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空の検索で19件の結果が見つかりました。

  • 「捲土重来」 身近な名言・名句②

    この「捲土重来(けんどじゅうらい)」の出典は、やはり中国唐代の詩人、杜牧(とぼく)の「烏江亭(うこうてい)に題す」と いう詩で、高校の教科書にもよく出ていますので、ご存じの方も多いと思いますが、この詩の意味を知るには漢の劉邦と、楚の項羽の戦い(紀元前二〇二年)を知らねばなりません。中国二五正史の第一「史記」には次のようにあります。 はじめ優勢を誇った項羽も、次第に劉邦に追い詰められ、四面楚歌の中を八百人ほどを従えて脱出しますが、その数もわずか二八騎となり、故郷の江東地方へ帰ろうと烏江の渡し場へやってきます。そこの亭長(駅長)は舟を既に用意しており、早く渡るようにと勧めますと、項羽は急に恥ずかしさを覚え、愛馬をその亭長に与えて、迫った敵と一戦を交えたあと、自ら首を刎ねて死にます。すると、懸賞金目当てに漢の兵がわっと押し寄せ、両手両足はもちろんのこと、耳をちぎり、鼻をももぎ取り、凄まじい奪い合いになったといいます。おぞましい限りです。この悲劇の英雄項羽(三一歳没)を哀れみ、同情して詠んだのが次の詩です。 題烏江亭  烏江亭(うこうてい)に題す 作者 杜牧(とぼく)(八〇三~八五二・晩唐) 勝敗兵家不可期 包羞忍恥是男児 江東子弟多豪俊 捲土重来未可知   勝敗兵家不可期  勝敗は兵家も 期す可からず   ※兵家=兵法家 包羞忍恥是男児  羞を包み恥を忍ぶは 是れ男児   ※是:…である 豪悛:豪傑 江東子弟多豪俊  江東の子弟は 豪俊多し   ※江東:長江下流の南岸地帯 捲土重来未可知  捲土重来せば未だ知る可からず   ※捲土:土煙を巻き上げることから、勢いの激しいこと   ※重来:重ねて来る事    勝敗は、兵法家でも予期できないものである。たとえ一時敗れても、恥辱を耐え忍ぶのが真の男児ではないか。江東地方にはすぐれた若者が多い、(あのとき烏江を渡って、その若者達と力を貯え))砂塵を巻き起こす勢いで再び攻めて来たならば、結果は どうなっていたかわからないのになあ…。(惜しいことをした) この詩をみるとき、「史記」の作者である「司馬遷」が、漢の武帝の逆鱗に触れ、宮刑(去勢する刑罰)に処せられ、屈辱に耐え忍びながら史記百三十巻の大著を完成させたことに思いを馳せずにはおられません。何事も命あっての物種、この詩は恥多き私を大変力づけてくれます。 古賀富治男

  • 頼山陽が名付けた小赤壁

    姫路市木場の海側に『小赤壁(しょうせきへき)』と呼ばれる地があります。小赤壁の名の由来は、中国揚子江中流にある赤壁に思いを馳せて頼山陽先生が名付けられました。  姫路藩家老、河合寸翁が設立した仁寿山校に招かれていた頼山陽先生は、文政8年(1825)秋、この海で舟を浮かべて月見の宴を開かれたそうです。この小宴席で、宋代の詩人・蘇軾(そしょく)の長江の詩、「赤壁賦(せきへきふ)」が詠まれ、この時、頼山陽先生が「小赤壁」と名づけられました。周辺は野路菊の群生地としても知られています。木庭山の断崖絶壁である小赤壁は高さ約50m、長さ約800mあります。儒学者、陽明学者、哲学者、執筆者で姫路市白浜町出身の岡田武彦先生はこの岩壁沿いを泳いでおられました。岡田武彦先生の身体は、この白浜町と木場の海で鍛えられたものと推察します。 小赤壁を南西から撮った写真 小赤壁を南東から撮った写真 野路菊(のじぎく)の群生地

  • 易占と學の漢字

    「學」と言う漢字がありますが、上部真ん中の爻は卦を出す筮竹の象形で、その筮竹を両手で操作しているのを下から子弟が見ているのが「學」であると言われています。そして、その爻の下にある子弟を励まして向上させようと傍から指導しているのが「教」の字であると宮崎博士は発表されています。易学の英知を学ぶという意味で興味深い説だと思います。 京都大学 宮崎市定博士の説   占筮 無念無想で筮竹を親指で真中から二つに分ける姿(占筮道具自作)

  • ​易と道教

    道教は福永光司先生の説では四重構造になっています。殷王朝を源流とする巫術※(ふじゅつ・鬼道)の上に時代の経過と共に葬祭祭典の儒教が乗り、その上にインドからシルクロードを経由してきた仏教が乗り、最後に総合的、且つ集大成する形で道教(道家の老荘思想(無為自然)、易、陰陽、五行、神仙思想、不老不死信仰、医学、占星術などを含む)が乗る複合宗教です。思想・神学として完成を見せる隋唐五代の時期(A.D.6~10)が黄金期になります。 第一段階の「鬼道〔巫術〕」の教え(殷王朝から)、第二段階の「神道」の教え(秦漢時代・B.C.3~A.D.2)、第三段階の「真道」の教え(魏晋時代・A.D.3~4)、第四段階の「聖道」の教え(斉梁時代・A.D.5~6)と変遷してきました。基準経典は1019年北宋の真宗皇帝時代に皇帝の勅撰で完成した『雲笈七籤』(うんきゅうしちせん)百二十巻になります。 道教の究極的目的は病を退け災いを避けて不老長生することです。この世の利益的な宗教と言えます。 ​※巫術:原始宗教の一つで、神が人にのり移り、予言、吉凶の判断、悪霊の退散を行う術。​ 道教は哲学、方術、医術、倫理の各側面で構成されています。 哲学的側面: 中国古代の上帝信仰を『易経』の哲学や陰陽五行思想と『老子』『荘子』の無為自然「道」の哲学で理論化した側面。 ​ 方術的側面: 神仙説、卜筮、巫祝(ふしゅく・シャーマン)、讖緯(しんい)などで未来を予言し、災いを除き福を招く術の側面。 ​ 医術的側面: 不老長生の方法、服餌(ふくじ・仙薬の服用で不死不老長生)、調息(呼吸 を調える)、導引(筋肉運動・太極拳)などの医術的な側面 ​ 倫理的側面: 儒教や仏教の影響を受けているが、この世の利益が目的なので功利主義的である。 ※参考書籍:『日本の道教遺跡を歩く』福永光司・千田稔・高橋徹 著 朝日新聞出版 発行​ 2003年 /『道教と日本文化』神道国際学会 編集・発行 たちばな出版 発売 2005年 基調講演 『日本の神社仏閣に見られる道教の要素』河野訓 著​ ​

  • 孔子と中庸 「宥座之器(ゆうざのき)」

    中庸はバランスの上に宿る  世間知らずの二十歳代の頃に大先輩に貰った「宥座之器」の絵。古希を過ぎてこの絵を見ると人と学びの出逢いは大切だなとつくづく思います。 「宥座之器」とは、自らへの戒めとして身近に置いておく道具を指します。「宥座」は「身近」や「身の回り」といった意味があります。「中庸なれば正しく、満ちすぎれば覆り、虚しければ傾く」という孔子の教えに基づき、壺の水量が人の姿勢や心構えに例えられています。中央の壺はほどよく水が入っていると安定し、正しい姿勢を保ちます。左の壺は水が多すぎるとひっくり返り、右の壺は空っぽだと偏ってしまいます。この教えは、知識を持つ者は愚を自覚し、功績を有する者は謙譲の心を持ち、力を有する者は恐れを忘れず、富を持つ者は謙虚さを忘れずに正しい姿勢を保つべきだと説いています。孔子の言葉は、私たちの人生のテーマでもあるのです。 魯の桓公の廟にある宥坐之器 YouTube   宥座之器 高木マコト チャンネル  栃木県足利市、足利学校にある「宥座之器(ゆうざのき)」 https://youtu.be/UASWjUclNlg?si=fmb474lnRwi2FBFi

  • 「粒粒辛苦」・身近な名言・名句①

    昔、私が勤めていた会社の組織長が「粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)」という題で抱負を述べられました。その的確な表現法に感服し、今でも記憶に残っています。その出典を掘り下げてみたいと思います。 古賀富治男 記       憫 農    農を憫(あわれ)む 李 紳 作 中国唐代 (り しん・ 七七二~八四六)   鋤禾日当午 汗滴禾下土 誰知盤中餐  粒粒皆辛苦   鋤禾日当午   禾(か)を鋤(す)いて 日は午(ご)に当たり   禾:穀物の総称・稲  午:正午・真昼 汗滴禾下土 汗は滴(したた)る 禾下(かか)の土            誰知盤中餐     誰か知る 盤中(ばんちゅう)の餐(さん) 盤:鉢類・食器  餐=:ごはん 粒粒皆辛苦 粒粒 皆辛苦せしを 粒粒:一粒一粒  昼になって太陽が頭の上にきても、農夫は田畑を耕し続けており、汗が稲の下の 土にポタポタと滴っている。食器に盛られたご飯の一粒一粒が、農夫の辛苦の賜物 であることを誰か知っているであろうか。 「ご飯の一粒一粒は農民の汗の結晶であるから、有難くいただかねばならぬ」こ れが、この句本来の意味です。   作者の李紳は、字は公垂、今の江蘇省無錫市(こうそしょうむしゃくし)の人で、元和元年(八〇六)進士(高級官吏登用試験に合格。のち八四二年に同中書門下平章事(宰相格の官職)に任ぜられます。作者が若いとき、この詩を作ってある人に見せたところ、その人は一読して「この詩の作者はきっと大政治家になるであろう」と云ったが、果たしてそうなった。とのエピソードが残っています(唐詩紀事)。人民の労苦を思いやることが、為政者の第一要件であることをうかがわせる話です。

  • ​国宝 姫路城も四神で守られています

    ​ 姫路城は陰陽道の四神相応を用いて築造されています。姫路城を築造(1601~1609)した池田輝政(1565~1613)は北の基準としたのが廣峯山(廣峯神社・牛頭天王総本宮と黒田官兵衛で有名)です。 ​北の守護神・玄武は廣峯山、東の守護神・蒼龍は市川、南の守護神・朱雀は瀬戸内海、西の守護神・白虎は山陽道です。姫路城はこの四神に守られて明治維新や第二次世界大戦を乗り越えて美しい姿を私たちに見せてくれています。           姫路・仁寿山北側から臨む姫路市街と姫路城

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