で有名です。五穀豊穣を願って行われる、播州の秋祭りを代表するこの祭りは国内外にファン層を拡げ、毎年十数万人の大観衆でにぎわいます。

  灘のけんか祭りは毎年10月15日に開催されます。松原、妻鹿、東山、八家、木場、宇佐崎、中村の灘七ヵ村の屋台七台が勢ぞろいし、熱気渦巻く壮大な祭りが繰り広げられます。宵宮は14日、本宮は15日に行われます。豪華な屋台が熱気渦巻く祭り絵巻となって私たちを奮い立たせてくれます。尚、この期間は山陽電鉄の特急が白浜の宮に停車します。

秋季祭典・灘のけんか祭り

12.灘けんか祭り①  1992.10-1.15.jpg

左から岡田武彦先生と川崎淳三氏 ​灘のけんか祭り 1992.10.15

09.先生実家跡で.jpg

岡田武彦先生(実家跡の前で)

岡田先生は郷里の秋季祭典・灘のけんか祭りを楽しみにされておられました。私(赤松)は川崎淳三氏(故人)から岡田武彦先生の『東洋のアイデンティティ』の書籍を紹介いただいて、岡田先生の哲学と『易経』を深く学ぶきっかけをいただきました。

 灘のけんか祭りと岡田先生
松原八幡神社

早朝の松原八幡神社

秋季祭典「灘のけんか祭り」
松原の神輿と赤の紙垂(しで)、及び木場の神輿と若緑の紙垂

灘のけんか祭りの三基の神輿 一の丸、二の丸、三の丸

灘のけんか祭りの一の丸、二の丸、三の丸の三基の神輿

秋季祭典「灘のけんか祭り」
松原の神輿と赤の紙垂(しで)、木場の神輿と若緑の紙垂
​中村の神輿と青の紙垂

 「しで」は「紙垂」と書きます。紙垂は雷を表し五穀豊穣と邪悪なものを払い除けると言う意味をもっています。神社に行くとよく見かけます。 灘のけんか祭りの「しで」は竹に花のような「しで」を取り付けています。この形は波を表しています。灘のけんか祭りは7地区が参加し、7つの色のしでがあります。ちなみに中村の色は青です。播磨灘の海の色になります。 その様な意味を持ち、祭りでは神輿を盛り立てます。

・東山はピンク:邪気を祓う桃の色

・木場は若緑:生気溢れる若竹の色

・松原は赤:鉄を溶かす鞴(ふいご)の火の色

・八家は黄赤:滾(たぎ)る血汗と熱血の色

・妻鹿は朱赤:質感溢れる熱血の色

・宇佐崎は黄:貴人の色

・中村は青:播磨灘の海の色

頼山陽が名付けた小赤壁

 姫路の海側に『小赤壁』と呼ばれる地があります。小赤壁(しょうせきへき)の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。

 姫路藩家老、河合寸翁が創立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、この海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宋代の詩人・蘇軾(そしょく)の長江の詩、「赤壁賦」が詠まれ、この時、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。木庭山の断崖絶壁である小赤壁は高さ約50m、長さ約800mあります。

 岡田先生はこの岩壁沿いを泳いでおられました。岡田先生は絶壁の下の海は竜神の棲家を想像させるくらい紺碧色をしていて、竜神に足を取られないかとびくびくしながら泳いだと話されています。

​西側から観た小赤壁

IMG_0676_edited.jpg

木庭神社より播磨灘を臨む

◇小赤壁_edited.jpg

​東側から観た小赤壁

のじぎくブログ用.JPG

木庭山の周辺に咲く、のじぎく

◆HATENA BLOG 「播磨の山々」の、しみけんさんがドローン空撮で小赤壁を紹介されています。
​ 全天球パノラマでパソコン上やスマホ上で映像を動かすことができます。

兵庫県姫路市の小赤壁 - 播磨の山々 (hatenablog.jp)

姫路城(白鷺城)は心のシンボル

 姫路には岡田先生が出生した北西に姫路城(白鷺城)があります。岡田先生は白鷺城の容姿は私の心のシンボルとなっていると話されています。

姫路城 白鷺城 岡田武彦先生の心のシンボル

仁寿山

 白浜町の北方に仁寿山と云う山があります。この山は『論語』から命名されました。文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を家老・河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。

  岡田先生は仁寿山に登り、山頂から明石、家島、小豆島を臨み、心静かに播磨灘を眺めるのが好きだったようです。

仁寿山 論語から命名

写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に

仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。

姫路藩 河合寸翁・仁寿山校の紹介
人材は「国家の宝」、未来を創る人材養成学校

 河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで有名です。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けました。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしました。

仁寿山校画像1.jpg

​仁寿山校絵図 『姫府名士 河合寸翁傳』 姫路市役所 発行 1912.10 より出典

仁寿山と大池(西池) 仁寿山校跡

​仁寿山と大池(現在は西池)・池の右奥に仁寿山校がありました。 

 仁寿山校

姫路市郷土唱歌

昭和天皇の即位のご大典の記念につくられた、姫路市郷土唱歌です。姫路の歴史をよく表していると思います。 

一、天下に三つの名城と 其の名も高き白鷺城

旭の光さし添へば 雄姿颯爽(ゆうしさっそう)世を葢(おお)ふ

偉人豊臣太閤の 偉業燦(さん)たり千代迄も

 

二、南に続く一帯の 松翠年(しょうすいとし)に色を増し

名も三左衛門の長濠(ちょうごう)に 湛(たた)ふる水の面澄(たもす)みて

名君池田輝政の 壮圖悠(そうとゆう)たり長(とこし)へに

三、仁壽山黌跡訪(と)えば 廃墟空しく月に輝(て)り

昔を語る梅ヶ岡 薫(かほり)の花の香(か)も高く

河合太夫を仰ぐなり 晒(さら)しの布の名と共に

四、王政維新の業成るや 天一日(てんいちじつ)の大義ぞと

版籍奉還(はんせきほうかん)首唱せし 功(いさを)かぐはし酒井侯

剣かたばみの紋と共 語り伝えへん後の世に

五、國(くに)の鎮(しずめ)めの十師団 武勲赫々(ぶくんかくかく)名も高く

寸断血染(ちぎれちぞめ)の連隊旗 勇武の名残(なごり)を留めつつ

響く喇叭(らっぱ)の音色にも 勇往進取の気象あり

六、北には廣峯書寫(ひろみねしょしゃ)の山 梅に其の名の白國(しらくに)や

杖曳(つえひ)く人の増井山 南の内海(うみ)は波静か

治まる御代のためしにて 御祓市川水清(みそぎいちかわみずきよ)し

七、総社十二所本徳治(そうしゃじゅうにしょほんとくじ) 薬師の山に建つ碑文

於菊(おきく)の井戸や姥ヶ石(うばかいし) 残る床(ゆか)しの伝説を

語るに似たり公園の 姫山松は聲立(こえた)てて

八、世界に名を得し姫路革 名も高砂やかちん染め

昔ながらの色に栄え 玉川晒名(たまがわさらしな)も著(いちじる)く

明珍火箸(みょうちんひばし)も古くより 称へられたる名産ぞ

九、錦糸毛糸の紡績や 織物マッチ工場の

煙の雲にうちふるふ 汽笛の音の繁(しげ)きにも

進む市政のしのばれて 我等が意気は揚るなり

一〇、地は中國の要路にて 山舒水緩土肥(さんじょすいかんつちこ)えて

五穀ゆたかに人適(ひとかな)ひ 面積方里人四萬(めんせきほうりひとよまん)

栄えある歴史に彩られ 御代に栄ゆる我が姫路

一一、さはあれ市民(まちびと)心して 自治共同の旗影に

大勅(おおみことのり)かしこみて 殖産興業励みつつ

尚武(しょうぶ)の道もゆるみなく 一つにつくせ國のため

一二、地理の利便に相応じ 歴史の跡に鑑みて

既に備はる錦上に いで花添へん諸共に

郷土を愛する赤心(こころ)もて 更に飾らん市の歴史

 

眞野義彦先生校閲、米野鹿之助先生校閲、姫路市郷土唱歌委員会作 昭和天皇即位のご大典の記念につくられました。

姫路市郷土唱歌

3.人生の矛盾が解けないか糸口を探した旧制姫路高等学校時代

 岡田先生の家庭は貧しかったですが、小学校高等科一年の時にやっと親の許しを得て、難関で名門の姫路中学を受験し合格することができました。受験勉強をし過ぎて健康を害されたそうです。中学四年生の時、高校進学はできない家庭状況だったのですが、高校受験だけは許してもらい受験した結果、見事に合格し、両親も進学を許してくれることになったそうです。学費は中学校と余り変わらず、中学校と同じ自転車通学となりました。出来事を引用・要約して箇条書きにします。

敬愛する長兄の死

「親に孝に兄弟に友に」の長兄が結核で大喀血して他界。

読書

高校の図書館で哲学書や倫理書、及び文学書を読み漁った。

禅への興味

 禅、あるいは陽明学の影響がある西田哲学の『禅の研究』の書を読んだが難解であった。

 社会科学専攻の伊豆山善太郎教授は禅に通達しており、居士の資格を持っておられた。先生に直接会って禅にについて話を聞いた。「矛盾や悪を徹底的に見つめてみたまえ」とアドバイスをもらった。

 姫路中学の横田宗直校長は禅僧で偉い人であると聞いて、先生の所に訪問して、禅の事を聴いた。「先ず数息観より始めよ」と教えられたが、長続きはしなかった。

哲学書

和辻哲郎

​ 哲学書で興味を持ったのは和辻哲郎さんだった。和辻さんは、認識論よりも倫理学をよく研究され、姫路中学の先輩で岡田先生と同じく代々医業の家系であった。

自然主義文学

 島崎藤村、田山花袋、国木田独歩などの自然主義文学作品に興味を覚えた。先生の性格は素直であったが孤独を愛し、我が強く、権力や集団圧力には強い反発心を抱いた。

正岡子規

 正岡子規の影響を受け和歌や俳句に興味を持って日記によくそれを書いた。雄渾幽深(ゆうこんゆうしん)な和歌や俳句を好んでいた。

肺炎に罹患

 肺炎に罹患し期末試験を受けることができなかったが、一学期の成績が優秀だったのか二年生に進級した。しかし、英語教師の資格は得られなかった。

丹羽教授の授業

 丹羽教授の東洋史は印象的で忘れられない。講義から現象と原理の基本的関係から解釈するようになったが、「原理の神髄は具体的な事象によって把握される」と考えている。

大学進学の苦労

 不景気でもあり、父と次兄は就職をする様に勧めたが大学進学で口論となった。住友本社の渡辺斌衡氏が学資を出すことで九州大学に進学する事になった。人より3年遅れた。

旧制姫路高等学校正門(現兵庫県立大学環境人間学部校舎)

​旧制姫路高等学校正門
(現兵庫県立大学環境人間学部の校舎)

4.進学した九州大学で、生涯師事する学者に出会う

 岡田先生は東大や京大への進学に挫折され、九州下りするのを些か憂鬱な気分になっておられたそうです。入学した法文学部は新設学部で教授内容も教授陣も分からない状態で憂鬱な日々が続いたそうです。以下、大学時代での出来事を箇条書きにしました。

文学で心を癒す

 アララギ派やホトトギス派の和歌、俳句を読み、その源流の古典を読み漁った。

 王朝の物語や日記類、随筆などを片っ端から読み耽った。夏季休暇は帰郷せず図書館に閉じこもった。国文学の講義は実証的研究が中心で、文学は文法中心の解釈で文学論や文芸論の解説はなかった。無味乾燥で憂鬱だった

アルバイトをして

両親に送金

 渡辺氏のご夫妻からは、授業料の他に毎月五十円の送金を受けておられたが、倹約しながら青年学校で数学を教えたり、書店店員に国文の講読をしたり、家庭教師などをして、大学を卒業するまで実家に送金を行った。

在学中に結婚

 岡田先生は胃腸が弱く、下痢をして寝込み、同じ下宿先の農学部事務職の女性に粥を炊いてもらった縁から知り合いとなり、結婚をする決意を固めた。

生涯師事する

楠本正継先生

に出会う

 二学期の始めに楠本正継先生の『伝習録』の講義を受けて、非常に感激を覚え、終生のわが師と心に誓った。楠本先生の人格が高潔であったことや悩みが解決できると考えたからである。「播磨聖人」亀山雲平先生の人柄を聞いた事や「白浜聖人」といわれた敬愛する父を見て「大学では学徳兼備の偉大な学者に師事したい」と思っていた。

 楠本先生から『四書』や『荘子』の「斉物論」をしっかり読むように指導を受ける。特に「西洋と東洋の神秘主義を比較して、東洋の神秘主義が如何に秀れているかを実証してみせる」と思ったこともあった。

若き日の

恩師の学風

 二年生のとき、中国哲学、中国文学、東洋史の教授と、学生との合同研究会が開かれた。岡田先生は敬愛し心惹かれた宋学の周濂渓を発表されたとか。
​ 楠本先生は、老子の道についても西洋哲学の方法論で中国の哲学を分析、解明するやり方だった。後に楠本先生もこの方法から抜け出された。

宋明学への興味

 大学時代、楠本先生から聴講した中国哲学は、古代中国史の講義、王陽明の『伝習録』『周易』の購読と、『老子』と載震の『孟子字義疏証』のゼミのみであった。楠本先生の学風を継承できたのは、大学卒業後、絶えず先生に親炙して親しく教えをうけたからではないか。
​ 『伝習録』の講読のときに、この時代の儒学について説明を聴いて宋明学に興味を覚える様になった。周濂渓思想から学び始め、独りでこつこつと宋明学の代表的儒者の書物を読み続け、朱子学を卒論にしようと決めた。

大学の講義

 好んで西洋の哲学や倫理学の講義を聴き、ゼミに参加した。ギリシャ哲学やハイデッカーの講義には心が惹かれた。東洋史の講義で、白和文の梁啓超の『近三百年学術史』の講読で白和文の読解力が養われた。禅と神道の全般教養の無さに痛感。行動心理学、音楽美術、イスラエル宗教史、キップリングの詩などの講義は興味深いものがあった。いろいろな学科の講義を聴いて広く教養を身につける様に務めた。芭蕉の講義では俳論に興味を持った。専門外の講義を多く聴くように務めた。特に西洋の哲学や倫理に興味を持って学び、それらの動向を感じ取ることができ、思想形成に大いに役立ったようである。

学生時代の同僚

友人たち

 楠本先生の一番弟子は岡田先生で、他二人がおり、計三名が同僚であった。一年後に禅僧の僧侶二人が入ってきた。

忘れがたい友人が二人いた。山本氏と本間君であった。自分の性格と違ったタイプに興味があったのと孤独を愛する性質と無関係ではないと思った。友人からマルキシズムの話を聴いたが批判的だった。

母親による就職先の変更

 昭和九年一月十日に卒論の朱子学を提出して、優秀だったのか楠本先生から副手(一年間は無給)になって大学に残らないかと話があり教授会で採用が決定された。しかし、借金を抱え、次兄に気兼ねしていた母親が早く俸給取りにと念願し、富山市の中学校に赴任する事を決めていた。北京の卒業旅行後に知った。

九州大学 門標

九州大学の門標

楠本正継先生 研究室で

岡田武彦先生の恩師 楠本正継先生

 岡田先生の和歌
岡田武彦先生の短冊 己が身と己が心の~直筆

「大学に進学すれば学徳兼備の偉大な学者に師事したい」という、切なる気持ちを述べた和歌を岡田武彦先生は詠じられました。    

 己が身と己が心のもろもろを

​   なべて捧ぐる人ぞこほしき  

                                          武彦   

岡田武彦先生の九州大学生時代の写真

九州大学生時代の岡田先生の写真

大学図書館のイメージ図

大学図書館のイメージ

5.中学教師時代 一

・旧制富山県立神通中学校教師時代

※この頁以降は、引用・要約を行います。

校長の叱責

 昭和九年四月初め、索漠たる気持ちで霙降る薄ら寒い富山駅に降り立った。迎えに来ていた中学校の事務長の案内で神通中学校に向かった。数日後、新任教師の歓迎の宴が催され、酒宴の酣(たけなわ)になった頃、校長から「君は、もう一度大学に帰って勉強しなおしてこい」と言われてびっくり仰天して一言も口がきけなかった。原因は、赴任したとき校長の自宅に挨拶に行かなかったことらしい。処世術の不手際がこういうところにも表れた。校長は京大の英文科出身で人柄はしごく良く、懐かしい人だったが、酒癖が悪いので評判だった。

禅寺で参禅

 事志に反して中学校に勤務しなければならなかったので心中鬱々として楽しまなかった。自分の学問のやり方も変えざるを得なかった。漢文大系を購入し、それを本にして古代の中国思想の研究をして論文を書いては恩師に送って批判を仰いだが、手元に資料がないので実証的な研究はできなかった。その頃は特に老荘思想を研究した。

 氷見の臨済宗総本山の官長・勝平老師が月に一回、富山市に出張して提唱すると聞いて早速参禅した。老師は柔和な顔をしておられたが提唱のときは音吐朗々と漢詩を読まれるので、それを聞いただけでも悟りが開ける思いがした。参禅した時は『碧巖録』の提唱をしていた。「ここのところは坐禅して悟りなさい」といわれるのが常であった。「自分は禅をやっても、とても見込みはあるまい」と思うようになった。結局、参禅はしたが効果は上がらなかった。その理由の一つは禅と老荘を超克して古代の儒教を止揚し、それによってこれらを批判した宋明の新儒学に心をよせるようになっていたからである。

 学校から帰宅すると、すぐ二階に上がって専門の学問をするようにし、日曜日でも子の遊び相手もせずにひたすら机に向かった。家内の不興をかった。

周濂渓を慕う

 富山時代、主に『国学基本叢書』の『宋元学案』『明儒学案』、特に『明儒学案』を読み返して明代の儒学に親しんだが、やや隠逸の気風のある北宋の周濂渓の人柄と処世術に、益々心を動かされるようになっていた。伝記によると濂渓の部屋の前には草が茫々と生えていた。ある人が「なぜそれを刈り取らないのですか」といったところ、「わが意と一般(同じ)」といったという。濂渓は窓前の草を見て、わが心中にある天地の正意を看取したのであろう。

 濂渓は蓮を愛した。蓮は泥沼の中から中空の茎を真っ直ぐに上に出し、さざ波に洗われながら清浄の香りを放つ蓮花が好きであった。「世間の人は牡丹を愛し、陶淵明は菊を愛し、自分は蓮を愛する。牡丹は富貴の花であり、菊は隠者の花であり、蓮は君子の花である」といった。また、「人は無欲であれば心は静かになる。そうなれば行いは自然に正直公平になる」ともいった。また、処世術は巧より拙の方を貴んだ。彼のように拙を高く評価し、これを高尚なものに仕上げた思想家は少ない。そこには何故か、晋の陶淵明に相通ずるところがあるように思われる。

※①巧拙:上手下手の意
※②周濂渓(周敦頤)の号濂渓は廬山蓮花峰のふもとに構えた濂渓書堂に由来。
※③フィロソフィーはギリシャ語のフィロソフィア(知恵を愛する)から由来する。
明治新政府の要人、西周(にしあまね)は周濂渓の「士希賢」(士は賢をこいねがう)に倣い賢哲の明知を愛し希求する学と訳し、「哲学」と定めた。後に文部省はこの訳語を採用した。

西周は津和野藩(1829)生まれの藩医の子でオランダのライデン大学を卒業している。明治初期を代表する思想家で西洋学問の先駆者であり、明治新政府の近代軍制の整備に努める要人であった。哲学・科学関係の言葉は西が考案した訳語が多くある。

※②、③はコトバンクより引用・要約

 
蓮の花

​姫路市・仁寿山の近くにある蓮田の花

1.愛蓮の説 周濂渓.jpg

富山の風土

 住民の気質や物の考え方はその土地の風土と密接な関係があることを、四年間の富山生活で痛感した。富山は「一年の中で晴天は二十日ほどしかない」といわれるくらいであり、冬は殆ど毎日曇天で、ときには激しい吹雪に見舞われた。こういう土地柄であるから、生徒は忍耐強く沈静的であるが、一面、陰気で明朗さに欠けるところがないではなかった。当時、他の地方では殆ど見ない現象であったがこの地方の中学生はときどきストライキを起こした。春の頃、日本晴れの日に授業を中止して呉羽山に遠足させた。そうしないと、上級生が三々五々集まってストライキを起こすからであった。この辺の呼吸を弁(わきま)えていないと生徒指導はできない。

私の授業

 一年生には日本史、二年生に東洋史、一、二、三、四年生に修身を教えるのが私の仕事だった。一年生の「日本史の神話を教科書通りに歴史事実のように教えるのは間違いである」と思い、古代の歴史を考古学、民俗学的立場から教え、神話は民族の精神を述べたものとして教えた。唯物史観には賛成できなかった。歴史事実は民族精神と一体とするところに真の歴史学があると考えていたが、一年生に理解させるには無理であった。授業に疑問を持つ生徒がいて、小学校長をしていた父親に話したものがいたらしく、左翼思想家であると誤解を受けて、校長から注意を受けた。歴史は精神と事実の二つから理解するように重ねて説明した。私の東洋史の授業は生徒にとって難しかったようである。修身の授業は、特に下級生の場合、非常に困惑した。上級生には多少倫理学を述べることができるので、さして困惑を感じなかった。

 昭和十一年、二・二六事件が勃発。翌年、日支事変が勃発した。「いずれ自分も招集されるだろうから、あらかじめ覚悟しておかなければならない」と思った。

家族の病気

 神通中学校に赴任して、二か月後、長女が疫痢に罹患し入院した。一時は危篤状態に陥ったが家内の血を輸血して生命だけは助かった。しかし、病後がはかばかしくなく、看護婦の経験がある大家の老母の助言で、西洋芥子の行水をさせて腹部を温めてから腹部のガスがよく出るようになり、生命を取り留めた。

 その後、次女が生まれたが、自家中毒に罹って医者通いが絶えなかった。

 私の胃腸も富山に来てからだんだん悪くなり、いつも胃からガスが出通しであった。しかし、若かったせいか生徒と一緒にマラソンをする気力はあった。

 家内も次女を出産してから悪性の流感に罹患し肺を悪くし、微熱が出る様に

なった。絶対安静を家内に行ったが健康であった彼女は応じてくれず、病状は徐々に進行していった。

 私の胃腸病もだんだんひどくなり、家内ともども自滅するかもしれないと、思い、医師に相談した。医師は「気候のよい地に転任するより他ない」とのことであった。当時は日本国中に不景気の嵐が吹いていた。やっとのことで宮崎県の延岡中学に転任することができた。

祖母と父の死

 私が九大に入学した翌年、次兄は音楽教師として岡山市の南西にある女学校に、両親と祖母を連れて転任した。次兄には子供が二人いて、大家族を養って行かなければならなかったので家系は窮屈であったのかもしれない。父は次兄に肩身が狭い思いをして暮らしていたようである。父は飲みたい酒を飲まずに我慢していたらしい。次兄はしごく几帳面で、肉親に対してもそれを強いるところがあった。それが情の強さを感じさせるところであった。

 父が郷里に戻ったとき、村の人たちが同情して大いに酒を振舞ったらしく、禁酒しているところに大量の酒を飲んで、父は中風になった。祖母は私が富山に赴任した翌年、一言も喋らず他界した。父は老母を見送って一か月後他界した。

思い出の教え子

 私は数々の思い出を心に抱きながら富山を去った。昭和十三年の三月、教え子たちに見送られながら懐かしい富山を後にした。

 私と唯一深い因縁のある者がいた。それは元警察庁刑事局長、高松敬治君であった。彼は私が担任したクラスの生徒とではなかったが、私の東洋史の授業を聞いて心に感ずるところがあったらしく、たびたび私邸に来遊するようになった。私は彼が家庭のことで悩んでいる事を知った。私も同じ年頃に家庭の事情から心に悩みを持った経験があったので、彼の気持ちが身に染みて感じられた。

 高校に進学してから更に彼の悩みは深刻となり、彼に旅をさせて解決の糸口が見つかるかもしれないと考え、夏休暇を利用して延岡に来る様に勧めた。彼は喜んで延岡の私を訪問した。彼を高千穂峡や五ヶ瀬川や日向灘の海岸に案内しながら人生、社会の問題、学問の問題を話し合った。彼は延岡から郷里に帰るとき、四国の知人を訪問し、奈良に遊んで郷里に帰ったが、その時の感想を手紙に書いて寄こしたりした。彼の手紙によると、汽車が郷里に近づくにつれて胸のときめきを覚えたという。彼にとってはわが家は必ずしも楽しいところではなかったはずであったが、しばらくの間であってもそこを離れてみれば、家庭もまた懐かしく感じるのであった。そこで私は、彼への返事の中に、ドイツ語で、「母は古郷なり、古郷は母なり」と書いて送った。私は旅によって彼の気持ちが和むように望んだ。旅はうまくゆけば心の憂鬱を癒す最良の清涼剤であることを、私は信じて疑わなかったからである。

冬の立山連峰

​崇高で厳粛美を持つ冬の立山連峰

日本三大急流の一つ神通川

​日本三大急流の一つ神通川

富山の鱒寿司

富山の鱒寿司

6.中学教師時代 二

・旧制宮崎県立延岡中学校教諭時代

延岡中学

 私は家内と女児二人を連れて延岡中学に赴任したのは、昭和十三年四月だった。延岡駅には松本校長と国語科の春日・馬場両教諭が出迎えてくれた。四月の延岡はさすがに南国であって暖かかった。空は北京のように青く澄み渡り、空気は清らかだった。市内は五ヶ瀬川が流れ、川の傍らには城山があり、山頂には私が好きな有名な歌人、若山牧水の歌碑が建っている。牧水は延岡中学校の出身だった。延岡はまことに詩情豊かなところである。

 校長は高師出身のタイプで教職員の制服を海軍将校と同じ服装にさせた。挨拶も答礼も軍隊式にした。しかし、宮崎県庁の学務課の廊下で若い学務課長に深々と叩頭(こうとう)したのには、心中、些か面白くなかった。中学校長たる者はもっと毅然としてほしいと、いいたいぐらいだった。

 延岡市は田舎の小都市であるが、中学校には魅力のある教師がいた。私と一緒に赴任した高森氏は詩人肌の人で面白かった。「人はみな海は青いというが、海は赤いといってもよいではないか」といった風の人であった。塩谷君も単なる型はまりの教師ではなく、高森氏とは意気投合の間柄で、後に女子短期大学に勤務し学長になった。もう一人、私の心に強い印象を遺した岩切先生がおられた。先生は地方の名家の出身で早稲田大学の哲学科を出て郷里の延岡中学に勤務され、英語を教えておられた。先生は温厚篤実で人情が厚く大の読書家で思索家でもあったが、また大の酒好きであった。先生の目は優しく奥に深い心を湛えていて哲人らしい風貌の持ち主であった。岩切先生に料亭で馳走になった。先生は芸者の三味線を聴きながら、ちびりちびりと盃を口に運んでおられたが、突然しんみりとした口調で「お前も俺と同じだね。お前は芸を売って暮らしているし、俺も知識を売って暮らしているのだからね」といわれた。先生の心の寂しさを垣間見た感じがした。先生のこの言葉は私に強烈な印象を与えた。岩切先生は私にとっては、生涯忘れることができない一人である。一年後に京大文学部国史科出身の林氏が赴任してきた。京大の学風を持つ彼とは私の史観と一致していたのでよく歴史の話をした。延岡中学生がよい歴史の先生に学べたことを、心ひそかに喜んでいた。

岡田先生と旧制延岡中学の先生達

召集令状

 温暖な延岡に転任してきたが、家内の病状はよくならず、時々微熱を出した。養生に専念する様に注意するが、専念する風がなかった。私の胃腸は少しよくなったが、相変わらず顔色は青く痩せこけていた。

 この頃、日中事変はだんだん深刻になりつつあった。昭和十四年、ついに招集令状が下り、郷里の姫路聯隊に入隊することになった。福岡で下車して、恩師の楠本正継先生に別れの挨拶をした。その時に先生から次のような餞けの言葉を拝受した。「運命というものは、ちょうど頭上に置かれた石のようなものだ。それから逃れようとすればするほど、石はますます大きくなって重く頭上にのしかかってくる」これは名言である。宿命はこれに随循することによってのみ逃れることができる。これは、いわば荘子の因循の思想である。私は列車の中でひたすら『荘子』を読んで、わが心のより処所を求めた。しかし、姫路駅に着く頃にはある程度の悟りが得られたように感じられた。

 入隊するとすぐ身体検査が始まった。私は以前、医師から「肺尖が悪い」といわれたことがあったが、そのせいか、即日帰郷を命じられた。生徒諸君には申し訳ない私議となったが、私は在住僅か二年にして延岡を去らなければならなくなった。私の生涯の中で延岡時代は最も詩情に富む時代であった。

延岡市の街並みと空と海

​延岡市の街並みと空と海

延岡城の石垣

​延岡城の石垣

若山牧水-1.jpg

​若山牧水は延岡中学校の出身
城山山頂には岡田先生が好きな若山牧水の歌碑が建っている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

・福岡に赴任⑶旧制福岡県立中学修猷館時代

福岡に赴任

 私は念願が叶い、福岡市に帰って再び恩師に親炙(しんしゃ)することができるようになった。私は昭和十五年四月、福岡市の中学修猷館に赴任することになった。

 当時の中学修猷館の館長は隈部先生で、威風堂々とした体躯の持ち主で、如何にも天下の修猷館の館長にふさわしい風貌の持ち主であった。

 時世もますます厳しくなり、中学生の軍事訓練も盛んで、学校の配属将校の力も日一日と強くなりつつあった。教師も国民服を着、ゲートルを巻いて登校した。ときどき学徒動員で生徒を引率して農家の農作業の手伝いに行ったものである。

 修猷館の気風は蛮カラの方で、荒波の玄界灘に臨み、やや裏日本的気候の地に育ったせいか、生徒の気象も荒っぽいところはあるが、富山の中学生と違って、礼儀正しく、教師と生徒、上級生と下級生のけじめはきちっとしていた。

 国語科の授業は他の中学とだいぶん違っていた。教科書は同じであるが、教える教師はクラス毎に異なっており、試験は各教師が一題ずつ出し合って、学年一斉にこれを行うから、教師のレベルの差によってクラスの生徒の成績に格差が生じる畏れがあった。新進気鋭の教師であっても、授業は勢い訓詁的にならざるを得なかった。このような授業は上級学校進学には有利かもしれないが、生徒の教養向上という点では不備は免れない。ある学科の教師が休講すれば、他の授業を繰り上げて生徒を早く帰宅させ、教師も自分の授業が終われば帰宅してよかった。このために生徒も自宅で勉学に精を出すこともでき、教師もまた研究に没頭することができた。

 一般に都会の教師には田舎の教師ほど詩情に富む者は少ない。しかし、都会には都会に相応しい情趣のある教師もいた。私が就任した後から二人の国語科の教師が赴任してきた。一人は私より先輩、一人は私より後輩であった。三人で炒豆会というものを作って月一回会食しながら雑話をするのが目的だった。その雑話も自然に学問に及んだので話題も結構中身のあるものになった。

 生徒の中にも思い出が残る者が多くいた。特に私宅によく来遊した生徒は印象が深い。

福井君は東大に進学したが、やがて郷里に帰って九大の中国哲学の専攻生となった。吉岡君は東大を出て毎日新聞社に勤務した。永末君は作文で私を驚かせ、後に福岡県田川市の図書館長になった。彼らは私の担任ではなかったが、私の担任の生徒で二年生の時、吉田君は漢詩を作って私を驚かせた。流暢な英語で同僚を驚かせたアメリカ帰りの瀧口君など列挙すればきりがない。恩師、楠本正継先生の令息の業(はじめ)君、韶(しょう)君も私の教え子であった。恩師は我が子に厳しかったのか、文科系の学問を専攻するには余程優秀でないと駄目だと考えられておられたようである。結局、二人とも九大の工学部卒業後、日立の研究所に勤務することになった。

恩師の学風の変化

 福岡に帰って再び恩師の謦咳(けいがい)に接することができるようになったが、そのとき恩師の学風が変わったことに気づいた。恩師が宋明思想の研究には体認が重要であるということを悟られたためではないかと思う。

 恩師の楠本正継先生から宋明学関係の貴重な書籍を拝借して読んだ。当時は時世が時世でもあり、中学校に勤務していたので、本格的な研究をするまでに至らなかったが、日本では見ることができない王陽明門下の貴重な資料を読むことができた。

子年譜

 私は恩師に読書会のお願いをし、快く承諾を頂いて、毎日曜日の午後、袴を着いてご自宅を訪問して教えを受けることにした。テキストは王白田の『朱子年譜考異』であった。私がこれを読んだあとで、誤読があれば訂正していただき、それから朱子学に関する講話を聴いた。予習は大変苦しかった。なぜならば、年譜の中には『朱子文集』や『朱子語類』の文集が多く引用されているからである。この講読会には、当時、九大の倫理学の助手をしていた永野君も参加して聴講した。

 研究会の時には朱子学だけではなく学問全般の話にも及んだ。私は先生の教言をノートに書き留めた。その頃の私は自らゲーテに対するエッケルマンをもって任じていたからである。一般に東洋の偉大な思想家については、「その人の論説よりも、むしろ語録に神髄が表れている」といっても過言ではない。恩師の語録の草稿は、残念なことに空襲で焼失してしまった。これがあれば。若き日の恩師の学風をもっと知ることができたはずである。

​※エッケルマン(Jhhann Peter Eckermann)ドイツの文筆家。ゲーテ晩年の秘書。
コトバンクより引用

孫子を読む

 日支事変もはかばかしく事が運ばず、中国大陸に進行した日本軍もだんだん奥地に戦線を拡大して、事態はいつ落着するのか見通しが立たなくなった。このまま行けば大変なことになると思った。日本軍の戦争のやり方がどうも孫子の兵法に背いていると思ったので、もう一度『孫子』を読み返し、試みに語訳などを作ってみたりなどした。そのとき「孫子の形而上的考察-孫子の兵法」と題する小論を書いた。これは恩師の紹介で『時潮』という雑誌に掲載することになった。

 戦後、生産性本部九州支部で孫子の講読をしたことがあって、聴講者の中に将軍がおられて、日本の軍人はなぜあんな戦争をしたのか質問をしたところ、「日本の将校は孫子の兵法よりも、ドイツのクラウゼンビッツの戦争論を研究していた」という答えであった。私は古今東西の兵法書の中で、孫子の兵法ほど秀れたものはないと思っている。それは、余分なことを論ぜず。徹底的に戦争の原理を追求したものであるからで、対立ないし、闘争の原理を述べたものとしては、これほど深いものはなく、それだけに孫子には秀れた世界観がある。

孫子新解の書籍

岡田武彦 著『孫子新解』
​左は初版本で日経BP社、右は岡田武彦全集で明徳出版社

ヘリゲルの弓術論

 昭和十五年か十六年頃、恩師が「この本は面白い」といって、小冊子を私に見せられたことがある。それはオイゲン・ヘリゲルの『弓術の話』の日本語訳であった。ヘリゲルは弓道の根本を技術の錬磨に求めず、禅の無心の心、無我の心に求めたが、私自身はそれを禅の心に求めるには反対で、むしろ宋明理学の心に求めるべきものであると考えている。ともあれヘリゲルの考え方は私の学風と密接な関係があるので少しヘリゲルの弓術論を紹介しておこう。

 ヘリゲルはドイツ人でリッケルトの門人であって、元々、合理主義で哲学者であり、一面キリスト教神秘主義者のエックハルト・ベーメなどの研究家でもあった。たまたまドイツに留学にきていた仙台の第二高等学校(旧制)のドイツ語の教師に日本精神を研究したいと相談をしたところ、「日本に来て弓道をやればよい」と日本行きを勧めたという。

 やがて彼は哲学、ギリシャ語、ラテン語の教師として東北大に来ることになった。ヘルゲルは五か国語に通ずる学者であったが、熱心に東北大の学生を指導したらしい。来日したヘルゲルは阿波師範のもとで弓道を習い、夫人は花道を習った。初心者は藁ずとに向かって矢を射る練習をするのであるが、(中略)阿波師範とヘリゲルとのやり取りの中から腕の力から丹田呼吸、技術の錬磨から無心の心へと悟りを開くのである。ヘリゲルはそこで始めて、弓道の根本は技であるのではなく心、すなわち無心の心にあることを悟り、帰国後、禅を本にし、キリスト教の神秘主義の言葉を雑えて日本の弓道を解説した書物を著し、これをヨーロッパに普及させた。ヘリゲルは弓道を学んで日本の神秘主義の神髄を悟ったのである。

弓道
弓道の的

恩師と東大

 ある日、恩師は私に、「東大から帰ってこないかといってきた」といわれた。私は「九大生には高校出身者が少なく、東大生はすべて高校出身者ばかりであるから、ぜひ東大にいってほしい」といって嘆願した。私が恩師に東大行きをお勧めしたのは、一つは「恩師には西洋哲学者を惹きつけるほどの学識があるから、東大で講義されるようになれば、その教え子の中から新しい哲学を創造する者がでてくるのではないか」と考えたからである。恩師もまた思うところがあったのか決意をされ、東大の要請に応じて学位論文を提出し、博士号を取得された。しかし、恩師は東大には移られなかった。「東大に行けば俸給が二桁下がるということである。そういう権威主義のところには行かぬ」といって、頑として拒否をされたのである。恩師は定年まで九大で過ごされたからこそ、学問が深潜緻密になって名著を遺すことができたのである。

 福岡に赴任 修猷館

7.戦中・戦後時代

わが家の異変

 日中事変がだんだん泥沼にはまり込んで行くのと時を同じくして、家内の肺結核も徐々に悪化していった。
 その頃、私は離婚した妹の紀子(としこ)と母を手元に呼び寄せていた。妹は私より六歳年下で、子供の頃はよく喧嘩したが兄思いで、きょうだいの中では私と最も仲がよかった。妹は郷里で幼稚園の保母をして母と一緒に暮らしていた。妹は結婚生活が不幸であったので、彼女を離婚させて福岡に呼び寄せた。母も次兄が韓国の京城の女学校に転勤することになったので次兄とともに渡韓する事になっていたが、母が老いて異国の地に行くのを不憫に思った私は、自分の手元に呼び寄せる事にした。しかし、結果的に二人に家内の看病をさせることになってしまった。
 当時、私は百円余りの俸給をもらっていたが、その三分の一を薬代に支払っていたので、母と妹と女児二人を抱えた生活は決して楽ではなかった。
家内はついに結核性腹膜炎を併発して容態が悪化した。苦しがるので、医師の指図通りに麻酔薬を注射したところ、昏々と眠り続けた。その夜、隣室に寝ていた私は呼び鈴の音で目が覚めた。急いで病室に入ってみると、家内はすでに胸の上に両手を合掌して眼を瞑っていたが、やがて永遠の眠りについた。呼び鈴は枕辺にあったとはいえ、手の届かないところにあったのに、どのようにして彼女がそれを押したのか不思議でならなかった。彼女の霊魂がそうしたのかもしれない。
思えば長い間の闘病生活であったが、家内は気性の強い方であったから、病気のことで私に苦情や苦痛を訴える事はなかった。二人の女児には心残りがあったであろうが、臨終のときには、彼女の姉妹に別れを告げて静かにこの世を去った。ときに昭和十六年四月二十二日であった。
 妹は恩師の世話で九大の法学部の事務員になったが、恩師より嘱望されてアメリカ帰りの恩師の従兄、浜本静修(しずのぶ)と結婚することになった。    
家内の死後、女児二人の世話を老母に託せざるを得なくなった。こころの定まらぬまま、恩師ご夫妻の仲介によって、今の妻と結婚することになった。
私が余り健康でない上に、彼女もまた長年肺結核を患った経歴の持ち主であったために、いつもお互い健康に注意しなければならない羽目になった。因縁と言えば因縁である。女児二人と母のいるところに嫁いで来たのであるから、彼女も神経を使ったようである。まもなく長男、靖彦が生まれた。
 私もときどき病臥することがあった。微熱が出るとしごく気分が悪いので読書もしない。そういうときは、庭の芭蕉の葉の縁がガラス窓を通して廊下に映るのや、それが明かり障子に蔭を落としているのをじっと凝視しては思いに耽ったものである。そのときは、よく過ぎしわが人生を想起しては、追体験して、「この追体験にこそ人生がある。健康な人はただ日々、心身を駆使するだけで追体験する機会がない。こういう人々に果たして人生があるのだろうか」と思った、また、「天は万人に平等に恵みを与えてくれている。身体の虚弱の人にはそれにふさわしい恵みがあり、不幸な人にはそれにふさわしい恵みがある。要は、それを自覚するかしないかにある」と思ったりしたものである。

長崎へ転任

 家庭事情から環境を変える方がよいと思って、私は福岡から離れる決意をした。幸い姫路中、姫路高同窓の吉田豊信君が福岡県秘書課長となって赴任して来たので、彼の斡旋で創設の長崎師範専門学校に赴任することになった。それは昭和十八年四月のことである。
 その頃になると太平洋戦争もだんだん日本に不利となって日本敗戦の兆候が明らかになってきた。学校でも軍事訓練が盛んに行われた。また、生徒を軍事工場に引率することも多くなった。
 昭和十九年になると空襲警報が鳴り響き、そのたびに私たち家族は防空頭巾を被って防空壕に避難した。ときどきB二十九爆撃機が飛行機雲を曳きながら大村の海軍飛行場を爆撃した。学徒も動員され戦地に向かうようになった。壮行会のときに、教職員一同、あの荘重な信時潔(のぶとききよし)作曲の『海ゆかば』の歌を、万感の思いを込めて高唱して彼らを見送ったときのことは、忘れようとしても忘れることはできない。

向井去来

 長崎では、その他に忘れることのできない思い出がある。昭和十九年の二月、その日は散歩によい小春日和であった。私は蛍茶屋から氷見峠を登ってニ十分ほど歩いて頂上に達し、そこにあるトンネルを通り抜けた。すると眼界が一挙に開けた。トンネルを抜けて、しばらく下り坂を歩いていたところ、路傍の小高いところに、一本の梅の木が数輪白梅を匂わせているのが眼にとまった。そこにいってみると、木の枝の蔭に石碑があった。よく見ると、
 『君が手も見ゆるなるべしかれすすき』
と刻してあった。眼を峠の下の方に移すと枯れ薄が靡く野原が展開していた。去来が故郷の人々に見送られて、ここで別れを告げて一人で坂を下って行ったとき、ふと顧みると、枯れ薄の中に別れを惜しむ見送りの人々の手が見えたのでそのときの感慨を述べたものであろう。

※向井 去来(むかい きょらい、慶安4年(1651年)- 宝永元年9月10日 (1704年10月8日)は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。本名は兼時、 幼名は慶千代、字は元淵、通称は喜平次・平次郎、別号に義焉子・落柿舎がある。 

写真『応々といへど敲くや雪の門』 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

向井去来・俳諧師

熊本に転任

​ 私は長崎に来るとき、蔵書は福岡の家内の家に保管してもらい、『朱子語類』 『朱子文集』『宋元学案』『明儒学案』及び『節宇遺稿』だけを持参した。そのためにこの五部の書物だけは幸いに空襲から免れた。
 長崎でも私は勉学に励んだが、空襲警報が鳴り響く情勢下では勉学どころではなかった。これなら思い切って軍の学校に勤務した方がましだと考え、昭和二十年一月、熊本幼年学校に転任した。時世が時世だけに、教室での授業は余り行われなかったが、軍の学校だけあって授業はしごくやりやすかった。熊本も他市と同じように夜の空襲を受け市街は炎上したが、幸い私の家は災害を免れた。
 広島に原爆が投下されたことはいち早く報らされたが、日本でもこういう爆弾の研究をしているということは仄聞(そくぶん)していたが、アメリカに一歩先んじられたのであろう。
 戦争も末期になったある日、教室で授業中、突然、空襲警報が鳴った。グラマンが山あいを縫うて侵入してきて、学校周辺の村を爆撃したのである。生徒を校庭内のタコツボに避難させ、私自身その後ろから走って避難しようとしたところ、突然、グラマンが頭上に見えたので、急いで地に伏せたとたん銃撃された。幸い弾は足許を掠めただけで命拾いした。
 長崎に原爆が投下されたとき、私はちょうど校庭から西の方の空を見渡していたが、突然、鈍い音が西の方から聞こえたかと思うと、きのこ雲が西方の空に拡がるのが見えた。私が長崎に勤務していたらおそらく被爆していたに相違あるまい。これも運命である。
 昭和二十年八月十五日、ラジオの前で終戦の玉音を聞いたときは、泣けて泣けて仕方なかった。

グラマンF6F・艦上戦闘機ヘルキャット

飛行するアメリカ海軍のグラマンF6F-3(艦上戦闘機ヘルキャット)
(第36戦闘飛行隊所属、1943年撮影。)
 岡田先生は米国海軍の艦上戦闘機グラマンF6F
に機銃掃射をされたと推測します。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

広島の平和記念公園・原爆の子の像

広島の平和祈念公園・原爆の子の像

広島原爆ドーム

広島の原爆ドーム
1945年8月15日8時15分この上空約600mで原子爆弾が爆発し、約14万人、当時広島の人口の33%の方が亡くなられた。

長崎の平和記念像

​長崎の平和記念像
​1945年8月9日11時2分この上空約500mで原子爆弾が爆発し、約7.4万人、当時長崎市の人口の31%の方が亡くなられた。上空を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、軽く閉ざした目は、戦争犠牲者の冥福を祈っている姿を表している。

名 医

 終戦後の生活は逼迫していて、日本の全国民は飢餓状態であった。当時の修猷館長、大内覚之助先生から「もう一度修猷館に帰ってこないか」と誘いを受けて、ひと先ず、二十一年四月修猷館に単身赴任することになった。それより一年後、家族と一緒に、今の大野城市白木原にある家内の姉の借家に住むことができるようになった。食料不足のために畑で慣れない野菜作りをした。家内も石鹸売りをして生活費を補った。
 ある日、突然、熊本で生まれた次男、修(おさむ)が疫痢で急逝した。当時食料状態の悪化で幼児の体力が衰えていたこともその原因の一つであった。近所の医師に応急の処置をしてもらい、私も医師も最初の処置が功を奏したように感じて安心したのが悪く、ついに死に至らしめてしまった。昭和二十三年六月二十五日のことであった。「ポンポンが痛い」といった子供の声は、生涯、忘れようとしても忘れることができない。
 一週間後、長男の靖彦に疫痢が伝染した。今度は疫痢の神様といわれた元の九大助教授で、のちに久留米医大の教授になられた原実先生の診断を仰いだ。すると、必ず治るといわれ、回復の経過までも予言されたが、まったくその通りになって子供は生命を取り留めた。先生の名診察ぶりにはその後も驚嘆させられることがよくあった。病気は名医に診せることに越したことはない。これは芸術も学問も同じで、世界第一等の師につくことがなりよりも大切であろう。私も第一等の師に学ぶことができたことは人生における最大の幸福であった。
 次男の死亡で家内は精神的に大きなショックを受けた。そのために家庭内もいろいろなことがあったが、修猷生がよく遊びに来るし、私も家庭で研究会をひらくなどしたので二人にとっては、それだけがせめてもの慰めであった。

中国文学

 私の九大生の頃は中国文学専門の教授がおられなかったので、教養不足を感じていた。高校、大学時代は、文学ものはもっぱら国文学関係を読んでいて、中国の文学作品はそれほど熱心に読んだことがなかった。
 ただ漢詩については相当興味があり、その中で陶淵明には深く心を寄せていた。そのために陶淵明の伝記と詩についてのノートを作ったことがある。晩年、長崎の活水女子大で講義した場合でも、陶淵明の講義は欠かしたことがない。世の陶淵明論者を見ると、私にはどうも淵明の思想に対する理解が十分でない様に思われるので、いつかはこの面から陶淵明論を書いてみようと思ったこともある。
 私は淵明の「心遠」の二字をよく揮毫したものである。神通中学出身の高松敬冶君が、確か警察庁の刑事課長をしていたときではなかったかと思うが、庁内のことで多少厭世的になったらしく、彼はある日、淵明の「心遠」を慕う旨の便りを寄こした。私は彼がこの二字に隠遁的境地を託しているのが気になった。そこで宋の胡文定の「心遠説」を紹介して彼を激励した。


  或は古人を尚有とし、
  或は志天下にあり、
  或は慮
り後世に及び、
  或は人の知るを求めずして、
  天の知るを求む。
  皆いわゆる心遠なり。


 私の住んでいた白木原の近くに、九大中国文学の教授、目加田先生が住んでおられたので、私はよく先生のお宅を訪問し、先生もまた拙宅を訪問され、ともによく散歩した。先生は文学性が豊かで、中国文学ばかりでなく日本の文学や芸術にも造詣が深かった。日本に中国文学者は多いが、豊かな文学的才能に恵まれた学者はごく稀である。私は先生に接してこの面でどれほど啓発されたか分からない。 ※慮(おもんばか)り

高校新聞発行

 日本では、敗戦を境としてアメリカの民主主義が喧伝せられ、そのために学校の気風も大きく変化した。その結果、修猷館の生徒も個人の主体的活動を尊重するようになったが、一般的には文学的思考を持つ者が多くなった。当時、私は余り健康な方ではなかったので、校友会もやや虚弱体質の生徒たちのグループの指導にあてられた。
 ある日、彼らの中の有志が、修猷館新聞を発行したいと申し出てきた。その意気込みたるは壮といわねばならぬ。最初は私的にガリバン刷りで発行していたが、やがて新聞部が正式に校友会の部に認められるようになって、改めて新聞を発行することとなり、私が初代の新聞部長になった。すべてズブの素人がするのであるから大変な苦労を伴った。GHQの許可や新聞社の専門家の指導を仰がなければならなかった。資材の購入、印刷、販売などは生徒が一手に引き受けて行った。私は彼らの目まぐるしい活躍に舌をまいた。修猷館新聞は生徒が発行した新聞としては九州では初めてであり、関西以西では第二番目であった。

福岡県立修猷館高等学校

福岡県立修猷館高等学校 校舎南門側

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

技と心

 戦後は食糧事情が逼迫していたために人々は食生活に追い廻されていた。だから文献を漁る研究などできるような時世ではなかった。時代風潮もまるで百八十度転換したように大変化をきたしたので、若い人々の人生観、社会観も揺れ動いていた。その中で私は、ヘリゲルの『弓術の話』によって教えられた体認の道を探るために、先ず日本の武道芸術の精神を研究することにした。そこで、柔剣道の書や茶道、能楽に関する文献を読み漁り、そして、中国の『荘子』『列子』 の中に出てくる名人芸に関する寓話を読んで。「技と心」と題する論文を書いた。この論文は九大文学部発行の機関紙『哲学年報』に発表したが、この中で私は超越思想と芸術の関係、技術と精神との関係を論じた。この論文はその後書いた多くの論文の中でも最も独創的であったと思う。
 この作業を通じて私はますます体認の学の重要性を痛感する様になった。そして、そこに私の少年の頃からの悩みを解決する関鍵があるように思われてきたのである。

8.九州大学時代

読書の会

 戦後の日本の教育制度で私が最も遺憾に思うことは、アメリカのGHQの命令で教育制度改革が行われ、旧制高等学校が廃止されて、新制大学が創設されたことである。
 新制大学は昭和二十四年に発足したが、私も恩師の尽力で九大の新制大学の教養学部に勤務することになった。ようやく念願の研究生活に入ることができた。体認の学を信ずる私にとっては、研究生活の点からいえば、余り恵まれなかったが、その当時の苦しい生活体験は決して不利ではなく、却って有利に働いたのではないかと思う。
 私は相変わらず大野城市に住んでいたが、ときどき学生が来遊するので心は必ずしも索漠たるものではなかった。田坂君とカントの『第二批判』を読んだのもこのときである。また、九大の卒業生や学生ら数人と『論語注疏』の読書会を作り、私宅の二階でこれを一緒に読んだこともある。炊事するときの煙が畳の隙間から上がってくる中での読書会は思い出深いものがある。
 次男、修が急逝したので家庭内の空気は重ぐるしく、そのためにいろいろなことが起こったが、私自身、精神的に苦しくなると、いつも二階に上がって机に向かって読書したものである。私にとってはこれが心を慰やす最良の方法であった。また、健康の問題もあって、何か悩み事や思索の行き詰まりがあると、よく臥思したものである。私の人生は積極的な社会活動の中にあるというよりも、むしろ臥思にあったといっても過言ではあるまい。

高眠斎

 昭和二十八年の真夏、私たち一家は、大野城市から福岡市大橋の県営分譲住宅に引っ越してきた。家の籬(まがき)に植えられた木以外は一本も木がなかった。そこで、私は裏山から柏や樟の苗をとってきては家の周囲に植えて庭作りに励んだ。暑さよけに、中哲専攻の熊本・佐藤・福田の三君に手伝ってもらって藤棚を造った。
 住宅は六人家族の住宅としては手狭であった。やがて家内の工面で六畳の離れを造りそれを書斎にした。私の希望で茶室風に造った。些か「明窓浄机、香を焚いて書を読むといった古の読書人気取りになり、この部屋で香を焚き抹茶を飲んで読書した。」
 生活は相変わらず苦しかった。洋服も新調できず、ときどき質屋に行って古物を購入してこれを着た。私が初めて洋服を新調したのはそれより十数年後、ニューヨークに行くときだった。このように貧乏生活はしていても、心の中では淵明の「心遠」の二字が往来していた。ある日、北宋の哲人で詩人である邵康節
(しょうこうせつ)の詩集『伊川撃壌集(いせんげきじょうしゅう)』を読んでいたところ、
 貧苦と雖
(いえど)も高眠に碍(さまた)げ無し
という句を見出しわが書斎を「高眠斎
こうみんさい)」と命名し、それを雅号にも用いた。私は恩師からよく書画骨董を拝受したが、宛名は必ず「高眠斎主人」となっていた。
その後、私は「唯是庵
(ゆいぜあん)」「斯人舎(しじんしゃ)」の雅号を用いるようになったが、それは、そのときそのときの私の心境を表わしたものである。

書斎「高眠齋」での岡田先生 後方の額は楠本正継先生書-1.jpg

​高眠斎の岡田先生

明末の儒学

 九大に入って、初めて研究に専念することができるようになった。私は自分の思想上の課題を解決するために体認の学を志向していたので、宋明朱子学派もさることながら、特に体認を主とする陸王学派の研究に力を入れた。しかし最も力を注いだのは明末の儒学の研究であった。幸いにもこれらの研究資料は、主として恩師のお宅や九大の研究室に所蔵されていたので、思う存分研究に没頭することができた。
 私がなぜ明末の儒学に強い関心を寄せたのか。それは当時の朱子学者や王陽明学者が政治社会の腐敗、国家の危殆に瀕する中にあって、深刻な体認の学を修めたことを知ったからである。
 明末の儒学は陽明学派、新朱子学派、及び新陽明学派に分かれるが、陽明学派には左派(良知現成派)、右派(良知帰寂派)、正統派(良知修証派)の三派がある。左派は、「良知は何人にも完全に備わっているから即座にそれを悟り、それを信ずるようにせよ」といって良知の現成を唱えた。右派は良知を本体と作用に分け「本体は静寂なものであるから、心を静寂にして本体を立てるならば、自然に偉大な作用が生ずるようになる」といって良知の帰寂を唱えた。正統派は「本体は修行によって始めて証せられるものである」といって良知の修証を唱えた。特に陽明思想の左派の思想が明末を風靡したが、同時にまた、著しい弊害を生じた。
これを除いて明末の社会を立て直し、国家の履滅を救わんとして立ち上がったのが新朱子学派である。その中には陽明の講友、湛甘泉
(たんかんせん)の一派の他に、堕落した政治家と争って悲壮な死を遂げた東林学者がおり、また陽明学を修正し、宋明の学を集大成して、国土の滅亡ととともに自らわが命を絶った新陽明学者、劉念台がいた。私は東林学者、高忠憲の『静坐論』と、劉念台の『誠意論』に最も心を惹かれたが、別けても彼らの悲壮な殉節は私の心を痛く打った。
高忠憲は非東林党の不当な弾圧に抗して真冬の最中にわが庭中の池に投水自殺したが、そのとき水中に直立し、一方の手は岸にかけ、一方の手は胸にあてて従容として死んでいった。遺書の中には、
「心は太虚と同じで、本来、生死はない」
と記してあった。
劉念台もまた、国土の滅亡に殉じてわが生命を絶った。臨終に際し、
胸中、万斛
(ばんこく)の泪あり。半ばこれを二親に灑(そそ)ぎ、半ばこれを君上に灑ぐ
と述べ、門人が、先生の苦しみは如何ばかりでしょう、というと
「孤忠耿耿
(こうちゅうこうこう)」 
といった。
私は念台の行状を読んでここまで至ったとき、滂咜
(ぼうだ)として涙の流れ落ちるのを禁じえなかった。
深刻な体験を本にした陽明門下や、東林学派の顧憲成・高忠憲、及び劉念台の思想や学徳は幕末維新の朱子学者、陽明学者に大きな影響を及ぼした。
 昭和三十年頃、恩師より学位論文を提出するようにいわれたので、私は『明末の儒教』と題する論文を書いて提出した。私の著書『王陽明と明末の儒学』はこれを梓に上せたものである。 
※孤忠耿耿(こちゅうこうこう): 孤独な忠誠心
※滂咜:とめどなく流れ出る
※梓(し)に上(のぼ)せた:書物を出版する

劉念台全集

書画骨董

 私は九大に務めるようになってから、週に一回か二回、恩師の宅を訪問し、時には昼食だけではなく夕食さえもご馳走になることがあった。温潤良玉のような先生に接すると、一時でも多く先生の側にいたい気持ちにかられたからである。そのためご夫人には大変ご迷惑をおかけしたことと思う。町育ちの妻は私の田舎っぺの気のきかぬ、こういう欠点をいつも指摘して私に忠告をした。
 晩年になるにつれて恩師は骨董の話をされることが多くなり、そのために所蔵の骨董をよく見せていただいたものである。私も先生のお供をしてよく骨董店巡りをした。こういうことから私は宋明時代の骨董に関心を持つようになったが、それによって、文学はいうまでもないが、その時代の書画や陶磁がその時代の精神と不離の関係にあることを知るようになった。私は高価なものを買う資力がないからなるべく下手物を買い、また掘り出し物を見つけるようにした。ときには贋物も掴むがそうでない場合もある。
 日本の古い陶器や中国の陶磁器を見ているうちに、私はそれを通じて。日中の思想文化、民族性の相違に思いを致すようになった。
※温潤良玉
(おんじゅんりょうぎょく):温かく優しい性格

静坐説

 私は最初、陸王学を好んだけれども、やがて、
「それだけでは、ややもすれば主観に陥って客観性を失う惧れなしとしない。だから客観性を強調する朱子学を受容しなければ偏向を免れない」
と考えるようになった。
 西洋学に対する朱子学の本領は、その奥にある東洋的なところにあるのではないかと思う。こういう点を深固にしたものは、陸王学をした超克した明末の新朱子学である。特に高忠憲の学はこの点で注目すべきものである。
 忠憲の学問の眼目は静坐論にある。それは西洋的な理性中心の思想を受容して、しかも、その根底となっている人間の主体性を端的に樹立し、培養する道を示したものである。そもそも人間の主体性は宇宙の根源としての実在であるべきである。これを端的に樹立するには静坐より他に道はない。私はこのように考えた。そのために静坐に注目したのである。
 私が静坐に注目するようになったのは。戦後の大学生や知識人を見て、議論は華やかであっても主体性が欠如しているのを痛感したからである。
 ただいえることは、真知という点からいえば西洋学は間接的であり、東洋学は直接的である。だから、この点では前者は末、後者は本ということができよう。また、静は動の本となり得るが、動は静の本とはなり得ない。だから人間の行動、心情の根源は静にあるというべきである。したがって静処で人間の本性を養うことが何よりも重要である。これは私だけの考えではなく
「宋明の儒者たちが老荘や禅などを通過して得た考え方に従ったものである」
といってもよい。

万物一体の仁

 あるとき私は、当時高校生であった長男、靖彦に次のようなことをいって聞かせたことがある。
「人間はみな自分一人では生きて行くことはできない。みんなの協力のお蔭で暮らして行けるし、生きて行けるのである。だから自分も人に協力するように心がけねばならない。といっても、取り立てていうような大げさなことをする必要はない。自分の環境や才能に応じて、自分のやれることを一生懸命やることが、みなに対する協力となるのであり、恩返しになるのである」。
 ここに述べたことは、実は王陽明の「万物一体の仁」に他ならない。「万物一体の仁」ということは宋代から述べられたが、これを集大成したのが王陽明である。それは孔子の仁思想の最も円熟したものであり、儒教道徳の最高の境地を述べたものである。
 「静坐とは、実はこのような仁の体認を求める道に他ならない」といって過言ではない。
 私が読んだ小説の中で強い印象を受けたものがある。山本周五郎の小説がその一つである。周五郎の『新潮期』の中に出てくる次の物語は、まさに「万物一体の仁」を述べた他にならない。
 芸者梅八は、自分は自分の芸だけを磨いておればよい。世の中がどうなろうと自分には関係がないという考えを持っていたが、彼女はあることからこれを反省し、自分も世の中のことを考え直すようにしなければいけないと思うようになった。世の中というものは、人間が集まってできている。どんな生業をしようとも、世間と関わりなしに自分一人で生きていられるものではない。梅八は今沁み入るようにそのことを思った。
 世の中に生きて、目に見えない多くの人々の恩恵を受けるからには、自分も世の中に対して、何か返さなければならないだろう。自分はそれをしたであろうか。

楠本端山

 昭和二十九年のある日、恩師は、『楠本端山先生遺書』を私に示して、
「これは私の祖父
(じい)のものである。読んでみなさい」といわれた。私は早速それを一読して驚嘆し、それによって、「道統我にあり」との自覚を持つとともに、いよいよ静坐をもって学の宗旨とするに至った。
 端山は平戸藩の藩儒で、藩命により江戸に上って佐藤一斎に師事したが、実際はその高弟、吉村秋陽と大橋訥庵の講義を聴いて痛く感銘し、それより二人の教えを受けたが、特に訥庵
(とつあん)の影響が大きかった。端山は
「この人に遇っていなかったら、一生を空しく過ごしたであろう」というほど訥庵に傾倒した。しかし、その後、秋陽や訥庵の行動に疑わしいところがあるのを感じたので、晩年には交わりも疎遠となった。
 端山は四人兄弟で、端山と次の弟、碩水も有名である。端山も碩水を通じて蒙斎に私淑し、そこに流れる崎門の三宅尚斎派の学風を継承した。端山は、身心の修行とする朱子学を説いた崎門学を身に付けるようになった。端山は静坐によって仁を体認し、それを詩文、政治に表した。
 碩水は固く崎門の名分論を信じ、そのために大名に仕えることを潔しよしとせず、若いときに致仕して、郷里の針尾島に隠退して講学と子弟の教授に務めたが、端山は政治の要路に立ち、幕末維新の平戸藩政に大功を立てた。
 『端山遺書』を読んで感激した私は端山の学術思想の研究を始めた。恩師が「九州儒学思想」の研究を始められたので、私たちもこれに参加し、私は特に請うて端山の研究を行った。その成果は別冊として刊行された、これを一読された、当時の京都大学の西谷啓二教授から私信を恩師に寄せられた。「随分秀徹した問題が、過去に於いて、然も地方で思索されていたことに驚いた次第です。各地方で同じ様な紹介がなされていたら、日本の精神史も別な観をなすかも知れぬと感じました。中略」。
 その後、私は、端山の思想こそ今後の日本人の指針となると信じ、これを世に紹介しようと決心し、恩師から新たな資料を拝受して昭和三十四年一月、『楠本端山-生涯と思想』を出版した。私はこの書物をお自費で出版すべく、骨董品を売却し、生活費を切り詰めて費用の捻出を図ったが、家庭の諸事情によりその方に費用がかかり、出版も難航したが、恩師の令息、韶君の協力を得て初志を果すことができた。

楠本端山
楠本端山・岡田武彦全集

幕末維新の朱子学

 私は、端山の学が、深潜、緻密、透徹という点では、幕末維新の学者中、第一等ではないかと思った。端山についての著述をする前に、当時、端山・碩水らと交友の間柄であった吉村秋陽、大橋訥庵、並木栗水、東沢潟、林良斎、池田草庵、春日潜庵の著書や彼らの往復書簡を読んで、これらの朱子学者、陽明学者が当時の思想界に重要な地位を占めていることを知るに至った。
 これらの儒者が従来のものと異なるは、動乱期の明末の新朱子学、新陽明学を受容し、同じく動乱期に際会して、深切な体認の学を宗として実社会に活躍したところにある。然るに従来、これらの学者は日本の思想史家から余り顧みられなかった。それは彼らに明末の儒学思想に対する知識が欠如していたので、これら諸儒の思想が理解できなかったからである。
 右に挙げた幕末維新の朱子学者、陽明学者の思想の重要性を痛感した私は、それを世に紹介するとともに、またアメリカでの国際学会にもこれを紹介した。

長崎県知事と端山

 『楠本端山-生涯と思想』が出版されてからまもなく、昭和天皇が長崎県を巡行されることとなった。その行路に端山・碩水の生家がある針尾島葉山が含まれていたので、恩師から、この書物を陛下に献上するようにとの話があった。  
 私は早速、佐藤勝也長崎県知事に面会して書物の献上をお願いし、知事にも一冊贈呈した。文化人であった知事はこれを読んで大いに感ずるところがあったらしく、端山の「静坐体認」をもって政治の根本理念とするとともに、端山・碩水顕彰に努力をしてくれた。その結果、地元の佐世保市でもまた、顕彰に努力してくれるようになった。その後、坂田親和銀行頭取、本田佐世保市立図書館長、辻佐世保市教育長、当時の大村研修所長などの並々ならぬ熱意によって、恩師が生前切望しておられた、端山・碩水の墓は文化財として、また端山の旧宅も修繕の上保存され、端山・碩水が建てた「鳳鳴書院」も復元された。
 私も佐世保市と東京の斯文会で端山・碩水の学術思想についての講演を行い、その顕彰に努めた。私は、端山らの顕彰という意味からでも大村研修所に東洋思想研究所ができればと思い、知事や同研修所長と謀ってその実現に努めたが、不首尾に終わった。
 書院学設立の必要性は今でも痛感している。ともあれ中国大陸に最も近い九州に東洋思想研究所がないのは如何にも寂しい。

油絵を習う

 母は、私の次男が亡くなった年に佐世保市早岐の妹のところで死去し、私が軽い肺結核を患って入院療養した頃には、妹夫婦も一人の娘を遺してすでにあの世に旅立っていた。私は約八ヶ月間の入院と家で半年余りの療養生活を送っていた。これを好機として、長兄の忘れ形見である良子の行方を探索したが、結局見つからず徒労に帰した。
 私が肺結核で入院療養したのは五十歳のときであったが、廊下を隔て隣の部屋のベッドに、偶然、倉知憲夫画伯が入院していた。たまたま画伯がベッドの上で絵を描いていたのを見たので、私は生意気にも東洋画と西洋画の相違を述べ、東洋画の線と空間の素晴らしさを挙げて「こういうものを絵に採り入れられた方が良くありませんか」と述べた。私は特に宋明の絵に興味があったのでこういうことを口走ったのである。戦後日本人が西洋絵画ばかり興味を持って、水墨画のような東洋の精神的絵画を軽視したために、これに対する理解が殆どできなくなっていることに不満を抱いていた。といっても私は西洋美術に興味がないわけではない。昭和四十一年、アメリカからの帰途、わざわざヨーロッパを巡って各国の美術館の見学に二十数日間を費やしたのである。
 倉知画伯と絵画の話をしているうちに、画伯が私に「絵を描いてみないか」といったので気晴らしに試みたところ、案に違わず、描いたものは小学一年生の絵にも及ばぬものであったが、退院間際に油絵の描き方を教わり、退院後、一度試みて指導を受けた。東京から帰ってから三点の絵を描いたのである。早速それを画伯に見せたところ「良いでき栄えだ」と賞められた。
 絵は技術ではなく心だ、ということを改めて痛感した。
旅行するときには必ずスケッチブックを持参することにした。そうしているうちに絵心というものが少しずつ解ってくるようになった。
 東洋精神の立場からいえば、本来、真善美は分けることができない。したがって、真の善は必ず真の美でなければならない。私たちが常に優秀な芸術作品に親しむことが、真や善を求める場合にも大切であることが分かる。

岡田武彦先生の油絵・明石海岸.

​岡田先生の油絵・明石海岸

岡田武彦先生のスケッチ・ロンドン・テムズ河畔

​岡田先生のスケッチ ロンドン・テムズ河畔

9.恩師・楠本正継先生

入院療養

 恩師は定年退官される数年前に、米国ロックフェラー財団より奨学金一万ドルを受けられて、『宋明儒学思想の研究』を纏められることになった。これは恩師を敬愛する教育学部の平塚教授の斡旋によるものである。恩師は三年間で原稿を纏められたが、それは長年、練りに練り上げられた研究成果であった。
 恩師の研究には私たちも参加させてもらった。私は自分から申し出て、恩師所蔵の稀覯本
(きこうぼん)で、世界にただ一本しかない、『朝鮮写本徽州刊本朱子語類』を中心に、明の弘治版本を参考にして、現行の『和版朱子語類』の校勘(こうかん)※1を行なうことにした。私はその後、これを影印して世の専家の研究の資に供することにした。語類の校勘は助手の佐藤仁君、大学院生の福田殖・中川嘉彦の両君に、夏休暇二ヶ月間、毎日一人ずつ交替で恩師の研究室に来てもらって一緒にこれを行なった。このようにして一応、『朱子語類考勘記一』の草稿ができあがった。

 やがてこれは刊行されたが、たまたま私は喀血して一年間入院治療しなければならなくなった。別に心配するほどのことではなかったが、恩師は非常に心配された。恩師はよく病院に見舞いに来られたが、ある日、宋代の古端渓の硯を入手したというので、自らその拓本を作って病院まで持参された。この硯は恩師が亡くなられるとき、遺言によって私に贈られた。私は今なおこれを大切に保持している。私の書斎の床の間には恩師の写真と、学資の給与を受けた渡辺氏の写真が並べて掲げてあるが、恩師の写真の前にはこの硯と中国元代の青磁の硯屏(けんびょう)※2を置いている。私は著書を出版するたびに、いつも香を焚いてお二方の写真にこれを供えるようにしている。

※1 校勘:古典などの複数の写本や刊本を比較検討して、本文の異同を明らかにしたり正したりすること。

※2 硯屏:硯の側に立て、風による塵や埃を防ぐ小さな衝立のこと。

二つの道

 前に述べたように、恩師はロックフェラー財団の奨学金を受け、三年間で『宋明時代儒学思想の研究』の原稿を纏められたが、この成果は財団の方で出版してくれるものと信じておられたようである。ところが、出版はしないということになった。それは出版に値しないとみなされたからであった。当時のアメリカの学者には、思想家の体験を逐ってその人の思想を理解するという、恩師の画期的な学風を理解することは無理であったらしい。
 当時、私は自分の研究成果は文学部発行の機関誌『哲学年報』に発表することができたが、中哲卒業生には自分の研究成果を発表する機関誌がなかった。そこで私は、「九大の中国哲学の発展のためにぜひ機関誌を発行して、卒業生が自分の研究成果を発表できるようにしたい」と思い、資金の調達を渡辺斌衡氏に依頼したところ、快諾を得たので、『東洋の理想と叡知第一巻』を発刊した。
目次と執筆者は次のとおりである。


二つの道 楠本 正継
東洋思想の現実と理想 岡田 武彦
延平答問を読む 猪城 博之
朱子の生涯とその思想 佐藤 仁
詩人と香炉外一篇 ポール・クローデル 石 進 訳


 「二つの道」は恩師が退官のとき文学部の会議室で話されたのを記載したもので、これが恩師の最後の講話となった。「二つの道」は思想上から見た中国の道を、現実的なものと理想的なものとの二つに分けて述べられたもので、恩師が蘊蓄(うんちく)を傾けて説かれたものである。晩年、私も中国の道を論じたが、私はこれを「三つの道」とした。西日本新聞(風車の欄)に次のような書評が記された。
『東洋の理想と叡知』という書物が発行された。発行元は福岡市の東洋思想研究会である。中国哲学専攻の九大名誉教授楠本正継氏、同じく九大教授岡田武彦氏ら五氏の論文を収録したもので、定価は三百円である。


 戦後、日本の哲学者、文学者たちの目は、一斉にアメリカとヨーロッパに向けられた。サルトルをはじめとして、西欧哲学の吸収にきゅうきゅうとして寧日なかった。そのかげに、日本に最も影響を及ぼし、日本人の血肉となっている儒教を中心とする東洋思想は、それが封建的であるというだけで極度に疎外されはじめた。今日なおその傾向は改められずに至っているが、本書は、 東洋文化の精神的遺産こそ回復させるべきであるとして、刊行されたものである。編集者の佐藤仁氏は、後記のなかで、「わが国の思想界の現状は、東洋の過去に対して極めて冷淡なばかりか、封建的という、たった三字で、数千年にわたる東洋の精神文化をすべて破棄しようとしているかのごとく見受けられます。それならば、現代的であるはずの西洋が、近来とみに東洋の過去に対して関心を寄せているのはなぜでしょうか。

 中略 

 両洋相たずさえて人類共通の課題を解決して行くために、東洋の長所をはっきりと認識し、それを広く世界に紹介するのが、われわれ東洋人に課せられた重大な使命である」と自負の一端を述べている。

出版の苦労

 恩師が纏められた『宋明時代儒学思想の研究』の出版のために、私はできる限り努力したが、思うように事が運ばなかった。もちろんこれは恩師の許可を受けてやったことである。
・ある人を介して岩波書店にも交渉したが、不首尾に終わった。
・平塚教授相談して同志に奉賀帳を廻して出版援助金を募集することにし、出版社は平塚教授の斡旋で千葉の広池学園に決定し、楠本先生には賛成を得た。
・そのとき私は、僅かであったが自分の貯金をすべて引き出して恩師の名義で貯金し、その通帳を恩師に渡して、「必要資金の半分にも満たないかもしれませんが」といって、これを使ってくださるよう申し出た。

・恩師は恩師で、秘蔵の『朝鮮写本徽州刊本朱子語類』を九大の文学部中国哲学研究室に収めて、三十万円の資金を調達された。それを聞いた私は驚いて恩師のところに駆けつけたが、恩師は、「この書籍を九大に出しておけば自分の責任が果たされる」といわれたので、私も已むなく引き下がらなければならなかった。

 
 恩師の名著『宋明時代儒学思想の研究』が出版されたのは、恩師の定年退官一年後であった。この書物は恩師が想を練りに練り上げて書かれたものである。だから、その後記の中で、
「宋明時代儒学思想の研究は、ついに熟果の落ちるように、おのずから著者の手を離れる日がきた。然し若し季節に応じた養護と刺戟とを欠き、またこれを拾い上げる人が無かったならば、梢の果物は十分に熟さなかったか、熟して落ちても、そのまま路傍で萎んでしまったかも知れないのである」
と述べられたのである。


 出版後、恩師は常にこれに訂正と補正を加えられた。そこで私は再版のときにこれを付加した。 恩師はこの出版を非常に喜ばれたとみえ、そのときの感想を詩箋四枚に書き記された。


穏愜於心矣   朱晦庵    心に穏愜(おんきょ)
精力盡此書   司馬溫公   精力この書に尽く
両賢存道語           両賢、道語を存す
穹蒼付譏譽           穹蒼譏譽(きゅうそうきよ)に付す
  昭和壬寅(じんいん)冬日書成有感
            蒼茫斎(そうぼうさい)主人


 宋明の儒学思想研究書としては、この恩師の著書に優るものはないであろう。日本の中国思想研究は、中国よりも早く西洋の科学的手法を摂取したので、こういう面では今までは中国よりも進んでいたかもしれない。しかし、宋明のような体験を本とする思想の研究は、伝統的な手法を忘れるならば、その神髄は体得しにくい。恩師の学風には西洋の科学的な手法をとりながら、 家学を継承してこれを越えたところがあるから、こういう点では内外の学者の追随を許さない画期的なものであったといわなければならない。私はこれを英訳にして世界の識者に紹介すべく努力したが、それも費用の点で実現をみなかった。今、中国語に翻訳してもらうよう努力しているが、これも覚束ない限りである。今の学者は、果たして体験を本とする恩師の学風をどれだけ理解しているであろうか。東洋から新しい哲学思想が創造されるとすれば、必ず恩師のような学風を通過しなければ不可能であろう。

楠本正継先生と岡田武彦先生

楠本正継先生(右)と岡田武彦先生

恩師の逝去

 師は定年で九大を退官されてから西南学院大学神学部で講義され、また福岡女子大学でも講義された。女子大の方では毎年恩師の講義を依頼していたが、六十五歳の春、恩師は、もう女子大には行かないといわれたので、私は、「ご健康のために続けられては如何がですか」と申し上げたところ、       
「もう、そういわんでほしい」とのことであった。その頃、先生は健康を傷(そこな)われていたのであろう。
 恩師が余り食欲がなく、 また顔色も余り冴えないのを見た私は、恩師を元気づけるために、恩師を誘って、山田由之助・石進・佐藤仁氏らの同志と一升瓶の酒と手弁当持参で福岡郊外の三沢まで遠足に出かけた。
 それから一ヶ月ほど後に、福岡教育大学で「九州中国学会」が開催されたが、その直前に、恩師より、 「胃が悪いから学会は欠席する。 学会費を取り換えておいてほしい」という便りがあった。 学会終了後、急遽ご自宅を訪問したところ、「昨日医師に見せたところ胃カメラを飲むようにとのことであったが、同じことなら九大の第三内科に行ってみようかと思う」といわれた。驚いて恩師が診てもらった医師を訪れたところ、胃癌が相当大きくなっていて、脊髄にまで及んでいるという話であった。
 私は胃腸が弱いのでよく胃の検査をしたが、恩師は元来、胃腸が丈夫であったので胃の検診を勧めたことはなかった。これが不幸を招く原因となったのである。私は自分の不甲斐なさに腹が立った。早速恩師のお供をして九大病院に行った。教授は私を呼んで、相当進んだ胃癌であることをひそかに告げた。
 早速癌の手術が行なわれ、しばらく入院生活してから、自宅療養されることになった。そのとき、目加田先生の推薦で、恩師に「朝日文化賞」と「西日本文化賞」が授けられることになった。入院される前に、平塚教授が私に、「今回、日本大学で日本の碩学を招聘して自由に研究生活を送ってもらう企画ができたが、楠本先生はそれに応じられるであろうか」という相談があった。早速恩師の宅に駆けつけて右の話をしたところ、恩師は大変乗り気で、「東京へ行って一旗挙げてみよう」といわれた。
 日本大学からの招聘が正式に決定したときは、すでに恩師の病状は悪化していた。私は平塚教授と相談して、そのことを恩師には報らせないことにした。
 恩師と永遠の別れをしなければならない日がきた。それは昭和三十七年十二月二十三日のことである。私は恩師が息を引き取られるまでその枕辺に待った。恩師はそこにいた二人のご子息の嫁に、にっこり笑いながら、「両手に花」といわれた。恩師は謹厳実直な方であったが、家庭ではときどきユーモラスな言葉を吐かれることがあった。
床の間には祖父、端山が辞世のときに揮毫した
 俟天之休命 (天の大いなるいいつけを俟つ)
という五字の掛軸が掲げてあった。

 恩師はついに亡くなられた。 私は一晩中恩師の遺骸を見守った。私には生まれて始めての徹夜であった。翌二十四日は小雪の散らつく寒い日であったが、この日、私と同窓の、中文出身の大野君の寺で告別式が行なわれた。私は霊前で『中庸』の第一章を朗読したが、嗚咽を禁じ得なかった。なぜ私が『中庸』を読んだかというと、かねがね恩師から、
「自分が死んだら、『中庸』の第一章を読んでくれ」といわれていたからである。   

​中 庸 第一章

 天の命、之を性と謂ひ、性に率ふ、之を道と謂ひ、道を脩むる、之を教えへと謂ふ。
道なる者は、須臾(しゆゆ)も離る可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり。
是の故に君子は其の睹えざる所に戒慎し、其の聞えざる所に恐懼す。
隠より見るるは莫く、微より顯かなるは莫し。故に君子は其の獨りを慎むなり。
 喜怒哀楽の未だ發せざる、之を中と謂ひ、發して皆節に中る、之を和と謂ふ。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。
中和を致せば、天地位し、萬物育す。

恩師の思い出

 私は夏休暇、ときどき恩師のお供をして郷里の針尾島葉山のご生家を訪問した。 その家は端山が晩年退居していたところである。訪問したときはいつも二、三日宿泊したが、その間、端山の草稿、蔵書、及び遺品などを見せてもらったり、端山・碩水兄弟の逸話を聞いたりした。
 恩師は、もちろん名家の出身らしい風貌を備えておられたが、一面、田舎育ちの野生味を持っておられた。 ある日、恩師の宅を訪問したときのことである。夕食に平戸の名産アゴが出された。そのとき恩師からアゴの焼き方を伝授された。
 恩師は酒はお好きであったが、体質的に飲めなかったようである。お宅にはいつも日本酒の白鹿やウイスキーが用意してあって、酒好きな者が来るとよくそれを振る舞われた。しかし、ご自身は盃に一、二杯しか召し上がらなかった。 ある夏の日、一人の学生が先生の宅で饗宴にあずかり、思わず酒に酔って寝てしまったことがあったが、恩師はその枕辺に座って、彼の身体を長い間うちわで仰がれた。
 私は『楠本端山 生涯と思想』を書く前に、恩師から端山の遺跡のある平戸に案内していただいたことがある。これは私にとって極めて感銘の深い旅であった。そのとき恩師は親身のように私を平戸の親戚や知人に紹介された。事実、恩師は私を実の弟のように思っておられたようである。このことは、直接、恩師の口から聞いたことがある。

楠本先生退官記念写真

楠本正継先生退官記念 楠本教授と門下生たち 昭和35年(1960年)5月 九州大学構内

左から福田殖、中川嘉彦、岡田武彦、高橋正和、山室三良、羽床正範
中央は楠本正継先生
​佐藤仁、荒木見吾、山下通雄、大野得雄、瀬戸口拓雄、疋田啓佑、隅本宏 
(敬称略)

10.コロンビア大学客員教授時代

坐禅と静座

  人間は共存的存在である。人は誰でも、本来、人のことを自分のことのように思う心を持っている。ここに人間の人間たる所以、すなわち人間の本性がある。 これは思弁によるよりも、むしろこの心を培い養うことによって始めて分かるものである。しかし人間には私欲がある。だから、これを除去するようにしなければこの本性は保持できない。この本性を保持し私欲を除くのが、いわゆる存養という修行である。本性を存養するには心を存養しなければならない。なぜなら本性は形而上のもので、心に発用しているから。

「心を存養するにはどのようにするのがよいのか。そもそも、すべての物事は動静循環して止まない。心も同じである。しかしよく考えてみると、前に述べたように、動は静から始まるが静は動からは始まらない。すなわち動静の始原は静である。だから本性を養うには、静坐して心を存養することに力を注ぐことが大切である。このようにすれば本性が得られ、心は主宰を得て人間の主体性が立つ。主体性が立てば自然に知が蔵せられる。これは樹の栽培に例えるならば、枝葉を培うのではなく、根本を培うやり方である」。

 

このように考えた私は静坐をもって学の宗旨とし、『坐禅と静坐』を著述した。

この書は坐禅と静坐の意義とその異同を述べたものである。ただし、私の静坐論は陸王学から朱子学に遡って得たもので、特に高忠憲や楠本端山の静坐論に負うところが多い。今では静坐よりも兀坐を説いている。

 

よく人から、坐禅と静坐とは何処が違うのかと尋ねられるが、そのとき、私は

「その背景にある人間観、世界観が違う」と述べたものである。

・坐禅は仏教的人間観、世界観に立ち、仏教は人間否定から世界観を構成する。

・静坐は儒教的人間観、世界観に立ち、儒教は人間肯定から世界観を構成する。

要するに、私は、神や仏よりも人間が大切であると思っている。極論すれば、神や仏よりも、先ずわが家族、わが友人、世の人々が大切である。私が仏教よりも儒教を宗とする理由はここにある。儒教は人間共存の道を説く。静坐はその道を端的に自得させる方法である。

 

米国コロラド大学のテーラー教授は、私の著わした『坐禅と静坐』に関心を寄せ、その中の重要なところを英訳するとともに、私がなぜそのようなことを考えるようになったのか、その背景を探るために私の略伝を述べ、かつ、今日の世界における重要問題に対する私の意見を聞き、それを纏めて、『現代の儒家の道―静坐』〈The Confucian Way of Contemplation 静坐〉を著わした。

 

※存養(そんよう):本来の心を失わない様にして、その善性を養い育てること。

テーラー教授IMG_6994-1.jpg

米国コロラド大学の宗教学主任 ロドニー・テーラー教授

米国を訪問

 『坐禅と静坐』を著わしてからまもなく、米国コロンビア大学のデ・バリー教授から、客員教授として「明代思想セミナー」に参加するよう招かれた。英語に自信がなかったので、これを受諾するかどうか戸惑った。「通訳はいないが、来てもらえば何とかなる」とのことで、思い切ってアメリカに出かけた。

私がアメリカに出発したのは昭和四十一年一月始めのことであった。飛行機で太平洋を渡るときは心細い感じがした。

当時私は渡航費を賄うだけの貯蓄がなかったので、その費用はすべて九大から借用した。英会話が全然できない私ではあったけれども、ともかく無事にコロンビア大学に赴任することができた。

 

「明代思想セミナー」には、当初からコロンビア大学の学生を指導していた陳栄捷(ちんえいしょう)教授と香港の唐君毅(とうくんき)教授、オーストラリアのカンベラ大学の柳存仁(りゅうそんじん)教授、及び私が招かれたが、これらの学者はいずれも宋明学の世界的権威であった。

 

 陳教授は明代初期の思想、唐教授は王陽明の思想、柳教授は陽明学と道教、私は明末の思想を担当。司会者はデ・バリー教授であった。セミナーの対象の学生は大学院生。オブザーバーとしてコロンビア大学の助教授や他の大学の教授たちが参加し、学生はテーマを与えられて一人ひとり発表した。私は、「このように、世界的権威を集めてセミナーを開いてもらっているアメリカの大学生ほど幸福な者は他にはあるまい」と思った。

しかし、学生の研究発表を聞いて些かがっかりした。というのは、彼らは原典を読まないで、多くは英語の解説書を読んで意見を述べたが、その頃、明代の思想を解説した英書は殆どなかったので、彼らの明代思想に対する理解は極めて不十分であった。彼らの意見を聞いていると、明代思想を述べているのか、宋代あるいは古代思想を述べているのか分からないくらいで、明代という時代精神が殆ど理解されていないため論旨が的を外れていることが多かった。

そのとき私は思った。

「私が指導するとすれば、先ず宋明の書画や陶磁器のスライドを見せ、それによって、視覚を通じて、明の時代精神を理解させてから、哲学思想の資料を提示してこれを研究させるようにする。そうすれば先ず大過がないであろう」と。しかし学生には漢文の読解力が余りないとのことであった。

 

 私は急いで明末儒学の論文を書いて字引片手に英訳し、それをコロンビアで学位を取得しようとしていた、日本人留学生、岡本俊平君に見てもらったところ、始めから全部やり直さなければならないほどのものであった。彼は、そのとき、私の日本文を横に置いてそれを見ながら英文タイプを打った。このとき私は翻訳の恐ろしさを身に感じた。そのために英語恐怖症に陥ったくらいである。

 

 コロンビア大学に行ったとき、デ・バリー教授から、「外国人英語教室で会話を習うように」といわれたので、毎週二回、そこで英会話を習うことにした。聴講者は若い男女学生であったが、私は彼らと同じように厳しく指導された。

 

 「明代思想セミナー」が終了してから、イリノイ大学でデ・バリー教授主催の「国際明代思想研究会」が開かれた。そのとき日本から東京教育大学の酒井忠夫教授が参加された。最初に陳教授の発表があったが、教授は、「明代に至って突如として心学が興った」という立場から明代の思想を説明せられた。

 私は陳教授の論に、「明になって突如として心学が興ったといわれるが、突如という言葉はこの場合は適当でない。実は、元代でも表面は朱子学が行われたかのように見えるが、底辺には陸子の心学が流れていたのである。それが明初に出てきたにすぎない」といって、些か自分の意見を述べた。

 その頃、私は元代の「朱陸同異論」を詳しく研究していたし、当時の絵画、陶磁器などで宋と元・明の時代精神の変遷を調査していたので、私は自信を持って自分の意見を述べたつもりである。 しかし陳教授は自分の意見を翻さなかった。私も詳しく私の立場を説明すればよかったのであるが、なにぶん英語がうまく喋れないので説明が舌たらずになったと思う。陳教授の意見が述べられると、学会に参加していた中国人学者の中から拍手が起こった。あとで一人のアメリカ人の学者が私のところに来て、「中国人は先生に対して民族意識を持ったようですね」その後の国際学会でも、ときどきこれに似た光景に接したことがある。そのたびに、私は中国人の中華意識の強いことを思い知らされた。

 

 唐教授はコロンビア大学でのセミナーのとき、
「朱子学と陽明学は本質的には同調的である」という立場から両者を比較した。
その発表に対して私は、
「朱王両学の差異は二人の論文もさることながら、根本精神を知ればそれがよく判明する。それには、例えば二人の書風や上奏文の論調を比較するのがよい」と述べた。
 唐教授は哲学的思考をするタイプの学者であるが、西洋哲学的な方法論によるところが多く、本来の体認を本とする東洋的志向から遊離する傾向がないでもなかった。デ・バリー教授は常に課題を立てて研究するタイプで、「各学者の長所を摂取して、それを綜合する力が抜群である」ということであった。

Columbia_coat_of_arms_no_crest.png

コロンビア大学校章
モットー:汝の光によって我等は光を見る
米国ニューヨーク州ニューヨーク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

25406428_s_edited.jpg

コロンビア大学図書館

964976_s_edited.jpg

コロンビア大学キャンパス

Columbia_001_edited.jpg

コロンビア大学キャンパス中央部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

IMG_R_0022-1.jpg

ウィリアム・セオドア・ド・バリー教授 
東アジアの伝統文化会議
平成6年(1994年)3月

 ウィリアム・セオドア・ド・バリー(Wm. Theodore de Bary、1919年8月9日 - 2017年7月14日)は、アメリカ合衆国の東洋思想学者。コロンビア大学の教授・理事を70年近くにわたって務めた。

概略
1941年にコロンビア・カレッジを卒業し、ハーバード大学大学院に短期間在学したあと、太平洋戦争の太平洋地域の情報部に配属された。戦後コロンビアに戻り、1953年に博士号を取得。その後非アジア系学生の勉学のため、日本、中国、インドの古典原典を英訳し、儒教の根底にある民主主義性を明らかにした。また新儒学の研究でも新たな分野を開拓した。

ニューヨーク州ブロンクス区に生まれる。父ウィリアム・ド・バリーは1914年にドイツからアメリカに渡ってきた。両親は彼が幼いころに離婚し、母はシングルマザーとして彼を育てた。父との区別のためにWm.と名乗った。1937年に学部生としてコロンビア大学に入った。中国語を学び、海軍で働いたあと1948年に修士号、53年に博士号を取得した。博士論文は「黄宗羲『明夷待訪録』について」だった。その後すぐ教授になった。角田柳作に学び、ドナルド・キーンとは友人で、来日したこともあり、長女のブレット・ド・バリーは柄谷行人の『日本近代文学の起源』の英訳を行った。1974年アメリカ芸術科学アカデミー会員に選ばれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

ベトナム戦争

 アメリカに行って学んだことは多くあった。アメリカで日本人に会ったときは、私は努めてその人たちにアメリカやアメリカ人についての観方を聞くようにした。例えばアメリカの大学制度、学生の知識、教養、及び学生気質、研究体制、大学の教授会のあり方、学長、学部長の権限、その他、アメリカの選挙制度、会社経営、民族問題、治安問題などについて彼らの意見を聞いた。当時、ベトナム戦争が起こっていたが、これに対する大学生の関心にも非常に興味があった。

 ある日、コロンビア大学に行ってみると、本部の前の広場で学生が二手に分かれてアジ演説をしていた。それぞれテーブルが置いてあってその上にビラが載せてあり、学生たちは自由にそのビラを取って静かにその演説を聞いていた。一方ではベトナム戦争賛成、他方では反対の演説をしていた。私は興味深くこの光景を眺めていた。なぜなら日本ではこのような光景は見られないからである。もし、日本の大学でこういうことがあれば、学生は二手に分かれてお互いに相手を罵倒するか、さもなければ殴り合いになるであろう。

 

 アメリカでは学生ばかりでなく、一般市民もこういう運動は冷静に行なった。ストのときも同じであった。

ある日、街を歩いていると銀行の前でストが行なわれているのに出遭った。見ると、各自でプラカードを手に持って静かに銀行の内外を歩いていた。 また、イーストのときに、華やかな帽子で着飾ったアメリカ女性の群れの中を、一人の男がスローガンを書いたプラカードを両手でささげて、百米の間を往き来しているのを見たことがある。こういう点は日本人の範とすべきところであろう。

想い出の人々

 コロンビア大学ではいろいろな人たちに出会った。
当時、日本の能楽について大部な研究書を出版していたドナルド・キーン教授、ただ一人の日本語教授である、二世の白土一郎夫妻、元のピアニストでアジア学図書館日本課課長、甲斐ミワ子女史、専門のインド哲学を教授しながら、日本漢文を指導しておられた羽毛田(はけだ)教授など。


 私がコロンビア大学にいたとき、羽毛田教授は『荘子』の演習をされていたが、私も教授の要請でそれに参加した。そのとき、学生たちがあの難解な文章を日本語で漢文読みをしたのには驚いた。アメリカの大学では、中国の思想を専攻する者でも、こいう漢文のゼミをやらされていたのである。アメリカの大学では「日・中・印、いずれかの国の思想文化を専攻する者でも、必ず日本語・中国語・サンスクリット語を修得しなければならない」ということであった。


 学内での私の身辺の世話をしてくれたのは、もっぱら同室の日本の政治学専攻の岡本俊平君と、中国史専攻の顧恭凱(こきょうがい)君であった。岡本君は博士課程を終了して学位論文提出中であり、顧君は歳はとっていたが修士課程の学生で、日中事変のときに両国の和平に努力して、ついに蒋介石の凶弾に斃れた汪精衛(おうせいえい)の研究をしていた。岡本君とはよく昼食をともにしたり散歩したりしたが、その間、四方山話をした。彼を通じてアメリカの実体を知ったことが多い。その頃すでに、「真珠湾攻撃はアメリカ政府がこれを誘導したものである」という議論が、資料を根拠にして行なわれているということであった。


 顧君は父君が日本の士官学校で学んだという関係もあって、多少日本語ができた。彼はよく中華料理店に案内してくれた。彼は、当時デ・バリー教授から『明儒学案』の中の「蕺山学案(しゅうざんがくあん)」の英訳を委嘱され、毎週訳文を教授に提出していた。 不明のところは岡田教授に聞くようにということであった。
 彼は漢詩を何千というほど暗誦しており、彼自身も作詩して新聞紙上に発表していた。私が帰国するとき一冊の漢英辞典を贈ってくれたが、
表の表紙には、(中略)北宋の程明道の『秋日偶成』の詩が記してあった。


 私がアメリカに行くに際して、友人たちは私の健康のことを非常に心配してくれた。幸いにもニューヨーク滞在中は鎌田義弘君と大西勇君の並々ならぬ好意により、快適な生活を送ることができた。鎌田君は渡辺斌衡(としひら)氏より紹介された人である。彼は会社から派遣されて永年ニューヨークに滞在していたので、住居、その他でまことに行き届いた世話を受けた。私がニューヨークに来て約一ヶ月後のこと、突然、鎌田君から連絡があり、渡辺氏が逝去されたことを知った。ニューヨークタイムズには大きく「渡辺の哲学」と題して、氏のアメリカ技術の導入による日本企業の建て直しについての功績が述べられていた。私が東京を出発する前の晩、五十ドルの餞別を持って東京第一ホテルを訪問していただいたこと、私が受けた学資の返還を申し入れたときでも、それを受け取られなかったこと、私に対しても一般の大学の学者に対するように扱っていただいたことなど、氏に対する懐かしい想い出は尽きなかった。早速私は弔電を打った。


 日本に帰って来てから一度、鎌田君の世話で、彼の部下の課長たちに中国観について講演したことがあった。そのとき私は、「中国の民族性とアメリカの民族性とはよく似ているが、中国人と日本人は同文同種といわれながら、実は民族性は非常に違っている」という話をしたことがあった。私の話に最も賛成したのは、北京滞在数年の経歴のある一人の課長だけで、他の者は私の話を聞いて奇異に感じたようであった。私は中国及び中国人の実体をよく知らない日本人が非常に多いのを常に憂慮していた。これは今でも変わらない。中国及び中国人の実体をよく知ってこそ始めて、両国及び両国民の真の友好が可能になるのであって、そうでなければ日本にとって大変なことになる。私は常に、「中国では、平和な時代には儒教が伝統思想として宣揚されるが、国柄や民族性からいえば、中国よりも日本の方がもっと儒教的である。したがって、儒教を学ぶことによって、日本人はわが伝統思想を自覚することができるのである」と考えている。 

 
 大西君は私の修猷館時代の教え子で、旧制福岡高等学校より東大の経済学部に進み、卒業後、三和銀行に勤務した。実直な人柄と学究肌が買われたのであろう、アメリカ経済の研究のためにニューヨークに派遣された。彼のニューヨーク滞在中に、私がコロンビア大学に招かれたのである。ニューヨークでは殆ど毎週、彼の宅で夕食を馳走になり、また月に一、二回、郊外へのドライブに誘われた。もちろん、彼からはアメリカの実情についての話をよく聞いたが、何よりも家族ぐるみで親身に私を世話してもらったことは、終生、忘れることができない。彼の家族と、真冬にニューヨーク郊外にドライブしたり、うららかな春光を浴しながら遠くボストンへドライブしたり、また、彼と一緒にソ連映画「白鳥の湖」を鑑賞したり、日本から来た人形浄瑠璃を見たりしたときのことは、今でもまざまざと想い浮かべることができる。私自身、ニューヨーク滞在中は時間的に余裕がなかったので余り旅行はしなかったが、それでもワシントンやフィラデルフィヤを訪れる機会があったし、またバーンスタインの指揮する交響楽を聴いたりしたが、暇があればニューヨークの美術館巡りをし、また、スケッチブックを携えてハドソン河畔を散歩したものである。

※ 渡辺斌衡(としひら):日本電気㈱の6代目社長 東大経済科卒 

岡田先生留学時代解像度アップIMG_R_0024.JPG

コロンビア大学客員教授時代の岡田先生

05_edited.jpg

ハドソン河畔でスケッチをされる岡田先生

大学の国際性

 イリノイ大学での国際学会終了後、独りでナイヤガラ瀑布観光旅行をしてからニューヨークに帰ったが、六月三十日にニューヨークを出発し、約一ヶ月間、ヨーロッパ、中近東を巡って帰国した。ヨーロッパ旅行中、日本人と出会ったのはただの二回きりであった。今日とはまったく隔世の感がある。この旅行の想い出は限りなくあるが、これによって各国の民族性を垣間見ることができたことは、何より幸いであった。
 帰国して感じたことは、日本の大学は国際性に欠けているということである。「せめて二年や三年に一度、各教室に世界的な権威を招いて講義を依頼するようにすれば、日本の学生も視野が広くなり、語学も今よりずっと上達するに相違ない」と思った。
 国際性についていえば、九大のように中央から遠く離れた大学は特に心がけねばならない。なぜならば東大や京大は環境上からして海外からの訪問者が多く、そのために知らず識らずのうちに国際性が身に付くが、中央から離れた大学では、余程の心がけがなければ国際性に欠けてくる。


 国際性という点で注意しなければならないことがある。それは、「日本人が、自国の文化や思想についての教養を身に付けることが前提にならなければ、決して真の国際性は得られない」ということである。
戦後、日本の青年は欧米、特に米国に留学する者が多くなったが、大体において自国の文化や思想についての教養に欠けるところがあることは、識者の憂えとするところである。こういう点では彼らは他国の留学生と違っている。日本の伝統文化や思想を外国人に理解してもらうこともまた、国際性において重要なことであることを忘れてはならない。


 これはずっと後になるが、私は、日本の商社が経済的侵略といわれるほど欧米、特に米国の経済界に脅威を与えている現実を見てこれを憂慮し、両国の友好のためにも、米国人に日本の伝統文化や思想を理解してもらう必要があることを痛感し、アメリカの学者と謀って、日本思想研究所を日本の資金でアメリカに設立し、アメリカの学者がここを拠点として、日本の文化と思想の研究とその普及に専念してもらう企画を立て、これを実現すべく一部の政界に謀ったり、人を介して企業家に出資を依頼したりしたが、こういうことに理解のある者は殆どおらず、そのためにこの計画も不首尾に終わった。
 私は、こういうことでは日米関係が今後険悪な状態になりはしないか、と常々懸念していた。私がこういう運動を起こしたのは、一つはこれを介して、戦後の日本人が自国の伝統文化や思想を軽視してきたことを、少しでも反省してほしいと考えたからである。

 

11.国際会議

学園紛争

 昭和四十年、ベトナム戦争が勃発するや、日本の左翼系の人々は反米デモを行ない、 それが学生にも波及し、アメリカの軍艦、エンタープライズが佐世保に寄港するや、 佐世保で反米デモを挙行すべく関東一円からも多数の学生が福岡に押し寄せ、九大教 養部をその拠点とした。 当初、教職員の力で彼らが学園内に入ることを拒否したが力及ばず、彼らの意のままにならざるを得なかった。それ以来、学園紛争が熾烈となって行った。たまたま米軍戦闘機が九大の工学部に落下し、機体が学部のビルに宙吊りになったので、紛争はますます激しくなった。
 昭和四十一年になると中国に文化大革命が勃発し、その影響もあって、学生の中の過激派はしばしば大学校内の教室や本部を占拠して、当局に大学の大改革を迫った。彼らは学内で激しい抗争をしたばかりでなく、警察機動隊に対しても火焔瓶を投げつけて対抗した。

 私は自分の専門的立場から、彼らが毛沢東の文化大革命の影響を受けていることをいち早く察知し、心中、ひそかに憂慮していた。 当時、日本のいわゆる文化人、ジャーナリストは文化大革命を絶賛した。しかし、私は彼らが中国をよく知らないことを歯痛く思い、改めて中国の現実主義思想、すなわち対立思想を根本とする商鞅・申不害・韓非子などの法家の思想、蘇秦・張儀や鬼谷子などの外交家の思想、孫子・呉子などの兵家の思想を研究した。
また『素書』などの人間の心理を解説した書物を読んで、その原理を深く窮めるよう勉めるとともに、毛沢東の『語録』 『矛盾論』 『毛沢東選集』などを読んで、彼の革命原理を研究し、当時の日本人がこれら中国の古代の現実主義思想、及び中国人の中華思想をよく理解していないために、毛沢東体制の実態が分からなくなっているのを憂慮した。
 そもそも、毛沢東の革命思想を評価する場合、重要なのは、それが具体化したとこ ろに、その神髄があるということである。思想に対するこういう見方こそが、実は東洋的である。したがって、この立場から彼の革命的思想を見ればそれに対する評価もたちどころに下すことができるはずである。

中国は概観すれば「混沌」の世界で、
・法家・兵家・外交家などの「現実主義思想」
・孔子・孟子などの儒家の「理想主義思想」
・老子・荘子などの「超越主義思想」
が渾然と展開している。

 

 敢えて日本と違うところを指摘するとすれば、
中国は現実主義的であり、日本は理想主義的であるといえよう。 
以上の観点から、私は日本人の中国観に不安を感じ、昭和四十八年、『中国と中国人』を著わして中国の現実主義思想の実態を解説し、毛沢東の革命思想がそれと軌を一にするものであることを示し、かつ、 「中国思想史の展開の上から、毛沢東体制もやがて伝統的な思想に回帰する時期が来て、新たな展開をするようになる」 ということを示唆した。


 私がこのような書物を著わしたのは、「儒教的な民族性を持つ日本人が、政治、外交、経済面において、 混沌という言葉で表現するのがふさわしい中国、現実主義的な傾向の強い中国に対する場合、如何にすべきかということをよく考慮してほしい」と思ったからである。
 

三つの道

 約四十年、中国哲学史の研究に従事してきた私は、中国哲学が現代の私たちにどのような課題を提供しているかを考えるようになった。私が三つの道を説くようになったのはこのためである。

 三つの道とは「功利的人間観に立つ現実主義」 「道徳的人間観に立つ理想主義」 「宗教的人間観に立つ超越主義」である。この三者はそれぞれ人間観を本にして独自の社会観、自然観を持っている。

・現実主義は功利的人間観に立つから、人と人とを対立関係にあるとし、

・理想主義は道徳的人間観に立つから、人と人とを一体の関係にあるとし、

・超越主義は宗教的人間観に立つから、人を捨てて天に帰依し、また進んで天を本にする天人一体を説く。

 この三つの立場は何れも人生にとっては切実なもので、人間はいつ如何なる場合でも、これを心得ておけば道を誤るようなことはない。だから、

「中国哲学が提供したこの三つの課題は普遍性を持つものである」 ということができる。

 中国の思想史はこの三つのものが渾然として展開しているが、 中国人自身は理想主義をもって伝統思想としている。 中国の思想には、以上述べた三つの異質的な思想が渾然とした状態にあるので、なかなかその実体が把握しにくい。だから、人から、「中国とはどういう国ですか」と問われると、前に述べたように、「混沌の国」としか答えようがないのである。

 たまたま私の隣に佐藤さんという西日本新聞の記者がおられたが、この方の斡旋で 同紙に一年間、「三つの道」についての論説を掲載することになった。 論説といって も、 例話を多く引用したしごく分かり易いものであった。 あとでこれを纏め、明徳出版社から『東洋の道』と題して出版した。

 三つの道の中で、私自身は、理想主義すなわち儒家の道に従う者であるが、その中でも「中庸」と「万物一体の仁」を重視した。中とは過不及のない道、庸とは平常。 「万物一体の仁」は、前に述べたように宋以来説かれたもので、王陽明がこれを集大成した。私は、 「この一体の道は静坐によって最も端的に体認自得することができる」と考えたのである。

東洋の道IMG_5831-1.jpg

岡田武彦 著 『東洋の道』
『東洋の道』明徳出版社 1969

台湾に行く

 昭和四十七年三月、九大を定年退官したあと私は西南学院大学に勤務し、その後、 活水女子短大、活水女子大学で教鞭を執り、平成元年四月になってようやく永い間の教師生活に別れを告げることができるようになった。九大を辞める頃から私の健康は従来になく良好に向かったので、ようやく宿志の達成に精を出すようになった。

 

 昭和四十七年四月、私は台湾の中華学術院より栄誉哲士の称号を授与された。 なぜ私がこの栄誉を受けるようになったのか、その理由は明らかではないが、おそらく京都の中文出版社社長、李廼揚氏の推挙によるものではないかと思う。 受賞のために早速渡台した。

 李廼揚氏は広島高師卒の台湾出身の学者で、満洲、朝鮮史の専門家であり、また、 書誌学に精通した学者であった。 そのために台湾・韓国、後には中国大陸の大学でも斯学(しがく)の講義をするようになった。終戦後、日本で中文出版社を設立して、日中に所蔵 されている多くの貴重な漢籍の影印本を作り、また台湾で発行された中国の書籍の販売に勤め、日本の中国学発展に非常な貢献をした。その功績は実に刮目すべきものがある。

 昭和四十三、四年頃だったと思うが、李氏より、 「台湾の国立図書館蔵の、明成化九年江西藩司の『朱子語類』に欠落のところがあるので、内閣文庫所蔵の覆成化本で補填してほしい」 との依頼があったので、当時、九大中哲の助手であった福田殖君と二人でそれを成し遂げた。これは影印本として中文出版社から出版された。こういうことから李氏と親しく交際するようになり、氏から中文出版社設立時の苦労話や出版の裏話、あるいは終戦時の苦労話、台湾政府と氏との関係などについての秘話などを聞くことができた。

 

 中華学術院での栄誉哲士授与式は盛大なもので、講堂の内外に大きな幕が張られ、式典はオーケストラの演奏から始められた。このあと別室で歓迎会が催されたが、その席には有名な銭穆教授以下、各大家が列席されていた。私が、

「今度の賞は、本来、私よりも恩師の楠本正継博士に授与されるべきものである」 と述べたところ、教授は私たち師弟の情に触れ、テーブルを叩きながら台湾では師弟の情が失われていることを述べて、学生に訓示をされた。そして、また、

「陽明学は日本の学者に学ぶべきである」と述べられた。私は、

「私は中国の哲学思想を研究していますが、私自身、お国の哲学思想を研究している気がせず、自国の哲学思想を研究しているつもりでありますと述べた。

 

 中華学術院長、張其昀博士は李廼揚氏と親友の間柄であった。博士は元浙江大学教授で、戦時中、大学は一時重慶に移転したが、そこで講義を行ない、戦後、米国に留学。やがて蒋介石から招聘されて台湾に渡り、そこで蒋介石を補佐した。博士は蒋介石の信任が篤くその秘書長になったこともある。かって文部大臣になったが、文教に非常に力を入れ、在任の間に多くの大学を設立した。中華学術院も博士が創設した大学院大学で、ここには穆教授以下、天下の碩学が集まっていた。博士は容貌魁偉、人を圧するような風貌の持ち主であった。地史学を専攻し膨大な量の編著があり、 博学多識の面では当代第一等の学者である。

 

 私は李廼揚氏からの依頼により、博士の『中華五千年史』中の一冊、『孔学今義』 の日本語訳をし、『孔子と現代』と題してこれを出版した。訳文は当時の活水女子大学の秋田義昭教授、北九州高専の海老田教授以下、数人の方々の助力を煩わした。孔子の思想の解説書のうち、これほど広い視野からなされたものは他にはない。この書は、私が訳する前にすでに世界数ヶ国語に翻訳されていた。

国際学会

 私は九大を定年退官してから、国際学会に出席するために、しばしば米国本土・ハ ワイ・台湾・韓国・中国大陸に渡った。また、別に韓国の朱子学者、李退溪の国際学術審査員として三度訪韓した。国際学会では各国のお国ぶりがよく窺われて非常に興味が深かった。
その一、二を紹介しておこう。
 「王陽明生誕五百年記念国際学会」に招かれてハワイに行ったときのことである。 ハワイ大学の張教授が、陽明の「心」についての研究発表を行なった際、陽明の「心」 をカント・ヤスパース・ハイデッカーや禅の心で説明したので、私はハワイ大学のワーゴー教授の流暢な通訳で、 
「このような比較論は余り意味がない」 といったところ、張教授は憤慨して、
「自分は日本の山田無文について禅の修行もした」 
といい、私の質問に対してまともに答えなかったので、それ以上質問することをあきらめた。

 しかし、発表が余りにも粗雑だったので米国の陳栄捷教授と香港の唐君毅教授が、私に続いて手厳しい批判を加えた。三人はお互いに論争し合っていたが、激してくると、三人とも英語で話すのを忘れて中国語で喋り出し、三つ巴になって論争した。翌日、張教授は憤慨の余り学会に出席しなかった。 
 私は学会が終了してから、張教授に、「貴方の発表は、自分の哲学を論ずることを建て前とするためのものであれば結構ですが・・」と述べておいた。
 この学会に香港の有名な陽明学者、牟宗三教授も出席していたが、発表は当を得たものであった。しかし、学会で一度も質問しなかったので評判はよくなかったという。 こういうことからでも、アメリカにおける学会の気風の一端を窺うことができよう。

 この学会で「西洋哲学と陽明学」「日本文化と陽明学」をテーマとするパネル・デ イスカッションが行なわれた。日本からは私一人だけが招かれていたので、「日本文化と陽明学」と題するパネルディスカッションでは、勢い私が中心とならざるを得なかった。そのとき私は、確か、陽明学と日本の民族性についての話をしたと思うが、この席で一人の若いアメリカの学者が、大塩中斎や三島由紀夫の例を挙げて、陽明学は叛乱の哲学であるといったので、私は反論して、
「陽明は却って叛乱を鎮定した人である」 と述べ、かつ陽明学者の中に反乱を起こした者がいたとしても、それでもって陽明学を叛乱の哲学と決めつけることは誤りであることを指摘し、 
「それでは、島原の乱のときキリスト教徒が反乱を起こしたが、貴方はキリスト教を叛乱の宗教と断定するのですか」といって反論を加えた。

それより数年後、同じくハワイ大学のイースト・ ウエストセンターで、デ・バリー教授主催の「十七世紀の実学」をテーマとする国際討論会が開かれ、日本からは私の他に、東大の阿部吉雄教授、名古屋大の山下龍二教授と、日本女子大の源了圓教授の四人が出席した。 私は貝原益軒の実学についての研究発表をしたが、討論会が終了したときに、陳栄 捷教授が、
「中国の哲学も日本に伝わるとだんだん哲学性が薄れてくる」 という意味のことを述べられたので、私は、「私はそうは思わない。 哲学の定義についてはいろいろな考え方があろうが、西洋・インド・中国の哲学と日本の哲学を比較した場合、西洋のものは理論的であり、イ ンドのものは神秘的である。ところが、中国のものになると半ば理論的で、半ば実践的である。日本になると理論性が稀薄になって非常に実践的になる。実践的なものは具体的である。哲学は具体的であればあるほどその精神は深くなる。こういう 見地から日本の哲学を見てほしい。日本人の儒教思想は決して浅いものではない。 それは仮名で書いた日本の儒者の思想を研究すればよく分かる。 和文で書いた貝原益軒のもの、特に崎門派の儒者が口述した、俗語交じりの片仮名で書いたものには、鋭くて深い思想が述べられている」
という意味のことを述べて教授の一考を求めた。これを聞いたデ・バリー教授は、笑 いながら、 
「プロフェッサー岡田は山崎闇斎のようですね」といった。
「哲学は、具体的なものの中に自らの姿を没することによって、その精神は一層深くなる」と考えるようになった。
 陳教授は宋明学者としては世界第一流の学者であって、その精密な実証的研究はまことに敬服に値する。また教授は中国哲学をアメリカに紹介した点で大きな功績がある。デ・バリー教授が陳教授を、「アメリカの三蔵法師」 といったのも当然であろう。

 

ハワイの風景IMG_6998-1.jpg

岡田先生のスケッチ、ハワイの風景

山崎闇斎坐像・宍粟市教育委員会所蔵

山崎闇斎の詳細説明➡ジャンプします。

12.思い出の人々

現代の天満与力

 私が九大に勤務していた時代のことである。当時、大阪府警本部長であった高松敬治君に会いに行ったことがある。そのとき、彼は笑いながら、
「大阪の与力になりました」 といっていた。 
自ら与力をもって任じた彼は一日、私の案内で京都の骨董店を訪れ、かつての与力であった大塩平八郎の書額を購入した。 彼は後に警察大学校長、防衛庁施設庁長官、 警察庁刑事局長となって退官したが、退官後も上京するたびによく彼と会った。 

​ 彼は解決困難な殺人事件によく辣腕を振るったが、彼を最も悩ましたのは静岡県警本部長のときに起こった金喜老事件であった。 
日本の警察に恨みを持っていた金喜老は、あるとき静岡県の山奥の宿屋で、日本人の泊まり客十余人を二階に監禁し、昼夜、ライフル銃を構えてここに立て籠った。高松君はマイクで金喜老を説得し、犠牲者が出ないように解決しようと鋭意努力したが、 めどがつかないので、ついに、「自分が人質の身代わりになるから人質を解放するように」 という提案することを決心した。 
彼はそのときの心境について、同様 「決心したものの、もし自分が犠牲になったらあとに遺される妻子はどうなるだろうかと思うと、一晩中寝られませんでした。しかし、朝方やっと覚悟が決まりました」 といった。 天の霊によるというのか、その朝、刑事が宿屋に突入して人質が無事に救い出され、 事件は解決した。

​ あるとき、手紙の中で、諸葛孔明の『後出師表』の中に出てくる、 
「臣鞠躬尽力、死而後已(臣、鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)、死して後やむ)」
と句を書いて寄こしたことがある。これによって彼の人柄のほどが偲ばれよう。

​ 彼は清廉潔白の人柄の持ち主で、それについての逸話もいろいろ聞いていたが、あるとき、上司に宋の王安石のような世のためにならぬ剛愎な人物がいたので、 「この男に詰腹を切らせ、自分も辞める覚悟をしたことがある」と述懐したことがあった。
彼は出張で汽車に乗るたびに、七、八冊の書物を持参するほどの読書家でもあった。 彼は戦後の刑事史は自分にしか書けないと思い、退官後、その著述に専念するつもりでいたが、世間は彼を無職のままにし ておくことを許さず、そのため再就職したので、宿志を果たせなくなったのを悔やんでいた。私も心ひそかにそれが達成されるのを祈っていた。幸い簡単な刑事史を自分でワープロを打って書き、それを同志に頒布した。しかし天命というべきか、昭和天皇の大葬に参列して後、病の床に臥す身となり、ついに永眠に就いてしまった。彼は陶淵明が好きであったので、私は訃音
(ふいん)に接するや、


われもまた、ともにゆかなん桃の里
 

という句を弔電に書いた。
 

高松敬冶IMG_7011-1_edited.jpg

​岡田先生の書斎での高松敬冶氏

哲人弁護士

​ 終戦後、 時世が大変革し、 そのために、往々にして人々の価値観も従来と百八十度転換するようなことがあった。特に若い青年たちの人生観、社会観に大きな動揺が生じ、そのために彼らは悩んだ。終戦時に海軍兵学校や陸軍士官学校に在籍していた者は、特にこの傾向が甚だしかったようである。

 中学二年生のとき、漢詩を書いて私を驚かせた吉田士郎君もその一人で、終戦後、九大の経済学部に入学した彼はときどき私にその一端を漏らした。悩むことは哲学の始まりである。真摯な者であればあるほどこうなるのは当然のことであろう。彼は経済学部卒業後、司法官の試験に合格し、弁護士になって今日に至っているが、自分の職業についても常に悩んでいたようである。
弁護士という職業も、考えてみれば民事、刑事を問わず、現実社会の最も生々しく人間の功利心が渦巻く中で事件を処理して行かなればならないのであるから、一片の正義感だけでは処理できないことがある。したがって心の潔癖な人であればあるほど悩みが多いのは当然である。 それに対処するにはそれなりの人生観、社会観を持つことが要求される。吉田君は思弁に長けた学究肌の人であったから特に悩みが深かったので、自然に自分で哲学するようになり、また、芸術論などにも独自の見解を有するようになった。 

 

​ あるとき、純粋潔白という点で法曹界で有名な先輩、玉重無得先生を紹介してもらった。先生はキリスト教信仰者でもあり、神道信奉者でもあった。人格の高潔なことは一見した瞬間看取された。玉重先生は私より二、三歳年下であるが、私はときどき先生が中心になって催されていた土曜会に招かれて、有名な弁護士や判事に儒教の話をしたことがある。
先生からは、 「これを読むように」 と、神道についての名著を贈られたことがあるが、私自身、晩年になるにつれて、知らず識らずのうちに神道を意識するようになった。 ともあれ、こういう哲人弁護士が健在であることはまことに意を強うする。

感恩の人

福岡の儒者、貝原益軒は、
「人は、天の恩、君主の恩、師の恩、親の恩によって始めて生き存らえることができる。だからこの恩に酬いるのが人の道である」
という意味のことを述べている。まさにその通りで、感恩こそ人道の本であるといっても過言ではあるまい。中学修猷館時代の教え子である瀧口実君こそ感恩の人といってよいであろう。 
 彼は米国育ちの二世であるが、戦時中、日本で学校教育を受けた。両親はアリゾナで農業を営んでいたので、終戦後アメリカに帰り、両親のあとを継いで農業を営んでいる。彼が中学を卒えて熊本の五高に進学したときに終戦になったが、当時の寮生活の食事は想像を絶するものであったことはいうまでもあるまい。そのとき私は、家族を熊本に残して福岡に単身赴任していたが、家族の食生活は大変なものであった。しかし、家内が郊外に買い出しに行ったので食事には多少余裕がないでもなかった。 幸い家が五高の近くにあったので、彼は空腹でどうにも我慢ができないときにはよく拙宅を来訪したらしい。家内も気の毒に思いできるだけのことをしたようである。

 しばらく経って彼はアメリカに帰った。 一年後、私は家族を福岡に呼び寄せたが相変わらず貧乏生活が続いた。その頃、彼から米ドルが贈られてきた。これでどれだけ助かったか分からない。以後、現在まで毎年欠かさずアメリカの果物や菓子を贈ってくる。私が訪米したときはラスベガスやグランドキャニオンを案内してくれた。 彼の住むアリゾナの家に宿ったことがあるが、そのとき見た、赤い大きな太陽が西に沈むときの夕景色は、心のカメラに強く焼き付いている。 
 彼は大柄で大度があり、常に日本の農業実習生をわが家に招いてその指導にあたった。彼の語るアメリカ及びアメリカ人気質についての話は非常に有益であった。

瀧口実IMG_7013-1.jpg

​瀧口 実 氏

古武士的
キリスト教信者

​ 私はキリスト教に対しては、前に述べたように余り関心を抱かなかった。しかしキリスト教を排斥するものではない。人は誰でも自分の宗教を持つ権利があるから。
ただ敢えていうなら、日本人のキリスト教は日本的になってほしいと思う。一例を挙げるなら、わが家で自分の祖先を祭ってほしい。 


 キリスト教徒の中には素晴らしい人がいることは確かである。九大の先輩であり、また同僚でもあった私の知人に、古武士的キリスト教信者の石本岩根教授がおられた。先生の住家は私のごく近くにあったので、ときどき往来して学問、教育、あるいは時世の話をよくしたものである。ご尊父が土佐派の画家であった関係上、子供の頃から土佐絵を習ったという。 
 専門はドイツ文学であるが、キリスト教とドイツ文学との関係を研究のテーマにしておられた。先生は謹厳実直で、しかも繊細な感覚の持ち主であった。古武士的なところがあったので、一見したところキリスト教信者とは見えないくらいで、私に対してもキリスト教の話は一切されず、もっぱら儒教の話をされた。それは、一つはご本人が儒教的な教養の持ち主であった上に、私自身が儒者的であったからでもあろう。 先生は九大退官後、西南学院大学に奉職されたが、その頃は学園紛争が盛んであった。かつて重い肺結核に罹って片肺が殆ど機能しない身体であったにもかかわらず、 過激派の学生の前にわが身体を張って学長を守ったということである。私はその話を聞いて身の引き締まる感じがした。 先生はこういう方であった。 

成人教育

 日本には、主として儒教をもって成人教育に邁進しておられる識者が多くいる。こういう人たちは、多くは儒教の精神を身に体して社会活動をしている。この点では大学のアカデミックの研究者と違っているが、儒教が実学であるという点からいえば、 こういう人たちの立場も軽視してはならない。でき得べくんば両者が一体となることが望ましい。それには、宋明時代の中国・韓国・日本の書院学のようなものが再建されることが望ましい。


 日本で成人教育に身を挺して活動している人々は、多くは安岡正篤先生の門下生で、 あるいは研修所を設立し、あるいは安岡先生が創設された師友会を存続して社会教育に活躍している。例えば埼玉県にある柳橋由雄氏の郷学研修所、山形県にある地主正範氏の東北振興研修所、大阪府にある伊与田覚氏の成人教育研修所、あるいは関西師友会などがそれである。師友会は関西以外の各地にも結成されているが、関西師友会が最も盛大で隆盛を極めている。 
 また、儒教を本とする成人教育において儒教の教典を講読しているところは、東京の湯島聖堂や備前(岡山県)の閑谷(しずたに)学校など数えきれないほど多い。私もその一端を担っている。
 戦前、戦後を通じて、日本の成人教育に最も偉大な力を発揮したのは安岡先生であろう。先生は学者としても秀れた方であり、また政界の巨頭たちからも師表として尊ばれた。埼玉の研修所では金鶏神社を建立して先生を祀っている。先生と始めてお会いしたのは私が九大に奉職していたときで、恩師楠本先生から始めて紹介された。師の命で、あらかじめ私は先生に、「劉念台の誠意論」と題する拙論を贈っていたが、 面接のとき、 
「君が岡田君ですか。もっと年輩の人かと思っていたが」 といわれたことを覚えている。その後、長い間お会いしたことはないが、明徳出版社が『陽明学大系』を出版するにあたって、先生の命で、私が作成した企画案を持参したときにお会いしたのが二度目である。そのとき先生は、企画案に一通り目を通してから、

明徳の社長に、 
「この通りやりたまえ」 
と命じ、企画案の内容については一言も触れられなかった。そのとき九大の福田殖君も同席していたが、二人とも先生の器量に感服した。 十二年ほど前に二松学舎大学で 陽明学研修所が設立されたが、先生も私もそれに関係していたので、お会いする機会が多くなった。まもなく先生は逝去されたが、先生の学徳の余韻は日本の各地に遺っている。 

安岡正篤IMG_7014-1.jpg

​安岡正篤先生

コロラドの聖人

 コロラド大学の宗教学主任、テーラー教授は、前に述べたように、『現代の儒家の道』の著者である。この著述をする前に、二度、福岡の私宅を訪問したことがある。 
 最初は二日間福岡に滞在したが、二度目は二十日間福岡に滞在して、私と質疑応答を交わした。 
 教授は私の『坐禅と静坐』の翻訳を企画していたが、やがて私がなぜ静坐を志向するようになったのか、その理由を知るために、再度福岡に滞在して幾度も私宅を訪問した。そのとき世界における最も重要な課題についての私の見解、儒教は宗教か否なかについての問題、私が静坐から兀坐を論ずるようになった動機などについて質問をされた。
 それより数年後、私は真冬の一月、ボールダーにある教授の宅を訪問して、再び質疑応答を交わしたことがある。そもそも、私が哲学的思考をするようになったのは それなりの動機があるが、それをよく理解するために私の伝記を知りたいということであった。

  テーラー教授はコロンビア大学で学位を取得したが、テーマは「高忠憲論」であった。高忠憲は、前に述べたように明末の朱子学者であるが、静坐を本にする深い体認を説いた学者で、その静坐論は私にも大きな影響があった。忠憲の朱子学は体認の学が根本であったので、その解説には苦心を必要とする。だから、今まで忠憲の哲学思想を詳細に論じたものは殆どなかった。 テーラー教授がこれを研究するようになったのは、彼自身が体認の学に深い関心を持っていたからであろう。それはまた、教授が自分の人生の課題に真剣に取り組んでいたからであることはいうまでもあるまい。教授にはただ哲学史を研究するに満足せず、それを越えて哲学しようとする姿勢が見られる。これは注目すべきことである。

  私がテーラー教授の宅を訪問したのは、前に述べたように真冬の一月であった。 一階はオンドルを焚いていたのでわりに温かであったが、書斎のある二階は冷え冷えとしていた。私たちはここでストーブに温まりながら哲学の話をした。私が、
「西洋にも体験を本とする哲学者がいるが、実際は東洋の哲学者ほど体験の学を修めたのではなく、体験の必要なことを説明し記述したにすぎない。例えばニーチェ・ ショウペンハウエル・ベルグソンの哲学でも、東洋の哲学からみればこのようにいわざるを得ない」
といったところ、教授も首肯した。次いで私が、 
「ハイデッカーも同じではないか」 というと、教授は、 
「いやハイデッカーには体験的なところがあるようだ。というのは、彼はSein (存在)とか、Dasein (現存在)を学生に説明する場合、目に涙を浮かべて述べたという。 おそらく体験を本とする人でなければ、こういう風にはならないであろう」 といった。 
 教授は謹厳実直、純粋な心の持ち主であり、その眼ざしは真摯で慈愛に満ちていた。九大の福田教授は、よく「テーラー教授はコロラドの聖人だ」といったが、まさにいい得て妙というべきであろう。 

 

テーラー教授IMG_6994-1.jpg

米国コロラド大学の宗教学主任 ロドニー・テーラー教授

哲学史と哲学

 私は親戚の者や教え子から、よくロマンティストだといわれた。私自身、現実主義の思想も研究しているけれども、実際はロマンティストであるかもしれない。ただ、 「哲学史を研究するだけでなく、それを越えて、せめて、大海の中に投げ入れた一粒の麦であってもいいから、この世を去るまでに自分流の哲学を持ちたい。そしてあの世に往ったときに、袴を着いて地下の恩師を訪問し、自分で小悟したものを恩師に提示して批正を仰ぎたい」と思った。

 
 もちろん哲学史の勉強は忽(ゆるが)せにしてはならない。そうでなければ哲学しても内容のない空虚なものとなってしまい、論語の「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」という誤りを犯すであろう。新しい哲学を産み出すといっても、これは容易なことではない。それには哲学史が提起する課題を研究することも必要であるが、何よりも現実の人生、社会の矛盾に対する切実な感受性と洞察、それを解決しようとする強い意欲がなければ、 それは不可能であろう。私の場合、その解決は体験を本とする儒学思想に拠らざるを得なかった。なぜならば、どこまでも共存的存在としての人間を中心とし、それ以上のものにも、それ以下のものにも求めたくなかったから。 


 前に述べたように、いわゆる西田哲学は「体験を主とする禅、あるいは陽明学が背景になっている」といわれているが、それを西洋の理論で説明しようとしたために解説が晦渋(かいじゅう)になったのである。体験的な哲学はむしろ随筆風に表現するのが最も適しているのではないかと思う。 


 私も若い頃はドイツに留学したいと思ったことがある。というのは、 
「カントやフィヒテなどが大学で自分の哲学を講義したような学風が、今のドイツの大学にもあるのではなかろうか、あればそれを学びたい」と思ったから。
日本の大学においても、教授たちが自分の哲学を講義するときが一日も早くなるよう念願してやまない。
 

13.斯人舎(しじんしゃ)

叢書の刊行

 恩師は宋明儒学の研究に画期的な業績を挙げられた。私は恩師が定年退官されたのを好機とし、その宅を研究所として、例え細やかなものであってもよいから、宋明学研究会を作ろうと思った。そのためには多少の資金が必要である。そこで恩師の許可を得て山田由之助(よしのすけ)氏と資金の獲得を謀った。
 その頃、恩師の崇拝者に奥村福岡市長がいて、市長の協力を得てこれを実現するつもりでいたが、恩師も奥村氏も逝去されたので、これも不首尾に終わった。

 

 師を喪ったとき私は茫然自失し、やがて福岡の地を離れようかと思ったこともあったが、心をとり直し、
「何か宋明学の発展に役立つようなことに努めるのも報恩の一環になる」と思い、先ず日本で出版された宋明儒学関係の書物を影印
※1して、これを刊行しようと企画した。
 このことを中文社社長、李廼揚
(りないよう)氏に謀ったところ快諾を得たので、同志の協力を得て刊行書目録を作成し、全国の同学に依頼して各冊に簡単な解説を付し、

『和刻影印近世漢籍叢刊(七十八冊)』を出版した。その他にも
『和刻朱子語類 (八冊)』『劉子全書遺篇続篇(二冊)』などを発行した。
その後、安岡先生の委嘱で九大の福田殖氏の協力を得て、
『陽明学大系』と『朱子学大系』を起案し、両叢書の出版はいずれも完了した。
『叢書日本の思想家(五十巻)』を福田殖・合山究
(ごうやまきわむ)氏両氏の協力で企画し、現在はその半ばまで刊行されている。この叢書の執筆は殆ど中国学の専家に依頼した。それは、「日本の儒学にどれほど中国の儒学の影響があったのか、日本の儒学の特色は何処にあるのか」ということを読者に知ってもらうためである。

 もう一つの特色は、従来余り顧みられなかった崎門学者を多く採用したところにある。それは崎門学は最も日本的で、しかも今後大いに注目すべきものであると考えたからである。
 

 次いで、明徳出版社の依頼で

 『シリーズ陽明学 (三十五巻)』 を福田殖氏の協力で企案し、刊行した。
 

 『シリーズ陽明学』企画前に、明治の中期から昭和の初期にかけて発刊された陽明学関係の機関誌の復刻を思い立った。その理由は何か。私は、かねがね、「東洋思想の特色は体験的、実践的なところ、したがって簡易のところにある。儒教では陽明学が最もそれに該当する。中国の思想の展開を観ても、西洋とは反対に、複雑から簡易への様相を呈している」 と考えていた。 そもそも、陽明学は日本の民族性に最も適したものである。韓国では陽明学を受容せずもっぱら朱子学一辺倒となり、 しかも朱子学者の間で派閥を作って激しい争いをし、それが政争までに及んでいる。 然るに日本では幕府は朱子学を官学としたけれども、他の学派を圧迫するようなことをしなかったので、諸藩は各派の儒者を自由に起用して藩政を行なった。また朱子学、 あるいは陽明学を信奉する者でも、他の学派の研究をするという風であったので、学派の間は中国や韓国のように激しい論争をすることは少なかった。だから陽明学者でも一応は朱子学を修めることを忘れなかったのである。 元来、儒教は日本の神道の教えと合致するところがあったので、儒教が伝来するや大いに受容せられ、そのために、儒教は日本人の思想の培養に大きな役目を果たした。 ところが明治の文明開化以来、次第に衰退に向かい、そのため長い間儒教で養われてきた、日本人の醇風美俗(じゅんぷうびじゃく)が失われようとした。これを憂えた明治の陽明学者の中に、雑誌を発行してこの危機を救おうとした者がいた。


 戦後の日本では伝統的文化や思想を極度に蔑視し、欧化主義がまた一世を風靡するような状況となり、その結果、日本人はだんだん精神的支柱を失いつつあるように思われた。私はかねがね、日本人は儒教を学ばなければ精神的支柱を保持することができないと考えていたが、それには、「かつて発行された陽明学関係の雑誌を復刻して識者に訴えるしか他あるまい」と思い、その企画を立てたのである。 そこでその資料の蒐集(しゅうしゅう)にとりかかった。その結果、明治二十九年から昭和三年までの間に刊行された陽明学関係の雑誌に、次のような五種類のものがあることが分かった。
陽明学   吉本  襄(鉄華)   編集 鉄華書院(東京)刊
王学雑誌  東 敬治(正堂)   編集 明善学社(東京)刊  
陽明学   同             陽明学会(東京)刊        
陽明    石崎酉之允(東国)  編集  大阪陽明学会 刊
陽明主義  石崎酉之允等     編集  同
 右のうち、鉄華書院刊行の『陽明学(七十九号)』の復刻は完了し、明善学社刊行の『王学雑誌』は目下、印刷中である。

※1 影印:底本を写真撮影し、それを原版にしてオフセット印刷などで印刷した「複製本」のこと

『宋明哲学の本質』口絵 王陽明-1-1.jpg

​王陽明先生 画像(岡田武彦先生所蔵)

IMG_7024_edited.jpg

陽明学  吉本 襄(鉄華)   編集 鉄華書院(東京)刊
林田明大先生より資料提供

唯是庵
(ゆいぜあん)

​ 六十歳の頃、ある日、私は小悟を得た。悟ったものは何であったかというと、結局、 宇宙の根本実在ともいうべきものであった。しかし、それはただ黙識神通によるもの であって、言葉ではとてもいい表わせるものではなかった。『易』の「太極」 朱子 のいう「理」「所以然の故(しょいぜんのこ)」という言葉でもこれを表わすことができないと思われた。 ここに達すると、私の言動思考がすべて人為を越えて自然に基づくように感じられたのである。そのとき、私は次のように書いた。


黙会所以然之故乎  所以然(しょいぜん)の故(こ)を黙会(もっかい)せんか
則天下之諸事    則ち天下の諸事
迎刃而解焉      刃
(やいば)を迎えて解けん
 

 この根本の実在は、敢えて述べようとすれば「唯だ是れ(ただ・・・である)」というしか他にいいようがない。そこで私は、従来の「高眠斎(こうみんさい)」の他に「唯是庵(ゆいぜあん)」という書斎名を用いるようにした。 その頃、私は自分の学問の境地を示すために、次のような「偶成」と題する一詩を作った。


偶成
人籟紛拏是与非 人籟紛拏
(じんらいふんだ)す、是と非と
天籟相忘只子棊  天籟
(てんらい)相忘る、ただ子綦(しき)のみ
博士章句古学墜  博士の章句、古学墜つ
性理空談大道衰  性理空談して、大道衰う
鍑釘訓詁益河漢  餌釘
(とうてい)の訓詁(くんこ)、河漢を益す
涵養体認転式微  涵養体認、転
(うた)た式微(しきび)
聖賢至意応認取  聖賢の至意、応
(まさ)に認取すべし
静坐読書深天机  静坐読書、天机
(てんき)深し
先師示以些存字  先師示すに些か存するの字を以す
唯是二字余所希  唯だ是れの二字は、余の希
(こいねが)ふところ
言詮不堕空与有  言詮
(げんせん)、空と有とに堕ちず
工夫到処実証之  工夫到る処、実にこれを証す
養真蘅門蕩世故  真を蘅門
(こうもう)に養ひて、世故を蕩(あら)う 
嗟非斯人誰与帰  嗟斯
(ああこ)の人にあらずして誰にか帰せん
或云汝是一狂者  或は云う、汝はこれ一狂者と
狂簡成章孔所期  狂簡
(きょうかん)、 章を成なすは、孔(はなは)だ期するところ
時対孤影酌聖酒  時に孤影に対して聖酒を酌めば
歳寒松栢青離々  歳寒うして、松栢青きこと離々
(りり)
 

 備考。この詩は王孝廉(おうこうれん)博士の批正を煩わした。
 

​岡田武彦先生の墨書

読み 上掲文参照。

意味 物事がそうなる原因(故=ゆえ)を理解すれば、

世の中の諸々の難題も、立ち所に解決する。

語釈 黙会…………黙って理解すること。

   所以然之故…その原因・理由。そうなるわけ。

   迎刃解………一刀両断に(容易に)解決する。

07.所以然之故 (昭和56年)春正月.jpg

所以然之故 (昭和56年)春正月
​唯是庵主 落款:岡田之印

1.-1 -1「HOME」 偶成 カラー化 枠線ナシ.jpg

偶成 引首印:蒼山 
署名:斯人舎逸人
落款:岡田武彦・斯人舎
 

斯人舎
(​しじんしゃ)

 戦後は儒教に対する批判が特に激しかったが、それは儒教の原典を読んで、その根本精神をよく理解しなかったからではないかと思う。何よりも大切なことは儒教の根本精神が何処にあるかをよく知ることである。それには先ず儒教の基本書である『論語』を素直に読んで、それを理解するようにしなければならない。この場合、大切なことは孔子の述べた言葉もさることながら、孔子の精神を深く理解することである。

 もう一つ重要なことは、それを他の思想、すなわち現実主義、超越主義と比較してその特色を理解することである。この二つのことは識者が往々にして忽(ゆるが)せにするとこ ろである。私が、「ものの観方に深観と大観が必要である」 という理由はここにある。 このようにして考えると、孔子の精神は『論語』「微子篇」に述べられている、次の句に端的に示されていることが分かる。


鳥獣は与(とも)に群を同じうすべからず。
吾れ斯
(こ)の人の徒と与(とも)にするにあらずして、誰と与にかせん。
天下道あらば、丘
(きゅう)、与(とも)に易(か)えざるなり。


 「斯(こ)の人」とは世の人々のことである。孔子は世の人を捨てて、独りわが身を保全しようとは思わなかった。だから世の人々との困苦を見て、これを見るに忍びない心に駆られたのである。孔子の説く道、いわゆる儒教道徳は「斯の人」に対する思いやりの心、誠の心が基本である。この心があれば自然にそれを実現する方途を講じなければならなくなる。そこで知が働いてくる。 したがって、知はむしろ情意から発するといってもよいであろう。だから、このような情意の有無が人間であるか否かを決する要因となる。そこで私は、儒教は基本的に人倫的情意主義に立つものであると考えた。


孟子は
「四端
(したん)の心のない者は人間ではない」

といった。四端とは惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心であるがその根本は惻隠の心にある。だから、人に対する思いやりの心のない者は人間ではないといってよ いのである。孟子は、孔子の「斯の人の徒と与にする心」をよく説明したものと思う。

 近年の考古学、人類学によると、 「人間はHomo Communicans (分かち合う動物)である。分ち合うことができるのは人間だけで、霊長類にはこれがない。ここに人間が霊長類と異なるところがある」 ということが、百五十万年以前の人類の遺跡の調査から明らかになったという。これによって、人間は霊長類から進歩したものであるという、ダーウィンの進化論が否定された。人間は霊長類から進歩した動物なのか、そうでないのかは別として、少なくとも、これによってゆえん 「人間の人間たる所以は、思いやりの心にある」 ことが実証されたわけである。
 私は晩年になるにつれて、私の心の中に孔子のいう「斯の人」という言葉が重要な意味を持つようになってきた。「斯人」という語は私の「偶成」の語の中にも出てくるが、七十歳頃になって始めてそれに対する明確な自覚を持つようになった。そこで また、わが書斎名を「斯人舎」と名付けた。これで私の書斎名は「高眠斎」「唯是庵」 「斯人舎」の三つとなった。 恩師在世中は「高眠斎」だけであった。地下の恩師はこれをどう思われるであろうか。

 

​「斯人舎」(しじんしゃ)  
武彦書 印

兀坐
​(こつざ)

 私は今、東洋的な哲学思想の骨髄は実践的、具体的なところにあると思っている。 なぜならばそれは体験の世界に属するからである。ただし、理論的、抽象的な西洋流の思弁を否定するつもりではない。それはそれで大いに必要である。しかし、神髄のところの把握という点になると東洋の方が秀れているように思われて仕方がない。
 私が理論的、抽象的な思弁を畏れるのは、それは譬えば禅を心理学的に研究して、それでその神髄を把握したと思ったり、あるいは『荘子』に出てくる「混沌」に七つの穴を穿(うが)って、これを死に至らしめたような愚を敢えて犯したりするからである。 ではどうすればよいのか。
 従来私は、それは静坐して心を収斂(しゅうれん)するより他はないと考えていた。けれども修行はできるだけ簡易、かつ具体的でなければならない。 簡易とは単純になることであるが、 その単純さは複雑に対する単純なく、複雑を簡易化したものである。譬えていえば、五彩を中に含む水墨画、七彩を中に含む白磁のようなものであると考えればよい。


 私は簡易化、具体化の空極のところは、物と一体となるところにあると考えた。そして、静坐ではまだ簡易化、具体化において徹底さを欠くところがあるように思われ。そこで兀坐を説くようになったのである。兀坐とはただ身体を静かにすることである。
私が兀坐を説くようになったのは七十歳の頃であった。その頃、私は次のように述べた。


余嘗説静坐矣。      余、嘗て静坐の説けり。
頃日宗兀坐。       近ごろ兀坐を宗とす。
何也。          何ぞや
曰、体躯而非体躯者也。  曰く、体躯
(たいく)にして体躯に非ざる者なり。


 『正法眼蔵』で有名な道元は只管打坐(しかんだざ)といった。私のは謂わば只管兀坐(しかんこつざ)である。何処が違うのか。それは背景となっている世界観を考えれば自ずから明らかになるであろう。 道元のは「人を棄てて仏を求める仏教的世界観」がその背景にあり、私のは「人を本とする儒教的世界観」が背景にあるのである。 兀坐すれば、人は自然に物と一体になって、道の骨髄が得られる。
 

画贊

​池田草庵

 私は『楠本端山-生涯と思想』を著わす前に、端山と交友関係のあった幕末維新の朱子学、 陽明学の大儒の往復書簡を読んだが、その書簡は両楠本家、及び草庵(そうあん)の池田家所蔵のものを参照した。 池田家にはこれら大儒の書簡が多く所蔵せられていることを聞いたので、早速同家を訪問した。

 今でも覚えているが、それは残雪が山野の各所に見られた早春の日であったが、池田家の子孫から思わぬ手厚いもてなしを受けた。そのとき子孫の方々が、「草庵先生、草庵先生」と称して、草庵を尊崇されていることに非常な感銘を受けた。こういうことが縁になって、私は池田家をしばしば訪問するようになったが、ある日、草庵の顕彰のため、その全集の刊行を企画されるよう池田粂雄(くめお)氏に勧めた。

 その結果、『池田草庵全集』が青溪書院保存会で企画され、今までに『山窓功課・上中下三巻』 『池田草庵先生著作集』『池田草庵先生遺墨集』が刊行され、残すものは『池田草庵先生書簡集』だけになった。草庵の全集刊行に際して私も編集や解説などで協力した。全集の刊行と草庵の顕彰に最も力を注いだのは、保存会委員の山本茂信氏である。氏の想像を絶する粉骨砕身、身を挺しての東奔西走の労がなければこれも不可能であったであろう。氏はかって郷里の高校に勤務され、定年後、郷里の先賢の顕彰、遺書の出版などに大活躍されたが、聞くところによれば、高校勤務のときは一日も遅刻欠勤がなかったという。

 氏はなお、草庵の門人、森梅園(ばいえん)先生の顕彰碑も建立され、『味道館主梅園森周一郎先生とその門人』を刊行された。私は『草庵著作集』『梅園集』の刊行に際しては数度お宅に招かれたが、山本氏の熱意には思わず頭が下がる思いがした。

 氏はまた草庵・梅園顕彰のために、京都の画家に草庵の肖像画一幅、梅園の肖像画三幅を依頼されたが、私の肖像画も作りたいとのことであったので、結局、合計五幅の肖像画が作られた。 草庵・梅園の肖像画ができたとき、私は氏の切なる希望によって、次のような画賛を書いた。


池田草庵先生画賛  
静坐澄心神識内明   静坐澄心、神識、内に明かなり
自訟慎独説入微也   自訟慎独(
じしょうしんどく)、説いて微に入る
布帛之文菽粟之味   布帛
(ふはく)の文、菽粟(しゅくぞく)の味
蓋世之氣孰知內藏   蓋世
(がいせい)の気、孰(たれ)か内に蔵するを知らん
   高眠斎 印


森梅園先生画賛    
親炙青溪十有余年   青溪
(せいけい)に親炙(しんしゃ)すること、十有余年
堅志類稀味道之腴  堅志は類
(たぐ)い稀に、道の腴(ゆ)を味う
薪伝之盛識者所羲   薪伝
(しんでん)の盛、識者の羨むところ
東有草庵西有梅園   東に草庵あり、西に梅園あり
   高眠斎 印


望山而楽臨川而悦   山を望んでは楽しみ、川に臨んでは悦ぶ
希志気隆希才智流   志気の隆
(たか)きを希(こいねが)い、才智の流るるを希う
遷善改過非礼無為   遷善改過
(せんぜんかいか)、礼にあらざればなすことなし
金誠之心発正気歌   金誠の心、正気の歌に発す
   高眠斎 印


青渓風月吟弄梅園    青溪の風月、梅園に吟弄(ぎんろう)
温厚篤実徳望日旺    温厚篤実、徳望日に旺んなり
際会盛時退居村落    盛時に際会するも、村落に退居す
一千子弟継承遺業    一千の子弟、遺業を継承す
   高眠斎 印


私の画賛は、自画賛になるので、些か躊躇せざるを得なかったが、結局、昭和六十三年秋、山本宅を訪問して次のような画賛を書いた。


自画賛
余性樸陋幼鮮健康    余、性樸陋
(ぼくろう)、幼にして健康鮮(すくな)
少厭世事独居猶專    少くして世事を厭
(いと)い、独居猶(な)お専らにす
求道良師時値弱冠    道を良師に求む、時に弱冠に値
(あ)う。
始室失偏家亦大難    始室、偏
(へん)を失い、家にまた大難あり
誠執静坐希求高眠   誠に静坐を執り、高眠を希求す
道統帰我五十垂年    道統我に帰するは、五十垂年
(すいねん)なり
耳順之始太極心間    耳順
(じじゅん)の始め、太極、心に間す
古稀其来斯人旨全    古稀のそれ来るや、斯人
(しじん)の旨全し
何以至此兀坐使然    何を以てかここに至る、兀坐
(こつざ)然らしむ
余将何之天命従爲    余まさに何
(いず)くに之かんとするや、天命に従わんのみ
    斯人舎
「余まさに何くに之かんとするや、天命に従わんのみ」 とは、今の私の境地を述べたものである。

池田草庵先生の胸像(宿南小学校正門).jpg

​池田草庵先生の胸像

​青谿書院の外観

​青谿書院の外観

​青谿書院の内部

写真提供:養父市 教育委員会教育部 歴史文化財課 様

IMG_7187.jpg

幕末の大儒・池田草庵先生半世紀の墨蹟の精粋​
『池田草庵先生遺墨集』 
本誌・池田草庵先生の遺墨と関係資料
別冊・草庵先生遺墨の訳註・草庵先生の和歌・書・落款の考察
監修 岡田武彦 
編集 池田草庵先生遺墨集編集委員会 
発行 財団法人 青谿書院保存会
昭和60年(1985)5月16日発行​

岡田武彦先生講演・池田草庵.JPG

​岡田武彦先生による池田草庵先生百年祭記念の講演

S__4358146-1.jpg

『林良斎と池田草庵』岡田武彦 著 明徳出版社

主静体認の学
過激な師と異なり虚心に学を求めた醇儒
朱子学一辺倒の藩風の中、体認を主とする陽明学を唱えた良斎は、朱王両学を究める草庵と初めて会い千古の心友と激賞・敬慕された。両儒の生涯と思想。

 ・画賛/池田草庵

参考書籍・資料(要約部分は頁を記載)

岡田武彦述『我が半生・儒学者への道』 福岡県小郡市「思遠会」 1990.11.22(非売品)

​・掲載に関して岡田武彦先生のご子息に了承をいただいております。

​・岡田武彦先生の写真は​、この書籍でコロンビア大学教授・ロドニー・テーラーが撮影されたものを掲載。

・日本の学友協力で王陽明遺跡探訪と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、そして中国の学者との交流​、及  

び成人教育責任者との交流の写真をこの書籍から掲載。思遠会の金内美代子氏より写真の掲載の了承をいただきました。

※岡田武彦先生の想いを忠実に伝えたい為、引用、又は引用・要約しています。分かり易く図で表現している箇所もあります。

1.「青年期に世の中の矛盾を考える様になる」は「第一章 ふるさと」pp.11-49と「第二章 自然を友に」 

pp.51-81から岡田先生と家族に関する内容。

2.「岡田先生の思想形成に影響を与えた播磨の自然」は「第二章 自然を友に」pp.51-81から岡田先生に影響を

与えた内容。写真は現地にて撮影。

仁寿山と仁寿山校

「頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育」島田清 著 兵庫県教育研修所 1969、

『姫路藩の藩老 河合寸翁伝』穂積勝次郎 著 1972

『論語新釈』宇野哲人 著 講談社文庫 1980

3.「人生の矛盾が解けないか糸口を探した旧制姫路高等学校時代」は「第三章 高校生時代」pp.83-115か

ら中項目のテーマを取り上げ、小項目を掲載。※旧制姫路高等学校の写真は追悼文集から掲載。

4.「進学した九州大学で、生涯師事する学者に出会う」は「第四章 大学生時代」pp.117-157から中項目のテ

ーマを取り上げ、小項目を掲載。※九州大学関連の写真は追悼文集から掲載。

5.「中学教師時代 一 旧制富山県立神通中学校教師時代」は「第五章 中学教師時代 一」pp.159-183から中項目を取り上げ、小項目を掲載。

6.「中学教師時代 二 ・旧制宮崎県立延岡中学校教諭時代、福岡に赴任・旧制福岡県立中学修猷館時代」は「第六章 中学教師時代 二」pp.185-211から中項目を取り上げ、小項目を掲載。

※イメージ写真はphotoAC(著作権有り)より購入したものを掲載

7.「戦中・戦後」は「第七章 戦中・戦後」pp.213-233から中項目を取り上げ、小項目を掲載。

※向井去来とグラマンF6F-3はウィキペディアより出典、広島の平和記念公園、広島の原爆ドーム、長崎の平和記念像、福岡県立修猷館高等学校の写真はphotoAC(著作権有り)より購入したものを掲載

8.「九州大学時代」は「第八章 九州大学時代」pp.235-263から中項目を取り上げ、小項目を掲載。

※『劉念台文集』『楠本端山』は明徳出版社発行の書籍表紙から、楠本端山先生の写真は『わが半生・儒学者への道』p.258からそれぞれ掲載。

9.「恩師・楠本正継先生」は「第九章 恩師・楠本正継先生」pp.265-289から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 楠本正継先生と岡田武彦先生​の写真は『わが半生・儒学者への道』p.279より出典

​「楠本教授と門下生たち 昭和35年(1960年)5月 九州大学構内」は楠本正継先生退官記念写真より出典 

​『中庸』第一章は『全釈漢文大系 第三巻 大学・中庸』山下龍二 著 ㈱集英社 1974.3 pp.200-207より引用

10.「コロンビア大学客員教授時代」は「第十章 コロンビア大学」pp.291-316から中項目を取り上げ、小項目を掲載。 国コロラド大学の宗教学主任ロドニー・テーラー教授の写真はp.355より出典、コロンビア大学客員教授時代の岡田武彦先生の写真はp.296より掲載、ハドソン河畔でスケッチをされる岡田先生の写真は『光風霽月―岡田武彦先生追悼文集』p.52より掲載

11.「国際会議」は「第十一章 国際会議」pp.317-337から中項目を取り上げ、小項目を掲載。

岡田先生のスケッチ、ハワイの風景写真はp.333より掲載、山崎闇斎坐像写真は宍粟市教育委員会様に許可を得て掲載しています。

12.「思い出の人々」は「第十二章 思い出の人々」pp.339-360から中項目を取り上げ、小項目を掲載

高松敬冶氏の写真はp.344より掲載、瀧口実氏の写真はp.348より掲載、安岡正篤先生の写真はp.352より掲載、国コロラド大学の宗教学主任ロドニー・テーラー教授の写真はp.355より掲載

13.「斯人舎」は「第十三章 斯人舎」pp.361-382から中項目を取り上げ、小項目を掲載

福田 殖 著「岡田武彦先生の生涯と学問」学術雑誌論文 2004.12.25 九州大学付属図書館 九大コレクション

岡田武彦 著「わが生涯と儒教―体認の学を求めて―」 1995.9.21 台湾国立中央研究院にて

岡田武彦 著『簡素の精神』 致知出版社 1998

岡田武彦 述 佐藤栄子 記「簡素の精神 日本人を日本人たらしめるもの」致知1996-8 

岡田武彦先生追悼文集刊行会 事務局代表 森山文彦 発行『光風霽月―岡田武彦先生追悼文集』平成十七年(2005)十月十七日 (主な役職・称号などはp.683から引用)

bottom of page