
岡田武彦 その哲学と陽明学
© Okada Takehiko-Youmeigaku
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日本人と簡素の精神
字幕入り学習動画
岡田武彦先生 米寿記念講話『日本人と簡素の精神』
東洋の心を学ぶ会 平成7年(1995年)11月29日(水)
西日本新聞会館 14階会議室 講話 約50分
※冒頭の字幕 簡素の精神を「元」➡「基」に訂正
冬蔵の話の部分 PM 6:43:24「繁殖」➡「繁茂」に訂正

米寿記念講話「簡素の精神」
『易経』の火沢睽の説明をされているお姿
平成7年(1995)11月29日 西日本新聞会館

米寿記念講話「簡素の精神」
平成7年(1995)11月29日 西日本新聞会館
■ 講話全体の要点整理(箇条書き)
1. 日本人の「簡素の精神」とその世界観
・日本人は「簡素の精神」に基づく素晴らしい独自の世界観を持っている。
・伊勢神宮の神明造りはその象徴であり、ブルーノ・タウトが高く評価している。
・ブルーノ・タウトの影響で、日本人も自らの「簡素の精神」の価値に気づくようになった。
2. 西洋からの視点と再認識
・ドイツの哲学者オイゲン・ヘルゲルは、弓道を通じて日本精神を理解した。
・弓道の神わざは禅の精神に支えられており、西洋的技術伝達とは異なる。
・陽明学を学ぶ中で、宋・元・明代の文化が「簡素の精神」に通じていることを発見。
3. 陽明学と簡素の精神
・朱子学は哲学的・理論的に構築されるが、陽明学は「良知」に集約されている。
・修行は簡単であるほど生命力に溢れ、これを「易簡の学」と呼ぶ。
・日本文化も陽明学と同様に「簡素の精神」に帰着する。
4. 理論と実践の文化的差異
・中国は理論重視、日本は実践重視である。
・日本人は理論に弱いが、直感力に優れ体験的理解に長けている。
・西洋の弊害(自然破壊・人間疎外)を東洋文化で補おうとする動きがある。
5. 日本人の表現と精神性
・日本人は理屈を言わない「言挙げせぬ国」の国民性。
・精神性を深く内包し、表現は控えめ。
・奥ゆかしさや沈黙に美徳がある。(例:東京裁判での広田弘毅の無弁明)
6. 簡素とは何か
・「簡素」は「簡単で質素」な表現技術であり、精神そのものではない。
・表現を削ぎ落とすことで、内面の精神は高揚し、緊張感と奥行きを持つ。
・「簡素の精神」とは、表現の技術を通じて精神性を深化させる姿勢。
《具体的事例による説明》
7. 「蔵」の精神(隠す美)
・伊勢神宮は森の奥深くにあり、自らを隠す「蔵」の象徴。
・日本の家屋は奥まって建てられ、庭や垣根で自らを見せない。
・西洋や中国は天に向かって建つ(自らを主張する)構造。

豊受大神宮(外宮)にある風宮(かぜのみや)
風の神をお祭する別宮(べつぐう)で、元寇の時、神風を吹かせて日本をお守りになった神様です。
伊勢神宮は森の中に建立されています。

明治神宮隔雲亭
周りは木々に囲まれ庭の奥にひっそりと家屋がある

中国の広東省広州市にある六榕寺(りくようじ)の千仏塔(花塔)
空に向かって際立って建立されている。

神戸ムスリムモスク(神戸モスク)神戸中央区中山手通2-25-14
1935年(昭和10年)日本初のモスクとして神戸在住のトルコ人、タタール人、インド商人らの寄付によって建立された。
空に向かって聳え立っている印象を受ける。
8. 芭蕉の句に見る「蔵」
・「荒海や佐渡によこたふ天の川」:囚人の苦しみを直接書かずに奥に隠す。
・許六の句「ご命講や 頭の青き新比丘尼」は露骨で風韻がないと批判。
・表現を露骨にせず、奥に「蔵」することで深みを得る。
9. 陶磁器の変遷に見る簡素化
・唐代の「唐三彩」は華やか、宋代は白磁・青磁など簡素化。
・白磁は三彩の集約=飾りの極致を越えた「飾りなき美」。
・水墨画も五彩を含む墨の奥深さ。「蔵の青磁」という精神。
10. 「冬蔵」―精神の内蔵
・朱子の師・劉屏山が朱子に「元晦(げんかい)」という字を付けた由来に「冬蔵」の精神が
あります。劉屏山先生の字詞(祝詞)に「木根に晦うして春容曄き敷き、人身に晦うして神明内に腴ゆ」がある。
・冬に根を下ろし、春に花を咲かせる自然の姿に例える。
・静坐とは「冬蔵」そのもの。内面に神明を養うため。
《価値観と美意識の違い》
11. 「未完成の完成」を尊ぶ
・庭園や茶碗に見られる「わざと壊して継ぐ」文化。
・完成=充満を嫌う。隙間や不完全さに美が宿る。
・吉田兼好・千利休なども、未発の美を重んじた。
12. 相反の価値観(日本と西洋)
・清少納言の夕日、兼好の残花=不完全の美。
・西洋の充実と完成に対し、日本は余白と未完成を好む。
・文化的対比は「睽」の卦のように相反しつつ調和。
13. 飾りの極致と「白賁」
・『易経』の「賁」の卦における「白賁(はくひ)」=飾りのない飾り。
・飾りの極限に達すると「素」に回帰する。
・ピカソの晩年の絵は、子供の絵と見た目は似ても精神性が違う。
《総括:簡素の精神とは》
14. 「始め」と「終わり」を貫く簡素
・単なる初歩的な簡素ではなく、文化・文明を経た「回帰としての簡素」。
・表現を削ぎ落としつつ、生命力と精神性を宿す文化。
・これは日本文化の「高次元の簡素」であり、世界に対する大きな貢献となり得る。
15. 結び
・日本文化は「簡素の精神」に貫かれており、それは思想・芸術・生活全体に及ぶ。
・日本人は素晴らしい「簡素の精神」を今こそ意識すべきである。
・西洋と日本はあべこべでありながら、水平的に共存すべき関係。
・今後の文明のためにも、この「簡素の精神」の価値を見直すべき時である。
※『易経』の序卦伝、22番目の卦、山火賁について
山火賁(さんかひ) 賁(ひ) 艮上離下 自然調和で物を飾る 【飾る道】
賁は飾る、美しく飾る意になります。陰を上卦に艮(山)、下卦に離(火・太陽)があり、山が火(夕日)に照らされて美しく飾られている象です。陰陽がバランスよく交わり調和した状態を「飾」と言います。装飾が度を越して華美になると、バランスが崩れ実質が滅ぶ(虚飾)ことになります。
彖辞(卦辞)「賁(ひ)は亨(とお)る。小(すこ)しく往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よろ)し。」
賁は飾ることである。物事は適度に飾られることによって、スムーズに事が運ぶのである。

夕日が山を照らす

上九 無位の君子。白く賁る(白賁)。咎无し。質実簡素に戻る。
六五 天子。丘園に賁る。束帛戔戔たり。華美に飾る世を救う為に農業を薦める。吝なれど終吉。
六四 大臣。賁如たり皤如たり。白馬翰如たり。初九の賢人と共同で文飾過ぎる世を正す。
九三 大夫。賁如たり濡如たり。上下の陰爻に挟まれ美しく瑞々しく飾られている。永貞は吉。
六二 士。其の須(ひげ)を賁る。顎髭の様に九三と行動する。
初九 低位の賢人。其の趾を賁る。車に乗らず、分相応の対応をする。
※賁如(ひじょ):盛んに飾る、 濡如(じゅじょ):美しく瑞々しい、 皤如(はじょ):色が白い
翰如(かんじょ):白い色の形容、 束帛戔戔(そくはくせんせん):人に贈る絹が少ない
※『易経』の序卦伝、38番目の卦、火沢睽について
火沢睽(かたくけい) 睽(けい) 離上兌下 矛盾の対応 【背反応和の道】
睽は背反・反目の意で和合していないのである。上卦は離・火、下卦は兌・沢でそれぞれの性質は相反し、和合しない。人に例えると、上卦は離・中女、下卦は兌・少女で考え方が異なっており、背反するのである。これを解決するには時間をかけて内部を調うように努力し応和していくことが大切である。
彖辞 睽は小事には吉なり。
睽は背反することである。和合していないので大事はできないが小事は吉である。
火・日
離

沢
兌


上九 意思疎通を欠いた者。陰陽和合せよ。
六五 徳ある天子、九二に会い相談に行く。何の咎はない。
九四 孤立した大臣、初九に会いお互い真心が通ずる。危いけれど咎无し。
六三 初め上九を疑い、後和合する者。輿を後ろから引き戻され、前からも止められる。
九二 徳ある君子で賢人。主に巷に遇う。咎无し。正応だがお互い正位でない。
初九 正しき道を守る志ある者。悔い亡ぶ。馬を喪うも逐うこと勿れ、自ら復る。悪人を見れば咎无し。
ブルーノ・タウト(Bruno Taut, 1880年〜1938年)は、ドイツ出身の建築家・都市計画家・美術思想家で、モダニズム建築の先駆者の一人として知られています。
◆主な特徴と業績
・ガラス建築の提唱
1914年の「ガラス・パビリオン」は、透明性と光を活かした未来的な構造で、表現主義建築の象徴的作品となりました。
・集合住宅の革新
ワイマール時代のベルリンで、カラフルで機能的な集合住宅(ジードルング)を数多く設計し、社会住宅の模範を示しました。
・日本との関係
ナチスの迫害を逃れ、1933年に日本に招かれ、1936年まで滞在。桂離宮や伊勢神宮などの伝統建築を高く評価し、西洋に紹介しました。著書『ニッポン——日本建築への讃歌』は、欧米で日本建築再評価のきっかけとなりました。
・トルコでの晩年
その後トルコに渡り、1938年にイスタンブールで亡くなりました。
・日本滞在中、群馬県の伊香保の旧温泉旅館「太陽館」に住み、デザインにも関与。
・日本文化を深く尊重し、「桂離宮こそモダニズムの極致」とまで称えた。
オイゲン・ヘルゲル(Eugen Herrigel, 1884年–1955年)
国籍:ドイツ
職業:哲学者・大学教授
専門分野:西洋哲学(特にカント哲学)、後に日本の禅に関心を持つ
主な業績
著書『弓と禅』(Zen in der Kunst des Bogenschießens, 1948)
ヘルゲルが日本滞在中(1924年~1929年)に学んだ弓道(師:阿波研造)と、そこから得た「禅の体験」を記録した名著。
弓道を通して、無我・直感・自己超越といった禅の本質に迫ろうとした。
この本は戦後ヨーロッパやアメリカで禅ブームのきっかけの一つとなった。
評価と議論
ヘルゲルの著書は、西洋における「禅」理解の入口として大きな影響を与えた。
ただし、日本側からは「禅や弓道の本質を誤解している」との批判もあり、現代では批判的再評価が進んでいる。
広田弘毅(ひろた こうき)は、東京裁判(極東国際軍事裁判)において 文官として唯一、死刑判決を受けて処刑された人物です。以下に簡潔にまとめます。
広田弘毅(1878年〜1948年)、出身:福岡県、職業:外交官・政治家
役職歴:外務大臣 第32代内閣総理大臣(1936〜1937年)
東京裁判での位置づけ:
裁判では、主に「平和に対する罪(侵略戦争の計画・遂行)」などで起訴されました。
特に彼が総理大臣や外相であった時期に、日本の侵略政策が進行したとされ、その責任を問われました。
自ら積極的に戦争を主導したという証拠は少なかったものの、軍部の暴走を止めなかった「不作為の責任」が問われました。
判決とその後:
1948年、死刑判決を受け、同年12月に絞首刑が執行されました。
裁判では一貫して冷静で一切弁明せず威厳ある態度をとったとされ、死刑判決には内外で異論もありました。
評価:
広田の死刑には、「軍人ではない文民であるにもかかわらず不当に重い」とする見方があります。
一方で、「政府首脳として戦争を止める責任を果たさなかった」という指摘も根強くあります。
簡素の精神・俳句の事例
岡田武彦先生の『簡素の精神』における俳句の要約
1.俳句の本質
・俳句は五・七・五の十七音からなる世界最短の詩形で、日本独特の文芸形式。
・表現を極限まで簡潔にしながら、深い余情と暗示を内包する。
2.俳句の発展
・起源は古今集時代。江戸期に貞門派・談林派を経て、芭蕉が高い芸術性を確立。
・芭蕉は「わび・さび・幽玄」の美意識を俳諧に持ち込み、精神性を高めた。
・蕪村は抒情性を、子規は写実性を導入し、俳句を国民的詩へと発展させた。
3.技法上の特徴
・切れ字:意味を断ち、余情を生む(例:「や」「かな」)。
・季語:四季を象徴し、自然との一体感を表現。
・この二つにより、簡素ながら豊かな情感を伝える。
4.簡素の精神と俳句
・短い表現でありながら奥行きある風景や感情を伝えることができる。
・露骨な表現は避け、抑制と含蓄を重視する。
・俳句は「言簡にして意足る」詩であり、簡素の精神の極致を示す。
私の母から教えてもらった俳句の心
・自分の心に兆したもの
・ときめいたもの
・はっと思うこと
・心優しきとき
・慎ましくあるとき
・現実にあるとき
・現実にあったもの
・嬉しきこと
・悲しみ
・匂い
・さらりと
・驚き
・思ったもの
・偲びごと
・思い出
父の入選俳句集より。
両親は俳句同人誌である「いそな」「ほととぎす」「黄鐘」「田鶴」「円虹」に投稿しておりました。写真は私のイメージです。
ものの芽の
力強さに励まされ

夏草の根強き力
また伸びて

田鶴二百号記念俳句大会にて入選
姫路商工会議所にて大句会
昭和六十一年八月十七日
雪解けの水滴映る硝子窓
雨戸引く我が手とゞめしホトトギス
白壁に貼り付き眠る蜻蛉かな
鈴虫の羽まろやかに震わせて
時折は妻の日傘の影を借り
病臥して早二十日目や子規忌かな
指のトゲ確か昨日の栗のもの
出棺の刻に小春の崩れ帰し
病む妻に塩加減聞き菜漬かな
長男に嫁とる話去年今年
懐かしき川の水汲み墓参り
受け取りし児の柔肌の汗ばみを
コスモスの色まぜ合わす風時に
転勤の子と孫送る暮れの秋
春眠を破る訃報の電話受く
教えても児にはまだ無理草笛は
冬虹に別れを告げて
逝かれしと

俳人 円虹 発行兼編集人 山田弘子先生より
俳句の弔電をいただく。平成九年十二月
母の入選俳句集より。
人佇てば
鯉の寄りくる四温かな

好古園・俳句投句月間 優秀作品展入選句
平成十二年一月
落葉踏み
偲ぶ心の尽きざりし

紅葉の美しい季節も終わり、もう十二月、早いものでございます。先日の句会に参りました時に、公園の美しい落葉を踏みながらふと亡夫が元気だった頃を思い出して毎年紅葉の頃、二人でよく公園に来て散歩し、句を作ったものでした。主人が「人間もこの小春のような余生を送りたいものだなあ」と言ったことがありました。今まで苦楽を共にして来た二人にとって、これからの余生は俳句に専念したいと話しました。
二人の息子もそれぞれ結婚し、孫も出来、心もほっとした頃でした。せめて金婚式まで元気で過ごすことができれば有難いことだと話しておりました。人生先の事は本当にわからないものでございます。そのあくる年、主人が思いもよらぬ交通事故に遭い、入退院の繰り返しを三年間闘病生活に耐えながら、公園で話し合った事が実現出来ず、この世を惜しみながら還らぬ人となってしまいました。先生の選に入りました「落葉踏み偲ぶ心の尽きざりし」がふと頭に浮かんで参りました。帰りには供養にと思い、美しい紅葉を三枚拾って遺影に語り乍ら供えました。
母が遺した俳句と思いを綴った文です。
冬晴やなにか干さねば落ちつかず
咲き初めしポピーに朝の風やさし
去りし日や姉に習ひし草の笛
杖をつく夫の介護や風薫
労りの心をこめて新茶淹れ
食卓に季節の色の花菜漬
栗飯の栗剥ぐ事の根疲れ
水温む厨へ窓の風を入れ
梅雨近き厨の整理怠らず
病窓に夫と眺めし時雨虹
人入れて城の膨るる花日和
ひとときの楽しさ蛍待つことも
読みかえす友の便りの温かし
厨よりジャム煮る匂ひ夏めきぬ
むらさきの風とどまりて花菖蒲
古里の風に飛ばされ夏帽子
文を書く心となりし今朝の秋
貝原益軒を考える
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貝原益軒肖像(1700年頃)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『福岡人物誌〔1〕 貝原 益軒』
監修 岡田武彦
編著 ふくおか人物編集委員会
発行 西日本新聞社

岡田武彦全集23 『貝原益軒』
著者 岡田武彦
発行 明徳出版社
「東アジアの伝統文化国際会議」1994年4月8日
初日「シンポジウム・貝原益軒を考える」を開催。
「東アジアの伝統文化国際会議」1994年4月8日から3日間、福岡市で開催
初日にアジア伝統文化国際会議の開会にあたり、実行委員会会長の岡田武彦先生が挨拶されました。初日は「シンポジウム・貝原益軒を考える」を開催。
岡田武彦 九州大学名誉教授のご挨拶要約
東アジア伝統文化国際会議の開会にあたり、実行委員会会長として挨拶が述べられました。まず、多数の参加者への感謝が表され、福岡市、西日本新聞社、日本タートル協会、各企業などの協力によって開催に至ったことへの謝意が示されました。続いて、今回の会議の中心人物である貝原益軒について言及がありました。益軒は17世紀の日本を代表する儒学者であり、世界的に早く知られた学者です。シーボルトが「東洋のアリストテレス」と呼んだことからも、その学問的評価の高さがうかがえます。岡田先生は益軒から学ぶべき点を三つ挙げられました。
第一に、博学多識の大学者であると同時に文芸や詩歌にも親しみ、詩歌感情を良くし、しかも日本各地を旅し、人情風物に接して人柄を磨いた方であります。こういう点は私たちは学ばなければいけないのではないでしょうか。
第二に、益軒先生は儒教を基に致しまして、その精神に従って実用になる科学技術の学問に精進されまして、日本の実学史の上に画期的な業績を残されました。この実学について、益軒先生は、これは人々に対する深い思いやりと、天地、人々に受けた恩に対する報恩の気持ち、これが基本になりまして、こういうような科学技術の学問をされました。これは今日、科学技術が独走するような風潮なる時代には、私たちは、学ばなければならない大切なことではないでしょうか。
第三に、益軒先生は、庶民のための役に立ついろいろな教訓書をたくさん書いておられます。そして、自らは学者先生、老博先生に叱られるかもわからないっていう気持ちで書いておられます。これも私たちは学ばなければならないことです。
さらに、今回の会議では、益軒の思想をテーマにした公開講演やシンポジウム、資料展示などが行われることが紹介されました。海外から約50名、日本各地からも多くの学者が集まり、世界的権威による討論会が日本で開催されるのは初めてである意義が強調されました。
「20世紀はご存知のように西洋の科学文明が飛躍的に発展し、人類の生活に非常な貢献をいたしました。しかしながら、科学文明は、要するに理性を絶対とするところから生まれた一つのものであります。しかし、人間の生活には理性だけに偏ってはいけません。そこで、いろいろな弊害を生じます。人間疎外、環境汚染等々の弊害が出てまいります。こういう弊害を痛感させられる基本になるのは、何と言いましても東洋の文化でございます。一口でこれを象徴的に申しますと、私たちは心身一如という言葉が念頭に浮かびますが、東洋の人の考え方は、そういう点が西洋人と違うところでございます。20世紀から21世紀に変わろうとするこの時期において、もう一度東洋の文化を回顧しました。その価値と意義を考え、21世紀にはそれを益々開発して、人類の文化、人類の安寧な生活に貢献しなければならないと思います。この会の催しが、20世紀から21世紀にかけての転換になる契機の一つとなれば、私たち主催者にとっては、これほど喜ばしいことはございません。」と、益軒の思想が現代に生かすべき多くの示唆を含むことを再確認し、参加者への感謝とともに挨拶を締めくくられました。
世界的評価を受ける
貝原益軒
米国・コロンビア大学名誉教授
ウィリアム・セオドア・ドバリー
東アジアの伝統文化国際会議
「シンポジウム・貝原益軒を考える」
基調講演 1994.4.8 福岡市

貝原益軒肖像(1700年頃)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドバリー名誉教授 基調講演の要約
1.挨拶と問題意識
・ドバリー先生は、福岡で巨人たる貝原益軒について語る機会をいただいたことを光栄に
思うと話されました。また、古くからの友人である岡田先生をはじめとして、研究者の
皆様方、福岡市民の皆様方の前でこういったお話ができますことを大変うれしく思いま
すとも話されました。
・先生は1945年9月、戦災直後の福岡を初めて訪れ、街中が全く破壊し尽された街の姿を
強く記憶されました。その後、日本が奇跡的な復興を遂げたことは歴史的に極めて特異
であると振り返られました。
・戦後の西洋における日本研究は「近代化=西洋化」を前提として進められ、工業化や技
術進歩を基準に儒教を近代化の障害とみなす傾向が強かったと指摘されます。
2.見方の転換と儒教再評価
・日本・韓国・台湾が急速な発展を遂げたことを受け、成功の背景にある「人的・文化的
要因」への関心が高まります。
・勤勉・規律・高い向上心・教育重視といった儒教的倫理が経済発展を支える要因として
再評価されるようになったと述べられます。
・また、反儒教を掲げて成立した中国においても、近年は社会主義的近代化に資するもの
として儒教倫理を肯定的に見直していることを指摘されます。
3.儒教理解の課題
・儒教と近代化をめぐる議論は依然として「役立つか/妨げになるか」という二分法に陥
りやすく、教義や歴史的展開そのものへの深い分析が不足していると述べられます。
・このような表層的理解を改めるために、貝原益軒のような具体的な事例を研究すること
が有意義であると強調されます。
4.貝原益軒の学問観と方法
・益軒は新儒教※1を篤く信奉する一方で、本草学・動物学・地理学・農学・言語学・栄養
学・衛生学・薬学など幅広い分野にわたって実証的研究を行いました。これは新儒教の
解釈で「格物」の実践※2であると説明されます。
・益軒は自然と人間の相互関係を重視する「天地人一体」の視点を持ち、自然科学的探究
と儒教倫理を矛盾なく結びつけたと評価されます。つまり、バランスの取れた見方を持
っていたわけです。
5.教育者・普及者としての益軒
・益軒は生涯にわたり教育を重視し、『四書』を学問の中心に据えるとともに、『小学』
『近思録』などを通じて知育と徳育を統合する教育哲学を示しました。
・京都や江戸をはじめ各地でこれらの講義を行い、晩年に至っては一番に中心に据えたの
は朱子学の書物でした。晩年の著作の『大和俗訓』『五常訓』『家道訓』にはそれがは
っきりと表れています。
・特に朱子学の内容を人々にもわかりやすい言葉で記し、日本文化の中に広く浸透させた
功績が大きいと述べられます。
6. 講演のメッセージ
・益軒の著作『大和俗訓』の意図は全ての日本人の為の普遍的な教育、徳育です。貝原益軒が繰り返し強調していますのは、全ての人々が自己の涵養と、人間性の修養を図り、その普遍的方法を求めるべきだと言っています。そして、全ての人々にとって学ぶことは共通の目的であるとも言っています。それは、はるかに基本的な、人間にとって共通の徳性であると訴え、この基本的な人道的・普遍的なメッセージこそが、貝原益軒が日本に与えた大きな貢献であると話されました。
そして、地球規模の国際社会において、より多くの情報を持ち責任を担った市民として生きる道ではないかと話され、このような考え方から、貝原益軒は現代人にとって、且つ日本人のみならず世界の人々にとって導き手となる賢人ではないでしょうか。そして現代の教育制度を変える上での導き手ともなると話され、朱熹が言うところの一人一人が責任を持って人道を究める道に戻る時だと、そして、これは決して時代遅れでも間違いでもない本当の考え方だと話されました。
※1新儒教:中国の宋代以降に展開した朱子学や陽明学を中心とする理学(宋明理学)のことを言います。唐代までの古典的儒教(孔子・孟子の思想)は倫理道徳を主としましたが、宋代に入ると仏教や道教に対抗する形で宇宙論・形而上学を伴った新しい体系が形成されました。
※2「格物」の実践について
「格物致知」は物に格(いた)りて知を致す。つまり「事物の道理を極め、知識や徳を深める」という意味になります。朱子学では、あらゆる事物を探究して「理」を把握することが修養の根本とされました。益軒は朱子学を基盤にしつつも、「実生活に役立つ格物」を説きました。単に理を抽象的追うのではなく、実際の事物を観察し研究することを重視しました。実証的・経験的な格物と言えます。また、「格物」は「徳を養い、人々の生活を良くする」為に行うとしました。そして、益軒は「知識は必ず行動と結びつけよ」と考えました。

ウィリアム・セオドア・ド・バリー教授 東アジアの伝統文化会議平成6年(1994年)3月
ウィリアム・セオドア・ド・バリー(Wm. Theodore de Bary、1919年8月9日 - 2017年7月14日)は、アメリカ合衆国の東洋思想学者。コロンビア大学の教授・理事を70年近くにわたって務めた。
概略
1941年にコロンビア・カレッジを卒業し、ハーバード大学大学院に短期間在学したあと、太平洋戦争の太平洋地域の情報部に配属された。戦後コロンビアに戻り、1953年に博士号を取得。その後非アジア系学生の勉学のため、日本、中国、インドの古典原典を英訳し、儒教の根底にある民主主義性を明らかにした。また新儒学の研究でも新たな分野を開拓した。
ニューヨーク州ブロンクス区に生まれる。父ウィリアム・ド・バリーは1914年にドイツからアメリカに渡ってきた。両親は彼が幼いころに離婚し、母はシングルマザーとして彼を育てた。父との区別のためにWm.と名乗った。1937年に学部生としてコロンビア大学に入った。中国語を学び、海軍で働いたあと1948年に修士号、53年に博士号を取得した。博士論文は「黄宗羲『明夷待訪録』について」だった。その後すぐ教授になった。角田柳作に学び、ドナルド・キーンとは友人で、来日したこともあり、長女のブレット・ド・バリーは柄谷行人の『日本近代文学の起源』の英訳を行った。1974年アメリカ芸術科学アカデミー会員に選ばれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

左より、ヴァンデルメッシュ・パリ大学教授、岡田武彦・九州大学名誉教授、ドバリー・コロンビア大学名誉教授
書籍紹介
今回、貝原益軒の記事を掲載にあたり学んだ書籍

『福岡人物誌〔1〕 貝原 益軒』監修 岡田武彦 編著 ふくおか人物編集委員会発行 西日本新聞社 1993年
福岡県ゆかりの人物、貝原益軒の生涯と思想、著作をわかりやすく紹介する入門書。堅実な人生観と広い世界観を持ち、“東洋のアリストテレス”の異名を持つ益軒の魅力を伝えています
・収録内容
第一章 益軒の生涯
一 生い立ち/二 出仕・長崎生活・浪人・江戸生活/三 再出仕・京都遊学/四 程朱の学を信奉/五 諸国巡遊/六 諸学の大成と晩年時代
第二章 学問と思想
一 儒学思想/二 実学思想/三 本草学
第三章 主な著作
一 儒学関係/二 神道関係/三 倫理関係/四 本草学・医学関係/五 地理・歴史関係 益軒年譜/参考文献/貝原家略系図/福岡藩主系図

岡田武彦全集23 『貝原益軒』 著者 岡田武彦 発行 明徳出版社
2012年
・内容の概要
当代随一の博学者・貝原益軒(1630–1714)の生涯や儒学・医学・実学
などにわたる広範な学問的業績を網羅的に紹介し、ドイツのシーボルトが
「東洋のアリストテレス」と称賛した、その学問と人となりを明らかにす
る一冊です。また、関係論文7篇が併載されており、研究的にも価値の高
い構成になっています 。
・収録内容
「貝原家の系譜」「博多と益軒」「天稟の才」「長崎と益軒」「再度の出
仕」「京都遊学」「朱子学の信奉」「藩老への諌言」「君主の心得を説
く」「諸国を観光」「晩年の著述と臨終」「理気一体論」「神儒一体論」
「朱子学への疑問」「仁斎の古学を批判」「益軒の実学」「実学と理気一
体論」「実学と儒学」「朱子学と実学」「実学と全体大用思想」「実学と
万物一体の仁」など、多岐にわたるテーマを網羅しています。

『江戸期の儒学』岡田武彦 著 木耳社 1982年
本書は、朱子学や陽明学をはじめとする東アジア思想の展開を背景に、幕末維新期の日本思想を解説した学術的著作です。著者は、中国において宋・元・明・清初に成熟した朱子学や陽明学、さらには韓国の朱子学を広く摂取した上で、それらを独自に受けとめて発展させた日本の朱子学者・陽明学者の学術精神を論じています。
特に、陽明門下の学や朱子学との葛藤を経て新たな生命を吹き込んだ学者たち、そして動乱の時代に家国の運命を担った思想家たちの深遠な思索を取り上げ、心性の学を基盤とした彼らの思想的営為を明らかにします。彼らの中には政治・社会に大きな影響を与えた人物もいれば、目立つ活動をせずとも深密な体認の学によって日本の思想史に足跡を残した人物もおり、その両面に光を当てている点が本書の特色です。
従来、こうした学者の思想は史家から十分に顧みられず、学術精神の核心が忘れられがちでした。本書はその空白を埋め、幕末維新期の学術精神の全体像を捉え直すことを目的としています。さらに著者は関連編著として「幕末維新朱子学者書簡集」「幕末維新陽明学者書簡集」を刊行し、研究の裾野を広げています。
本書を通じて、幕末維新期に地方を拠点に活躍した学者たちがいかに日本の精神史を形づくったのかを知ることができ、また現代に生きる私たちにとっても、学術精神の継承と深化という課題を考えるための貴重な手がかりとなるでしょう。
収録内容
闇斎学の精神(儒学を中心として)/貝原益軒の儒学と実学/唯気論と理学批判論の展開/戴震と日本古学派の思想/幕末の新朱子学と新陽明学/明末儒学の展開/幕末維新における新朱王学の課題/幕末維新陽明学者五子略伝/林良斎と大塩仲斎/林良斎と近藤篤山の論学書について/池田草庵の生涯と思想/楠本端山・碩水兄弟の生涯と思想・楠門学と李退渓
貝原益軒の人生と儒学・実学
1. 人物像と基本姿勢
福岡県が生んだ偉人で現代もなお偉大な業績が讃えられている貝原益軒(1630–1714)は、江戸前期を代表する儒学者であり、同時に実学者でもありました。百数十部に及ぶ著作を残し、啓蒙書・実用書・本草学・歴史地理など、幅広い分野で業績を挙げています。シーボルトは彼を「東洋のアリストテレス」と呼びました。彼は「儒学とは実学である」と考え、学問を理念にとどめず、実生活に役立つものとして展開しました。

貝原益軒座像(福岡市中央区金龍寺)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2. 生涯と逆境
幼少期
益軒は寛永七年(1630)十一月十四日、福岡城内の東邸で、貝原寛斎の五男として出生しました。名を篤信(あつのぶ)、通称は久兵衛と言いました。益軒は幼くして6歳のとき母を、13歲のときに継母を亡くし、決して恵まれた家庭環境で育ったわけではありません。生来身体は虚弱でありました。庶民の町で暮らす中、和漢の古典を熱心に読み、学問への情熱を育みました。尚、益軒の人柄は楽天的で明朗であり、非常に庶民的でした。
福岡・博多の観光地図(公益財団法人 福岡観光コンベンションビューロー提供)
益軒は7歳の頃、独力で仮名を覚え、小説・草子等を読み、猿楽の俗謡を好みました。8歳の時には、次兄存齊から漢字と漢詩を学び『三体詩』を教えられ朝夕誦しました。また、文学だけではなく、数学の啓蒙書の『塵劫記』をよく理解し、父兄を驚かせました。そして、『平家物語』『保元物語』『平治物語』『太平記』などの古典を愛読しました。『倭玉篇』『節用集』を読んで文字の知識と和文解読の力を養った時期でもありました。
青年期
益軒は14歳で初めて『四書』に出合い学び始めました。また、父寛斎から医薬の知識を授けられ、みずから、『医学正伝』『医方撰容』『万病回春』などを読み、医薬の道を知るようになりました。
19歳の秋に藩主黒田忠之の御納戸御料方として出仕します。しかし、謙譲温厚な益軒は、21歳の時に意志強固で厳格且つ激しい気性の藩主、黒田忠之の不興を買い、職を失います。そこから7年間の浪人生活を送ることとなりました。この逆境の経験は、彼の学問と人格形成に大きな影響を与えました。
成人期(壮年期)
浪人中には長崎を訪れて中国やオランダの通詞から中国や西洋の文化を学び、幅広い知識を吸収しました。22歳の時に長崎に舶来した『近思録』を入手して読んでいます。江戸では26歳で医師となり、江戸藩邸の重臣から寵愛され才学が藩内外から認められるようになりました。そして、林羅山の子、林鵞峰(がほう)らと交流し、儒学の理解を深めつつ、医師としても活動しました。
27歳の浪人生活の時に、将来への不安な心境を抱き、次の様な詩を読んでいます。
堯風舜日太平の春
青帝施すこと周く品物新たなり
唯、胸中に寒谷の気あり
陽和の時節、身に関わらず
承応三年、藩主忠之が死去し、黒田光之が後を継承して藩主となりました。光之は賢君で温厚篤実で治政に励み、篤く文治に心を用いて文芸の趣味も深い藩主でした。27歳の冬、父を支えながら再び藩に仕える道を迎えるのでした。益軒は光之の知遇を得て篤く嘱望信任されて再度の出仕をこうして得るのでした。
◎貝原益軒は『易経』を学んでいたので、地火明夷(不遇対処の道)を知っていたと推測します。彼もその卦の教えをよく理解して行動したのだと私は考えています。
『易経』の三十六番目の卦、「地火明夷」䷣ 坤上離下
地火明夷 ䷣ 明夷 傷つき損なわれる(不遇対処の道)
明夷とは明が傷つけられること。外卦(上卦・上部の八卦)は坤・地、内卦(下卦・下部の八卦)は離・火で明るい太陽が大地の下に覆い隠されてしまった象形から、この卦を地下明夷と名付けられた。正論が通じない理不尽な状態。
彖辞(たんじ): 明夷(めいい)は艱(かん)貞(てい)に利(よろ)し。
※(彖辞(たんじ)は卦(か)の意義・性質を説明し、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)を断定する言葉) 明夷、つまり、正論が通じない時は、艱難辛苦を耐え忍んで正しい道を守っていくのがよい生き方なのです。好機は必ずやってきますので隠忍自重して知識と能力を蓄えるように努力することが大切になってきます。


地火明夷のイメージ・大地が太陽(明)を覆いつくす
明暦三年の春、28歳の時に益軒は、藩命により京都に遊学するのでした。京都では松永尺五(せきご)、木下順庵、及び山崎闇斎を訪問して講説を聞きました。木下順庵とは気が合う仲でしたが、闇斎とは気性が異なり、学風は合わなかった為、交友関係はありませんでした。
30歲頃、『象山集要』『伝習録』『王陽明全集』『王竜谿全集』『王陽明則言』を読んだようです。そして、中江藤樹を尊信し、彼の著書を手写しました。中江藤樹に関しては、我が国の学術上に大功があると述べています。
36歲のときに、程朱の説を信奉するようになりました。その後、朱子学者として自信を堅めたのは39歲から40歲の頃になります。この頃、益軒は『大学綱領条目俗解』『朱子文範』『近思録備考』『小学句読備考』を著しています。
寛文五年(1665)12月3日、36歳のときに父寛斎が福岡で死去。
39歲の6月に秋月藩士の江崎広道の娘、初(17歲、後に号は東軒)と結婚しました。夫婦仲はよかったのですが、子供は授かりませんでした。夫人は華奢な体質で四度大病を患っています。
藩主光之の信任寵愛を受けていた益軒は祖父と同じ久兵衛の名を賜り、禄高が二百石になりました。この頃、朱子学の著書を続々と著し、講義も頻繁に行いました。そして、光之の三男、後の世子、綱政の侍講も保科正之の推挙で行っています。その頃、恩義のある家老職で実権を握る立花一族に対し建策と諫言も行っています。
天和二年の五十三歲のときに、『克明抄』を著して人君の道を説き、藩主光之に献上し、君主の心得を説きました。
『黒田家譜』の編集に従事し、17年の歳月を費やして貞享四年、58歲のときに完成しました。翌元禄元年には『筑前国続風土記』の編纂の許可が下り資料の蒐集(しゅうしゅう)に努めました。そして、京都に遊び、洛外と近畿の名勝を遊覧し、在京の大儒と旧交を温めました。元禄五年の益軒63歳の夏に江戸行きの命を受け、播州、山陽近畿東海、江戸、京都と廻り、元禄七年の65歲のときは豊前豊後、京都摂津など諸国を観光したのでした。
老年期(晩年)
元禄十三年(1700)71歳の秋に益軒は職を辞して家督を嗣子、重春に譲り、著述に専念しました。「訓もの」の『五常訓』『君子君』『養生訓』の様な主たるものは74歲から84歲の10年間に著されています。晩年には朱子学を尊重しつつも疑問を抱き、『大疑録』を著して批判的な考察を展開しました。学び続け、問い続ける姿勢を貫いたのです。
正徳三年(1713)84歲の12月26日に重症だった東軒夫人(62歲)が死去。
『養生訓』『諸州巡覧記』『日光名勝記』を著しました。
正徳四年(1714)85歲、夫人を亡くしてから健康を害しました。春に『慎思録』、夏に『大疑録』が完成しました。同年8月27日に死去し、金龍寺に葬られました。
3. 思想の基盤と特徴
益軒の思想は、朱子学を中心に展開しながらも独自の視点を含んでいました。
・理気一体論
益軒は朱子学のように「理」と「気」を分けすぎることを嫌い、「理」と「気」は切り離せない一体のものと考えました。また、益軒は太極=道=理とし、これを未分化の気と一体と考えました。普遍的な法則、秩序、道、つまり、自然・社会・歴史、人倫、全ての現象にはそれぞれの法則と原理があり、これを理といいます。気はエネルギー・具体的な物質とし、万物を構成し、変化させる実体的なものです。全ての存在は理と気が合わさって成り立っていると云う考えです。
・万物一体論
人と自然、人と人は全て一つの生命共同体であり、相互に支え合って存在すると云う考え方です。彼の万物一体論には感恩・報恩の思想があります。
・神儒一体説
仏教や老荘思想を批判する一方で、儒学を神道と結びつけ、「仁孝」「万物一体」を強調
しました。益軒は、神道は清浄で誠なる平易正直の理を述べたもので、道徳であり、天道・人道・神道は一つであると考えました。神道とは日本古来の神を尊び、天地自然を畏れる心です。儒学は中国由来の理を尊び、人倫道徳を重んじる学になります。神を敬う心(神道)も、理を尽くして人道を守る心(儒学)は天理に基づくと考えました。したがって神道と儒学は一体のものと考えました。
益軒は朱子学を尊重しつつも、これらの考え方を基に実際の生活や社会に役立つ方向へと学問を広げたのでした。
4. 実学の展開
益軒にとって実学とは、単に知識を学ぶことではなく、人々の生活に役立つ学問でした。
「益軒がいう実学の根本としての儒学というのは、どういうものなのか。それは、朱子も述べています万物一体の仁。あらゆる人をそれぞれの立場立場で十分に生かしてく広大なる愛、これを万物一体の仁といいますが、これを実学の根本としています。」岡田武彦 著 『貝原益軒 岡田武彦全集23』㈱明徳出版社 p.349 引用
・道徳を中心とした人文・社会・自然にわたる広い領域のもので、その中には科学技術も含まれており、その実学は、道徳哲学・人生哲学と一体として考えられたものでした。
・道徳の体認躬行、礼法、制度、語法、医学、本草学、博物、農芸、物産、、名物、食品衛生、律呂、算法、地理、音楽、兵法など、実用的な分野を幅広く扱いました。
・『養生訓』『女大学』『和俗童子訓』などを著し、庶民の啓蒙に努めました。これらは江戸時代を代表するベストセラーとなり、今日でも読み継がれています。

湊川公園「楠木正成像」
益軒は幼少期の時に読んだ『太平記』で楠木正成を知り崇敬し、三十五歳の時に湊川の楠公の墓に参詣しています。益軒は楠木正成の忠義勇知は中国の英俊にも恥じないと言っています。水戸光圀の『大日本史』編纂に藩命により楠木公の資料収集を行い提供しています。

伊勢神宮の内宮の大鳥居
明暦二年(1656)十月に父寛斎と益軒が江戸を去り帰藩する途中、伊勢神宮に参詣しています。
5. 主な著作
◆儒学関係
『近思録備考』:朱子とその門人の語録『近思録』に注釈を加えた書。日本で初めての本格的な標注本で、中国の学者にも評価されました。
『慎思録』:晩年に著した人生訓の本で、自分を反省しながら心を磨き、正しく生きるための指南書です。経義、倫理道徳、学問、思想、文学、教育など益軒の考えを自由に述べたものです。『中庸』第20章に次の言葉があります。「博く学び、審らかに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う」※ここから「慎思録」と書籍名を付けました。正徳四年(1714)の春、85歲に完成しました。
※朱子白鹿洞書院掲示(学問を行う者の心構え)にも掲載されている有名な中庸の言葉。
『大疑録』:朱子学に対して疑問を抱き、それを指摘し批判を加えた書になります。これも85歲に完成しました。
『童子問批語』:伊藤仁斎の仁斎学の入門書『童子問』に批判を加えた書。朱子学的立場から古学派に反論しています。やさしく対話形式で書かれており、日常の実践倫理を説いた書になります。
◆神道関係
『神儒並行而不相悖論』(神儒並び行われて相悖〔あいもと〕らざるの論):神道儒学一致の論説書。本地垂迹説※を排斥しています。
※本地垂迹(ほんじすいじゃく):仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つ。
『神祇論』(しんぎろん):『神儒並行而不相悖論』を詳細に述べた書。日本神道は不言の教えで書物はなありませんが、天地の道は一つなので、中国の経典・四書五経が神道の経典であると述べています。
◆倫理関係
『十訓』:家訓・君子訓・大和俗訓・和俗童子訓・楽訓・五常訓・家道訓・養生訓・文武訓・初学訓の十種の教訓の書。
『家訓』:子孫の為に日常生活のあり方を述べ、身を修めて家を修める道を説いた教訓書。
『君子訓』:国を治め人民を重んずる道を述べた為政者(政治を行う者)の為の教訓書。
『大和俗訓』:儒教的倫理観から修身・礼儀・作法を平易に記した庶民教育の教訓書。79歲の著書。
『和俗童子訓』:子供の教育としつけの手引きを体系的にまとめた道徳教育書。親孝行・礼儀作法などを平易に説き、幼児教育の重要性を強調しています。
『楽訓』:真の人生の楽しみ方(楽しみは内にあり)を述べ、心の健康や楽しみについての指南書。聖人の教えに従い、人道に従って楽しむことを教えています。81歲の著書。
『五常訓』:儒教の基本徳目「五常(仁・義・礼・智・信)」を平易に解説した教訓書。
『家道訓』:家庭の維持・家族の和を重んじる家庭生活の心得を纏めた教訓書。家を治め財産を管理する道を述べています。
『文武訓』:忠孝と義勇が根本で武芸は末であることを述べた教訓書。
『初学訓』:初学者の為に学問や身を修養する方法を述べた教訓書。天地に仕え、恩知、五常、五倫の道が記されています。
『女大学』:儒教道徳に基づいて婦女子の道を説いた教訓書。
◆本草学・医学関係
『大和本草』:日本に産する動植物・鉱物などを体系的にまとめたわが国の本草学の基本経典になった本草学書(博物学としてのパイオニア的な書)。
『花譜』:中国の『詩経』『史記』等の書や、我が国の『万葉集』『源氏物語』等に記載されている草木を取り上げ、文学的表現を交え、草木と人との関わりを記しました。植物学・園芸学的な解説を含む書。
『菜譜』:本草学の書で蔬菜・海藻・きのこ類、その他について述べた書。
『養生訓』:益軒の有名作で養生書であり医学書。尊い人間の生命を全うする正しい生き方を示す教訓書。
◆歴史・地理関係
『黒田家譜』:藩からの命で編纂した黒田藩史。
『筑前国続風土記』:筑前国の地誌。領内巡行の命と地誌編纂の許可以来15年の大事業でした。完成したのは宝永六年(1709)80歲のときでした。
◆全集
『益軒全集』:貝原益軒が著した著作全般を収録した叢書。
江戸前期の儒学者・実学者である貝原益軒(1630–1714)の膨大な著作を集大成した全集で国書刊行会(昭和48年〔1973年〕発行・全26巻+別巻など)が発行し、儒学書・実学書・啓蒙的な「訓もの」・歴史地理書など多岐にわたる著作を収録しています。
著作の分野は多岐にわたり、まさに百科全書的な広がりを持っています。
6.人間関係
1.福岡藩(黒田家)
・黒田忠之:二代藩主で初代黒田長政の息子であり、意志が強く、厳格で激しい気性をつ人物でした。益軒が21歳の時、忠之の機嫌を損ねたため、免職されるという出来事がありました。
・黒田光之:三代目藩主の光之は、賢明で温厚な政者として文治に尽力し、文芸にも深い趣味を持っていました。益軒は光之からの信任を受け、彼のもとで仕官するができました。
・黒田綱政:四代目藩主で益軒は綱政から礼遇されました。
・立花勘左衛門:益軒の上司である組頭。藩内部で強力な権力を持つ有力家門の一員です。後益軒から学び、親密な関係を築くこととなります。
・立花実山:強力な権力を持つ有力家門で黒田綱政派になります。利休流の茶道、和歌、詩と多趣味の人です。後に益軒の門人となり、益軒と密接な関係があります。
2. 師・学問上の影響
・林鵞峰(がほう):林羅山の第三子で、益軒は鵞峰から『易学啓蒙』の講義を聴いています。
・木下順庵(じゅんあん):藤原惺窩の四哲の一人であった松永尺五(せきご)の門人で朱子学を学び、実学にも関心を持っていました。益軒は講席に出席し、親交を深めお互い学を磨きました。
・中村惕斎(てきさい):朱子学を純守し実学者の儒者。益軒と往来して親交を結びました。
・山崎闇斎:一時講席に出席したが、益軒と性格が合わず、学風も異なり交友関係はありませんでした。むしろ批判的でした。
3. 交友・論争関係
・谷一斎:朱子学者であり益軒の親友。書簡のやりとりの中で益軒の朱子学批判に反論していました。
・伊藤仁斎:京都の古義学派の儒者。益軒とは一度論学で対立し、その後も直接の交流はなく、批判的でした。
・安東省庵:柳川藩の儒者で、仁斎とは交際があったが益軒は交わらず。しかし伊藤仁斎・安東省庵の事は門弟を通じて知っていました。
4. 実学者との交流・協力
・向井元升(げんしょう):長崎の医師・朱子学者・本草学者。『疱厨備用大和本草(ほうちゅうびようやまとほんぞう)』を著しました。益軒とよく交流を行いました。
・稲生若水(じゃくすい):本草学『庶物類纂』の著者とその門人松岡恕庵で益軒と協力しました。
・宮崎安貞(やすさだ):『農業全書』の著者で、益軒の漢籍の知識の援助を受け農業学を体系化しました。晩年まで交際が続きました。
・黒川道祐(どうゆう):儒医で儒学を基盤に、医学・地理など実学を重視した人。益軒と交流がありました。
・星野実宣(さねのぶ): 天文学者。暦学・天文学に精通し、当時の日本における宇宙観・暦法研究を支えた天文学者。藩内の天文研究グループの一員で益軒と関係を持った一人です。。
5. 弟子・協力者
・竹田春庵:最も信頼された門弟であり協力者で『大疑録』の写本を浄書しています。益軒の思想を後世に伝える中心人物です。
・香月牛山(かつきぎゅうざん):益軒より12歳年下の儒医で医学方面で活躍しました。益軒の門人として伊藤仁斎や安東省庵とも接触していました。『六医仙記』を表しています。
・貝原恥軒:楽軒の次男で益軒の甥にあたります。資性明敏で学問を好み、器量識見は卓越しており、益軒に寵愛されていました。益軒の研究・著述を助けました。37歳で他界しました。
6. 家族
・父:貝原寛斎(かんさい)医学の知識を持ち、益軒に影響を与えた彼は、謙虚で礼をもって人々に接し、信義を重んじる人物でした。また、彼は文学よりも儒学を好んでいました。
・母:貝原知玖(ちく)(三毛門〔みけかど 〕氏):益軒が6歳の時に他界しました。
・継母も益軒が13歳の時に他界しました。益軒は地行婆という家政婦によって養育されました。
・次男:貝原家時(楽軒の子)藩主忠之の近侍として仕えました。小さなことにこだわらず、豪快、且つ自由な性格で剣に熟達し武士気質の人でした。
・三男:貝原存斎(そんさい)身体が虚弱だったため、儒医を志し京都で学びを深めました。帰藩後、藩主忠之の子、光之の侍医に任じられましたが、七年後に職を辞し田舎に隠退し、子弟に教授しながら生涯を全うしました。八歳の益軒には漢字や漢詩、そして『三体詩』を教えました。
・四男:貝原楽軒 父寛斎の後を継ぎ、浦奉行として優れた治績を挙げました。質実寛容であり広く衆を愛し、学問を深く好みました。また、宮崎安貞の『農業全書』の添削を懇請され、貢献を果たしました。
・妻:東軒婦人(初・はつ):秋月藩士の娘であり、学問活動を支えた優れた協力者で、経書に通じ、和歌に長け、和文の作成や書道にも優れた能力を持つ賢婦人でした。
7. 後世の受容
・荻生徂徠:益軒が他界して3年後に竹田春庵から『大疑録』を見せられ、「先に我が心を得た者が遠くにいた」と評しましたた。
・森蘭沢(らんたく):江戸中期の儒者太宰春台の門人で『大疑録』を高く評価し「不朽の業」と称賛しています。『続弁名』を著しています。

朱子像

貝原益軒座像(福岡市中央区金龍寺)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
7. 結び
益軒は、朱子学を基盤としながらも、実生活に役立つ「有用の学」を徹底して追求しました。道徳と実用を切り離さず、庶民教育に力を注いだ彼は、近世日本における随一の「生活に根ざした学者」として評価されています。後世の人々は彼を「博識多識の卓越した儒者であり実学者」、または「東洋のアリストテレス」と評し、その学問と実践の姿勢を高く評価しました。
[考察]:「益軒」の号の由来
益軒は再出仕の頃から損軒と号を付けていました。益軒という名は、78歲の5月に藩の仕事から解放されて自由になり、心機一転後半から改号したと云われています。
『易経』には「損益(そんえき)」という対(綜卦・卦を上下に反転)になる卦があります。
そして、六十四卦の順序について配列を解説している序卦伝があります。
◆「損益は盛衰の始めなり。」 『易経』の雑卦伝 (損䷨・䷩益)
※雑卦伝:二つの卦を一組として意味を解説しています。
◆序卦伝では41番目の卦は山沢損(損)で損失・減損の意、42番目は風雷益(益)で増益・増加になります。
意味は山沢損(さんたくそん)と風雷益(ふうらいえき)の卦は衰えたり、盛んになったりすることの始めであり、山沢損の次は風雷益であると『易経』では説明しています。
成人・壮年期
損卦:「損軒」自分を損じ、謙虚に学問を修める時期。
老年期
益卦:「益軒」学問と徳行を積み、人々に益を施す時期。
山沢損(損)の卦(序卦伝41番目の卦)
・山沢損䷨の外卦は☶(艮・山)、内卦は☱(兌・沢)になります。
山沢損(損)は減じて少なくすることです。もともと山沢損は地天泰䷊の三爻の陽爻が上爻に上り、上爻の陰爻が三爻に下ってできた卦とも云われ、内卦の陽爻を減らして、外卦を益した卦になります。
・彖辞(卦辞)「損は孚有れば、元いに吉にして、咎无し。貞しくす可し。往く攸有るに利ろし。曷(なに)をか之れ用いん。二簋(にき)用いて享る可し。」
下を損(減じ)して上を益(増す)す際に真心をもって行うのであれば大いに吉で災いはない。正しい道を固く守るべきである。進んで行うのがよい。真心があれば簡素な祭祀でも神は受けいれて下さるであろう。
※簋(き):神にお供えする黍稗(きびひえ)を盛る器。
自分を損じて他を助ける事は吉である。質素でも誠が有れば良いのである。謙虚・克己の徳を説いている。

風雷益(益)の卦(序卦伝42番目の卦)
・風雷益䷩の外卦は☴(巽・風)、内卦は☳(震・雷)になります。
風雷益(益)は増える、増やす(益)ことです。
風雷益䷩の卦は天地否䷋の初爻と四爻が入れ替わった卦とも云われ、上を損して下を益する意味があり、これを益する卦としました。
・彖辞(卦辞)「益は往く攸有るに利ろし。大川を渉に利ろし。」
益は増やし増やすことです。上を減らして下を増やすことは下が安定するので、進んでことを行えばよい。大川を渡るような危険なことも問題なく進めるのである。
貝原益軒の志
貝原益軒は「徳を益す」「学問を益す」「世に益を及ぼす」ことを志としたため、「益」を軒号に取り、「益軒」と名乗ったと考えられます。

かつて「損軒」と号した理由
・再出仕してから、彼はあえて「損軒」と号していました。
益軒は藩主・黒田忠之に不興を買い21歳の時に失職します。それから7年間浪人生活を送り27歳の時に藩主・光之に代わり、彼の才能が認められ再出仕します。その時に彼の志は社会に役立つ学問を志すことに決めたのだと私は思っています。
これは『易経』の「損卦」に由来し、「己を損じて人を益す」、「へりくだって徳を養う」という修養の心を表しています。つまり、まずは「損」を実践すること(自らを減らすこと)で人に益を与える修養を目指したと私は考えています。
「損軒」から「益軒」へ
・『易経』の思想では「損」と「益」は一体であり、損じて初めて益が生まれるとされます。
・青年期以降:まず自己修養のために「損軒」と号し、謙虚・克己を重んじました。
・老年期以降:学問と徳行を積み、著述によって広く世に益を与える段階に至り、「益軒」と改めました。つまり、「損(自己をへらす修養)」から「益(人や社会に益する実践)」へという人生の転換・成長を示すものです。
損軒と益軒の号は、単なる号ではなく『易経』思想を体現した人生観・哲学そのものではないかと私は考えています。つまり、易の自然摂理の教えを自分の人生で実現する、理気一体論を実践した儒学者と私は思っています。
参考:『易経』の序卦伝の配列
序卦伝は六十四卦の意味と変化の順序を説明しています。



貝原益軒の『養生訓』を私なりに要約すると
貝原益軒が晩年に著した高年の養生法の『養生訓』は、心と身体の両面からの実践的な人生指導書です。この書は、天地の恩に報いるという深い報恩思想を基に、人生を楽しむこと、気を養い傷(そこ)わないこと、病気に罹らないように注意することの重要性を具体的に説いています。益軒先生はこの貴重な書を正徳三年にまとめられました。

第一巻 総論(養生の基本姿勢)
・身を亡ぼす元は「私欲」。その恐ろしさを知り日々慎んで生活する事が大切。
内欲:飲食、好色、睡眠、言葉の欲、喜・怒・優・思・非・恐れ・驚の七情の欲
外邪:気候因子で風・寒・暑・湿度を言う。
健康の秘訣は、内欲を去り、外邪を去ること。
・養生とは、身体と心を調和させ、心を和楽に保って寿命を全うすること。
心身一如(心と身体は一体)と物心一如(自然・環境と心・精神は一体)の理解。
・自己の命の尊さを知ること。
・人生を楽しむためには、病気を避け、健やかであることが大前提。
・養生は特別な知識よりも、日常生活の節制と規律が要。欲を忍ぶ心構えが大切。
・怠惰や放縦は寿命を縮める最大の原因。主体性をもって生活を行うこと。
・よく身体を動かして働くこと。
・自然の生活を楽しむこと。簡素で欲望の少ない生活を行うこと。
・呼吸は緩やかに、深く腹式呼吸(丹田)を行うこと。


第二巻 飲食の心得
・食事は「少なく」「淡白に」「規則正しく」。肉の多食は老いるもと。
・「腹八分目」をすすめ、満腹は避ける。大食漢ほど食を控えること。
・新鮮で季節に応じた食物を取る。
・食べ合わせに注意する。
・美味を追求するより、身体に適した食事が肝要。
・酒は楽しむ程度なら良いが、過度は害。酒は少し飲んでほろ酔いがよい。
・酒は空腹に飲まないこと。酒は食べながら飲むのがよい。冷酒は害になる。
・大酒飲みに長寿は少ない
・汁、茶、水は多くとり過ぎないこと。胃液を薄め、殺菌力を弱め、胃の幽門弁
が開きやすくなる。


第三巻 起居・動静
・早寝早起きを守る。昼夜逆転は害。
・運動(散歩・労働)は心身を養い、病を防ぐ。
・過度の疲労は避ける。
・入浴・清潔を怠らず、衣服は気候に応じて調整。
・生活の規律が養生の根幹。

第四巻 疾病と医薬
・病気になってから医薬に頼るより、まず病気を防ぐことが重要。
・小病の段階で対処し、重病になるまで放置しない。
・薬はよく効くが、副作用もあるため乱用を避ける。
・名医を選ぶべし。
・灸は血行や食欲に効果があり、血の巡りがよくなると胃腸が丈夫になる。

第五巻 心の養生
・喜怒哀楽の感情をほどよく制御することが養生の根本。
・怒りは「百害あって一利なし」。心を傷つけ、病を招く。
・憂い・恐れも寿命を縮める原因。
・心を静かに安らかに保ち、欲望を抑えて節度を守る。
・「心の持ちよう」が身体の健康を決定する。
・感謝し、美しい自然に触れ人生を楽しむこと。老人らしく生きること。


第六巻 色欲の節制
・男女の情欲は自然のものだが、過度は身を損ない寿命を縮める。
・若いうちは抑え、壮年・老年は慎んで極力節する。
・節度を守ることで心身が養われる。
第七巻 老人の養生
・老年は体力が衰えるため、無理を避け、静かに過ごすのが良い。
・欲を減じ、心を安らかにし、和やかに暮らす。
・食事はさらに少なく、消化によいものを取る。
・知恵や経験を生かし、家族や社会に穏やかに接する。


第八巻 その他の心得
・身体を動かす労働や遊びは健康によいが、過ぎれば害になる。
・楽しみは適度に、心を晴れやかに保つことが養生につながる。
・交友もまた大切で、善き友と語らうことは心を養う。
・養生は自己のためだけでなく、家族や子孫のためにも行うべき。


まとめ
高年の養生法の『養生訓』は、父母や祖先、大自然から授かった命に感謝し、自己を育む全てのものに恩恵を感じて報いる「孝」の心を基盤としています。つまり、天地の恩に報いて感謝し、実践して天寿を全うする方法です。その主な項目は(1)人生を楽しむようにする、(2)気を養い、それを傷なわないようにする、(3)病気に罹らないように注意することの三つの柱で構成されています。私なりに別の括りでまとめますと、養生は身体の養生(食・睡眠・運動・節制)、心の養生(感情の制御・心の平穏)、老いの養生(静かで安らかな生活)の三つに分類され、これにより健康的で充実した人生を送るための実践的な知恵を提供します。つまり、『養生訓』は現代における「予防医学」や「生活習慣改善」の根本的な考え方を示すものと言えるでしょう。



気血水の相関図

陰陽五行・五元素・五色・五臓の図
参考:『養生訓』の原本は八巻構成
第一巻と第二巻は「総覧」、第三巻と第四巻は「飲食」、第五巻は五官、第六巻は病を慎む、第七巻は薬の用い方、第八巻は老いを養う、となっています。
※『養生訓』は高年の養生法ですが、高年に限らず幅広く活用できると私は思っていますので、このコーナーでの写真は成人の写真も掲載しています。
◆参考書籍・資料
・岡田武彦先生 米寿記念講話『日本人と簡素の精神』東洋の心を学ぶ会 平成7年(1995年)11月29日(水)西日本新聞会館 14階会議室 講話 映像・写真提供 古賀富治男 氏
・岡田武彦 著『簡素の精神』致知出版社 1998
・伊勢神宮 豊受大神宮(外宮)にある風宮(かぜのみや) 写真撮影 赤松 昇
・明治神宮隔雲亭の写真と中国の広東省広州市にある六榕寺(りくようじ)の千仏塔(花塔)の写真は写真ACで購入
・神戸ムスリムモスク(神戸モスク) 写真撮影 赤松 昇
・『赤松 永英・俳句集 ものの芽の力強さに励まされ』 赤松 永英 著 赤松 昇 制作・発行 2000年
・貝原益軒肖像(1700年頃)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「東アジアの伝統文化国際会議」1994年4月8日から3日間、福岡市で開催 実行委員会会長の岡田武彦先生の挨拶映像 撮影・提供 古賀富治男 氏
・福岡・博多の観光地図 公益財団法人 福岡観光コンベンションビューロー 提供
・柴田 篤 著 九州大学文学部『福岡市で開催された「東アジアの伝統文化国際会議」』九州大学学術情報リポジトリ 中国哲学論集.20, pp.107-118, 1994-10-10. 九州大学中国哲学研究会
・東アジアの伝統文化国際会議「シンポジウム・貝原益軒を考える」基調講演 1994.4.8 福岡市
米国・コロンビア大学名誉教授 ウィリアム・セオドア・ドバリー 講演映像・音声 撮影・提供
古賀富治男 氏
・ドバリー,W・T コロンビア大学名誉教授『世界的評価を受ける貝原益軒』九州大学学術情報リポジトリ 中国哲学論集.20、pp.62-74, 1994-10-10. 九州大学中国哲学研究会
・監修 岡田武彦『福岡人物誌〔1〕 貝原 益軒』 編著 ふくおか人物編集委員会発行 西日本新聞社 1993年
・岡田武彦 著 岡田武彦全集23 『貝原益軒』 発行 明徳出版社 2012年
・岡田武彦 著『江戸期の儒学』 木耳社 1982年
・貝原益軒 著『養生訓』 杉 靖三郎 編者 ㈱徳間書店 1968/1998年
・貝原益軒 著『慎思録』 現代語訳 伊藤友信 訳 ㈱講談社 1996年
・ 黒岩重人 著『全釈 易経 上・中・下』 全3巻 藤原書店 2013年
・公田連太郎 述 『易経講和 一巻~五巻)』明徳出版社 1958年
・その他、イラスト、写真はイラストACと写真ACを活用(購入・著作権有り)
