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​岡田武彦先生とのご縁は河合寸翁・仁寿山校の探究

 私はUターンで姫路に戻ってきました。私が住居しています地に仁寿山と云う論語から命名した山があります。その麓に、姫路藩の家老・河合寸翁が設立した仁壽山黌(仁寿山校)があり、素人なりに調べておりました。その時に地元企業の経営者から岡田武彦先生の『東洋のアイデンティティ』の著書を紹介いただきました。また、別の地元企業の経営者の縁で岡田先生に私が纏めておりました、『河合寸翁と仁寿山校』の資料をお送り致しました。岡田先生からは人材育成の重要性と、郷里の賢人、河合寸翁の顕彰の励ましのお言葉をお手紙でいただきました。その後、『歴史の街・播磨』のブログとホームページを立ち上げて河合寸翁と仁寿山校を紹介してまいりました。

 昨年、令和5年に、岡田武彦先生の御縁により、福岡県の古賀様の御縁と御協力をいただき、今回このホームページを立ち上げる事となりました。

仁寿山と西池(旧大池)

仁寿山(左側」)と西池(旧大池)、及び麻生山(小富士山、右側)
右側に水楼とその奥に仁寿山校がありました。現在は土塀と竹林となっています。

仁寿山校井戸跡

仁寿山校井戸跡

仁寿山校絵図より 姫府名士河合寸翁伝
仁寿山校跡地 竹林と土塀

仁寿山校跡地 竹林と土塀

​『歴史の街・播磨』河合寸翁と仁寿山校のホームページを立上げて紹介

​下の画面をクリックすると、『歴史の街・播磨』にジャンプします。

仁寿山校探究記広報

1.岡田武彦先生の著書「東洋のアイデンティティ」から学んだこと

⑴ 『易経』は占いと倫理道徳の書

 岡田武彦先生の著書「東洋のアイデンティティ」の中の「古代人の英知-処世の道」で「『易経』は専ら宿命を説く書でもなければ、専ら倫理道徳を説く書でもない。両者を一体として説いたところに『易経』が英知を説く書とみなされる理由がある。」と先生は書かれておられます。私はこの文章を読んで占いと人倫道徳を一体として学ぼうと決めました。その両方を学ぶことによって自然の摂理や変化の理法がより見えてくるのではないかと思ったからです。

『東洋のアイデンティティ』岡田武彦 著

易・八卦のイメージ

​ 宇宙の万物の根源、中心、元気である太極があり、それが活動して陽と陰に分かれ、(両義)陽は⚊、陰は⚋の符牒(記号)で表します。易は二元論の様に見えますが太極は一つであり一元論です。太極が動いて陰陽となっています。陽は天、太陽、昼、剛、男、父、などであり、陰は地、月、夜、柔、女、母などとして表現します。更に、陽と陰を重ねて⚌老陽(夏)、⚏老陰(冬)、⚍少陽(春)、⚎少陰(秋)として表します。これを四象と言い、時の流れを表現しています。そして、陰陽を三つ重ねて小成卦とし、自然現象を八卦で表しています。

易・八卦のイメージ

​          『易経』六十四卦索引表
この64卦の中に自然摂理や人生が包含されています。上卦の八卦と下卦の八卦を組み合わせると64卦の大成卦ができます。一つの卦には6つの変爻(時間の変化)があります。

『易経』六十四卦索引表

仁寿山校で『太極図』を出版

姫路藩支校「仁寿山校」出版の「太極図」

天保三年(1832年)九月に出版

出典:「兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況」 島田清 著

天保三年九月(1832年)、仁寿山校で『太極図』を出版されました。

『太極図』は宋学における宇宙と人間の根本原理を説くもので、周敦頤がつくり出し、朱子が重要な新解釈を行いました。宋学の入門書『近思録』(1176年刊行)の「道体」に太極図説の説明があります。近思録とは「論語」の「切に問いて近く思う、仁その中にあり」から取ったもので「身近なことから考えてゆく」という意味です。朱子は宇宙論・形而上学を補い、宋学(新儒教)のリーダー的役目をにないました。

『易経』を学ぶホームページ『私の易の学び方』を立ち上げて
『易経』の紹介を行っています。

​下の画面をクリックすると、『私の易の学び方』にジャンプします。

「私の易の学び方」ホームページ画面

2.古代人から学ぶ「処世に重要な三つの人生観」

 現実主義と超越主義をよく理解し、理想主義に向かって生きる

 そして、もう一つ、岡田武彦先生から学んだことがあります。それはその本の巻末の「あとがき」に書かれている文章でした。先生は古代の思想家から時間と場所を超えて通用する「処世に重要な三つの人生観」を私達現代人に教えて下さっています。先生の著書からその部分を抜粋します。それは「第一は、人間は徹底的に私利私欲を求める功利的な存在であるという考え方にもとづき、これに対処する道を講ずる現実主義に立つもの、第二は人間のなすことは徹底的に矛盾に充ちたものであるという考えにもとづき、人間を超えた自然の道に従っていこうとする超越主義に立つもの、第三は、人間は元来思いやりの深い存在であるという考えにもとづき、倫理道徳による理想社会を実現しようとする理想主義に立つもの、この三つである。私個人の希望を率直に申し上げれば、第一・第二の人生観をしっかりとよく理解した上で、第三の人生観に従ってほしいと思う。」です。私はこの文章を読み、何か腑に落ちた様な感じがしました。私自身が企業や社会で体験したことやビジネス倫理で説かれている内容が、この先生の言葉に全て含まれていると思いました。

『東洋のアイデンティティ』岡田武彦 著
古代の思想家から学ぶ処世に重要な三つの人生観

仁寿山の紹介

 白浜町の北方に仁寿山と云う山があります。この山は『論語』から命名されました。文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を家老・河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。

  岡田先生は仁寿山に登り、山頂から明石、家島、小豆島を臨み、心静かに播磨灘を眺めるのが好きだったようです。

仁寿山全景

写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に

仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。

姫路藩 河合寸翁・仁寿山校の紹介
人材は「国家の宝」、未来を創る人材養成学校

河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで有名です。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けました。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしました。

仁寿山校略絵図

​仁寿山南側登山口の仁寿山校略絵図 姫路市教育委員会、姫路市文化財保護協会

仁寿山と大池

​仁寿山と大池(現在は西池)・池の右奥に仁寿山校がありました。 

仁寿山校の紹介

仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑
学問の心得が書かれており、頼山陽が仁寿山校で教授しました.

仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑

出典 『河合寸翁大夫年譜』  矢内正夫 編輯

「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」

仁寿山校朱夫子白鹿洞書院掲示碑画像

「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」デジタル処理を行いながら復元しました。

朱夫子白鹿洞書院掲示

この碑に書かれているのは、学問を志す者が、肝に銘じておかなければいけない「学問の重要な心得」が書かれています。儒教は「修己治人」の学問であり、その学問をどのように学んだらよいか、わかりやすく示されています。朱子は規則を好まず、自己を律することを尊重しており掲示としたようです。碑の主要なところを抜粋しました。

「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり※2。      

博く学び、審かに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う※3。       

言は忠信であること、行いは篤敬であること※4。忿りを懲らし慾を窒ぐこと※5、善に遷って過ちを改めること※6。

​右は身を修むるの要なり。

その義を正してその利を謀らず。その道を明らかにしてその功を計らないこと※7。

右が事柄に対処する要である。

自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならい。※8。実行してうまくゆかぬときは、わが身に振り返って反省すること※9。

​右が人と応対する要である。」

​​

※1 朱子が制定した学生心得。朱子は外から規制する学規を嫌い、掲示としました。

朱子が白鹿洞掲示碑にピックアップした出典書物

※2 『孟子』、※3『中庸』、※4『論語』、※5『易経』損卦、※6『易経』益卦、※7『漢書』、※8『論語』、※9『孟子』

出典:三浦国雄 著『人類の知的遺産 19 朱子』講談社 1979年

         抜粋引用:325頁~327頁 ニ 白鹿洞書院掲示     

​​​朱子は四書五経や漢書から重要な点をピックアップして説いています。

朱子は当時、多くの人がそうであった功利主義の人が目指す科挙(国の試験制度)を嫌いました。「民と共にある」人間をつくる学問を目指しました。河合寸翁や仁寿山校で講義を行った頼山陽もそのような志の人間を養成したかったと思います。

 

河合寸翁も財政改革を成し遂げたあと、半官半民の学校による人づくりを目指しました。

仁寿山校の白鹿洞掲示碑は長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に生まれ変わっていました。

姫路の聖人・亀山雲平先生が詠んだ鎮魂の漢文

龜山節宇(亀山雲平先生)が教え子の悲しみを詠んでいます。

近世名家短文集になっています。

長谷川君父子瘞髪之碑正面

地蔵院にある長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑

長谷川君父子瘞髪之碑側面

長谷川君父子瘞髪之碑とお地蔵様

長谷川君父子瘞髪之碑・亀山雲平先生の漢詩

亀山雲平先生の漢文

 その碑は今、姫路市京町の地蔵院の境内にお地蔵様と南天の木に守られて「長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑」となって、建立されています。この碑は、亀山雲平先生の教え子であった長谷川君父子の瘞髪鎮魂の碑です。

 ※瘞髪(えいはつ・遺髪を埋める)

 幕末・明治初頭は遊学と留学が盛んに行われました。父である長谷川鍛冶馬は藩の命により武術習得の為に福岡に遊学に、時を経ての娘婿の長谷川雉郎は明治政府の命により米国ニューヨーク州トロイに留学に行きました。しかし、長谷川君父子は遊学先、留学先で志半ば病に倒れて客死しました。亀山雲平先生はこの教え子の不幸を嘆かれ、親戚の依頼を受けてこの鎮魂の漢文をつくり父子の遺髪を埋めて碑を建立されました。藩と国の為に志を高くもって他国で亡くなった二人。遺髪を合葬すれば二人の魂はひとつのところに帰ってきて出会うだろうと、この碑がつくられたそうです。

詳しいことはホームページ「日本漢文の世界・長谷川君父子瘞髪之碑」の記事をお読みください。

  ホームページ ➡     日本漢文の世界

​※リンクは「日本漢文の世界」の管理人様の許可を頂いています。

 私はこのホームページを見て、この歴史的事実を知りました。いろいろと調べていきますと明治期初頭の留学生は痛々しいほどに国のため、プレッシャーや病と闘いながら苦学をされていたということを知りました。本当に胸が詰まる思いがします。

 

 今、長谷川雉郎の墓はニュージャージー州ニューブランズウィックの日本人留学生の墓地に眠っています。その写真をブログに載せておられる方がいます。見てください。ニューブランズウィック市は山形県鶴岡市と福井市と姉妹都市となっています。

※ホームページ「Rutgars 日下部太郎の墓を訪ねてより」は(管理人不明、現在インターネットプロバイ

 ダーのサービス終了の為、閲覧できなくなっています。)

米国ニュージャージー州ニューブラウンズウィック、ウィローグローブの日本人留学生の墓地

※ホームページより抜粋

ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。
一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。
ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと

入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳
小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳
松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳
長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳
日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳

仁寿山校の朱子の白鹿洞掲示之碑と長谷川君父子瘞髪之碑は碑文が変わっていますが、学問の心構え、つまり、「修己治人」の教えを学び実践した志の魂の碑として変わっていないのではないでしょうか。私はそのように思っています。仁寿山校の学生もそのような志を持った人が多く集まりました。

 碑の上部には前の碑と変わらず、双龍が守っています。その双龍の上部中央に宝珠がありますが、現在の碑となって、宝珠が魂に描かれているように思えるのですが、そのように見えるのは私だけでしょうか。 (※宝珠:災難を除き、濁水を清め、望みを叶えると言われています)

 碑の前に南天の木が植えられています。今、赤い南天の実をつけています。南天は発音から「難転」つまり禍を転じると云われ、幸せをもたらす木として昔からも用いられてきました。英語では「heavenly bamboo」と言います。実は咳の鎮静の薬とされてきました。南天の赤い実が長谷川君父子の魂を守っているようにも見えました。ご冥福をお祈り致します。

​明治維新前後の米国留学は命がけだった
​新しい日本国家の礎になる為に、海を渡った若獅子達

 さる3月5日ニュージャージー州のラトガース大学150周年記念会議「ラトガース大学、日本との出会い」と題するオンライン会議が開催されました。米国の週刊NY生活に「海を渡った若獅子たち」としてこの記事が掲載されました。オランダ修正協会を母体とする学校を前身として1866年に設立された州立大学です。慶応3年から明治30年までに日本人300人がこの大学で学びました。因みに姫路藩士・長谷川雉郎はニューヨーク州トロイで学びました。墓は日下部太郎を含め六人の留学生と共にニュージャージー州ニューブランズウィック、ウィローグローブの日本人留学生墓地に眠っています。幕末から明治にかけて海外に留学することは命がけの学びであったことが分かります。彼は残念ながら喀血で亡くなるのですが、彼のホームステイ先のトロイの中学校教師・ウィルソン氏は四つの行いを讃えています。

 一つは潔さ、二つは学問好き、三つは慎み、四つは真心であると言っています。

 海を渡り、米国に学び近代日本を支えた命がけの日本人留学生の記事を、是非読んでいただきたいと思います。

週刊ニューヨーク生活2021年3月6日 「海を渡った若獅子たち」

※長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑は姫路市教育委員会に顕彰をお願いし、顕彰を行っていただきました。市の刊行物「文化財見学シリーズ」を改訂され、顕彰資料は姫路市内の高等学校・国際文化科の学習資料として提供されているようです。

姫路にある仁寿山校跡地に咲く椿と竹林

姫路にある仁寿山校跡に咲く椿と竹林

玉椿 は椿の美称で、長寿の 木として祝賀の歌に多く使われる語であり、また茶席などの和室の花として鑑賞され、桜とともにきわめて宗教的な花と言われています。姫路銘菓「玉椿」は、姫山に咲く可憐な乙女椿を着想して、茶人でもある河合寸翁が名づけたとも云われています。

 春には、仁寿山校跡地には、造園業者が植えた多くの椿が咲き乱れています。椿は世界の園芸種が6,000種あるといわれ、花は散っても誇らしげに上を向く椿の特性を多くの人が愛したと言われています。

河合寸翁の和歌

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河合寸翁肖像

『姫府名士河合寸翁伝』より

河合寸翁が遅桜の歌を詠んでいます。

四月三日(現在の五月十日頃)

遅櫻を武士のえりはらひせしほまれかなはるにをくれて匂ふさくらは

                         

他界した義母のタンスから出てきたと、家内がくれた河合寸翁の複製の短冊。裏には「複製 小林松濤園」と印刷されています。

姫路藩家老 河合寸翁略伝

明和四年江戸姫路藩邸に生る。幼きにして機慧、藩主酒井宗雅忠以公殊の外之

を愛し自ら茶道、詩歌、書、絵画等を指導す。元鼎硯なる名硯を所持し、自ら

鼎或ひは元鼎を称す。藩主酒井忠道公より道の字を賜り道臣と名のる。

字は漢年、号は白水、晩年致仕して寸翁と号す。

忠以公、忠道公、忠実公、忠学公四代の藩主に仕へ、天賦の才と抜群の博識卓

見を以て藩の財政を大いに振興し、禄五千石を賜り家老の上座を命ぜられる。

文政四年場外仁寿山に自らの学問所を設け、朱子と藤原惺窩を祀り、頼山陽

等を招きて藩内外の子弟を教育し、藩黌好古堂と相俟て、多数有用の士を輩

出す。

天保六年三月隠居、同十二年六月二十四日歿、七十五、仁寿山に葬る。

                            弌 菴 識

頼山陽

​仁寿山校に招聘され、真の学問を教授した

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​広島・頼山陽史跡史料館 頼山陽坐像

竹原の頼山陽坐像

​竹原の頼山陽坐像

頼山陽(安永九年~天保三年/1780~1832)は大阪生まれの「安芸の人」で江戸時代後期の儒学者、漢詩人、歴史家、画家、書家の人と言われ、旅や酒も女性も好きな自由人でした。あの有名な『日本外史』を執筆した方です。『日本外史』は史記を参考に、源平から徳川までの武家の栄枯盛衰の歴史を綴ったもので、天皇と武家の関係を執筆し、幕末尊王思想に影響を与えた書物です。

 頼山陽は仁寿山校を訪れ学問のあり方や方法、教育や人生の意義・目的など色々な問題を討論させとた言われています。

※昔、頼山陽先生の旅に広島に行っていました。頼山陽先生のふるさと、小京都といわれる竹原に先生の像があります。

 頼山陽先生は、銘酒・剣菱を飲みながら幕府の恐れに屈することなく、酒標の霊気と酒魂によって『日本外史』を執筆されたそうです。昔買った箱入り「黒松剣菱」の中に冊子が入っており、その中に頼山陽先生が剣菱を飲みながら執筆されている絵が描かれています。また、赤穂浪士の討ち入り出陣の際にも剣菱が飲まれたそうです。その絵も描かれています。

※剣菱は不動明王の剣と鍔が商標となっています。古来武家の慶祝の祝酒に用い

られていたそうです。私も好きな一つのお酒です。

頼山陽の絵(黒松剣菱の箱に入っている冊子)

​黒松剣菱の箱に入っている

冊子の中の頼山陽の絵

頼山陽愛飲の酒

頼山陽愛飲の酒

​広島の頼山陽史跡資料館にて展示​

参考書籍・資料

岡田武彦 著『東洋のアイデンティティ 中国古代の思想家に学ぶ』批評社 1994

島田 清 著『兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況』 昭和47年(1972)

姫路藩支校「仁寿山校」出版の太極図(木活)の図(p.9)を掲載

仁寿山と仁寿山校

「頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育」島田清 著 兵庫県教育研修所 1969、

『姫路藩の藩老 河合寸翁伝』穂積勝次郎 著 1972

『論語新釈』宇野哲人 著 講談社文庫 1980

『中国の古典名著・総解説(近思録)』 自由國民社 1993年

芳井直利 著『姫府名士河合寸翁伝』 姫路市役所 1912年 仁寿山校絵図を掲載

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