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​白鷺城の容姿は
岡田武彦先生の
心のシンボル

​岡田武彦先生のご紹介

​哲学者 岡田武彦と陽明学 岡田武彦/陽明学者/簡素の精神 崇物論

 姫路は国宝・姫路城と人間国宝・桂米朝さんで有名ですが、哲学者で陽明学者の岡田武彦先生も有名です。岡田武彦先生(1908~2004)は元九州大学名誉教授で王陽明研究の第一人者であり中国哲学者、陽明学者、及び多くの著作物を出版された著作家でした。先生は王陽明の墓の復建に尽力をされた方で、世界的に王陽明研究で有名な儒学者です。朱子学は理学、陽明学は心学、先生は身学を提唱されました。先生は大学時代に楠本正継教授に師事されています。

 姫路藩には賢人で家老の河合寸翁がおりました。彼は藩政改革を行い70万両の借財を解決し、藩主からその功により仁寿山を褒美に貰い受けました。その山の麓に「人材は宝」として人材養成学校の仁寿山校を創立しました。家老・河合寸翁は崎門学派の儒学者でしたが、岡田武彦先生も崎門学派の儒学者でした。

岡田武彦先生の晩年の写真

​岡田武彦  呉端氏 撮影

世界の平和と幸福と繁栄は日本の簡素の精神と崇物論

岡田武彦先生の学問の究極の到達点は

『簡素の精神』と『崇物論―日本的思想』

「朱子学は主知的」であり「陽明学は情意的」であると説き、知識を重ねるだけの頭でっかちであるより、実践し体で覚える「体認」が重要と説かれました。

​岡田先生の経歴・業績の概要

 岡田武彦先生は兵庫県姫路市白浜村字中村(現代の白浜町中村)にて明治41年(1908)に出生されました。先生は旧制姫路中学校、旧制姫路高等学校文科を経て、九州帝国大学法文学部に進学し、支那哲学史を専攻されて昭和9年(1934)に卒業されました。

 

大学卒業後は富山県、宮崎県、福岡県の県立中学校教諭、長崎師範学校教諭、熊本陸軍幼年学校教官を経て、昭和24年(1949)九州大学助教授、昭和33年(1958)九州大学の教授になられました。昭和35年(1960)文学博士、昭和41年(1966)米国・コロンビア大学客員教授、昭和44年(1969)九州大学教養部長を経て昭和47年(1972)九州大学を定年退官された後、中華学術院栄誉哲士と九州大学名誉教授となられました。その後は、昭和47年(1972)西南学院大学文学部教授、昭和52年(1977)活水女子短期大学教授、昭和57年(1982)活水女子大学文学部教授として活躍され平成元年(1989)三月(80歳)に退官されました。

そして、1986年~1996年の間、王陽明の遺跡探訪の旅や本場中国の学者との交流も深められ、王陽明の遺跡修復にも精力的に取り組まれました。また、世界の学者を招き、平成6年(1994)福岡で「東アジアの伝統文化国際会議」と平成9年(1997)京都で「国際陽明学京都会議」を開催するなど陽明学研究の同士に希望と感動を与えました。著述の傍ら地元福岡では「思遠会」「東洋の心を学ぶ会」「簡素書院」、及び全国の市民講座で多くの人々に向けた王陽明の『伝習録』や中国古典、及び自説の「身學説」「兀坐説」「簡素の精神」などの講義を行い東洋の心を教授されました。

 

昭和56年(1981)に勲三等旭日中授章受賞、平成12年(2000)西日本文化賞(学術部門)を受賞されています。平成16年(2004)10月17日に福岡市の自宅にて逝去されました。享年95歳でした。

 

 主な著書は『王陽明と明末の儒学』『宋明哲学の本質』『簡素の精神』『王陽明紀行』『東洋の道』『楠本端山』『東洋のアイデンティティ』『山崎闇斎』『貝原益軒』『孫子新解』『王陽明小伝』『岡田武彦全集』『ヒトは躾で人となる』『崇物論-日本的思考-』など多数出版されています。詳細は「著作・論文」コーナーを参照してください。

 主な称号・役職などは、九州大学名誉教授/中華学術院栄誉哲士/二松学舎大学客員教授/東方学会(日本)名誉会員/日本中国学会顧問/九州中国学会会長/国際陽明学研究中心(中国浙江省社会科学院)学術顧問及び名誉研究員/孔子文化大全編輯部(中国)学術顧問/世界孔子大学籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉校長/孔子大同礼金籌建会(中国)名誉籌建主委・永久名誉主委/国際儒学聯合会(中国)顧問/李退渓学会(韓国・日本)顧問/李退渓国際学術賞審査委員。​

自宅での岡田武彦 ロドニー・テーラー撮影

​自宅での述者(ロドニー・テーラー コロンビア大学教授撮影)

岡田先生の経歴・業績の概要
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​岡田武彦先生追想録『崇物の道』

​画像をクリックするとYouTubeで動画が見れます。

岡田武彦先生追想録『崇物の道』、岡田武彦先生の人と学問

​岡田武彦先生追想録

​①崇物の道 ②岡田武彦先生の人と学問
​(映像制作者:京都フォーラム 矢崎勝彦氏)

背景は岡田武彦先生が生まれ育った灘地区(白浜町中村含む)
仁寿山山頂から撮影

​岡田武彦 述 『わが半生・儒学者への道』

わが人生・儒学者への道

日本の学友協力で王陽明遺跡探訪と王陽明の遺跡修復、及び記念碑の建立、

王陽明史跡龍場探訪・王陽明墓碑除幕式参列訪中団

中国の学者との交流​、及び成人教育責任者との交流の写真

中国の学者と成人教育責任者との交流
岡田先生と銭明先生

中国にて、岡田武彦先生と銭明先生考察途中
​銭明先生は、浙江省社会科学院哲学研究所研究員(1992年当時)

銭明先生は岡田武彦著『王陽明と明末の儒学』『簡素の精神』等を
中国語訳され出版されています。

岡田邸・中国人学者と日本人学者達

1987年首次訪日在岡田先生宅_前

左から菰田正郎、王孝廉、小宮厚、呉光、銭明、二人おいて難波、各先生方

1.青年期に世の中の矛盾を考える様になる

 岡田武彦先生の先祖は姫路藩の儒医で七代続いた医師の家系でした。岡田先生の父は播磨聖人と称されていた亀山雲平先生の塾で学んだ人です。儒教に薫陶された強い道義的精神の持ち主で温厚篤実で寡黙な人でした。薄給で家庭も貧しかったのですが、貧しい人の税の支払いや上司の接待費の肩代わりをして支払いを行っていたそうです。村民からは白浜聖人と言われていました。その様な家庭環境でしたので、岡田先生は小学校3年生から朝夕、工場で働かれていたそうです。父も兄も立派な人格のある敬愛する人達でしたが、家庭は苦しく、兄の結核病や姉が他界したことなど、長兄が願う父の酒が止まらず父と長兄との間の重苦しい雰囲気が続きました。このような家庭環境で岡田先生は人生の矛盾を痛感する様になったと話されています。

亀山雲平先生顕彰碑 松原八幡神社

松原八幡神社境内 亀山雲平先生顕彰碑。

※松原八幡神社は赤松円心公が崇敬した神社です。建武の中興は赤松円心(則村)の挙兵に因るところが大きく、また、足利幕府成立の功は半分以上が彼のお蔭と云っても過言ではありません。

​岡田学の源流、播磨聖人・亀山雲平先生

亀山雲平先生

 亀山雲平先生は姫路藩主酒井公の家臣である亀山家7代目百之の次男として1822年に姫路で生まれました。

 九歳の時に父百之が亡くなり八歳の時藩校の好古堂に入校します。 勉学優秀で18歳の時校生より抜擢されて助教となり、その後好古堂肝煎指南手伝に昇進しました。22歳の時亀山氏長男剛毅が病没したので亀山家家督相続をします。その後姫路藩より選ばれて江戸の昌平坂学問所に入学し、3年間在学し卒業後は江戸藩邸に出仕しました。33歳の時姫路に戻り好古堂教授となりました。

 明治元年(1868年) 維新を迎えた時、幕府派の藩内過激派を制して朝命を奉じて景福寺山まで進攻してきた朝廷派の備前兵を説得して交戦を避ける活躍をしました。 あわや姫路城に砲火という事態を避けた姫路藩の勝海舟的な役割を演じたといっても過言ではありません。

明治3年(1870年) 藩主忠邦の侍講 (藩主に五経四書を講釈)となり明治4年(1871年) 長男・享に家督をゆずり、八正寺が立ち退いた後とりあえず祠宮に就任した元社僧神田豊齊の後を受けて、明治6年(1873年) 松原八幡宮祠宮 (社司) となり松原へ移り住みました。

  私塾、久敬舎を建てて地元向学の士に学問を教え、明治17年(1884年)には新たに講堂と塾舎を建てました。 これが観海講堂です。 現在白浜小学校はこの跡地に建築され、その校庭に観海講堂の碑石が残っています。 又、亀山雲平先生は明治10年(1877年)には宇佐崎、中村、松原村が合体してできた白浜村の村名を「海原を白浜と化し一夜に数千本の松を生ずべし」と宣託があったという神話に基づいて白浜と命名しました。

 近世は松原村、中村、宇佐崎、東山村、八家村、木場村の六カ村は松原庄、或いは松原郷と呼ばれ現在の宇佐崎、中村の地は本松原、松原村は西脇と呼ばれていました。 又、一夜にして粟の如く松を生じたので「粟生(おう)の松原」とも呼ばれていました。

 その後、姫路射楯兵主(いたてひょうず)神社と姫路神社の社司を兼任しました。現在の松原八幡宮の宮司亀山氏はこの子孫です。 明治32年(1899年)、78歳の時観海講堂において逝去され姫路景福寺に葬られました。直接教えを受けた人は播磨一円に及びその数は五百とも千ともいわれ播磨聖人と言われました。

※『灘地区の地域資源』 灘地区地域夢プラン実行委員会 平成17年12月より出典

 亀山雲平先生

2.岡田先生の思想形成に影響を与えた播磨の自然

 岡田先生が出生された地は、瀬戸内海に面した半漁半農で、広大な塩田がある姫路市白浜村(現白浜町)でした。この村には灘のけんか祭りがあり、先生は村祭りが好きで待ち焦がれて、山野で花鳥と戯れ、海で遊泳し、川の蟹と戯れ、春夏秋冬の織りなす自然の饗宴を満喫していたと話されています。先生はこの白浜村の自然が私の思想形成を創ったと話されています。

姫路市白浜町の位置
姫路市白浜町 松原、中村、宇佐崎

仁寿山から臨む灘地区と播磨灘

姫路市白浜海水浴場

白浜海水浴場、奥に見えるのは木庭山

仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む

​仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む

 松原八幡神社

​松原八幡神社

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​松原八幡神社(姫路市白浜町甲396番地)

御祭神

本殿中央 品陀和気命(ほんだわけのみこと) (應神天皇)

右殿 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) (應神天皇の母 神功皇后)

左殿 比咩大神(ひめおおかみ)  (宇佐古来の三女神)

多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津毘売命(たぎつひめのみこと)

 天平宝字七年癸卯四月十一日(763年)九州豊前宇佐より白雲が東にたなびき、松原沖の海底に毎夜ひかり輝くものがありました。それを引き上げると「宇佐第二垂跡(すいじゃく)八幡大菩薩」の文字がある紫檀の霊木であった為、妻鹿(めが)川の下流の大岩の上に安置し祀りました。このことが朝廷に伝わり、勅使が下向し妻鹿の北東の山頂・お旅山に仮殿を造りご神体を遷しました。

 ある夜、国司は神のお告げの夢を見ました。それは「我が永遠に鎮座しようとする所は、今は海原であるが、そこを一夜にして白浜とし、粟が生じる様に数千の松を生やすから、そこに遷して祀れ。」というものでした。このことから、国司は諸国の工人を集め豊前の宇佐宮に倣って立派な社殿を造営し御神体を現在の松原の地に移しました。

 中世、播磨の豪族赤松円心は松原八幡神社を敬い、武士の氏神としての性格を濃くしていきました。応仁の乱で山名氏により社殿を焼失され、その後、赤松政則(後南朝に奪われていた三種の神器を奪還し家督の相続を許された)が再興しました。氏子達は喜びに湧き、米俵数百俵をお旅山に担ぎ上げ社前に山のように積み上げたと伝えられています。現在の灘まつりの屋台はこれがきっかけとなってつくられたとも言われています。

 その後、天正の初めに羽柴秀吉の三木城攻めの際に戦火に遭い全焼しました。秀吉の怒りを鎮め、とりなしてくれた黒田孝高(官兵衛)のお蔭で社石は六十石に減じられましたが、現在地に存続することができました。 

※松原八幡神社由緒略記より要約、参考:姫路市白浜土地区画整理事業完工誌『歴史を刻む松原荘』

◇円心堂.jpg

兵庫県上郡町・法雲寺の赤松円心堂

赤松円心のふるさと兵庫県上郡町・白旗山

​松原八幡神社より北西に黒田官兵衛の妻鹿城・功山城跡があります。

お旅山と甲山.jpg

​仁寿山中腹から灘地区と播磨灘を臨む。左からお旅山と甲山
​手前の幹線道路は姫路バイパス

妻鹿城碑-1.jpg

甲山南側麓にある妻鹿城址碑

功山城(こうざんじょう)

   功山城は、市川左岸の標高102mの甲山(こうざん)にあり、別称を妻鹿城・国府山城(こうやまじょう)・袴垂城(はかまたれじょう)ともいわれています。

  初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗(めがまごさぶろうながむね)です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。その後、姫路城内て生まれた黒田官兵衛孝高(よしたか)の父織隆(もとたか)は、天正元年(1573年)に姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正八年(1580年)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としました。これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城てある姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩五六万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。天正一三年(1585年)織隆が没した後は、廃城となったようです。なお、織隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。

          平成10年4月吉日 姫路南ライオンズクラブの功山城説明掲示板(旧)より出典​

​秋季祭典・灘のけんか祭りと岡田先生

 毎年10月14,15日に松原八幡神社で行われる秋季大祭は「灘のけんか祭り」で有名です。五穀豊穣を願って行われる、播州の秋祭りを代表するこの祭りは国内外にファン層を拡げ、毎年十数万人の大観衆でにぎわいます。

  灘のけんか祭りは毎年10月15日に開催されます。松原、妻鹿、東山、八家、木場、宇佐崎、中村の灘七ヵ村の屋台七台が勢ぞろいし、熱気渦巻く壮大な祭りが繰り広げられます。宵宮は14日、本宮は15日に行われます。豪華な屋台が熱気渦巻く祭り絵巻となって私たちを奮い立たせてくれます。尚、この期間は山陽電鉄の特急が白浜の宮に停車します。

秋季祭典・灘のけんか祭り

12.灘けんか祭り①  1992.10-1.15.jpg

左から岡田武彦先生と川崎淳三氏 ​灘のけんか祭り 1992.10.15

09.先生実家跡で.jpg

岡田武彦先生(実家跡の前で)

岡田先生は郷里の秋季祭典・灘のけんか祭りを楽しみにされておられました。私(赤松)は川崎淳三氏(故人)から岡田武彦先生の『東洋のアイデンティティ』の書籍を紹介いただいて、岡田先生の哲学と『易経』を深く学ぶきっかけをいただきました。

 灘のけんか祭りと岡田先生
松原八幡神社

早朝の松原八幡神社

秋季祭典「灘のけんか祭り」
松原の神輿と赤の紙垂(しで)、及び木場の神輿と若緑の紙垂

灘のけんか祭りの三基の神輿 一の丸、二の丸、三の丸

灘のけんか祭りの一の丸、二の丸、三の丸の三基の神輿

秋季祭典「灘のけんか祭り」
松原の神輿と赤の紙垂(しで)、木場の神輿と若緑の紙垂
​中村の神輿と青の紙垂

 「しで」は「紙垂」と書きます。紙垂は雷を表し五穀豊穣と邪悪なものを払い除けると言う意味をもっています。神社に行くとよく見かけます。 灘のけんか祭りの「しで」は竹に花のような「しで」を取り付けています。この形は波を表しています。灘のけんか祭りは7地区が参加し、7つの色のしでがあります。ちなみに中村の色は青です。播磨灘の海の色になります。 その様な意味を持ち、祭りでは神輿を盛り立てます。

・東山はピンク:邪気を祓う桃の色

・木場は若緑:生気溢れる若竹の色

・松原は赤:鉄を溶かす鞴(ふいご)の火の色

・八家は黄赤:滾(たぎ)る血汗と熱血の色

・妻鹿は朱赤:質感溢れる熱血の色

・宇佐崎は黄:貴人の色

・中村は青:播磨灘の海の色

頼山陽が名付けた小赤壁

 姫路の海側に『小赤壁』と呼ばれる地があります。小赤壁(しょうせきへき)の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。

 姫路藩家老、河合寸翁が創立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、この海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宋代の詩人・蘇軾(そしょく)の長江の詩、「赤壁賦」が詠まれ、この時、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。木庭山の断崖絶壁である小赤壁は高さ約50m、長さ約800mあります。

 岡田先生はこの岩壁沿いを泳いでおられました。岡田先生は絶壁の下の海は竜神の棲家を想像させるくらい紺碧色をしていて、竜神に足を取られないかとびくびくしながら泳いだと話されています。

​西側から観た小赤壁

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木庭神社より播磨灘を臨む

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​東側から観た小赤壁

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木庭山の周辺に咲く、のじぎく

◆HATENA BLOG 「播磨の山々」の、しみけんさんがドローン空撮で小赤壁を紹介されています。
​ 全天球パノラマでパソコン上やスマホ上で映像を動かすことができます。

兵庫県姫路市の小赤壁 - 播磨の山々 (hatenablog.jp)

姫路城(白鷺城)は心のシンボル

 姫路には岡田先生が出生した北西に姫路城(白鷺城)があります。岡田先生は白鷺城の容姿は私の心のシンボルとなっていると話されています。

姫路城 白鷺城 岡田武彦先生の心のシンボル

仁寿山

 白浜町の北方に仁寿山と云う山があります。この山は『論語』から命名されました。文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を家老・河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。

  岡田先生は仁寿山に登り、山頂から明石、家島、小豆島を臨み、心静かに播磨灘を眺めるのが好きだったようです。

仁寿山 論語から命名

写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に

仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。

姫路藩 河合寸翁・仁寿山校の紹介
人材は「国家の宝」、未来を創る人材養成学校

 河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで有名です。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けました。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしました。

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​仁寿山校絵図 『姫府名士 河合寸翁傳』 姫路市役所 発行 1912.10 より出典

仁寿山と大池(西池) 仁寿山校跡

​仁寿山と大池(現在は西池)・池の右奥に仁寿山校がありました。 

 仁寿山校

姫路市郷土唱歌

昭和天皇の即位のご大典の記念につくられた、姫路市郷土唱歌です。姫路の歴史をよく表していると思います。 

一、天下に三つの名城と 其の名も高き白鷺城

旭の光さし添へば 雄姿颯爽(ゆうしさっそう)世を葢(おお)ふ

偉人豊臣太閤の 偉業燦(さん)たり千代迄も

 

二、南に続く一帯の 松翠年(しょうすいとし)に色を増し

名も三左衛門の長濠(ちょうごう)に 湛(たた)ふる水の面澄(たもす)みて

名君池田輝政の 壮圖悠(そうとゆう)たり長(とこし)へに

三、仁壽山黌跡訪(と)えば 廃墟空しく月に輝(て)り

昔を語る梅ヶ岡 薫(かほり)の花の香(か)も高く

河合太夫を仰ぐなり 晒(さら)しの布の名と共に

四、王政維新の業成るや 天一日(てんいちじつ)の大義ぞと

版籍奉還(はんせきほうかん)首唱せし 功(いさを)かぐはし酒井侯

剣かたばみの紋と共 語り伝えへん後の世に

五、國(くに)の鎮(しずめ)めの十師団 武勲赫々(ぶくんかくかく)名も高く

寸断血染(ちぎれちぞめ)の連隊旗 勇武の名残(なごり)を留めつつ

響く喇叭(らっぱ)の音色にも 勇往進取の気象あり

六、北には廣峯書寫(ひろみねしょしゃ)の山 梅に其の名の白國(しらくに)や

杖曳(つえひ)く人の増井山 南の内海(うみ)は波静か

治まる御代のためしにて 御祓市川水清(みそぎいちかわみずきよ)し

七、総社十二所本徳治(そうしゃじゅうにしょほんとくじ) 薬師の山に建つ碑文

於菊(おきく)の井戸や姥ヶ石(うばかいし) 残る床(ゆか)しの伝説を

語るに似たり公園の 姫山松は聲立(こえた)てて

八、世界に名を得し姫路革 名も高砂やかちん染め

昔ながらの色に栄え 玉川晒名(たまがわさらしな)も著(いちじる)く

明珍火箸(みょうちんひばし)も古くより 称へられたる名産ぞ

九、錦糸毛糸の紡績や 織物マッチ工場の

煙の雲にうちふるふ 汽笛の音の繁(しげ)きにも

進む市政のしのばれて 我等が意気は揚るなり

一〇、地は中國の要路にて 山舒水緩土肥(さんじょすいかんつちこ)えて

五穀ゆたかに人適(ひとかな)ひ 面積方里人四萬(めんせきほうりひとよまん)

栄えある歴史に彩られ 御代に栄ゆる我が姫路

一一、さはあれ市民(まちびと)心して 自治共同の旗影に

大勅(おおみことのり)かしこみて 殖産興業励みつつ

尚武(しょうぶ)の道もゆるみなく 一つにつくせ國のため

一二、地理の利便に相応じ 歴史の跡に鑑みて

既に備はる錦上に いで花添へん諸共に

郷土を愛する赤心(こころ)もて 更に飾らん市の歴史

 

眞野義彦先生校閲、米野鹿之助先生校閲、姫路市郷土唱歌委員会作 昭和天皇即位のご大典の記念につくられました。

姫路市郷土唱歌

3.人生の矛盾が解けないか糸口を探した旧制姫路高等学校時代

 岡田先生の家庭は貧しかったですが、小学校高等科一年の時にやっと親の許しを得て、難関で名門の姫路中学を受験し合格することができました。受験勉強をし過ぎて健康を害されたそうです。中学四年生の時、高校進学はできない家庭状況だったのですが、高校受験だけは許してもらい受験した結果、見事に合格し、両親も進学を許してくれることになったそうです。学費は中学校と余り変わらず、中学校と同じ自転車通学となりました。出来事を引用・要約して箇条書きにします。

敬愛する長兄の死

「親に孝に兄弟に友に」の長兄が結核で大喀血して他界。

読書

高校の図書館で哲学書や倫理書、及び文学書を読み漁った。

禅への興味

 禅、あるいは陽明学の影響がある西田哲学の『禅の研究』の書を読んだが難解であった。

 社会科学専攻の伊豆山善太郎教授は禅に通達しており、居士の資格を持っておられた。先生に直接会って禅にについて話を聞いた。「矛盾や悪を徹底的に見つめてみたまえ」とアドバイスをもらった。

 姫路中学の横田宗直校長は禅僧で偉い人であると聞いて、先生の所に訪問して、禅の事を聴いた。「先ず数息観より始めよ」と教えられたが、長続きはしなかった。

哲学書

和辻哲郎

​ 哲学書で興味を持ったのは和辻哲郎さんだった。和辻さんは、認識論よりも倫理学をよく研究され、姫路中学の先輩で岡田先生と同じく代々医業の家系であった。

自然主義文学

 島崎藤村、田山花袋、国木田独歩などの自然主義文学作品に興味を覚えた。先生の性格は素直であったが孤独を愛し、我が強く、権力や集団圧力には強い反発心を抱いた。

正岡子規

 正岡子規の影響を受け和歌や俳句に興味を持って日記によくそれを書いた。雄渾幽深(ゆうこんゆうしん)な和歌や俳句を好んでいた。

肺炎に罹患

 肺炎に罹患し期末試験を受けることができなかったが、一学期の成績が優秀だったのか二年生に進級した。しかし、英語教師の資格は得られなかった。

丹羽教授の授業

 丹羽教授の東洋史は印象的で忘れられない。講義から現象と原理の基本的関係から解釈するようになったが、「原理の神髄は具体的な事象によって把握される」と考えている。

大学進学の苦労

 不景気でもあり、父と次兄は就職をする様に勧めたが大学進学で口論となった。住友本社の渡辺斌衡氏が学資を出すことで九州大学に進学する事になった。人より3年遅れた。

旧制姫路高等学校正門(現兵庫県立大学環境人間学部校舎)

​旧制姫路高等学校正門
(現兵庫県立大学環境人間学部の校舎)

4.進学した九州大学で、生涯師事する学者に出会う

 岡田先生は東大や京大への進学に挫折され、九州下りするのを些か憂鬱な気分になっておられたそうです。入学した法文学部は新設学部で教授内容も教授陣も分からない状態で憂鬱な日々が続いたそうです。以下、大学時代での出来事を箇条書きにしました。

文学で心を癒す

 アララギ派やホトトギス派の和歌、俳句を読み、その源流の古典を読み漁った。

 王朝の物語や日記類、随筆などを片っ端から読み耽った。夏季休暇は帰郷せず図書館に閉じこもった。国文学の講義は実証的研究が中心で、文学は文法中心の解釈で文学論や文芸論の解説はなかった。無味乾燥で憂鬱だった

アルバイトをして

両親に送金

 渡辺氏のご夫妻からは、授業料の他に毎月五十円の送金を受けておられたが、倹約しながら青年学校で数学を教えたり、書店店員に国文の講読をしたり、家庭教師などをして、大学を卒業するまで実家に送金を行った。

在学中に結婚

 岡田先生は胃腸が弱く、下痢をして寝込み、同じ下宿先の農学部事務職の女性に粥を炊いてもらった縁から知り合いとなり、結婚をする決意を固めた。

生涯師事する

楠本正継先生

に出会う

 二学期の始めに楠本正継先生の『伝習録』の講義を受けて、非常に感激を覚え、終生のわが師と心に誓った。楠本先生の人格が高潔であったことや悩みが解決できると考えたからである。「播磨聖人」亀山雲平先生の人柄を聞いた事や「白浜聖人」といわれた敬愛する父を見て「大学では学徳兼備の偉大な学者に師事したい」と思っていた。

 楠本先生から『四書』や『荘子』の「斉物論」をしっかり読むように指導を受ける。特に「西洋と東洋の神秘主義を比較して、東洋の神秘主義が如何に秀れているかを実証してみせる」と思ったこともあった。

若き日の

恩師の学風

 二年生のとき、中国哲学、中国文学、東洋史の教授と、学生との合同研究会が開かれた。岡田先生は敬愛し心惹かれた宋学の周濂渓を発表されたとか。
​ 楠本先生は、老子の道についても西洋哲学の方法論で中国の哲学を分析、解明するやり方だった。後に楠本先生もこの方法から抜け出された。

宋明学への興味

 大学時代、楠本先生から聴講した中国哲学は、古代中国史の講義、王陽明の『伝習録』『周易』の購読と、『老子』と載震の『孟子字義疏証』のゼミのみであった。楠本先生の学風を継承できたのは、大学卒業後、絶えず先生に親炙して親しく教えをうけたからではないか。
​ 『伝習録』の講読のときに、この時代の儒学について説明を聴いて宋明学に興味を覚える様になった。周濂渓思想から学び始め、独りでこつこつと宋明学の代表的儒者の書物を読み続け、朱子学を卒論にしようと決めた。

大学の講義

 好んで西洋の哲学や倫理学の講義を聴き、ゼミに参加した。ギリシャ哲学やハイデッカーの講義には心が惹かれた。東洋史の講義で、白和文の梁啓超の『近三百年学術史』の講読で白和文の読解力が養われた。禅と神道の全般教養の無さに痛感。行動心理学、音楽美術、イスラエル宗教史、キップリングの詩などの講義は興味深いものがあった。いろいろな学科の講義を聴いて広く教養を身につける様に務めた。芭蕉の講義では俳論に興味を持った。専門外の講義を多く聴くように務めた。特に西洋の哲学や倫理に興味を持って学び、それらの動向を感じ取ることができ、思想形成に大いに役立ったようである。

学生時代の同僚

友人たち

 楠本先生の一番弟子は岡田先生で、他二人がおり、計三名が同僚であった。一年後に禅僧の僧侶二人が入ってきた。

忘れがたい友人が二人いた。山本氏と本間君であった。自分の性格と違ったタイプに興味があったのと孤独を愛する性質と無関係ではないと思った。友人からマルキシズムの話を聴いたが批判的だった。

母親による就職先の変更

 昭和九年一月十日に卒論の朱子学を提出して、優秀だったのか楠本先生から副手(一年間は無給)になって大学に残らないかと話があり教授会で採用が決定された。しかし、借金を抱え、次兄に気兼ねしていた母親が早く俸給取りにと念願し、富山市の中学校に赴任する事を決めていた。北京の卒業旅行後に知った。

九州大学 門標

九州大学の門標

楠本正継先生 研究室で

岡田武彦先生の恩師 楠本正継先生

 岡田先生の和歌
岡田武彦先生の短冊 己が身と己が心の~直筆

「大学に進学すれば学徳兼備の偉大な学者に師事したい」という、切なる気持ちを述べた和歌を岡田武彦先生は詠じられました。    

 己が身と己が心のもろもろを

​   なべて捧ぐる人ぞこほしき  

                                          武彦   

岡田武彦先生の九州大学生時代の写真

九州大学生時代の岡田先生の写真

大学図書館のイメージ図

大学図書館のイメージ

5.中学教師時代 一

・旧制富山県立神通中学校教師時代

※この頁以降は、引用・要約を行います。

校長の叱責

 昭和九年四月初め、索漠たる気持ちで霙降る薄ら寒い富山駅に降り立った。迎えに来ていた中学校の事務長の案内で神通中学校に向かった。数日後、新任教師の歓迎の宴が催され、酒宴の酣(たけなわ)になった頃、校長から「君は、もう一度大学に帰って勉強しなおしてこい」と言われてびっくり仰天して一言も口がきけなかった。原因は、赴任したとき校長の自宅に挨拶に行かなかったことらしい。処世術の不手際がこういうところにも表れた。校長は京大の英文科出身で人柄はしごく良く、懐かしい人だったが、酒癖が悪いので評判だった。

禅寺で参禅

 事志に反して中学校に勤務しなければならなかったので心中鬱々として楽しまなかった。自分の学問のやり方も変えざるを得なかった。漢文大系を購入し、それを本にして古代の中国思想の研究をして論文を書いては恩師に送って批判を仰いだが、手元に資料がないので実証的な研究はできなかった。その頃は特に老荘思想を研究した。

 氷見の臨済宗総本山の官長・勝平老師が月に一回、富山市に出張して提唱すると聞いて早速参禅した。老師は柔和な顔をしておられたが提唱のときは音吐朗々と漢詩を読まれるので、それを聞いただけでも悟りが開ける思いがした。参禅した時は『碧巖録』の提唱をしていた。「ここのところは坐禅して悟りなさい」といわれるのが常であった。「自分は禅をやっても、とても見込みはあるまい」と思うようになった。結局、参禅はしたが効果は上がらなかった。その理由の一つは禅と老荘を超克して古代の儒教を止揚し、それによってこれらを批判した宋明の新儒学に心をよせるようになっていたからである。

 学校から帰宅すると、すぐ二階に上がって専門の学問をするようにし、日曜日でも子の遊び相手もせずにひたすら机に向かった。家内の不興をかった。

周濂渓を慕う

 富山時代、主に『国学基本叢書』の『宋元学案』『明儒学案』、特に『明儒学案』を読み返して明代の儒学に親しんだが、やや隠逸の気風のある北宋の周濂渓の人柄と処世術に、益々心を動かされるようになっていた。伝記によると濂渓の部屋の前には草が茫々と生えていた。ある人が「なぜそれを刈り取らないのですか」といったところ、「わが意と一般(同じ)」といったという。濂渓は窓前の草を見て、わが心中にある天地の正意を看取したのであろう。

 濂渓は蓮を愛した。蓮は泥沼の中から中空の茎を真っ直ぐに上に出し、さざ波に洗われながら清浄の香りを放つ蓮花が好きであった。「世間の人は牡丹を愛し、陶淵明は菊を愛し、自分は蓮を愛する。牡丹は富貴の花であり、菊は隠者の花であり、蓮は君子の花である」といった。また、「人は無欲であれば心は静かになる。そうなれば行いは自然に正直公平になる」ともいった。また、処世術は巧より拙の方を貴んだ。彼のように拙を高く評価し、これを高尚なものに仕上げた思想家は少ない。そこには何故か、晋の陶淵明に相通ずるところがあるように思われる。

※①巧拙:上手下手の意
※②周濂渓(周敦頤)の号濂渓は廬山蓮花峰のふもとに構えた濂渓書堂に由来。
※③フィロソフィーはギリシャ語のフィロソフィア(知恵を愛する)から由来する。
明治新政府の要人、西周(にしあまね)は周濂渓の「士希賢」(士は賢をこいねがう)に倣い賢哲の明知を愛し希求する学と訳し、「哲学」と定めた。後に文部省はこの訳語を採用した。

西周は津和野藩(1829)生まれの藩医の子でオランダのライデン大学を卒業している。明治初期を代表する思想家で西洋学問の先駆者であり、明治新政府の近代軍制の整備に努める要人であった。哲学・科学関係の言葉は西が考案した訳語が多くある。

※②、③はコトバンクより引用・要約

 
蓮の花

​姫路市・仁寿山の近くにある蓮田の花

1.愛蓮の説 周濂渓.jpg

富山の風土

 住民の気質や物の考え方はその土地の風土と密接な関係があることを、四年間の富山生活で痛感した。富山は「一年の中で晴天は二十日ほどしかない」といわれるくらいであり、冬は殆ど毎日曇天で、ときには激しい吹雪に見舞われた。こういう土地柄であるから、生徒は忍耐強く沈静的であるが、一面、陰気で明朗さに欠けるところがないではなかった。当時、他の地方では殆ど見ない現象であったがこの地方の中学生はときどきストライキを起こした。春の頃、日本晴れの日に授業を中止して呉羽山に遠足させた。そうしないと、上級生が三々五々集まってストライキを起こすからであった。この辺の呼吸を弁(わきま)えていないと生徒指導はできない。

私の授業

 一年生には日本史、二年生に東洋史、一、二、三、四年生に修身を教えるのが私の仕事だった。一年生の「日本史の神話を教科書通りに歴史事実のように教えるのは間違いである」と思い、古代の歴史を考古学、民俗学的立場から教え、神話は民族の精神を述べたものとして教えた。唯物史観には賛成できなかった。歴史事実は民族精神と一体とするところに真の歴史学があると考えていたが、一年生に理解させるには無理であった。授業に疑問を持つ生徒がいて、小学校長をしていた父親に話したものがいたらしく、左翼思想家であると誤解を受けて、校長から注意を受けた。歴史は精神と事実の二つから理解するように重ねて説明した。私の東洋史の授業は生徒にとって難しかったようである。修身の授業は、特に下級生の場合、非常に困惑した。上級生には多少倫理学を述べることができるので、さして困惑を感じなかった。

 昭和十一年、二・二六事件が勃発。翌年、日支事変が勃発した。「いずれ自分も招集されるだろうから、あらかじめ覚悟しておかなければならない」と思った。

家族の病気

 神通中学校に赴任して、二か月後、長女が疫痢に罹患し入院した。一時は危篤状態に陥ったが家内の血を輸血して生命だけは助かった。しかし、病後がはかばかしくなく、看護婦の経験がある大家の老母の助言で、西洋芥子の行水をさせて腹部を温めてから腹部のガスがよく出るようになり、生命を取り留めた。

 その後、次女が生まれたが、自家中毒に罹って医者通いが絶えなかった。

 私の胃腸も富山に来てからだんだん悪くなり、いつも胃からガスが出通しであった。しかし、若かったせいか生徒と一緒にマラソンをする気力はあった。

 家内も次女を出産してから悪性の流感に罹患し肺を悪くし、微熱が出る様に

なった。絶対安静を家内に行ったが健康であった彼女は応じてくれず、病状は徐々に進行していった。

 私の胃腸病もだんだんひどくなり、家内ともども自滅するかもしれないと、思い、医師に相談した。医師は「気候のよい地に転任するより他ない」とのことであった。当時は日本国中に不景気の嵐が吹いていた。やっとのことで宮崎県の延岡中学に転任することができた。

祖母と父の死

 私が九大に入学した翌年、次兄は音楽教師として岡山市の南西にある女学校に、両親と祖母を連れて転任した。次兄には子供が二人いて、大家族を養って行かなければならなかったので家系は窮屈であったのかもしれない。父は次兄に肩身が狭い思いをして暮らしていたようである。父は飲みたい酒を飲まずに我慢していたらしい。次兄はしごく几帳面で、肉親に対してもそれを強いるところがあった。それが情の強さを感じさせるところであった。

 父が郷里に戻ったとき、村の人たちが同情して大いに酒を振舞ったらしく、禁酒しているところに大量の酒を飲んで、父は中風になった。祖母は私が富山に赴任した翌年、一言も喋らず他界した。父は老母を見送って一か月後他界した。

思い出の教え子

 私は数々の思い出を心に抱きながら富山を去った。昭和十三年の三月、教え子たちに見送られながら懐かしい富山を後にした。

 私と唯一深い因縁のある者がいた。それは元警察庁刑事局長、高松敬治君であった。彼は私が担任したクラスの生徒とではなかったが、私の東洋史の授業を聞いて心に感ずるところがあったらしく、たびたび私邸に来遊するようになった。私は彼が家庭のことで悩んでいる事を知った。私も同じ年頃に家庭の事情から心に悩みを持った経験があったので、彼の気持ちが身に染みて感じられた。

 高校に進学してから更に彼の悩みは深刻となり、彼に旅をさせて解決の糸口が見つかるかもしれないと考え、夏休暇を利用して延岡に来る様に勧めた。彼は喜んで延岡の私を訪問した。彼を高千穂峡や五ヶ瀬川や日向灘の海岸に案内しながら人生、社会の問題、学問の問題を話し合った。彼は延岡から郷里に帰るとき、四国の知人を訪問し、奈良に遊んで郷里に帰ったが、その時の感想を手紙に書いて寄こしたりした。彼の手紙によると、汽車が郷里に近づくにつれて胸のときめきを覚えたという。彼にとってはわが家は必ずしも楽しいところではなかったはずであったが、しばらくの間であってもそこを離れてみれば、家庭もまた懐かしく感じるのであった。そこで私は、彼への返事の中に、ドイツ語で、「母は古郷なり、古郷は母なり」と書いて送った。私は旅によって彼の気持ちが和むように望んだ。旅はうまくゆけば心の憂鬱を癒す最良の清涼剤であることを、私は信じて疑わなかったからである。

冬の立山連峰

​崇高で厳粛美を持つ冬の立山連峰

日本三大急流の一つ神通川

​日本三大急流の一つ神通川

富山の鱒寿司

富山の鱒寿司

6.中学教師時代 二

・旧制宮崎県立延岡中学校教諭時代

延岡中学

 私は家内と女児二人を連れて延岡中学に赴任したのは、昭和十三年四月だった。延岡駅には松本校長と国語科の春日・馬場両教諭が出迎えてくれた。四月の延岡はさすがに南国であって暖かかった。空は北京のように青く澄み渡り、空気は清らかだった。市内は五ヶ瀬川が流れ、川の傍らには城山があり、山頂には私が好きな有名な歌人、若山牧水の歌碑が建っている。牧水は延岡中学校の出身だった。延岡はまことに詩情豊かなところである。

 校長は高師出身のタイプで教職員の制服を海軍将校と同じ服装にさせた。挨拶も答礼も軍隊式にした。しかし、宮崎県庁の学務課の廊下で若い学務課長に深々と叩頭(こうとう)したのには、心中、些か面白くなかった。中学校長たる者はもっと毅然としてほしいと、いいたいぐらいだった。

 延岡市は田舎の小都市であるが、中学校には魅力のある教師がいた。私と一緒に赴任した高森氏は詩人肌の人で面白かった。「人はみな海は青いというが、海は赤いといってもよいではないか」といった風の人であった。塩谷君も単なる型はまりの教師ではなく、高森氏とは意気投合の間柄で、後に女子短期大学に勤務し学長になった。もう一人、私の心に強い印象を遺した岩切先生がおられた。先生は地方の名家の出身で早稲田大学の哲学科を出て郷里の延岡中学に勤務され、英語を教えておられた。先生は温厚篤実で人情が厚く大の読書家で思索家でもあったが、また大の酒好きであった。先生の目は優しく奥に深い心を湛えていて哲人らしい風貌の持ち主であった。岩切先生に料亭で馳走になった。先生は芸者の三味線を聴きながら、ちびりちびりと盃を口に運んでおられたが、突然しんみりとした口調で「お前も俺と同じだね。お前は芸を売って暮らしているし、俺も知識を売って暮らしているのだからね」といわれた。先生の心の寂しさを垣間見た感じがした。先生のこの言葉は私に強烈な印象を与えた。岩切先生は私にとっては、生涯忘れることができない一人である。一年後に京大文学部国史科出身の林氏が赴任してきた。京大の学風を持つ彼とは私の史観と一致していたのでよく歴史の話をした。延岡中学生がよい歴史の先生に学べたことを、心ひそかに喜んでいた。

岡田先生と旧制延岡中学の先生達

召集令状

 温暖な延岡に転任してきたが、家内の病状はよくならず、時々微熱を出した。養生に専念する様に注意するが、専念する風がなかった。私の胃腸は少しよくなったが、相変わらず顔色は青く痩せこけていた。

 この頃、日中事変はだんだん深刻になりつつあった。昭和十四年、ついに招集令状が下り、郷里の姫路聯隊に入隊することになった。福岡で下車して、恩師の楠本正継先生に別れの挨拶をした。その時に先生から次のような餞けの言葉を拝受した。「運命というものは、ちょうど頭上に置かれた石のようなものだ。それから逃れようとすればするほど、石はますます大きくなって重く頭上にのしかかってくる」これは名言である。宿命はこれに随循することによってのみ逃れることができる。これは、いわば荘子の因循の思想である。私は列車の中でひたすら『荘子』を読んで、わが心のより処所を求めた。しかし、姫路駅に着く頃にはある程度の悟りが得られたように感じられた。

 入隊するとすぐ身体検査が始まった。私は以前、医師から「肺尖が悪い」といわれたことがあったが、そのせいか、即日帰郷を命じられた。生徒諸君には申し訳ない私議となったが、私は在住僅か二年にして延岡を去らなければならなくなった。私の生涯の中で延岡時代は最も詩情に富む時代であった。

延岡市の街並みと空と海

​延岡市の街並みと空と海

延岡城の石垣

​延岡城の石垣

若山牧水-1.jpg

​若山牧水は延岡中学校の出身
城山山頂には岡田先生が好きな若山牧水の歌碑が建っている。
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・福岡に赴任⑶旧制福岡県立中学修猷館時代

福岡に赴任

 私は念願が叶い、福岡市に帰って再び恩師に親炙(しんしゃ)することができるようになった。私は昭和十五年四月、福岡市の中学修猷館に赴任することになった。

 当時の中学修猷館の館長は隈部先生で、威風堂々とした体躯の持ち主で、如何にも天下の修猷館の館長にふさわしい風貌の持ち主であった。

 時世もますます厳しくなり、中学生の軍事訓練も盛んで、学校の配属将校の力も日一日と強くなりつつあった。教師も国民服を着、ゲートルを巻いて登校した。ときどき学徒動員で生徒を引率して農家の農作業の手伝いに行ったものである。

 修猷館の気風は蛮カラの方で、荒波の玄界灘に臨み、やや裏日本的気候の地に育ったせいか、生徒の気象も荒っぽいところはあるが、富山の中学生と違って、礼儀正しく、教師と生徒、上級生と下級生のけじめはきちっとしていた。

 国語科の授業は他の中学とだいぶん違っていた。教科書は同じであるが、教える教師はクラス毎に異なっており、試験は各教師が一題ずつ出し合って、学年一斉にこれを行うから、教師のレベルの差によってクラスの生徒の成績に格差が生じる畏れがあった。新進気鋭の教師であっても、授業は勢い訓詁的にならざるを得なかった。このような授業は上級学校進学には有利かもしれないが、生徒の教養向上という点では不備は免れない。ある学科の教師が休講すれば、他の授業を繰り上げて生徒を早く帰宅させ、教師も自分の授業が終われば帰宅してよかった。このために生徒も自宅で勉学に精を出すこともでき、教師もまた研究に没頭することができた。

 一般に都会の教師には田舎の教師ほど詩情に富む者は少ない。しかし、都会には都会に相応しい情趣のある教師もいた。私が就任した後から二人の国語科の教師が赴任してきた。一人は私より先輩、一人は私より後輩であった。三人で炒豆会というものを作って月一回会食しながら雑話をするのが目的だった。その雑話も自然に学問に及んだので話題も結構中身のあるものになった。

 生徒の中にも思い出が残る者が多くいた。特に私宅によく来遊した生徒は印象が深い。

福井君は東大に進学したが、やがて郷里に帰って九大の中国哲学の専攻生となった。吉岡君は東大を出て毎日新聞社に勤務した。永末君は作文で私を驚かせ、後に福岡県田川市の図書館長になった。彼らは私の担任ではなかったが、私の担任の生徒で二年生の時、吉田君は漢詩を作って私を驚かせた。流暢な英語で同僚を驚かせたアメリカ帰りの瀧口君など列挙すればきりがない。恩師、楠本正継先生の令息の業(はじめ)君、韶(しょう)君も私の教え子であった。恩師は我が子に厳しかったのか、文科系の学問を専攻するには余程優秀でないと駄目だと考えられておられたようである。結局、二人とも九大の工学部卒業後、日立の研究所に勤務することになった。

恩師の学風の変化

 福岡に帰って再び恩師の謦咳(けいがい)に接することができるようになったが、そのとき恩師の学風が変わったことに気づいた。恩師が宋明思想の研究には体認が重要であるということを悟られたためではないかと思う。

 恩師の楠本正継先生から宋明学関係の貴重な書籍を拝借して読んだ。当時は時世が時世でもあり、中学校に勤務していたので、本格的な研究をするまでに至らなかったが、日本では見ることができない王陽明門下の貴重な資料を読むことができた。

子年譜

 私は恩師に読書会のお願いをし、快く承諾を頂いて、毎日曜日の午後、袴を着いてご自宅を訪問して教えを受けることにした。テキストは王白田の『朱子年譜考異』であった。私がこれを読んだあとで、誤読があれば訂正していただき、それから朱子学に関する講話を聴いた。予習は大変苦しかった。なぜならば、年譜の中には『朱子文集』や『朱子語類』の文集が多く引用されているからである。この講読会には、当時、九大の倫理学の助手をしていた永野君も参加して聴講した。

 研究会の時には朱子学だけではなく学問全般の話にも及んだ。私は先生の教言をノートに書き留めた。その頃の私は自らゲーテに対するエッケルマンをもって任じていたからである。一般に東洋の偉大な思想家については、「その人の論説よりも、むしろ語録に神髄が表れている」といっても過言ではない。恩師の語録の草稿は、残念なことに空襲で焼失してしまった。これがあれば。若き日の恩師の学風をもっと知ることができたはずである。

​※エッケルマン(Jhhann Peter Eckermann)ドイツの文筆家。ゲーテ晩年の秘書。
コトバンクより引用

孫子を読む

 日支事変もはかばかしく事が運ばず、中国大陸に進行した日本軍もだんだん奥地に戦線を拡大して、事態はいつ落着するのか見通しが立たなくなった。このまま行けば大変なことになると思った。日本軍の戦争のやり方がどうも孫子の兵法に背いていると思ったので、もう一度『孫子』を読み返し、試みに語訳などを作ってみたりなどした。そのとき「孫子の形而上的考察-孫子の兵法」と題する小論を書いた。これは恩師の紹介で『時潮』という雑誌に掲載することになった。

 戦後、生産性本部九州支部で孫子の講読をしたことがあって、聴講者の中に将軍がおられて、日本の軍人はなぜあんな戦争をしたのか質問をしたところ、「日本の将校は孫子の兵法よりも、ドイツのクラウゼンビッツの戦争論を研究していた」という答えであった。私は古今東西の兵法書の中で、孫子の兵法ほど秀れたものはないと思っている。それは、余分なことを論ぜず。徹底的に戦争の原理を追求したものであるからで、対立ないし、闘争の原理を述べたものとしては、これほど深いものはなく、それだけに孫子には秀れた世界観がある。

孫子新解の書籍

岡田武彦 著『孫子新解』
​左は初版本で日経BP社、左は岡田武彦全集で明徳出版社

ヘリゲルの弓術論

 昭和十五年か十六年頃、恩師が「この本は面白い」といって、小冊子を私に見せられたことがある。それはオイゲン・ヘリゲルの『弓術の話』の日本語訳であった。ヘリゲルは弓道の根本を技術の錬磨に求めず、禅の無心の心、無我の心に求めたが、私自身はそれを禅の心に求めるには反対で、むしろ宋明理学の心に求めるべきものであると考えている。ともあれヘリゲルの考え方は私の学風と密接な関係があるので少しヘリゲルの弓術論を紹介しておこう。

 ヘリゲルはドイツ人でリッケルトの門人であって、元々、合理主義で哲学者であり、一面キリスト教神秘主義者のエックハルト・ベーメなどの研究家でもあった。たまたまドイツに留学にきていた仙台の第二高等学校(旧制)のドイツ語の教師に日本精神を研究したいと相談をしたところ、「日本に来て弓道をやればよい」と日本行きを勧めたという。

 やがて彼は哲学、ギリシャ語、ラテン語の教師として東北大に来ることになった。ヘルゲルは五か国語に通ずる学者であったが、熱心に東北大の学生を指導したらしい。来日したヘルゲルは阿波師範のもとで弓道を習い、夫人は花道を習った。初心者は藁ずとに向かって矢を射る練習をするのであるが、(中略)阿波師範とヘリゲルとのやり取りの中から腕の力から丹田呼吸、技術の錬磨から無心の心へと悟りを開くのである。ヘリゲルはそこで始めて、弓道の根本は技であるのではなく心、すなわち無心の心にあることを悟り、帰国後、禅を本にし、キリスト教の神秘主義の言葉を雑えて日本の弓道を解説した書物を著し、これをヨーロッパに普及させた。ヘリゲルは弓道を学んで日本の神秘主義の神髄を悟ったのである。

弓道
弓道の的

恩師と東大

 ある日、恩師は私に、「東大から帰ってこないかといってきた」といわれた。私は「九大生には高校出身者が少なく、東大生はすべて高校出身者ばかりであるから、ぜひ東大にいってほしい」といって嘆願した。私が恩師に東大行きをお勧めしたのは、一つは「恩師には西洋哲学者を惹きつけるほどの学識があるから、東大で講義されるようになれば、その教え子の中から新しい哲学を創造する者がでてくるのではないか」と考えたからである。恩師もまた思うところがあったのか決意をされ、東大の要請に応じて学位論文を提出し、博士号を取得された。しかし、恩師は東大には移られなかった。「東大に行けば俸給が二桁下がるということである。そういう権威主義のところには行かぬ」といって、頑として拒否をされたのである。恩師は定年まで九大で過ごされたからこそ、学問が深潜緻密になって名著を遺すことができたのである。

 福岡に赴任 修猷館

7.戦中・戦後時代

わが家の異変

 日中事変がだんだん泥沼にはまり込んで行くのと時を同じくして、家内の肺結核も徐々に悪化していった。
 その頃、私は離婚した妹の紀子(としこ)と母を手元に呼び寄せていた。妹は私より六歳年下で、子供の頃はよく喧嘩したが兄思いで、きょうだいの中では私と最も仲がよかった。妹は郷里で幼稚園の保母をして母と一緒に暮らしていた。妹は結婚生活が不幸であったので、彼女を離婚させて福岡に呼び寄せた。母も次兄が韓国の京城の女学校に転勤することになったので次兄とともに渡韓する事になっていたが、母が老いて異国の地に行くのを不憫に思った私は、自分の手元に呼び寄せる事にした。しかし、結果的に二人に家内の看病をさせることになってしまった。
 当時、私は百円余りの俸給をもらっていたが、その三分の一を薬代に支払っていたので、母と妹と女児二人を抱えた生活は決して楽ではなかった。
家内はついに結核性腹膜炎を併発して容態が悪化した。苦しがるので、医師の指図通りに麻酔薬を注射したところ、昏々と眠り続けた。その夜、隣室に寝ていた私は呼び鈴の音で目が覚めた。急いで病室に入ってみると、家内はすでに胸の上に両手を合掌して眼を瞑っていたが、やがて永遠の眠りについた。呼び鈴は枕辺にあったとはいえ、手の届かないところにあったのに、どのようにして彼女がそれを押したのか不思議でならなかった。彼女の霊魂がそうしたのかもしれない。
思えば長い間の闘病生活であったが、家内は気性の強い方であったから、病気のことで私に苦情や苦痛を訴える事はなかった。二人の女児には心残りがあったであろうが、臨終のときには、彼女の姉妹に別れを告げて静かにこの世を去った。ときに昭和十六年四月二十二日であった。
 妹は恩師の世話で九大の法学部の事務員になったが、恩師より嘱望されてアメリカ帰りの恩師の従兄、浜本静修(しずのぶ)と結婚することになった。    
家内の死後、女児二人の世話を老母に託せざるを得なくなった。こころの定まらぬまま、恩師ご夫妻の仲介によって、今の妻と結婚することになった。
私が余り健康でない上に、彼女もまた長年肺結核を患った経歴の持ち主であったために、いつもお互い健康に注意しなければならない羽目になった。因縁と言えば因縁である。女児二人と母のいるところに嫁いで来たのであるから、彼女も神経を使ったようである。まもなく長男、靖彦が生まれた。
 私もときどき病臥することがあった。微熱が出るとしごく気分が悪いので読書もしない。そういうときは、庭の芭蕉の葉の縁がガラス窓を通して廊下に映るのや、それが明かり障子に蔭を落としているのをじっと凝視しては思いに耽ったものである。そのときは、よく過ぎしわが人生を想起しては、追体験して、「この追体験にこそ人生がある。健康な人はただ日々、心身を駆使するだけで追体験する機会がない。こういう人々に果たして人生があるのだろうか」と思った、また、「天は万人に平等に恵みを与えてくれている。身体の虚弱の人にはそれにふさわしい恵みがあり、不幸な人にはそれにふさわしい恵みがある。要は、それを自覚するかしないかにある」と思ったりしたものである。

長崎へ転任

 家庭事情から環境を変える方がよいと思って、私は福岡から離れる決意をした。幸い姫路中、姫路高同窓の吉田豊信君が福岡県秘書課長となって赴任して来たので、彼の斡旋で創設の長崎師範専門学校に赴任することになった。それは昭和十八年四月のことである。
 その頃になると太平洋戦争もだんだん日本に不利となって日本敗戦の兆候が明らかになってきた。学校でも軍事訓練が盛んに行われた。また、生徒を軍事工場に引率することも多くなった。
 昭和十九年になると空襲警報が鳴り響き、そのたびに私たち家族は防空頭巾を被って防空壕に避難した。ときどきB二十九爆撃機が飛行機雲を曳きながら大村の海軍飛行場を爆撃した。学徒も動員され戦地に向かうようになった。壮行会のときに、教職員一同、あの荘重な信時潔(のぶとききよし)作曲の『海ゆかば』の歌を、万感の思いを込めて高唱して彼らを見送ったときのことは、忘れようとしても忘れることはできない。

向井去来

 長崎では、その他に忘れることのできない思い出がある。昭和十九年の二月、その日は散歩によい小春日和であった。私は蛍茶屋から氷見峠を登ってニ十分ほど歩いて頂上に達し、そこにあるトンネルを通り抜けた。すると眼界が一挙に開けた。トンネルを抜けて、しばらく下り坂を歩いていたところ、路傍の小高いところに、一本の梅の木が数輪白梅を匂わせているのが眼にとまった。そこにいってみると、木の枝の蔭に石碑があった。よく見ると、
 『君が手も見ゆるなるべしかれすすき』
と刻してあった。眼を峠の下の方に移すと枯れ薄が靡く野原が展開していた。去来が故郷の人々に見送られて、ここで別れを告げて一人で坂を下って行ったとき、ふと顧みると、枯れ薄の中に別れを惜しむ見送りの人々の手が見えたのでそのときの感慨を述べたものであろう。

※向井 去来(むかい きょらい、慶安4年(1651年)- 宝永元年9月10日 (1704年10月8日)は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。本名は兼時、 幼名は慶千代、字は元淵、通称は喜平次・平次郎、別号に義焉子・落柿舎がある。 

写真『応々といへど敲くや雪の門』 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

向井去来・俳諧師

熊本に転任

​ 私は長崎に来るとき、蔵書は福岡の家内の家に保管してもらい、『朱子語類』 『朱子文集』『宋元学案』『明儒学案』及び『節宇遺稿』だけを持参した。そのためにこの五部の書物だけは幸いに空襲から免れた。
 長崎でも私は勉学に励んだが、空襲警報が鳴り響く情勢下では勉学どころではなかった。これなら思い切って軍の学校に勤務した方がましだと考え、昭和二十年一月、熊本幼年学校に転任した。時世が時世だけに、教室での授業は余り行われなかったが、軍の学校だけあって授業はしごくやりやすかった。熊本も他市と同じように夜の空襲を受け市街は炎上したが、幸い私の家は災害を免れた。
 広島に原爆が投下されたことはいち早く報らされたが、日本でもこういう爆弾の研究をしているということは仄聞(そくぶん)していたが、アメリカに一歩先んじられたのであろう。
 戦争も末期になったある日、教室で授業中、突然、空襲警報が鳴った。グラマンが山あいを縫うて侵入してきて、学校周辺の村を爆撃したのである。生徒を校庭内のタコツボに避難させ、私自身その後ろから走って避難しようとしたところ、突然、グラマンが頭上に見えたので、急いで地に伏せたとたん銃撃された。幸い弾は足許を掠めただけで命拾いした。
 長崎に原爆が投下されたとき、私はちょうど校庭から西の方の空を見渡していたが、突然、鈍い音が西の方から聞こえたかと思うと、きのこ雲が西方の空に拡がるのが見えた。私が長崎に勤務していたらおそらく被爆していたに相違あるまい。これも運命である。
 昭和二十年八月十五日、ラジオの前で終戦の玉音を聞いたときは、泣けて泣けて仕方なかった。

グラマンF6F・艦上戦闘機ヘルキャット

飛行するアメリカ海軍のグラマンF6F-3(艦上戦闘機ヘルキャット)
(第36戦闘飛行隊所属、1943年撮影。)
 岡田先生は米国海軍の艦上戦闘機グラマンF6F
に機銃掃射をされたと推測します。
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広島の平和記念公園・原爆の子の像

広島の平和祈念公園・原爆の子の像

広島原爆ドーム

広島の原爆ドーム
1945年8月15日8時15分この上空約600mで原子爆弾が爆発し、約14万人、当時広島の人口の33%の方が亡くなられた。

長崎の平和記念像

​長崎の平和記念像
​1945年8月9日11時2分この上空約500mで原子爆弾が爆発し、約7.4万人、当時長崎市の人口の31%の方が亡くなられた。上空を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、軽く閉ざした目は、戦争犠牲者の冥福を祈っている姿を表している。

名 医

 終戦後の生活は逼迫していて、日本の全国民は飢餓状態であった。当時の修猷館長、大内覚之助先生から「もう一度修猷館に帰ってこないか」と誘いを受けて、ひと先ず、二十一年四月修猷館に単身赴任することになった。それより一年後、家族と一緒に、今の大野城市白木原にある家内の姉の借家に住むことができるようになった。食料不足のために畑で慣れない野菜作りをした。家内も石鹸売りをして生活費を補った。
 ある日、突然、熊本で生まれた次男、修(おさむ)が疫痢で急逝した。当時食料状態の悪化で幼児の体力が衰えていたこともその原因の一つであった。近所の医師に応急の処置をしてもらい、私も医師も最初の処置が功を奏したように感じて安心したのが悪く、ついに死に至らしめてしまった。昭和二十三年六月二十五日のことであった。「ポンポンが痛い」といった子供の声は、生涯、忘れようとしても忘れることができない。
 一週間後、長男の靖彦に疫痢が伝染した。今度は疫痢の神様といわれた元の九大助教授で、のちに久留米医大の教授になられた原実先生の診断を仰いだ。すると、必ず治るといわれ、回復の経過までも予言されたが、まったくその通りになって子供は生命を取り留めた。先生の名診察ぶりにはその後も驚嘆させられることがよくあった。病気は名医に診せることに越したことはない。これは芸術も学問も同じで、世界第一等の師につくことがなりよりも大切であろう。私も第一等の師に学ぶことができたことは人生における最大の幸福であった。
 次男の死亡で家内は精神的に大きなショックを受けた。そのために家庭内もいろいろなことがあったが、修猷生がよく遊びに来るし、私も家庭で研究会をひらくなどしたので二人にとっては、それだけがせめてもの慰めであった。

中国文学

 私の九大生の頃は中国文学専門の教授がおられなかったので、教養不足を感じていた。高校、大学時代は、文学ものはもっぱら国文学関係を読んでいて、中国の文学作品はそれほど熱心に読んだことがなかった。
 ただ漢詩については相当興味があり、その中で陶淵明には深く心を寄せていた。そのために陶淵明の伝記と詩についてのノートを作ったことがある。晩年、長崎の活水女子大で講義した場合でも、陶淵明の講義は欠かしたことがない。世の陶淵明論者を見ると、私にはどうも淵明の思想に対する理解が十分でない様に思われるので、いつかはこの面から陶淵明論を書いてみようと思ったこともある。
 私は淵明の「心遠」の二字をよく揮毫したものである。神通中学出身の高松敬冶君が、確か警察庁の刑事課長をしていたときではなかったかと思うが、庁内のことで多少厭世的になったらしく、彼はある日、淵明の「心遠」を慕う旨の便りを寄こした。私は彼がこの二字に隠遁的境地を託しているのが気になった。そこで宋の胡文定の「心遠説」を紹介して彼を激励した。


  或は古人を尚有とし、
  或は志天下にあり、
  或は慮
り後世に及び、
  或は人の知るを求めずして、
  天の知るを求む。
  皆いわゆる心遠なり。


 私の住んでいた白木原の近くに、九大中国文学の教授、目加田先生が住んでおられたので、私はよく先生のお宅を訪問し、先生もまた拙宅を訪問され、ともによく散歩した。先生は文学性が豊かで、中国文学ばかりでなく日本の文学や芸術にも造詣が深かった。日本に中国文学者は多いが、豊かな文学的才能に恵まれた学者はごく稀である。私は先生に接してこの面でどれほど啓発されたか分からない。 ※慮(おもんばか)り

高校新聞発行

 日本では、敗戦を境としてアメリカの民主主義が喧伝せられ、そのために学校の気風も大きく変化した。その結果、修猷館の生徒も個人の主体的活動を尊重するようになったが、一般的には文学的思考を持つ者が多くなった。当時、私は余り健康な方ではなかったので、校友会もやや虚弱体質の生徒たちのグループの指導にあてられた。
 ある日、彼らの中の有志が、修猷館新聞を発行したいと申し出てきた。その意気込みたるは壮といわねばならぬ。最初は私的にガリバン刷りで発行していたが、やがて新聞部が正式に校友会の部に認められるようになって、改めて新聞を発行することとなり、私が初代の新聞部長になった。すべてズブの素人がするのであるから大変な苦労を伴った。GHQの許可や新聞社の専門家の指導を仰がなければならなかった。資材の購入、印刷、販売などは生徒が一手に引き受けて行った。私は彼らの目まぐるしい活躍に舌をまいた。修猷館新聞は生徒が発行した新聞としては九州では初めてであり、関西以西では第二番目であった。

福岡県立修猷館高等学校

福岡県立修猷館高等学校 校舎南門側

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技と心

 戦後は食糧事情が逼迫していたために人々は食生活に追い廻されていた。だから文献を漁る研究などできるような時世ではなかった。時代風潮もまるで百八十度転換したように大変化をきたしたので、若い人々の人生観、社会観も揺れ動いていた。その中で私は、ヘリゲルの『弓術の話』によって教えられた体認の道を探るために、先ず日本の武道芸術の精神を研究することにした。そこで、柔剣道の書や茶道、能楽に関する文献を読み漁り、そして、中国の『荘子』『列子』 の中に出てくる名人芸に関する寓話を読んで。「技と心」と題する論文を書いた。この論文は九大文学部発行の機関紙『哲学年報』に発表したが、この中で私は超越思想と芸術の関係、技術と精神との関係を論じた。この論文はその後書いた多くの論文の中でも最も独創的であったと思う。
 この作業を通じて私はますます体認の学の重要性を痛感する様になった。そして、そこに私の少年の頃からの悩みを解決する関鍵があるように思われてきたのである。

8.九州大学時代

読書の会

 戦後の日本の教育制度で私が最も遺憾に思うことは、アメリカのGHQの命令で教育制度改革が行われ、旧制高等学校が廃止されて、新制大学が創設されたことである。
 新制大学は昭和二十四年に発足したが、私も恩師の尽力で九大の新制大学の教養学部に勤務することになった。ようやく念願の研究生活に入ることができた。体認の学を信ずる私にとっては、研究生活の点からいえば、余り恵まれなかったが、その当時の苦しい生活体験は決して不利ではなく、却って有利に働いたのではないかと思う。
 私は相変わらず大野城市に住んでいたが、ときどき学生が来遊するので心は必ずしも索漠たるものではなかった。田坂君とカントの『第二批判』を読んだのもこのときである。また、九大の卒業生や学生ら数人と『論語注疏』の読書会を作り、私宅の二階でこれを一緒に読んだこともある。炊事するときの煙が畳の隙間から上がってくる中での読書会は思い出深いものがある。
 次男、修が急逝したので家庭内の空気は重ぐるしく、そのためにいろいろなことが起こったが、私自身、精神的に苦しくなると、いつも二階に上がって机に向かって読書したものである。私にとってはこれが心を慰やす最良の方法であった。また、健康の問題もあって、何か悩み事や思索の行き詰まりがあると、よく臥思したものである。私の人生は積極的な社会活動の中にあるというよりも、むしろ臥思にあったといっても過言ではあるまい。

高眠斎

 昭和二十八年の真夏、私たち一家は、大野城市から福岡市大橋の県営分譲住宅に引っ越してきた。家の籬(まがき)に植えられた木以外は一本も木がなかった。そこで、私は裏山から柏や樟の苗をとってきては家の周囲に植えて庭作りに励んだ。暑さよけに、中哲専攻の熊本・佐藤・福田の三君に手伝ってもらって藤棚を造った。
 住宅は六人家族の住宅としては手狭であった。やがて家内の工面で六畳の離れを造りそれを書斎にした。私の希望で茶室風に造った。些か「明窓浄机、香を焚いて書を読むといった古の読書人気取りになり、この部屋で香を焚き抹茶を飲んで読書した。」
 生活は相変わらず苦しかった。洋服も新調できず、ときどき質屋に行って古物を購入してこれを着た。私が初めて洋服を新調したのはそれより十数年後、ニューヨークに行くときだった。このように貧乏生活はしていても、心の中では淵明の「心遠」の二字が往来していた。ある日、北宋の哲人で詩人である邵康節
(しょうこうせつ)の詩集『伊川撃壌集(いせんげきじょうしゅう)』を読んでいたところ、
 貧苦と雖
(いえど)も高眠に碍(さまた)げ無し
という句を見出しわが書斎を「高眠斎
こうみんさい)」と命名し、それを雅号にも用いた。私は恩師からよく書画骨董を拝受したが、宛名は必ず「高眠斎主人」となっていた。
その後、私は「唯是庵
(ゆいぜあん)」「斯人舎(しじんしゃ)」の雅号を用いるようになったが、それは、そのときそのときの私の心境を表わしたものである。

書斎「高眠齋」での岡田先生 後方の額は楠本正継先生書-1.jpg

​高眠斎の岡田先生

明末の儒学

 九大に入って、初めて研究に専念することができるようになった。私は自分の思想上の課題を解決するために体認の学を志向していたので、宋明朱子学派もさることながら、特に体認を主とする陸王学派の研究に力を入れた。しかし最も力を注いだのは明末の儒学の研究であった。幸いにもこれらの研究資料は、主として恩師のお宅や九大の研究室に所蔵されていたので、思う存分研究に没頭することができた。
 私がなぜ明末の儒学に強い関心を寄せたのか。それは当時の朱子学者や王陽明学者が政治社会の腐敗、国家の危殆に瀕する中にあって、深刻な体認の学を修めたことを知ったからである。
 明末の儒学は陽明学派、新朱子学派、及び新陽明学派に分かれるが、陽明学派には左派(良知現成派)、右派(良知帰寂派)、正統派(良知修証派)の三派がある。左派は、「良知は何人にも完全に備わっているから即座にそれを悟り、それを信ずるようにせよ」といって良知の現成を唱えた。右派は良知を本体と作用に分け「本体は静寂なものであるから、心を静寂にして本体を立てるならば、自然に偉大な作用が生ずるようになる」といって良知の帰寂を唱えた。正統派は「本体は修行によって始めて証せられるものである」といって良知の修証を唱えた。特に陽明思想の左派の思想が明末を風靡したが、同時にまた、著しい弊害を生じた。
これを除いて明末の社会を立て直し、国家の履滅を救わんとして立ち上がったのが新朱子学派である。その中には陽明の講友、湛甘泉
(たんかんせん)の一派の他に、堕落した政治家と争って悲壮な死を遂げた東林学者がおり、また陽明学を修正し、宋明の学を集大成して、国土の滅亡ととともに自らわが命を絶った新陽明学者、劉念台がいた。私は東林学者、高忠憲の『静坐論』と、劉念台の『誠意論』に最も心を惹かれたが、別けても彼らの悲壮な殉節は私の心を痛く打った。
高忠憲は非東林党の不当な弾圧に抗して真冬の最中にわが庭中の池に投水自殺したが、そのとき水中に直立し、一方の手は岸にかけ、一方の手は胸にあてて従容として死んでいった。遺書の中には、
「心は太虚と同じで、本来、生死はない」
と記してあった。
劉念台もまた、国土の滅亡に殉じてわが生命を絶った。臨終に際し、
胸中、万斛
(ばんこく)の泪あり。半ばこれを二親に灑(そそ)ぎ、半ばこれを君上に灑ぐ
と述べ、門人が、先生の苦しみは如何ばかりでしょう、というと
「孤忠耿耿
(こうちゅうこうこう)」 
といった。
私は念台の行状を読んでここまで至ったとき、滂咜
(ぼうだ)として涙の流れ落ちるのを禁じえなかった。
深刻な体験を本にした陽明門下や、東林学派の顧憲成・高忠憲、及び劉念台の思想や学徳は幕末維新の朱子学者、陽明学者に大きな影響を及ぼした。
 昭和三十年頃、恩師より学位論文を提出するようにいわれたので、私は『明末の儒教』と題する論文を書いて提出した。私の著書『王陽明と明末の儒学』はこれを梓に上せたものである。 
※孤忠耿耿(こちゅうこうこう): 孤独な忠誠心
※滂咜:とめどなく流れ出る
※梓(し)に上(のぼ)せた:書物を出版する

劉念台全集

書画骨董

 私は九大に務めるようになってから、週に一回か二回、恩師の宅を訪問し、時には昼食だけではなく夕食さえもご馳走になることがあった。温潤良玉のような先生に接すると、一時でも多く先生の側にいたい気持ちにかられたからである。そのためご夫人には大変ご迷惑をおかけしたことと思う。町育ちの妻は私の田舎っぺの気のきかぬ、こういう欠点をいつも指摘して私に忠告をした。
 晩年になるにつれて恩師は骨董の話をされることが多くなり、そのために所蔵の骨董をよく見せていただいたものである。私も先生のお供をしてよく骨董店巡りをした。こういうことから私は宋明時代の骨董に関心を持つようになったが、それによって、文学はいうまでもないが、その時代の書画や陶磁がその時代の精神と不離の関係にあることを知るようになった。私は高価なものを買う資力がないからなるべく下手物を買い、また掘り出し物を見つけるようにした。ときには贋物も掴むがそうでない場合もある。
 日本の古い陶器や中国の陶磁器を見ているうちに、私はそれを通じて。日中の思想文化、民族性の相違に思いを致すようになった。
※温潤良玉
(おんじゅんりょうぎょく):温かく優しい性格

静坐説

 私は最初、陸王学を好んだけれども、やがて、
「それだけでは、ややもすれば主観に陥って客観性を失う惧れなしとしない。だから客観性を強調する朱子学を受容しなければ偏向を免れない」
と考えるようになった。
 西洋学に対する朱子学の本領は、その奥にある東洋的なところにあるのではないかと思う。こういう点を深固にしたものは、陸王学をした超克した明末の新朱子学である。特に高忠憲の学はこの点で注目すべきものである。
 忠憲の学問の眼目は静坐論にある。それは西洋的な理性中心の思想を受容して、しかも、その根底となっている人間の主体性を端的に樹立し、培養する道を示したものである。そもそも人間の主体性は宇宙の根源としての実在であるべきである。これを端的に樹立するには静坐より他に道はない。私はこのように考えた。そのために静坐に注目したのである。
 私が静坐に注目するようになったのは。戦後の大学生や知識人を見て、議論は華やかであっても主体性が欠如しているのを痛感したからである。
 ただいえることは、真知という点からいえば西洋学は間接的であり、東洋学は直接的である。だから、この点では前者は末、後者は本ということができよう。また、静は動の本となり得るが、動は静の本とはなり得ない。だから人間の行動、心情の根源は静にあるというべきである。したがって静処で人間の本性を養うことが何よりも重要である。これは私だけの考えではなく
「宋明の儒者たちが老荘や禅などを通過して得た考え方に従ったものである」
といってもよい。

万物一体の仁

 あるとき私は、当時高校生であった長男、靖彦に次のようなことをいって聞かせたことがある。
「人間はみな自分一人では生きて行くことはできない。みんなの協力のお蔭で暮らして行けるし、生きて行けるのである。だから自分も人に協力するように心がけねばならない。といっても、取り立てていうような大げさなことをする必要はない。自分の環境や才能に応じて、自分のやれることを一生懸命やることが、みなに対する協力となるのであり、恩返しになるのである」。
 ここに述べたことは、実は王陽明の「万物一体の仁」に他ならない。「万物一体の仁」ということは宋代から述べられたが、これを集大成したのが王陽明である。それは孔子の仁思想の最も円熟したものであり、儒教道徳の最高の境地を述べたものである。
 「静坐とは、実はこのような仁の体認を求める道に他ならない」といって過言ではない。
 私が読んだ小説の中で強い印象を受けたものがある。山本周五郎の小説がその一つである。周五郎の『新潮期』の中に出てくる次の物語は、まさに「万物一体の仁」を述べた他にならない。
 芸者梅八は、自分は自分の芸だけを磨いておればよい。世の中がどうなろうと自分には関係がないという考えを持っていたが、彼女はあることからこれを反省し、自分も世の中のことを考え直すようにしなければいけないと思うようになった。世の中というものは、人間が集まってできている。どんな生業をしようとも、世間と関わりなしに自分一人で生きていられるものではない。梅八は今沁み入るようにそのことを思った。
 世の中に生きて、目に見えない多くの人々の恩恵を受けるからには、自分も世の中に対して、何か返さなければならないだろう。自分はそれをしたであろうか。